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第七章 風子と小さな暮らし
打診
しおりを挟む中秋の名月を過ぎた頃、白良浜ラーメン屋さんの閉店作業を終えた私はミカミカさんに呼び出された。
「風子ちゃん、話あるねん。悪いけどちょっと来てや」
「はーい」
エプロンを外しながら、店の奥の小上がりにあるミカミカさんの占い部屋に足を運んだ。店のホールから薄いレースのカーテンをくぐって中に入る。向かい合ったソファの奥の方に、ミカミカさんが座っていた。
向かいのソファに腰をかけると、ミカミカさんが姿勢を整えてから大らかに笑った。
「まずは夏によう働いてくれたお礼をしたいねん」
「お礼ですか?」
「風子ちゃんだけやで、夏バテせんと皆勤したのは。特別ボーナス出させてもらうわ」
「え、いいんですか?!」
私はつい前のめりになり、ミカミカさんに大きな声で確認してしまう。ホールまで響いてしまったかもしれない。ミカミカさんは何度も頷いた。
「うちは頑張ってくれた子にはようけ払いたいねん」
「ありがとうございます!」
ミカミカさんに手渡された給与明細には臨時報酬に10万円と記載されていて、目が飛び出そうになった。私が息を飲んで明細を見つめていると、ミカミカさんがさらに書類を手渡した。
「何ですか?これ?」
「正社員雇用契約書や」
「正社員ですか?!」
「風子ちゃん良かったら、うちの店へ正式に就職せえへんか?」
私は書類の一番上に書かれた「正社員」の文字に釘付けだった。
「夏の営業は大変やったやろ?大概みんな疲れて嫌な雰囲気になるねん。でも風子ちゃんはずっと笑顔やった。風子ちゃんみたいな接客のプロフェッショナルが前から欲しかったんや」
書類から顔を上げて、ミカミカさんを見る。ミカミカさんは大きな窓の外の見える白良浜を眺めて、暑い夏をふり返っているようだった。
「風子ちゃんはしんどい時に、お客さんを全力で喜ばせる気力がある。しかも、仕事仲間に理不尽に当たったり、一回もせえへんかった」
ミカミカさんが私を正面に見据え直す。
「むしろ、しんどい時に一緒にしんどい目にあって、そこでこそ笑ってくれる。あんたはそういう子や。うちは風子ちゃんともっと長く働きたいんや」
ミカミカさんの全力の賞賛を受けて、目に熱さが宿る。こんな風に、私の仕事ぶりを評価してくれた人は今まで一人もいなかった。
「そんな風に言ってもらって、ありがとうございます」
私はもらった書類で顔を隠しながら、そう小さく言うのが精いっぱいだった。
「正当な評価やで。自信持ちや」
ミカミカさんの声には誇張が何もなく、平静な経営者の判断を告げてくれていた。
「厨房の東郷からの評判もええで。うちの店は大歓迎や。風子ちゃん、よう考えて返事ちょうだいや」
私は目頭に溜まったものを拭いて、ミカミカさんをまっすぐ見つめた。私はこれからクリームソーダの研究を続けながら、自分のカフェの開店資金を稼いでいきたいと思っている。
前は同じ働くならばラーメン屋ではなく、カフェで働きたいと思っていた。
けれど、今はやりたいことが明確にある。だから、私の枠はすでに定まっている。私のやるべきことは、カフェで働くことではなく「安定してお金を稼ぐこと」だ。
正社員の打診はそれこそ喉から手が出るほど嬉しい申し出である。私は二つ返事だ。
「ゆっくり考えても結論は変わりません。ぜひ、これからもよろしくお願いします」
ミカミカさんは二つ瞬きしてから、大きな笑顔を見せた。
「即決できるなんて、迷わんとしっかり生きてるんやなぁ。感心したわ!」
私も、迷わなかった自分に感心していた。海街メゾンで宗一郎さんに鍛えられた暮らしルールのおかげだ。ミカミカさんが皺を刻んでにっかりと笑い、手でお金マークを作った。
「うちは給料ええから任せてや!」
「期待しちゃいます!」
光満ちる占い小部屋で二人で笑い合ってから、私は大急ぎで海街メゾンへ帰った。
白良浜を横目にメゾンへの道を抜けて、海街メゾンのサーモンピンクのドアを跳ね開け、夕暮れのリビングへ駆け込む。
「風子、そんな急いでどうしたんや?」
ちょうどキッチンで水を飲んでいた宗一郎さんの前で立ち止まり、私は肩で息をしながら彼に言った。
「宗一郎さん!ミカミカさんが、私を正社員にしてくれるそうです!やりましたー!」
私が大げさに自分で拍手しながら言うと、宗一郎さんもグラスを置いて両手で拍手してくれた。ゆるんだ笑顔だが、あまり驚きがないと直感する。私はやっと気がついた。
宗一郎さんは白良浜ラーメン屋さんの経営陣の一人だ。正社員が一人増える予定を知らないわけがない。私は驚いてもらえると思っていたのに、がっくり肩を落とした。
「宗一郎さん、知ってたんですね……私一人で舞い上がっちゃって恥ずかしい……!」
私は両手で顔を覆いたくなってしまった。
「そんなこと言いな。そうやって嬉しそうに報告して欲しかったから、黙ってたんやから」
宗一郎さんは笑いながら何気なくそう言った。だが、私はきょとんとしてしまう。
私が喜ぶところをわざわざ宗一郎さん自身が見たかったから、内緒にしたということか。いや、単にサプライズか。どう受け取るべきか判断できずにいると、宗一郎さんが先に話し始めた。
「風子、正社員の件はどうするんや」
「即決で、ミカミカさんにお世話になりますって返答してきました」
宗一郎さんは満足そうにそうかと言って、落ち着いたら話があると澄んだ声で言われた。
私の心臓がとくんと怯えるように冷たく跳ねた。
宗一郎さんが話したい内容に、心当たりがあった。
私の胸の中で、心臓が警鐘のように緊張した音を鳴らしていた。
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