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1巻
1-3
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どんな態度をとっても彼はカラッと笑ってくれる。だからリーフェは、彼と砕けた言葉で自然に話せるようになっていた。
「お。ほら、見えてきた――リーフェ。あれが、国境の街シ=ウォロだ」
すっかり商人様ご一行となっていた集団が辿り着いたのは、ラ=メウの国境にあたる街だった。
エンリエ教主国を抜けると、自然環境がまるで異なってくる。ずいぶんと乾燥してきたし、土が乾いてカチカチになっている。生えている植物の種類も異なり、気候もかなり暑く感じた。
「あの街の裏側から景色が変わる。――アンタにとっては、きっと珍しかろう」
「もしかして、砂漠?」
「そうだ。――さあ、行くか」
そう言われて彼らと一緒に街の中に入り、真っ直ぐ南へ突っ切ると――
「わあああ……!」
街の裏側。サディルがわざわざ珍しいと言った意味を理解する。
その変化は、本当に唐突に訪れた。
まるで一本線を入れたかのような、鮮やかな変化。街の中はカチカチと硬くも、まだ植物の生える乾いた大地だったのに、唐突になにもない砂の大地が広がっている。
どこまでも続く黄金色の地。太陽がギラギラと輝き、大地に反射して眩しい。
「すごい、こんなに綺麗なんて……!」
「ハハハ! ありがとよ。住んでりゃなかなか厄介な砂漠だが、褒めてもらえるのは悪い気分じゃねえな」
目をきらきらさせながら興奮すると、サディルが満足そうに大きな口を開けて笑った。
だから自分の言葉にハッとする。
そうだった。この砂漠は、サディルにとっては悩みの種でもあるのだ。
(神子の祈りがまったく届けられていないってこと? だから、こんなに急激に……?)
線引きしたかのような土地の変化は、つまりそういうことなのだろう。サディルの抱える事情に今さら理解が及び、自分の無神経な言葉にしゅんとする。
「ま、どんなに綺麗だろうと、安易に踏み込むのは馬鹿のすることだ。アンタも絶対にひとりで行こうとするなよ?」
「しないよ」
「そりゃあ頼もしい返事だ」
なんて話題を変えながら、がしがしと頭を撫でてくれるところ、優しいと思う。
「――出発は明後日だ。それまではこの街で、砂漠を越える準備だな。寝泊まりする場所は確保してある。アンタも今のうちに体力溜め込んでな」
そう言われ、リーフェは今度こそと、使命感に満ちた目でこくりと頷いた。
リーフェは本当に体力が足りなくて、ここに来るまでも周囲にとことん世話を焼いてもらった。
ここから先は苛酷な砂漠だ。だから無理せずついていけるように、自分の体調を整える。それがリーフェの役割である。
(でも――)
どこまでも広がる砂の大地を見つめ、リーフェは考えた。
「ねえ、サディルさま。この砂の大地を、いつか緑にしたいの?」
「ん。そうだな。それが俺の夢だ」
「夢……」
もう、リーフェの夢は叶えてもらえた。
いつかあの塔に、誰かが自分をさらいに来てくれたら――
何年も何年も、心の中にふわふわと思い描き続けた夢を、サディルが実現してくれた。
(だったら、わたしもサディルさまの夢を叶えたい)
緑の大地のイメージは、いくらでも膨らませることができる。
神子の塔の最上階。たったひとつの窓から見える世界は美しい緑に溢れていた。
ああいう景色をサディルは見たいと望んでいるのか。
そう思うと、むくむくとやる気が湧いてくる。
「わかった。わたし、頑張るね」
「ん。期待しとく」
「ええ」
いつかのサディルを見習って、とんとんと自分の胸のあたりを親指で叩いてみせる。
「ったく、頼もしいことだな」
「ふふ!」
得意げに笑ってみせると、サディルは「ガキかよ!」と言いながらカラカラと笑った。
――できれば子供扱いは早々に卒業させてもらいたいのだけれど。
第二章 神子の祈り
砂の国ラ=メウに入ったことで、サディルは商人の看板をあっさり下げてしまった。
「我が王! よくぞおいでくださいました。さあ、どうぞ。今夜は宴を用意いたしましたので、ゆっくりとお寛ぎください」
「ん。世話になる、ウカム」
年配の領主らしき男の名はウカムと言うらしい。細身ではあるものの、日に焼けた肌には年齢にそぐわぬほどしっかり筋肉がついていて、カラカラと笑う迫力のある男だった。
彼は、もちろんサディルの正体を知っているらしく、上機嫌で出迎えてくれる。ラ=メウの都シ=メウワーンに向けて出発するまで、この領主の邸宅に宿泊する手はずになっているらしい。
「いや、しかし。実にめでたいことですな。――そちらが例の」
と、サディルの横に並んでいるリーフェに視線を向けてくる。
少し緊張して背筋を伸ばすと、ウカムは目を細めて満足げに頷いた。
「奥方ですな」
「ぶっ……!」
……どうも、サディルの当初の目的を知っていたからこそ、勘違いをしているらしい。
サディルが噴き出しているけれど、リーフェとしては少し嬉しい勘違いだ。頬を緩めると、彼は好々爺然として相好を崩す。
「いささか乱暴な作戦ではあったようですが、なかなかどうして。すっかり仲がよろしいようだ」
「いや。それなんだが……ウカム」
ごほごほと、サディルがまだ咳をしている。
「詳しくは後で説明するが、彼女は当初の予定とは別人でな。リーフェという。神子として強い能力を持った娘だ。――当然、嫁などではない」
「なんと! それは残念なことで」
「なんでだよ」
「このように美しく、楚楚とした女性が、我が王にふさわしいと思ったからこそ」
(美しい……?)
