レディバグの改変<W>

乱 江梨

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第二章 過去との対峙編

59.クルシュルージュ家という名の戦場

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 ティンベルの温かい笑顔を前に、毒気を抜かれたクレハだったが、彼女の掃除の手が止まっていることに気づくと、相変わらずの塩対応で返す。


「話は済んだか?この家の構造を把握しに行く。その間に掃除を済ませておけ」
「クレハ様は、本当にユウタロウ様以外に興味が無いのですね……」
「そうだ……と言いたいところだが、某はそこまで欠落した人間では無い。当然、仲間のことは大事に思っているし、ロクヤ殿のことは、それなりに好きだ」


 クレハがユウタロウ以外の人間に、こんなにもストレートな好意を向けるとは想定外で、ティンベルは呆気にとられたように目を見開いた。


「へぇ……ユウタロウ様とロクヤ様は、大分違ったタイプだと思いますが」
「あれは信じられない程の善人だ。あんな善人を無能と罵り、殺そうとする方がどうかしているのだ」
「っ!」


 その時、ティンベルは漸く気付くことができた。決して、表情にも雰囲気にも出さないクレハではあったが、彼は間違いなく、明確に憤慨していたのだ。
 大事な仲間であるロクヤを害そうとする当主と重鎮たちに対して、今にも爆発してしまいそうな、軽蔑とさえ呼べる程の憤りを。


「えぇ……本当に……」


 クレハの本音に対し、ティンベルは深い共感の気持ちを込めて、そう呟くのだった。

 ********

 小屋の掃除を終え、ティンベルは漸く伯爵のいる執務室へと向かっていた。執務室のある建物に入るには、美しい花や植物に囲まれた華やかな庭を通らなければならず、ティンベルは緩やかにその道を進んでいた。

 すると――。


「あら。ティンベル……帰ってきていたのね」
「お母様……」


 ティンベルが道中鉢合わせたのは、クルシュルージュ家の伯爵夫人――ネミウス・クルシュルージュだった。

 ティンベルと同じ背丈に、腰まで伸びた水色の髪を美しく結い上げている。ティンベルの白藍の髪は母親から遺伝したものだ。バッチリと化粧をしているせいか目力が強く、焦げ茶色の瞳はどこか鋭い。だが、娘であるティンベルを見つめる相好は穏やかに見えた。


「はい。ただ今帰りました、お母様。……三日間ほどゆっくりしようかと考えております」


 繕った笑みを浮かべると、ティンベルは帰還の挨拶をした。

 ティンベルは、この母親のことが嫌いだ。母親に限った話ではない。この家に住まう人間、端から端まですべからく。ティンベルは嫌っているのだ。

 理由は当然、アデルを蔑み、迫害し、忌避してきたから。好きになれるわけが無かった。

 目の前に佇む母も、かつて何度となくアデルに手を上げていた。ティンベルの目の前でも手を上げていたので、彼女の目の届かないところでは、一体どれ程アデルを傷つけてきたのか。想像するのも悍ましく、ティンベルでも目を逸らしたくなってしまうほどだ。

 家族に気を許していないからこそ、ティンベルは内に秘めた感情を決して表には出してこなかった。故に、ティンベルの本音など露程も知らないネミウスは、平然と話を続ける。


「そう……帰ってきてくれるのは嬉しいのだけれど、何かあったのかしら?あなた、留学して以来、必要に迫られない限り帰ってこなかったというのに」
「実は……先日、とある犯罪組織に拉致されまして」
「えぇっ!?だ、大丈夫なのですかっ?ティンベルっ……怪我は……」
「いえ。レディバグの方々に助けていただいたので、何の問題もありませんよ」
「レディバグ?」
「お母様は知りませんか?悪魔の愛し子が指揮する組織らしくて……」


 パキッ……と、ネミウスの手にしていた、折り畳んだ状態の扇から、軋むような音が轟いた。大した音量では無いはずなのに、やけに五月蠅く聞こえたのは、彼女の怒りを体現しているからだろう。

