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−冬−
3−10 どうか、どうか――(1)
しおりを挟むあの勝負のあと、ディルがサヨを――トキノオ領を救うためにくだした決断を聞いたとき、サヨもまた彼と同じ表情をした。
どうしても、つけなければいけないけじめがある。それが――、
――明日で、さよなら。
別れはあまりに突然だ。
それでも、サヨも、ディルも、互いに納得もしていた。
――大丈夫だ。私は、大丈夫。
いつかまた互いに巡り会うことができる未来のために、彼がサヨを信じ、任せてくれたことがうれしい。
そして、サヨが自分で未来をつかみ取ることができるようにと、彼は精一杯力をかしてくれる。
離れていても、彼のことを信じているから頑張れる。これは前向きな決意だ。
だって、彼がこれまでサヨにくれた言葉は、全部、本物だった。
だから彼が大丈夫だと言えば大丈夫だし、離れていても、サヨを好きでいてくれると言うなら、きっとそうなのだろう。
そう言い聞かせなければ崩れ落ちてしまいそうで、ただの虚勢かもしれないけれども。
サヨたちはこの日、トウマを含めたほんの数人を供にして、ディルとともに真っ直ぐ国境の砦へと向かった。
それだけではない。
ディルの判断ははやかった。サヨとの決着をつけた後、彼は急遽、首都や、辺境領内各地、また別途必要な場所へと急ぎで使者を送ったのだ。
サヨのはやる気持ちを抑えようと、ディルは笑った。
トキノオは大丈夫だと。
いざ皇軍とトキノオ軍がぶつかったならば、皇軍の方が被害が大きくなるにちがいない。
季節も冬。
皇軍の方が圧倒的に不利になるために、この出兵はあくまで牽制と話し合いを目的にしているはずだとディルは言う。
彼の言葉は本当に不思議だ。
サヨの心をなだめて、もう大丈夫だと信じさせてくれる。
大丈夫。ひとりじゃない。
己を奮いたたせ、闇雲に走る日々はもう終わりだ。
午後より領都を発って、ひたすら駆ける。
とはいえ、国境の砦につくのは早くても明日。だから途中の小さな街でいったん宿をとることとなった。
彼とともにいられる、最後の夜である。
「サヨ姫! この宿は警備も十分ではありません。俺がひと晩、ここで見張りに立ちます!」
そう主張するのはトウマだった。
夜、サヨが部屋に入る際、鼻息荒く告げてきたのだ。
あまりに真剣に、まるで懇願するように彼は見つめてくる。
「――サヨ姫のお気持ちは痛いくらいに伝わりました。でも! 俺は、ここから絶対にどきません」
「トウマ……」
「どうか。どうか我慢なさってください。俺は、サヨ姫のことを守りたいだけなのです」
なにから、など、聞かなくてもわかる。
彼だってわかっているのだろう。サヨとディルが、しばしの別れを迎える――その意味を。
サヨは単身トキノオに戻らなければいけない。
ディルと再び、いつか会える未来を信じているけれども、それは確定したものではない。
一時の気の迷いで彼に身を委ねたら――なんてことを考えているのだと思う。
ひどく、胸が痛んだ。
今夜を逃すと、本当に、ディルとゆっくり話せる時間はなくなってしまうだろう。
たった一日でめまぐるしく環境が変わり、感情の方が追いつかない。
彼に気持ちを伝えることはできたけれど、それもまた夢みたいで――少しでもいい。会いたいのに。
「トウマ、頼む……」
「なりません。明日も早いのです」
トウマは厳しく言い放つ。
……別に、今日の出来事の腹いせではないと思う。ただ、トウマもサヨを大切にしてくれているのだ。それはわかっている。
城を出る前の話だ。
サヨの気持ちが固まったいま、彼の想いには応えることができないとはっきり告げた。
それはそれで彼は受け止めてはくれたけれども、ディルのことになると話が別らしい。
いまだにあの国境の砦前の戦いで、サヨの唇を一方的に奪ったことや、無理矢理連れ去ったことに憤りを覚えているようだ。
その上で、今日の口づけである。
別れなければいけないのに――まるでサヨに唾をつけるみたいだと――男の風上にも置けないと、トウマは大変ご立腹だ。
だからこそいま、間違いがあってはいけないと、彼は厳しい。
ただでさえ兄妹のように育ったせいで、トウマはサヨに遠慮がない。
想いを寄せていた娘相手というよりも、もはや家族のような位置づけで、ディルのことをおおいに警戒しているわけである。
「とにかく。ここの出入り口は俺がしっかりと見張っておきますから! サヨ姫はゆっくりとお休みください」
「だが……」
「姫」
「…………はい……トウマも……ちゃんと、休んで……」
休んでなんて、この調子だと聞きいれてくれなさそうだけれども。
ぷりぷり怒っているトウマにこれ以上かける言葉もなく、サヨは大人しく扉を閉めることにした。
二階の南向きの比較的小さな――でも、サヨが休むには十分な部屋だった。
ただ、ディルの部屋とは少し離れている。もちろん、これもトウマの主張の結果である。
一応ディルの部屋は、同じ階の角部屋だったはずなのだが、廊下へ出る扉を封鎖されてしまえば会いにいけるはずもない。
今夜は、ただひとり。
隣の部屋に、彼の気配すら感じられない。
――明日……どれくらい話せるかな。
砦までの距離はそれなりにあるけど、強行軍になるだろう。
サヨだって、なるべくはやくトキノオ領へと抜けたい。
窓のそばによって、空を見上げる。
このあたりの地域は雪は降らなかったのか、空には煌々と丸い月が輝いている。
ただ、雲がない空のせいか、かなり冷える。明日のこともあるし、早めに休むのがいいとはわかっている。
大人しく眠る支度をする。
夜着に着替え、早々に寝台の上に腰かけた。
早く眠らねばと思うのに、どうにも目が冴えて、眠れる気配がない。
布団を被りはするけれど、サヨは膝を抱え込んだまま、昼間のことをぼんやりと思い出していた。
「……じぃる」
そっと指先で唇に触れる。
昼間の、あの感触が忘れられない。
世界はたしかにディルとふたりで、行くあてなく惑う心を彼が引き戻してくれた。
心に抱える悩みも痛みも多いけれど、たしかにサヨは幸福だったのだ。
「じる、べると……」
……くやしい。
こんなにも彼のことが好きなのに、名前ひとつまともに呼べない。
彼と向きあうのを恐れて、まともに発声する練習すらしてこなかった。
「ジル……」
彼と再び出会う未来を信じるからこそ、今は帰る。もう決めた。
しばしの別れ――彼と再び出会える日がいつになるかはわからないけれど――わからないからこそ、ちゃんと呼びたかった。
「ジルベルト……で…じぃ……」
ぽつり、ぽつりと繰り返す。
「ジル……」
寂しい。
せっかく想いが繋がったからこそ、夜がこんなにも寂しい。
ばん、ばん。
と、そこで。
ふと、風の音だろうか。窓が叩かれたような、わずかに軋んだような音がして、サヨは顔をあげる。
「!」
瞬間、叫びそうになってしまったのを両手で覆い、あわてて寝台から降りた。
窓の外に、見知った姿が見える。
唇の前に人差し指をかかげ、しーっ、と注意しながらも、ウインクしてみせる男がひとり。
いままさに、名前を呼ぶ練習をしていた相手の姿を認めて、サヨは窓の方へ駆け寄った。
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