そのようなこと言われ慣れていないため、どう反応していいのかわからない。
ただ、サディルと似合いだと思ってもらえるのはやぶさかではなかった。ついはにかんでしまうと、ウカムがにっこりと微笑みかけてくれる。
「ったく、冗談言わないでくれ。――まあ、嫁ではないが、大事な神子だ。しっかり面倒見てやってくれ」
「心得ておりますぞ」
その後部屋に案内されながら、話を聞く。
この街の領主ウカムは、平民であったサディルを王に立てるため尽力してくれた腹心らしい。
元々は南の国の高官だったらしく、サディルに政治のことを教えたのも彼だったのだとか。いわば教師のような人間なのだろう。
そしてこの砂の国ラ=メウが国として成立してしばらく後、重要な拠点となるこの街を任せることになった。
どう見てもただ者ではないわけだが、ウカムはよほどサディルのことを認めているらしい。だから、この邸宅に到着してから、リーフェ自身も大いに歓迎された。
その後、リーフェには色とりどりのタイルの壁が印象的な、開放的な部屋が与えられた。
ラ=メウはもっと貧しい国なのかと思っていたけれど、この街を見るかぎり、考えを改めたほうがよさそうだ。エンリエ教主国に近いというのもあるのだろうが、ここはぎりぎり神子の祈りも届いているように見えた。それに、商人が行き交うためか活気がある。
邸宅では、本来は姫神子レイラの機嫌をとるためにと、入念に部屋の準備がされていたようだ。
貴重な水をたっぷり使った湯殿まで用意されていて、ゆっくりと湯浴みさせてもらえた。
湯殿といえば、今までは、たまに神子の塔の下層階にあるものの使用が許されるくらいで、それ以外は運び込まれた水を使い、自分で身体を拭くくらいだった。まさかラ=メウで贅沢な入浴が許されるだなんて想像だにしていなくて、どうも落ち着かない。
……いや、落ち着かないのは、侍女らしき女性が、リーフェの全身をくまなく磨いているからかもしれない。
誰かにお世話をしてもらう経験自体が乏しくて、裸を見られることも恥ずかしい。そのうえ、手入れのために直接触れられるものだから、もっとそわそわしてしまう。
たっぷり香油を塗り込んでもらったころには、気持ちがいっぱいになってぐったりしてしまった。でも、髪はさらさらになったし、お肌はつやつや。それに全身甘くていい匂いがする。
それから用意されたのは、ラ=メウの民族衣装だった。
さらさらとした手触りが心地いい。淡いブルーから白へ、大胆なグラデーションに染められた生地は美しく、はじめて見る意匠だ。
ただ、透け感のある薄絹はどうも露出が多く、落ち着かない。大事な部分はかろうじて隠れているけれど、大きなスリットが入っているせいで太腿までしっかり見えるし、胸元も大胆に開いている。
とはいえ、心は浮き立っている。
じゃらじゃらした黄金の装飾は、想像以上に重たいけれど美しい。連なるチェーンが歩くたびにちゃらちゃらと音を立てるのはお気に入りだ。
それにこの衣装、くるりとその場で回ったときに、薄手の生地がふわりと揺れるのが素晴らしかった。この衣装で踊れば、さぞ楽しいだろう。
着慣れるまで落ち着かない気持ちもあったけれど、くるくると回って遊んでいるうちに、だんだん馴染んでいく。新しい自分に出会えた心地がして、リーフェはふふっと笑顔を浮かべる。
そうして案内されたのは、邸宅の中でも、一番広い部屋だった。
部屋に入るなり、開けた空間が広がっていて、リーフェはぱちぱちと瞬く。
白とターコイズブルーのタイルが敷きつめられた美しい壁に、見たことがないほど大きく立派な絨毯。そしてそこには大きなクッションがいくつも据えられている。
男性陣は胡座をかき、思い思いに寛ぎながら、すでに談笑を始めているようだった。
部屋の奥で会話しているサディルとウカムの姿を見つけ、侍女たちに目配せする。彼女たちに促されてサディルたちのほうに歩いていくと、サディルが真っ先にリーフェの存在に気がついた。
「…………」
目をまん丸にして、こちらを見つめている。
しばらくサディルは沈黙したままだった。彼らしくもなく、呆然とした様子で固まっている。
「サディルさま?」
「……っ、あ。いや、来たのか」
声をかけると、弾かれるようにしてサディルが頷いた。軽く咳払いをした後、くいくいと人差し指を動かし、近くに座るよう誘ってくれる。
慣れない衣装を見られてどきどきしながらも、リーフェは彼の隣に腰かけた。
「いやあ! 元々お美しい方でしたが、見違えましたな、リーフェ様」
真っ先に褒めてくれたのは、ウカムのほうだった。両腕を大きく開き、大げさなくらいに称賛してくれる。
「あの。素敵な衣装、ありがとうございます」
「いやいや、愛らしいお嬢さんに身につけてもらえて、その衣装も喜んでいることでしょう――ほら、我が王」
サディルが脇腹を小突かれている。
「いや。だから、俺は別に」
「……我が王」
サディルは視線を逸らすも、ウカムにじいっと見られて、居心地が悪そうだ。あー、と呻いて、大きく息を吐く。それから、ぼそぼそと早口で告げた。
「……似合ってると、思う。別嬪に磨きがかかったな」
リーフェとしては、まさかの言葉を告げられたものだから大変だ。
(別嬪!)
ドキン、と心臓が大きく高鳴った。
(サディルさまに、褒められた……!)