 亀裂の入った扇を一瞥したティンベルは「かつてその扇で、アデル兄様の顔をよく叩いていましたね」と、心の内でのみ、ネミウスに対する嫌味を吐き出していた。

 喚き散らしてもおかしくない程憤慨していたネミウスであったが、扇が壊れたことで落ち着きを取り戻したのか、握りしめる手の震えが徐々に治まっていく。


「…………そう。あなたを救ってくれたその組織には感謝したいけれど、二度と悪魔の愛し子なぞに関わっては駄目よ?あれは穢れた力を持つ、穢れた存在なのだから。……ティンベルに近づこうとする愛し子は、あの使用人だけでもこりごりだというのに……」
「……」


 名前も口にしたくないのだろう。ネミウスはアデルのことを、使用人と称した。

 一方、ティンベルは先刻鎌をかけてみたのだが、彼女の返答からは欲しい情報を引き出すことができなかった。
 レディバグの長が悪魔の愛し子であるという情報は、知ろうと思えば誰でも知ることができる。ただ、その愛し子がアデル・クルシュルージュであるという事実は、限られた人間以外、知ることは不可能だ。そしてそれは、クルシュルージュ家の人間も同じこと。
 もし、悪魔の愛し子という単語を出し、真っ先に彼女がアデルの名前を口にすれば、仮面の組織との関与を疑わざるを得なかった。だがネミウスは、レディバグの愛し子とアデルを分けて語っていたので、成果は得られなかった。


(お母様はアデル兄様のことを特に恨んでいる。理由は、アデル兄様が生まれたせいで、お父様からの風当たりが強くなったと勘違いしているから。お父様はアデル兄様が生まれた日、悪魔の愛し子を産んだお母様を責めた。……そもそも、アデル兄様が生を享けたのは、お父様が種を植え付けたことが原因だというのに……。それからお父様は事あるごとにお母様を批難した。それを、お母様はアデル兄様のせいだと思っている。……被害妄想も甚だしいですよ、まったく……。
 アデル兄様の言うように、お父様に兄様を殺す意思が無いとするのなら、お母様の方はどうなのだろうと思い、鎌をかけてみましたが……失敗ですね)


 不意に、ネミウスの右手がティンベルの頬へ伸びる。娘を愛でるように、その頬を撫でるネミウスの表情は憂いに満ちているが、彼女が被害者面をすればするほど、ティンベルの方は白けてしまった。


「私はあなたのことが心配なのです。……ティンベル。どうか、危ないことには首を突っ込まず、くれぐれも注意してくださいね」
「はい。お母様」


 ニッコリと、その感情を笑顔の裏に隠すと、ティンベルはネミウスと別れた。そしてそのまま、父――ルークスのいる執務室へと向かうのだった。

 ********

 重厚感のある扉の前まで辿り着いたティンベルは、小さな拳でその扉を三回ノックする。数秒後室内から「入れ」と、ぶっきら棒なルークスの声が聞こえ、ティンベルはドアノブを回した。


「失礼いたします」
「……あぁ、ティンベルか。良く帰って来たな」
「ただいま帰りました。お父様」


 入口を一瞥して始めて、来訪者が娘であることに気づいたルークスは、顰め面から柔和な表情になった。

 オールバックにされたグレーの髪と綺麗に整えられた顎髭は、当に中年男性といった感じだ。キリっと鋭い眼差しの奥に光るのは、ティンベルと同じ藍色の瞳である。

 ルークスはティンベルを出迎える為、立ち上がろうとするが、ティンベルに「いえ、そのままで大丈夫です」と制止され、彼は再び深く腰掛けた。

 ティンベルは机まで歩を進めると、ルークスの目の前でスッと停止した。


「――それで?今日はどういった用件で帰ってきたのだ?」
「お父様に聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
「アデル兄様のことについてです」


 ガタっ――。

 ルークスが勢いよく立ち上がったことで、ズッシリと聳え立っていた重い椅子が、後方へと倒れてしまい、ティンベルはビクッと肩を震わせた。その一瞬で、ティンベルを見上げる側から、見下ろす側になったルークスは血相を変えており、彼女はキョトンと首を傾げてしまう。


「お父様?どうかなされ」
「二度とその名前を口にするなと、お前が幼少の頃から言い聞かせてきたはずだぞっ!」


 ティンベルの疑問を遮り、声を荒げたルークスだったが、怒号を浴びた彼女は平静を保っており、その対比が凄まじい。

 はぁ、はぁ、と。ルークスが息を切らし、段々と激情を抑えるのを確認すると、ティンベルはそっと口を開く。


「……何故、そこまで怯えるのですか?お父様は昔、アデル兄様のことを甚振っていたではありませんか」
「やめろっ!……っ、私が愚かだったんだ……あんな化け物のっ、化け物の悍ましい力を利用しようと欲をかき、あれをすぐに捨てなかった私がっ、間違っていたっ……」


