え？公爵令嬢さまと婚約破棄して私と婚約したい？いやいや、ありえないから

婚約破棄編

第15話・出発点

ーーーエミリアは、真白の壁を優しく撫でた。
見れば、小さな傷がある。それに指先を優しく這わせ、淡く微笑む。

この傷は、エミリアが転んで侍女に当たり、その侍女の持っていたタオルが舞い、それに驚いた女中がスカートの裾でつまずき、そして執事にダイレクト頭突きをかまし、執事も一緒に転び、一番前を歩いていた新入りの使用人が銀食器のフォークとナイフ、それからスプーンを運んでいたため、転んだときにフォークが壁に当たりついてしまった傷である。驚異の人間ピタゴラスイッチ。人間ドミノとも云う。このあとエミリアは泣き出す新入りを慰め謝り、母であるリアンに大層叱られた。

懐かしいなあとさらに深く微笑めば、今までの思い出が蘇ってくる。

15年間も世話になった屋敷だ。これから去るのだから、思い出深くもなる。

「…エミリア、そろそろ出る準備をしましょう。」
「わかっているわ、お母様。けどーーー」

エミリアは、眉を下げ名残惜しげに壁を見つめる。

「…分かっている、寂しいんだな。」
「お父様…」
「もう、随分と世話になったからなあ」

皆が儚げに微笑み、エミリアの指先が這う傷に目を留めた。

「懐かしいなあ、その傷。エミリアはリアンにかなり怒られてたっけ」
「あのときのお母様は恐ろしかったですわ…」
「旦那様！エミリアもっ！全く…」

そう言いつつ、それぞれの口許は緩やかな弧を描いていた。
この屋敷の壁も、柱も、床も部屋も、全てが愛おしく感じるのだ。少し大袈裟かもしれないな、とエミリアは眉尻を優しく下げた。

「…お父様、お母様、ごめんなさい…。こんな、ことになって」

そうエミリアが言うと、二人は顔を見合わせ、優しく微笑むとその胸にエミリアを抱いた。
背をなでる手が優しく暖かく、エミリアは泣きそうになる。

「何言ってるの、私達は出世したのよ。伯爵の地位をいただけるんだもの。」
「そうだ、気に負うことはないんだ」

森色の瞳の縁に、緑の雫が溜まる。
こぼれそうなしずくと瞳を、こぼれぬよう細めてエミリアは二人の背にそっと手を置いた。

「それに、貴女と旦那様がいれば、どこへだって行ける。なんにだってなれるわ」
「愛する者のためなら、この命は軽い。とある小説の一文だけど、まさにその通りだ。」
「私達のかわいい娘、あなたがお嫁に行くまでは意地でもついていくわよ！」
「お嫁に行くのはまだ早いだろう」
「何言ってるの、旦那様ったら」

エミリアは、溢れた雫を拭うこともせず、2人を抱く腕にぎゅっと力を入れて、涙を流しながらこう言った。

「ありがとう…。ほんとうに、うれしかったの。二人が一緒に来てくれるって、いってくれたとき。あいしてるって、いってくれて…っ、私も、二人が大好きよ。」

エミリア～！！と瞳を潤ませ感動する両親二人の崩れた顔を見て、エミリアは幸せを噛みしめるように美しく笑った。