気持ちが高揚する。きらきらと目を輝かせてサディルを見ると、彼は困ったように笑いながら、がしがし頭を撫でてくる。どうやらまだ照れているらしい。
なるほど、サディルは困るとリーフェの頭を撫でる癖があるのだと理解した。
「これこれ、我が王。そうもリーフェ様を撫でられると、せっかくの御髪が乱れてしまいますぞ」
「……るせえ」
「まったく。まだまだ青いですな、我が主は」
「んでだよ。クソ。リーフェみたいなガキは扱い慣れてねえだけだ」
「心にもないことを」
ふぁっふぁっふぁ、と上機嫌に笑いながら、ウカムが手を叩く。それが合図となり、今宵の宴が始まった。
――それはリーフェが想像していた以上に盛大で、賑やかな場だった。
華やかな音楽が響きわたる。そして、色とりどりの大皿に、見たこともないような料理が次々と運ばれてきた。
男たちはそれを、豪快に食らいながら談笑しているのだ。ただ食べているだけなのに迫力があるとはこれいかに。
「ほれ、リーフェ様。このじいが取り分けてしんぜよう」
リーフェが身支度をしている間、サディルから事情を聞いたのか、ウカムがかなり気を遣ってくれているのがわかる。サディルを挟みつつ、彼が皿に取り分けた料理を手渡してくれて、リーフェは遠慮なくそれを頂くことにした。
なんと華やかな席だろう。女たちも色とりどりの衣装を身に纏い、食事の配膳をしたり、酒を注いだりと忙しい。
「リーフェ様。王に注いで差しあげてくださいませ」
先ほどまでリーフェの身支度を手伝ってくれた女性が近くに来て、酒瓶を差し出してきたので、大きく頷く。
「サディルさま、いかがですか?」
なんて、ちょっと改まった感じで聞いてみる。
「ん、あ、そうだな。おう、もらう」
……なんだか歯切れが悪い。
どんなときだって堂々としている人なのに、どういうことなのだろうか。
心配になって上目遣いでのぞき込むと、ようやく彼と目が合った。
彼は一瞬困ったような目を向けたけれど、それもわずかの間。すぐにいつもの調子に戻り、頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。今日はいつもより撫でられる回数が異様に多い気がする。
今宵のサディルは白地のゆったりとしたシャツに、臙脂の羽織を肩にかけている。旅装束とは雰囲気ががらっと変わって、とても素敵だ。
緊張しつつ、彼の持つ杯に酒を注ぐ。他の女たちの見よう見まねではあるけれど、これもはじめての経験でどきどきしっぱなしだ。
宴の音楽が優雅に鳴り響いている。
男たちが大小様々な楽器をかき鳴らし、皆が取り囲む部屋の中央で女たちが舞う。
そういえば、自分以外の人が舞っている様を見るのは何年ぶりだろうか。物珍しさと、見たことのない振り付けに、リーフェは目をきらきらさせながら夢中になった。
「そういえばリーフェ様は神子。舞にも興味がおありですかな?」
「はい。すごく華やかで、素敵……!」
一曲終わったところで、ぱちぱちと手を叩きながらリーフェは答えた。
ここでようやく、サディルがなにかに気がついたように、そうかと漏らす。
「アンタも舞えるのか」
とても当たり前のことをしみじみ言われ、首を傾げる。
リーフェは忌子といえども神子だ。毎日のように祈りを捧げてきた。踊れないはずがない。
「もちろん。わたしにはそれしかなかったから」
神子の祈りは、唄や踊りに乗せて届けられるのが基本だった。
緑に祈る唄、太陽を讃える唄、大地に願う唄、水を求む唄――神子のために、いくつもの唄が存在するのだ。
二日に一度はあの塔の最上階まで、専属の楽士が楽器を持って上がってくる。
なにも会話することはない。ただ淡々と音楽が奏でられ、リーフェは舞っていた。
もちろん、普段から手持ちぶさたなリーフェは、音楽がなかろうと一人でステップを踏んでいたけれど。
「そういやアンタ、踊りはどうやって覚えたんだ? あまり人と会うこともなかったのだろう?」
当然出てくる疑問をぶつけられ、リーフェは息を呑んだ。
ぱち。ぱち。ぱちりと。――ゆっくりと、瞬く。
それからぎゅっと唇を引き結び、目を伏せて、呟いた。
「…………教師が、いたの。とうに、来てくれなくなっちゃったけど……」
記憶の蓋が、ことりと音を立てた。
でも。駄目。この思い出は。しまっておく。
「――そうか」
なにかを察してくれたのだろう。くしゃくしゃと頭を撫でる手つきが、いつもより強い。
「ああ、そうだ。どうでしょう、我が王。この場でリーフェ様に舞っていただくというのは?」
空気を変えるためにか、ウカムがぱっと明るい声で提案してくれる。
リーフェも弾かれるようにして顔を上げた。だって、この場で舞ってもいいということは、ここにいる楽士たちの演奏にあわせていいということだ。
普段リーフェの部屋にやってきてくれる楽士は専属の一名だけだ。彼が抱えてくる小さな弦楽器の音色に合わせるだけ。だから華やかな音の中で舞ったのは、先日の姫神子の祝祭がはじめてだったのだ。
レイラの代わりとはいえ、あの日は本当に心が躍った。
贅沢に重なる様々な音色に合わせてステップを踏むのは、これ以上ない幸福だ。
今、目の前で奏でられている音楽は、リーフェに馴染みのないもの。でも、神子の唄の音色は、古来より万国共通のはず。こちらの国の楽器で演奏されると、どのような音となって響くのか、わくわくが止まらない。
リーフェの目が輝いていることに気がついたのだろう。サディルが面食らったように目を見開き、すぐにカラッと笑ってみせてくれた。
「ハハハ! アンタ、本当にわかりやすいな。じゃあ、頼めるか?」
断る理由などない。むしろ、踊りを誰かに見てもらえるだなんて、嬉しくて胸がどきどきする。
大きく頷いてから、リーフェは導かれるまま、部屋の中央へ歩いていく。
楽士と曲を確認し合い、目を伏せた。
――静かな、鈴の音が聞こえる。
しゃらん、しゃらんと囀るような音は、リーフェの中にも繊細に響く。
(水を、求む唄……)
せっかくラ=メウの街に辿り着いたのだ。雨を乞う唄か、緑に祈る唄か迷ったけれども、このオアシスの街にはそれが似つかわしいと思った。
胸元に両手を重ねる。頭を下げて、蹲り、目を閉じたまま静かに時を待つ。
しゃらん、しゃららんと鈴の音が高らかに鳴り響き、やがて弦が弾かれる。
知っているメロディだ。
大きく天に両手を伸ばし――さあ、舞え!
