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第七章 風子と小さな暮らし
宣告
しおりを挟むその夜、リビングで各自のスマホタイムが始まったとき、宗一郎さんが莉乃ちゃんと達也さんに声をかけた。
「悪いけど、二人ちょっと部屋行っといてくれるか。風子と二人で話あるねん」
ビーズクッションに埋もれていた達也さんと莉乃ちゃんが揃って顔を上げた。達也さんが察したように返事をする。
「……うん、わかった。終わったら呼んでね」
達也さんはすぐに立ち上がったが、莉乃ちゃんはだらけたままだった。
「何でー?話なら今そこですればいいのに、何で追い出すの?」
「莉乃、とりあえず部屋に行こう。また友だちから連絡ある時間でしょ?」
「えーでも、風子ちゃんが宗ちゃんにいじめられるかも」
「ほら莉乃、行くよ」
「ちょ、お父さん見た?宗ちゃん、そんなことせえへんって言わなかったよ?」
「わかったから」
ふくれっ面をする莉乃ちゃんの背中を押して、達也さんが誘導する。達也さんはまたあとでとふわふわ笑顔で手を振っていた。きっと達也さんも、私たちの話に見当がついているのだろう。
広いリビングに二人きりになった私と宗一郎さんは、檜テーブルで向かい合わせに座った。夜のリビングに静けさが満ちて、緊張する。宗一郎さんは数字を書いた紙を何枚か取り出して私の前に並べた。
「風子、今回のボーナスで、俺の肩代わりしてた借金は完済やわ。おめでとう」
「……はい」
宗一郎さんの話の内容は、私の予想通りだった。
私が宗一郎さんに借りていたのはリボ払い60万円と、引っ越しや諸々の費用を込めた約70万だった。
白良浜ラーメン店は高時給で各月の収入は高く保たれ、海街メゾンのルールのおかげで支払いは最小限に収まるため、毎月7万近く返済できていた。
さらに前職の未払い給料、ボーナスも全額返済に充てれば、完済は当然の結果。来月の給料を加味すれば、新居用意の費用も立つだろう。
宗一郎さんは数字を見て穏やかに言った。
「風子はたった25週間で卒業や。めちゃくちゃ優秀やな」
宗一郎さんが心から褒めてくれた。喜ぶべきだが、私は膝の上で拳を固く握り締めていた。卒業を目指してやってきたのに、いざ卒業を前にすると不安が襲う。私は数字の紙を見つめて俯きながら、小さな声で言った。
「私、卒業してもやっていけるでしょうか……」
「あたり前やろ。もう俺が教えたかったことは、全部身についてるわ」
海街メゾンは宗一郎さんが小さな暮らしを教える場所だ。
毎日の生活費の枠、週のリズム、スマホとの付き合い方、本を読む習慣。枠の中に宿る小さな豊かさたち。宗一郎さんの言う通り、私はもう全部知っている。
「でも、また一人になったら……見張ってくれる人がいないと、どんどん緩んでしまいそうで」
宗一郎さんの顔を見る。最初はびくびくしていたが、今は宗一郎さんがいてくれると頼もしいと思う。逸れたらきちんと正してくれる人が側にいる安心感は絶大だ。
「わかるで。卒業前は俺の目があるからできるって、そう言う子もおるわ」
「やっぱり……そうですよね」
今までのメゾン卒業生の中にも、同じ意見の人がいたと聞いてほっとした。私が特別に宗一郎さんに依存してしまっているのかと思って少し怯えていた。
「莉乃やったら卒業で浮かれまくるやろうけどな」
「莉乃ちゃんは大きなお金の失敗をしないうちに、宗一郎さんの教えを受けてるから……無敵ですよ」
「風子も無敵やで。大丈夫や。何かあったら相談しに来たらええ。俺はここにおるからな」
宗一郎さんが私の不安を軽んじていないことはわかる。けれど、やっと手に入った安定の暮らしを手放すのは辛い。どうしても捨てたくない想いに駆られる。
「次の入居者は決まってますか?」
「いや、まだやで」
「家賃を払うので、海街メゾンに居させてもらえませんか。ルールは守りますから」
私が真剣な声で言うと、耳が痛くなりそうな静寂に包まれた。秋の虫の声さえ聞こえなかった。宗一郎さんはひとつ息を飲んでから私の目を見据えた。
「あかん。出て行き」
凛と厳しい彼の声こそ、海街メゾンの芯だ。
私はこの声に導かれてきたからわかる。私のわがままなんてくだらない理由で、覆るわけがない。自分のことしか考えていない愚かなことを言ってしまったのが心底情けなくて、俯いてしまう。
宗一郎さんが宣告した。
「風子の卒業は11月23日やで」
「日付、決めたんですか……?ちょっと早すぎ……」
もうその日まで一ヶ月もない。
唐突に海街メゾンとの別れが決まって、胸が苦しくなってきた。宗一郎さんはいつも正しいが、あまりに性急で、勝手だと思ってしまった。
「引っ越し先も探さなあかんから、時間ないで」
「いや、もう少し猶予……」
食い下がる私に、宗一郎さんは困った子を見るように眉尻を下げた。
「風子、ここは俺のルールに従う場所やで。俺は勝手やろ?喜んで卒業しいや」
「そんなこと……言ってません」
的確に胸の内を見抜かれて、堂々と言い返せない。宗一郎さんが厳しくルールを敷く姿勢を尊敬するようになっていたのだ。彼を非難する気なんてない。けれど、上手く言葉が出なかった。
宗一郎さんはテーブルに返済計画の紙を置いたまま、立ち上がった。
「用事あるから、ちょっと出かけるわ」
「宗一郎さん、私……」
「風子、大丈夫やからな。がんばりや」
宗一郎さんが私の言葉を遮った。それがどれだけ私に衝撃を与える態度か、彼がわからないはずがないのに。
本当にあっさりと出かけて行ってしまった宗一郎さんの背を、黙って見送るしかできなかった。話の途中で席を立つなんて、彼らしくない。でも私は宗一郎さんに、完済してもメゾンに置いてほしいなんて持ち掛けて、らしくないことをさせようともした。
やってることも、思ってることもぐちゃぐちゃだ。今の私には一つも筋が通ってない。
けれど何より、宗一郎さんが最後まで話を聞いてくれなかったことに、とてつもないショックを受けてしまっていた。全幅の信頼を裏切られた気がする。私はテーブルに額を預けて深いため息をついた。
ボーナスをもらって正社員になるのはおめでたいことだったはずなのに、私はどうしてこんなに息がしづらくなっているのだろうか。
一日の中で起きたことに波があり過ぎて、私は呆然としてしまった。
脱力してどれくらいたっただろう。廊下から達也さんの声がした。
「宗ちゃーん、風子ちゃーん、スマホ時間終わったんだけどー?そっち行ってもいい?」
今メゾンにいるのはルールに慣れたメンバーばかりなので、宗一郎さんは達也さんにタイムキーパーを任せている。
私は今、酷い顔をしているだろう。誰にも、こんな情けないところを見せたくなかった。私は衝動的に玄関へ走り出してしまった。
「あれ、風子ちゃん?」
背中に呼びかける達也さんの声を振り切って、ドアを飛び出した。
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