 ルークスは激しく頭を掻きむしり、自らが犯した過去の愚行を忘れ去りたいようであった。アデルの名前を出して以来、激しく動揺し続けている父を目の当たりにしたティンベルだが、頭の中では終始冷静に推論を組み立てていた。


(ここまで怯えているなんて、流石に想定外ですね……。まぁ、当然の報いではありますが、ここまでアデル兄様に怯えているのなら逆に、一刻も早く殺したいと思うのでは?……いや、アデル兄様を殺せる程の力を我がクルシュルージュ家が保持していないことなど、お父様が一番理解されているはず……危険を冒してまでアデル兄様を殺そうとは思わないか……。まぁ、この反応が全て演技だとすれば、それはそれは素晴らしい役者になれるのでしょうけど)


 ティンベルが頭の中を整理している内に、段々と落ち着きを取り戻したルークスは、恐る恐るその口を再び開く。


「……何故今更、その名前を出す必要がある?」
「実は、私とアデル兄様が実の兄妹であることが、外部に漏れている可能性がありまして」
「!?…………なっ、なんだとっ?そ、そんなはずはないっ!」


 せっかく平静だったというのに、ルークスは再び衝撃で声を荒げてしまった。伯爵家の長男が悪魔の愛し子である事実が世間に知られれば、クルシュルージュ伯爵家の評判は一気に落ちてしまう。ルークスが慌てふためくのも当然ではあった。


「残念ながら事実です。お父様が関与していないことは分かっております。このクルシュルージュ家の長男が悪魔の愛し子だなんて、もし万が一世間に知られれば、困るのはお父様ですもの。ですので今回は、この事実を世間に知られることも厭わないような人物が、クルシュルージュ家の中にいるのか調べに参ったのです。お父様、誰か心当たりのある人物はいらっしゃいませんか?」


 ティンベルはわざと、ルークスに寄り添うような口調で尋ねた。ルークスが関与していないなど、ティンベルは一欠片も思っていない。確かにアデルの存在が世間に知られるのはまずいが、ルークスが仮面の組織に関わり、彼らを信用しているのなら話は変わってくる。
 アデルとティンベルの関係を仮面の組織に売ったとしても、その情報を彼らが外部に漏らさないと高を括っているのなら、ルークスが犯人である可能性も大いにあるのだ。


「そんなもの分かるわけが無いだろうっ……」
「……そうですか。では、最後に一つ質問してもよろしいでしょうか?……安心してください。アデル兄様の件ではありません」
「……なんだ」


 ティンベルのせいで精神的に疲弊しきったルークスは、若干うんざりしたような声音で尋ねた。


「お父様にとって、子供とはどういう存在ですか?」
「……なに?」


 思ってもみなかった問いかけに、ルークスは怪訝そうに尋ね返した。ティンベルは終始にこやかな表情で、それが逆に先の問いの不気味さを際立たせている。


「伯爵家を発展させるための道具ですか?自らの不満を解消する為の玩具ですか?それとも、自らの地位を奪う目障りな存在ですか?」
「何を言っているんだ……ティンベル……。父親に対してっ、何だその口の利き方はっ!」

 バンッ!と、ルークスは力強く机を叩くが、ティンベルは一切怯むことなく反論する。

「だって……お父様はアデル兄様を甚振っていたでは無いですか」
「あれは私の子供などでは無いっ!あれは悪魔だっ、化け物だっ!……あんなゴミクズを粛清して何が悪いというんだっ」
「でもお父様は、ネオン兄様のことを殺しましたよね?」
「…………な、にを……言って……」


 不意打ちで食らったその発言は、ルークスが言葉を失うには十分すぎる爆弾であった。ティンベルにとってそれは、今更示し合わせる必要も無いほど、記憶の中に刻みこまれた真実。
 一方のルークスは「何故そのことを知っているんだ?」という、心の底からの疑問を顔中に貼り付ける。そして、困惑に揺れるその目を、ティンベルから離すことができなかった。

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