「!」
わっ、と周囲の歓声が聞こえる。
でもそれは、ほんの最初だけ。すぐにリーフェの耳には届かなくなってしまった。
リーフェはどんどんと音楽だけにのめり込んでいく。
踊りを舞うときはいつもこう。身体を動かしている間は、踊りにだけ集中していればいいから。
意識は指先。それから重心と爪先だ。
身体の芯はブレさせない。それから点と点を結ぶように丁寧に弧を描き、花開くように魅せればいい。
『――様、いいですか。大事なのは弧の動き。そして、止めた瞬間の身体の表情ですよ』
遠い記憶の中で、せんせいの声が響いてくる。
『気持ちを乗せるだけなんて通用しません。自然とは、気持ちだけでは対話できませんから』
リーフェの身体はしなやかに動き、くるり、くるりと円を描く。
『入り口はあなたの身体が、そして唄が描くカタチ。あなた自身の器からなのですよ。それがなければ自然は心をひらいてはくれません』
そう。大切なのはカタチからだ。
美しい踊りを舞わなければ、自然は対話に応えてくれない。
いつもと感覚が多少違うのは、纏っている衣が異なるせいか。
リーフェが身体をひねり、手を伸ばすたびに、淡い薄絹がひらりと宙を舞う。
身支度をしたとき、どのような動きをするのかひとりで試して遊んでいたけれど、まさかこんなにもはやく役に立つなんて。
いつもよりも少し腕を大きく振るのがいいかもしれない。きっとそのほうが美しい。先ほどのラ=メウの女性も、そのように踊っていた。きっとこの衣を生かす動きなのだろう。
とんっ、と軽くステップを踏む。音楽はますます華やぎ、リーフェの意識も己のカタチが完成していくごとに、どんどん深いところへ落ちていく。
(これは、水の調べ……)
大地の奥深くまで。そうすることで、眠る水脈と会話ができるような心地がするのだ。
祈りとは、対話である。
己の器と神力を通して、土と、空と、緑と、水と――対話する。
言葉よりも踊りや唄が好まれるのは、自然がそれらの手段を好むからだ。
対話するための入り口。だから、リーフェは舞う。
(水よ。水脈よ。わたしの声が届いてる――?)
――トォン、と。暗がりの中から、意志だけが返ってきた。
目を開ける。音楽はまだ鳴り響いている。
深い地底奥深くから意識が浮上し、ここでようやくリーフェは外界に目を向ける。
ピタリと、音に合わせてひと呼吸。身体を止めた瞬間――
――赤い瞳と目が合った。
カラン、と、なにかの音が聞こえた気がした。
でもまだ音楽は続いている。ならばリーフェは舞うだけだ。
水と対話をした後だからか、彼らの声が届いてきて、リーフェもそれに応えていく。祈るように、慈しむように祈りを捧げ続けるうちに、いつの間にか唄は終わっていたらしい。
タン! と最後のステップを踏み、ポーズを決めたまま、リーフェはじっと動けずにいた。
楽器の音もピタリと止まり、周囲に静寂が訪れる。
誰もが、言葉ひとつ発することができなかった。リーフェの姿を目に焼き付け、ゆる、ゆる、ゆると、これが現実だと理解する。瞬間、わっと周囲に歓声が沸き起こった。
「素晴らしい! なんて美しい舞だ!」
「このような乙女が、ラ=メウの神子になられるとは!!」
パチパチパチと強く手を鳴らす音が聞こえ、大騒ぎだ。
ここでようやく顔を上げると、皆の喜ぶ笑顔が目に飛び込んでくる。
無意識にいつもより張り切ってしまっていたからか、少しだけ呼吸が荒い。何度か大きく呼吸して整えた後、ふと、サディルの反応が気になった。
彼は喜んでくれただろうか。少しでもリーフェの踊りを気に入ってくれたらいい。
そう思い、ぱっと彼のほうを向く。
サディルは、目を見開いたまま、ずっとリーフェのことを見ていた。
微動だにせず。胡座をかきながら、杯を持っていたはずの手を、宙にかざしたまま。
ただその手には、あるはずの杯がない。
ころころと、彼の手前に転がる銀の杯が目に映った。その杯からこぼれ落ちたのか、すっかり酒が絨毯を汚してしまっている。
「サディルさま?」
返事はなかった。彼は真正面を見つめたまま固まっている。
「なにか変だった……?」
「……――っ、あ! いや! そうじゃなく、だな」
弾かれたように、彼は後ろにのけ反る。
リーフェから顔を背け、大きな手で口元を覆ってしばらく。観念したように声を絞り出した。
「……驚いた。想像以上に、すごいものなのだと」
真っ直ぐに称賛の声をもらえて、リーフェは花のような笑顔を見せた。
皆に喜んでもらえたことも嬉しいけれど、サディルに喜んでもらえるのがいっとう嬉しい。
口々にリーフェと彼女を連れてきた王、そして砂の国ラ=メウを讃える声が上がり、宴はますます盛り上がっていく。
サディルが手招きしてくれるものだから、リーフェもにこにこと彼のもとへ戻っていく。
それからサディルへ目を向けると、彼は困り果てた様子でため息をついていた。
「お前、なんて格好してるんだよ……」
「え?」
「お。ほら、見えてきた――リーフェ。あれが、国境の街シ=ウォロだ」
すっかり商人様ご一行となっていた集団が辿り着いたのは、ラ=メウの国境にあたる街だった。
エンリエ教主国を抜けると、自然環境がまるで異なってくる。ずいぶんと乾燥してきたし、土が乾いてカチカチになっている。生えている植物の種類も異なり、気候もかなり暑く感じた。
「あの街の裏側から景色が変わる。――アンタにとっては、きっと珍しかろう」
「もしかして、砂漠?」
「そうだ。――さあ、行くか」
そう言われて彼らと一緒に街の中に入り、真っ直ぐ南へ突っ切ると――
「わあああ……!」
街の裏側。サディルがわざわざ珍しいと言った意味を理解する。
その変化は、本当に唐突に訪れた。
まるで一本線を入れたかのような、鮮やかな変化。街の中はカチカチと硬くも、まだ植物の生える乾いた大地だったのに、唐突になにもない砂の大地が広がっている。
どこまでも続く黄金色の地。太陽がギラギラと輝き、大地に反射して眩しい。
「すごい、こんなに綺麗なんて……!」
「ハハハ! ありがとよ。住んでりゃなかなか厄介な砂漠だが、褒めてもらえるのは悪い気分じゃねえな」
目をきらきらさせながら興奮すると、サディルが満足そうに大きな口を開けて笑った。
だから自分の言葉にハッとする。
そうだった。この砂漠は、サディルにとっては悩みの種でもあるのだ。
(神子の祈りがまったく届けられていないってこと? だから、こんなに急激に……?)
