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−春−
4−6 残り香さえも愛しくて(1)
しおりを挟むそして、夜。
サヨはいまだに興奮が冷めやまぬなか、自室でぼんやりと過ごしていた。
春といえどもトキノオの夜は冷える。
けれどもこの日は障子をあけたまま、サヨは外の景色を眺めていた。
寝巻に着替え、布団を膝掛けがわりに。すこし肌寒いけれども、もう少しこの景色を見ていたかった。
この部屋から見る庭も、そして月も――もう見ることはなくなるのかと思うと感慨深くもあって。
一年。
とても長かった。
まもなくサヨは再びシルギアへと赴く。しかも今度は自らの意志でだ。
中央はまだサヨの存在に目をつけてはいるだろう。
サヨが把握しきれないほどのたくさんの人の助けがあって、サヨは彼の国へ嫁ぐ。サヨ自身も、かの地で課せられる使命もたくさんあることも理解している。
だから、自分は架け橋になるのだ。
これ以上、彼の国との戦が起こらないようにと。
でも、使命よりも何よりも、自分がひとりの女として、もっと別の――求めているものがあることも自覚していて。
ふと、月明かりに向かって手を伸ばす。
左手の薬指にはめられている指輪がにぶく輝いた。
紅色の石。華奢な意匠のその指輪がとても大切に思えて、口もとが緩む。手を顔に寄せて、そっとその石に唇を落とした。
まだ気持ちがふわふわしている。
なんだかずっと、意識がこの左手の薬指にあって、胸が熱くて眠れそうもない。
「ディル……」
会いたい。
ディルが、このトキノオの敷地内にいる。
いままでよりも彼はずっとそばにいて――だからこそ、心の奥が疼いて。
あと数日すれば、名実ともに一緒になれるのに、サヨはいま彼の温もりがほしかった。
寂しくて、膝を抱える。
ひと目だけでも会えたらいいのに、なんてどんどん欲張りになってしまう。いつの間にこんなに、わがままにさせられてしまったのだろうか。
「はぁ…………ディル……」
「――よんだか?」
などと。
ありえない声が聞こえてきて、サヨはハッとした。
がばりと顔をあげると、サヨの部屋の前の庭――植木の向こうから、がさりと頭を出す男がひとり。
「!? ディ……っ!」
しーっ!
突然現れた男――ディルヴェルト・ディーテンハイクは人差し指を口の前にかざし、大声を出さないようにとウインクする。
いつもばっちり整えてある髪が少しだけ乱れていて、なんだかくたびれた様子ではあるけれども、サヨに向ける表情は柔らかい。
彼はそのままそろりそろりと縁側に忍びより、そっと腰かけた。
サヨもあわてて布団から這いでて、四つん這いになったまま彼の方へ近寄る。そのまま小声でつぶやいた。
「どっ……どうして、ここが……っ」
トキノオの屋敷は、大変つくりがややこしい。
母屋こそ一番高い位置にあるから比較的見つけやすいけれども、あそこは一族の者が住むための場所ではない。
いくつかの離れがあって、サヨやチアキ――領主一族の子が住まう離れは、母屋からもそれなりに離れている。いち個人の部屋を探り当てるなど簡単ではないはずだけれども。
「なに、サヨのいる場所だからな。勘でわかるさ」
「勘っ?」
「――なんてな。正解は、君のところの侍女さんにこっそり聞いただけさ。いいかげん、男ばかりで呑むのもうんざりしたからな」
などと、ディルは肩をすくめて笑っている。
たしかに彼に身を寄せると、ぷんと強いお酒の匂いがした。
サヨもはじめの方は今日の宴会に参加していたのだけれど、女の身でもあるので早めに退散したのだ。
一方のディルはというと、がっつりアキフネに絡まれていたので、相当呑まされたのだろう。
「――ん? 匂うか? ……悪い。さすがに、身ぎれいにしてくる余裕はなくてな」
「いや、それは」
大丈夫、と首をぶんぶん横に振ると、彼は安心したように肩をすくめ、今度はじっと、サヨの瞳を見つめてきた。
「それでは、君に口づけしても?」
「……っ」
急に熱っぽい瞳を向けられて、サヨの頬が一瞬で染まる。
「今日だって我慢するのに必死だったんだ。――トキノオの者たちの前では、嫌だろう?」
「さんざん抱きしめたくせに」
「それくらいは許してくれ。……って、それも嫌だったか? すまない。どうしても、浮かれてしまって」
「ふふ」
「一年間――君を想って夜も眠れなかった。この憐れな男に、どうか褒美をくれないか?」
「ん――」
大げさにおどけてみせる彼が可愛く見えて、サヨは笑う。それを了と見なしたのだろう。彼はサヨの首の後ろに手を回し、そっと顔を近づける。
そして、月の光を浴びながら、サヨたちは静かな口づけをした。
ぷんとかおるお酒のにおい。
そのにおいだけでくらりと酔ってしまいそうで、サヨはうっとりと目を細める。
無意識にわずかにひらいた唇から、彼の舌をそっと受け入れる。
舌先を触れあわせ、絡めあう。存在を確かめあうように、ゆっくりと。
――あつい……。
ちゅ、ちゅ、と彼はやさしくサヨの舌を絡め取りながら、その大きな手でサヨの頬に触れた。
大きな手のひらで撫でられるのが心地いい。もっと、とねだるように身を乗り出すと、彼はその腕をサヨの背中に回し、力を込める。
前のめりに倒れ込むような形になって、ガッシリとたくましい彼の胸板に寄りかかる。
サヨもまたその細い腕を彼の背中に回して、きゅっと衣を握りしめた。
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