線引きしたかのような土地の変化は、つまりそういうことなのだろう。サディルの抱える事情に今さら理解が及び、自分の無神経な言葉にしゅんとする。
「ま、どんなに綺麗だろうと、安易に踏み込むのは馬鹿のすることだ。アンタも絶対にひとりで行こうとするなよ?」
「しないよ」
「そりゃあ頼もしい返事だ」
なんて話題を変えながら、がしがしと頭を撫でてくれるところ、優しいと思う。
「――出発は明後日だ。それまではこの街で、砂漠を越える準備だな。寝泊まりする場所は確保してある。アンタも今のうちに体力溜め込んでな」
そう言われ、リーフェは今度こそと、使命感に満ちた目でこくりと頷いた。
リーフェは本当に体力が足りなくて、ここに来るまでも周囲にとことん世話を焼いてもらった。
ここから先は苛酷な砂漠だ。だから無理せずついていけるように、自分の体調を整える。それがリーフェの役割である。
(でも――)
どこまでも広がる砂の大地を見つめ、リーフェは考えた。
「ねえ、サディルさま。この砂の大地を、いつか緑にしたいの?」
「ん。そうだな。それが俺の夢だ」
「夢……」
もう、リーフェの夢は叶えてもらえた。
いつかあの塔に、誰かが自分をさらいに来てくれたら――
何年も何年も、心の中にふわふわと思い描き続けた夢を、サディルが実現してくれた。
(だったら、わたしもサディルさまの夢を叶えたい)
緑の大地のイメージは、いくらでも膨らませることができる。
神子の塔の最上階。たったひとつの窓から見える世界は美しい緑に溢れていた。
ああいう景色をサディルは見たいと望んでいるのか。
そう思うと、むくむくとやる気が湧いてくる。
「わかった。わたし、頑張るね」
「ん。期待しとく」
「ええ」
いつかのサディルを見習って、とんとんと自分の胸のあたりを親指で叩いてみせる。
「ったく、頼もしいことだな」
「ふふ!」
得意げに笑ってみせると、サディルは「ガキかよ!」と言いながらカラカラと笑った。
――できれば子供扱いは早々に卒業させてもらいたいのだけれど。
第二章 神子の祈り
砂の国ラ=メウに入ったことで、サディルは商人の看板をあっさり下げてしまった。
「我が王! よくぞおいでくださいました。さあ、どうぞ。今夜は宴を用意いたしましたので、ゆっくりとお寛ぎください」
「ん。世話になる、ウカム」
年配の領主らしき男の名はウカムと言うらしい。細身ではあるものの、日に焼けた肌には年齢にそぐわぬほどしっかり筋肉がついていて、カラカラと笑う迫力のある男だった。
彼は、もちろんサディルの正体を知っているらしく、上機嫌で出迎えてくれる。ラ=メウの都シ=メウワーンに向けて出発するまで、この領主の邸宅に宿泊する手はずになっているらしい。
「いや、しかし。実にめでたいことですな。――そちらが例の」
と、サディルの横に並んでいるリーフェに視線を向けてくる。
少し緊張して背筋を伸ばすと、ウカムは目を細めて満足げに頷いた。
「奥方ですな」
「ぶっ……!」
……どうも、サディルの当初の目的を知っていたからこそ、勘違いをしているらしい。
サディルが噴き出しているけれど、リーフェとしては少し嬉しい勘違いだ。頬を緩めると、彼は好々爺然として相好を崩す。
「いささか乱暴な作戦ではあったようですが、なかなかどうして。すっかり仲がよろしいようだ」
「いや。それなんだが……ウカム」
ごほごほと、サディルがまだ咳をしている。
「詳しくは後で説明するが、彼女は当初の予定とは別人でな。リーフェという。神子として強い能力を持った娘だ。――当然、嫁などではない」
「なんと! それは残念なことで」
「なんでだよ」
「このように美しく、楚楚とした女性が、我が王にふさわしいと思ったからこそ」
(美しい……?)
そのようなこと言われ慣れていないため、どう反応していいのかわからない。
ただ、サディルと似合いだと思ってもらえるのはやぶさかではなかった。ついはにかんでしまうと、ウカムがにっこりと微笑みかけてくれる。
「ったく、冗談言わないでくれ。――まあ、嫁ではないが、大事な神子だ。しっかり面倒見てやってくれ」
「心得ておりますぞ」
その後部屋に案内されながら、話を聞く。
この街の領主ウカムは、平民であったサディルを王に立てるため尽力してくれた腹心らしい。
元々は南の国の高官だったらしく、サディルに政治のことを教えたのも彼だったのだとか。いわば教師のような人間なのだろう。
そしてこの砂の国ラ=メウが国として成立してしばらく後、重要な拠点となるこの街を任せることになった。
どう見てもただ者ではないわけだが、ウカムはよほどサディルのことを認めているらしい。だから、この邸宅に到着してから、リーフェ自身も大いに歓迎された。
その後、リーフェには色とりどりのタイルの壁が印象的な、開放的な部屋が与えられた。
ラ=メウはもっと貧しい国なのかと思っていたけれど、この街を見るかぎり、考えを改めたほうがよさそうだ。エンリエ教主国に近いというのもあるのだろうが、ここはぎりぎり神子の祈りも届いているように見えた。それに、商人が行き交うためか活気がある。
邸宅では、本来は姫神子レイラの機嫌をとるためにと、入念に部屋の準備がされていたようだ。
貴重な水をたっぷり使った湯殿まで用意されていて、ゆっくりと湯浴みさせてもらえた。
湯殿といえば、今までは、たまに神子の塔の下層階にあるものの使用が許されるくらいで、それ以外は運び込まれた水を使い、自分で身体を拭くくらいだった。まさかラ=メウで贅沢な入浴が許されるだなんて想像だにしていなくて、どうも落ち着かない。
……いや、落ち着かないのは、侍女らしき女性が、リーフェの全身をくまなく磨いているからかもしれない。
誰かにお世話をしてもらう経験自体が乏しくて、裸を見られることも恥ずかしい。そのうえ、手入れのために直接触れられるものだから、もっとそわそわしてしまう。
たっぷり香油を塗り込んでもらったころには、気持ちがいっぱいになってぐったりしてしまった。でも、髪はさらさらになったし、お肌はつやつや。それに全身甘くていい匂いがする。
それから用意されたのは、ラ=メウの民族衣装だった。
さらさらとした手触りが心地いい。淡いブルーから白へ、大胆なグラデーションに染められた生地は美しく、はじめて見る意匠だ。
ただ、透け感のある薄絹はどうも露出が多く、落ち着かない。大事な部分はかろうじて隠れているけれど、大きなスリットが入っているせいで太腿までしっかり見えるし、胸元も大胆に開いている。
とはいえ、心は浮き立っている。
じゃらじゃらした黄金の装飾は、想像以上に重たいけれど美しい。連なるチェーンが歩くたびにちゃらちゃらと音を立てるのはお気に入りだ。
それにこの衣装、くるりとその場で回ったときに、薄手の生地がふわりと揺れるのが素晴らしかった。この衣装で踊れば、さぞ楽しいだろう。
着慣れるまで落ち着かない気持ちもあったけれど、くるくると回って遊んでいるうちに、だんだん馴染んでいく。新しい自分に出会えた心地がして、リーフェはふふっと笑顔を浮かべる。
そうして案内されたのは、邸宅の中でも、一番広い部屋だった。
部屋に入るなり、開けた空間が広がっていて、リーフェはぱちぱちと瞬く。
白とターコイズブルーのタイルが敷きつめられた美しい壁に、見たことがないほど大きく立派な絨毯。そしてそこには大きなクッションがいくつも据えられている。
男性陣は胡座をかき、思い思いに寛ぎながら、すでに談笑を始めているようだった。
部屋の奥で会話しているサディルとウカムの姿を見つけ、侍女たちに目配せする。彼女たちに促されてサディルたちのほうに歩いていくと、サディルが真っ先にリーフェの存在に気がついた。
「…………」
目をまん丸にして、こちらを見つめている。
しばらくサディルは沈黙したままだった。彼らしくもなく、呆然とした様子で固まっている。
「サディルさま?」
「……っ、あ。いや、来たのか」
声をかけると、弾かれるようにしてサディルが頷いた。軽く咳払いをした後、くいくいと人差し指を動かし、近くに座るよう誘ってくれる。
慣れない衣装を見られてどきどきしながらも、リーフェは彼の隣に腰かけた。
「いやあ! 元々お美しい方でしたが、見違えましたな、リーフェ様」
真っ先に褒めてくれたのは、ウカムのほうだった。両腕を大きく開き、大げさなくらいに称賛してくれる。
「あの。素敵な衣装、ありがとうございます」
「いやいや、愛らしいお嬢さんに身につけてもらえて、その衣装も喜んでいることでしょう――ほら、我が王」
サディルが脇腹を小突かれている。
「いや。だから、俺は別に」
「……我が王」
サディルは視線を逸らすも、ウカムにじいっと見られて、居心地が悪そうだ。あー、と呻いて、大きく息を吐く。それから、ぼそぼそと早口で告げた。
「……似合ってると、思う。別嬪に磨きがかかったな」
リーフェとしては、まさかの言葉を告げられたものだから大変だ。
(別嬪!)
ドキン、と心臓が大きく高鳴った。
(サディルさまに、褒められた……!)
気持ちが高揚する。きらきらと目を輝かせてサディルを見ると、彼は困ったように笑いながら、がしがし頭を撫でてくる。どうやらまだ照れているらしい。
なるほど、サディルは困るとリーフェの頭を撫でる癖があるのだと理解した。
「これこれ、我が王。そうもリーフェ様を撫でられると、せっかくの御髪が乱れてしまいますぞ」
「……るせえ」
「まったく。まだまだ青いですな、我が主は」
「んでだよ。クソ。リーフェみたいなガキは扱い慣れてねえだけだ」
「心にもないことを」
ふぁっふぁっふぁ、と上機嫌に笑いながら、ウカムが手を叩く。それが合図となり、今宵の宴が始まった。
――それはリーフェが想像していた以上に盛大で、賑やかな場だった。
華やかな音楽が響きわたる。そして、色とりどりの大皿に、見たこともないような料理が次々と運ばれてきた。
男たちはそれを、豪快に食らいながら談笑しているのだ。ただ食べているだけなのに迫力があるとはこれいかに。
「ほれ、リーフェ様。このじいが取り分けてしんぜよう」
リーフェが身支度をしている間、サディルから事情を聞いたのか、ウカムがかなり気を遣ってくれているのがわかる。サディルを挟みつつ、彼が皿に取り分けた料理を手渡してくれて、リーフェは遠慮なくそれを頂くことにした。
なんと華やかな席だろう。女たちも色とりどりの衣装を身に纏い、食事の配膳をしたり、酒を注いだりと忙しい。
「リーフェ様。王に注いで差しあげてくださいませ」
先ほどまでリーフェの身支度を手伝ってくれた女性が近くに来て、酒瓶を差し出してきたので、大きく頷く。
「サディルさま、いかがですか?」
なんて、ちょっと改まった感じで聞いてみる。
「ん、あ、そうだな。おう、もらう」
……なんだか歯切れが悪い。
どんなときだって堂々としている人なのに、どういうことなのだろうか。
心配になって上目遣いでのぞき込むと、ようやく彼と目が合った。
彼は一瞬困ったような目を向けたけれど、それもわずかの間。すぐにいつもの調子に戻り、頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。今日はいつもより撫でられる回数が異様に多い気がする。
今宵のサディルは白地のゆったりとしたシャツに、臙脂の羽織を肩にかけている。旅装束とは雰囲気ががらっと変わって、とても素敵だ。
緊張しつつ、彼の持つ杯に酒を注ぐ。他の女たちの見よう見まねではあるけれど、これもはじめての経験でどきどきしっぱなしだ。
宴の音楽が優雅に鳴り響いている。
男たちが大小様々な楽器をかき鳴らし、皆が取り囲む部屋の中央で女たちが舞う。
そういえば、自分以外の人が舞っている様を見るのは何年ぶりだろうか。物珍しさと、見たことのない振り付けに、リーフェは目をきらきらさせながら夢中になった。
「そういえばリーフェ様は神子。舞にも興味がおありですかな?」
「はい。すごく華やかで、素敵……!」
一曲終わったところで、ぱちぱちと手を叩きながらリーフェは答えた。
ここでようやく、サディルがなにかに気がついたように、そうかと漏らす。
「アンタも舞えるのか」
とても当たり前のことをしみじみ言われ、首を傾げる。
リーフェは忌子といえども神子だ。毎日のように祈りを捧げてきた。踊れないはずがない。
「もちろん。わたしにはそれしかなかったから」
神子の祈りは、唄や踊りに乗せて届けられるのが基本だった。
緑に祈る唄、太陽を讃える唄、大地に願う唄、水を求む唄――神子のために、いくつもの唄が存在するのだ。
二日に一度はあの塔の最上階まで、専属の楽士が楽器を持って上がってくる。
なにも会話することはない。ただ淡々と音楽が奏でられ、リーフェは舞っていた。
もちろん、普段から手持ちぶさたなリーフェは、音楽がなかろうと一人でステップを踏んでいたけれど。
「そういやアンタ、踊りはどうやって覚えたんだ? あまり人と会うこともなかったのだろう?」
当然出てくる疑問をぶつけられ、リーフェは息を呑んだ。
ぱち。ぱち。ぱちりと。――ゆっくりと、瞬く。
それからぎゅっと唇を引き結び、目を伏せて、呟いた。
「…………教師が、いたの。とうに、来てくれなくなっちゃったけど……」
記憶の蓋が、ことりと音を立てた。
でも。駄目。この思い出は。しまっておく。
「――そうか」
なにかを察してくれたのだろう。くしゃくしゃと頭を撫でる手つきが、いつもより強い。
「ああ、そうだ。どうでしょう、我が王。この場でリーフェ様に舞っていただくというのは?」
空気を変えるためにか、ウカムがぱっと明るい声で提案してくれる。
リーフェも弾かれるようにして顔を上げた。だって、この場で舞ってもいいということは、ここにいる楽士たちの演奏にあわせていいということだ。
普段リーフェの部屋にやってきてくれる楽士は専属の一名だけだ。彼が抱えてくる小さな弦楽器の音色に合わせるだけ。だから華やかな音の中で舞ったのは、先日の姫神子の祝祭がはじめてだったのだ。
レイラの代わりとはいえ、あの日は本当に心が躍った。
贅沢に重なる様々な音色に合わせてステップを踏むのは、これ以上ない幸福だ。
今、目の前で奏でられている音楽は、リーフェに馴染みのないもの。でも、神子の唄の音色は、古来より万国共通のはず。こちらの国の楽器で演奏されると、どのような音となって響くのか、わくわくが止まらない。
リーフェの目が輝いていることに気がついたのだろう。サディルが面食らったように目を見開き、すぐにカラッと笑ってみせてくれた。
「ハハハ! アンタ、本当にわかりやすいな。じゃあ、頼めるか?」
断る理由などない。むしろ、踊りを誰かに見てもらえるだなんて、嬉しくて胸がどきどきする。
大きく頷いてから、リーフェは導かれるまま、部屋の中央へ歩いていく。
楽士と曲を確認し合い、目を伏せた。
――静かな、鈴の音が聞こえる。
しゃらん、しゃらんと囀るような音は、リーフェの中にも繊細に響く。
(水を、求む唄……)
せっかくラ=メウの街に辿り着いたのだ。雨を乞う唄か、緑に祈る唄か迷ったけれども、このオアシスの街にはそれが似つかわしいと思った。
胸元に両手を重ねる。頭を下げて、蹲り、目を閉じたまま静かに時を待つ。
しゃらん、しゃららんと鈴の音が高らかに鳴り響き、やがて弦が弾かれる。
知っているメロディだ。
大きく天に両手を伸ばし――さあ、舞え!
「!」
わっ、と周囲の歓声が聞こえる。
でもそれは、ほんの最初だけ。すぐにリーフェの耳には届かなくなってしまった。
リーフェはどんどんと音楽だけにのめり込んでいく。
踊りを舞うときはいつもこう。身体を動かしている間は、踊りにだけ集中していればいいから。
意識は指先。それから重心と爪先だ。
身体の芯はブレさせない。それから点と点を結ぶように丁寧に弧を描き、花開くように魅せればいい。
『――様、いいですか。大事なのは弧の動き。そして、止めた瞬間の身体の表情ですよ』
遠い記憶の中で、せんせいの声が響いてくる。
『気持ちを乗せるだけなんて通用しません。自然とは、気持ちだけでは対話できませんから』
リーフェの身体はしなやかに動き、くるり、くるりと円を描く。
『入り口はあなたの身体が、そして唄が描くカタチ。あなた自身の器からなのですよ。それがなければ自然は心をひらいてはくれません』
そう。大切なのはカタチからだ。
美しい踊りを舞わなければ、自然は対話に応えてくれない。
いつもと感覚が多少違うのは、纏っている衣が異なるせいか。
リーフェが身体をひねり、手を伸ばすたびに、淡い薄絹がひらりと宙を舞う。
身支度をしたとき、どのような動きをするのかひとりで試して遊んでいたけれど、まさかこんなにもはやく役に立つなんて。
いつもよりも少し腕を大きく振るのがいいかもしれない。きっとそのほうが美しい。先ほどのラ=メウの女性も、そのように踊っていた。きっとこの衣を生かす動きなのだろう。
とんっ、と軽くステップを踏む。音楽はますます華やぎ、リーフェの意識も己のカタチが完成していくごとに、どんどん深いところへ落ちていく。
(これは、水の調べ……)
大地の奥深くまで。そうすることで、眠る水脈と会話ができるような心地がするのだ。
祈りとは、対話である。
己の器と神力を通して、土と、空と、緑と、水と――対話する。
言葉よりも踊りや唄が好まれるのは、自然がそれらの手段を好むからだ。
対話するための入り口。だから、リーフェは舞う。
(水よ。水脈よ。わたしの声が届いてる――?)
――トォン、と。暗がりの中から、意志だけが返ってきた。
目を開ける。音楽はまだ鳴り響いている。
深い地底奥深くから意識が浮上し、ここでようやくリーフェは外界に目を向ける。
ピタリと、音に合わせてひと呼吸。身体を止めた瞬間――
――赤い瞳と目が合った。
カラン、と、なにかの音が聞こえた気がした。
でもまだ音楽は続いている。ならばリーフェは舞うだけだ。
水と対話をした後だからか、彼らの声が届いてきて、リーフェもそれに応えていく。祈るように、慈しむように祈りを捧げ続けるうちに、いつの間にか唄は終わっていたらしい。
タン! と最後のステップを踏み、ポーズを決めたまま、リーフェはじっと動けずにいた。
楽器の音もピタリと止まり、周囲に静寂が訪れる。
誰もが、言葉ひとつ発することができなかった。リーフェの姿を目に焼き付け、ゆる、ゆる、ゆると、これが現実だと理解する。瞬間、わっと周囲に歓声が沸き起こった。
「素晴らしい! なんて美しい舞だ!」
「このような乙女が、ラ=メウの神子になられるとは!!」
パチパチパチと強く手を鳴らす音が聞こえ、大騒ぎだ。
ここでようやく顔を上げると、皆の喜ぶ笑顔が目に飛び込んでくる。
無意識にいつもより張り切ってしまっていたからか、少しだけ呼吸が荒い。何度か大きく呼吸して整えた後、ふと、サディルの反応が気になった。
彼は喜んでくれただろうか。少しでもリーフェの踊りを気に入ってくれたらいい。
そう思い、ぱっと彼のほうを向く。
サディルは、目を見開いたまま、ずっとリーフェのことを見ていた。
微動だにせず。胡座をかきながら、杯を持っていたはずの手を、宙にかざしたまま。
ただその手には、あるはずの杯がない。
ころころと、彼の手前に転がる銀の杯が目に映った。その杯からこぼれ落ちたのか、すっかり酒が絨毯を汚してしまっている。
「サディルさま?」
返事はなかった。彼は真正面を見つめたまま固まっている。
「なにか変だった……?」
「……――っ、あ! いや! そうじゃなく、だな」
弾かれたように、彼は後ろにのけ反る。
リーフェから顔を背け、大きな手で口元を覆ってしばらく。観念したように声を絞り出した。
「……驚いた。想像以上に、すごいものなのだと」
真っ直ぐに称賛の声をもらえて、リーフェは花のような笑顔を見せた。
皆に喜んでもらえたことも嬉しいけれど、サディルに喜んでもらえるのがいっとう嬉しい。
口々にリーフェと彼女を連れてきた王、そして砂の国ラ=メウを讃える声が上がり、宴はますます盛り上がっていく。
サディルが手招きしてくれるものだから、リーフェもにこにこと彼のもとへ戻っていく。
それからサディルへ目を向けると、彼は困り果てた様子でため息をついていた。
「お前、なんて格好してるんだよ……」
「え?」
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