レディバグの改変<W>

乱 江梨

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第二章 過去との対峙編

81.その〝過去〟は、如何にして彼らの運命を変えたのか7

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 ……死産?

 母があんなにも待ち望んでいた赤ん坊が、死んだというのか?
 どうして?どうして?どうして……?

 疑問と、目の前が真っ暗になる程の絶望に、ハヤテは立ち尽くす。否、今一番絶望の淵に立たされているのは誰だ?赤ん坊が無事生まれることを望んでいた母親ではないのか?

 どうして自分の母ばかりが、こんな目に遭うんだ。
 ハヤテは、残酷な運命しか与えない神を憎んだ。辛い目に遭った母ばかりが責められるこの環境を恨んだ。
 一人目の子供は忌み色持ち。二人目の子供は生まれた瞬間、その命を散らしてしまった。

 こんな悲劇を用意するなんて、一体母が何をしたというんだ。


「っ……!」


 もしかして、俺のせいだろうか?ハヤテは思った。
 忌み色持ちの自分が生まれ、母は一族中から責められ、後ろ指を指されてきた。そのせいで母は、ハヤテにキツく当たるようになり、仕舞いには手を上げる始末。

 虐待の天罰としてこんな悲劇が訪れたというのなら、全ては自分が生まれてきたことが原因なのではないか?

 思い立った瞬間、ハヤテは顔面蒼白になりながら、全身が粟立つ感覚に震えた。


「ハヤテっ!おいハヤテっ!」
「っ!……っ?……ユウ、タロウ……?」


 逼迫した呼び声をきっかけに目を瞬きさせると、ハヤテは当惑気味にユウタロウを見上げた。ユウタロウもロクヤも、酷く心配した様子でハヤテを見つめており、そのおかげか、少しずつ呼吸が等間隔になり、ハヤテは落ち着きを取り戻してきた。


「大丈夫か?」
「あ、あぁ……」
「目の焦点合ってねぇぞ」
「ハヤテくん……本当に大丈夫?」
「すまない……気が動転してしまって……」


 二人の呼び声のおかげで段々と視野が広がって来たハヤテは、キョロキョロと辺りを見回すと、死産の件を知らせた重鎮がいなくなっていることに気づく。


「そういえば……あの人は?」
「なんか忙しそうにどっか行っちまったぞ」
「そうか……」


 ボソッと呟くと、ハヤテは我に返り、慌てた様子で立ち上がる。思わず二人は当惑気味にハヤテを見上げるが、彼の方はそれどころではなく、忙しなく辺りを見回している。


「おい、ハヤテ?」
「早く……早くっ、お母さんの所に行かないとっ」
「おい待てよっ」


 バシッ――。その場を立ち去ろうとするハヤテの腕を掴むと、ユウタロウは彼を落ち着かせる為にわざと強い口調で言った。するとハヤテは、今にも泣きそうな困惑顔で振り向き、ユウタロウは微かな罪悪感を抱いてしまう。


「なに……?」
「今行ったところで、バタバタしてて入れてくれねぇんじゃねぇの?お前の母ちゃんだって今、心が不安定な状態だろうし……。火に油を注ぐ様なもんだぞ」
「そう、かもしれないが……」


 出産の流れや、死産した場合の対応など、子供のハヤテたちには分からないことだらけであるが、今母親の自室の周辺が騒がしくなっていることだけは理解できた。
 待ち望んでいた赤ん坊が死んでしまった今、母に疎まれている自分が行ったところで逆効果にしかならない。そんなことはハヤテも理解していた。

 それでも。それでも、居ても立っても居られなかったからこそ、ハヤテは立ち上がったのだ。

 ********

 ユウタロウの制止を振り切って、母がいるであろう彼女の自室に向かうハヤテだったが、その日は結局、母に会うことは出来なかった。

 母親の部屋周辺には、見知らぬ人間も数名いたので、恐らくその人たちが、母親の出産に立ち会った助産師や医者だったのだろう。
 母親と面会させて欲しいと、近くにいた重鎮に懇願したハヤテだったが「今は面会できる状態じゃない」「子供が邪魔をするな」と、冷たくあしらわれてしまった。

 諦めて授業に戻ろうとしたハヤテの耳には、死産の原因を医者に問い詰める重鎮たちの濁声が聞こえてきて、暗澹たる空気に窒息してしまいそうになった。

 ハヤテが母親に会うことが出来たのは、それから三日後のことである。

 ********

 ドクドク――。
 緊張と不安で激しく拍動する心臓を胸の上から押さえると、ハヤテは深く深く深呼吸をした。

 襖一つ隔てた向こうには、赤ん坊を失ったばかりの母親がいる。
 まず、何と声を掛ければいいのか。そもそも、母はハヤテが口を開くことを許してくれるのか?また、いつものように物をぶつけられて追い出されるだけではないのか?

 考えても仕方ない。今はただ、母の様子を確認できればそれでいい。ハヤテは自分にそう言い聞かせると、悪い思考を振り払うように首を横に振った。

 意を決すると、ハヤテは襖に手を伸ばす。だが、ハヤテが襖を開くよりも先に、室内から襖は開かれた。思わずハヤテは、ビクッと肩を震わせてしまう。


「っ……」
(……お父さん?)


 母親の部屋から退出したのはハヤテの父親で、お互いに目を丸くした。父親はハヤテの存在に気づくと、どこか居心地の悪そうな表情で目を逸らし、そのまま立ち去ってしまった。

 だが、父の気まずそうな表情は、ハヤテにとって見慣れた物であった。そしてハヤテは、昔からあの父のことが嫌いだった。

 何故ならあの父は、ハヤテが生まれてから一度も父親らしいことをした試しがないから。子育ては全て母親に任せきりで、ハヤテや母親が一族内で忌避されている事実を知っても、素知らぬ顔で一切関わろうとはしなかった。にも拘らず、忌み色持ちのハヤテを産んだ母のことを、父はいつも口汚く責めており、彼女がハヤテに対して辛辣になってしまう原因の一つでもあった。

 家族に関わろうともしない癖に、文句ばかり一人前に語る父のことを、ハヤテも自然と避けるようになっていたのだ。

 また父が母を傷つけるようなことを言ったのではないか?
 ハヤテは居ても立っても居られなくなり、急いで襖を開いた。


「っ……」


 率直に言って、部屋の中は酷い有様であった。ゴミが散乱し、部屋の隅には空になった大量の酒瓶が転がっていた。完全に閉め切っているせいで、昼だというのに室内は暗澹としている。

 ぐちゃぐちゃになった布団の上に、母はいた。彼女を背を向けており、ハヤテの来訪に気づいているのかどうかも不明瞭である。そして、横座りの体勢で両手を布団の上につく母は、どこか項垂れているようにも見えた。

 ハヤテは少しずつ、重い足取りで部屋を進んで行く。


「お母さん……。身体は、大丈夫ですか……?」
「……」


 ほんの少し声を震わせながら、勇気を振り絞ってハヤテは尋ねたが、母からの返答は無かった。ボサボサに絡まった髪も微動だにせず、ハヤテは一瞬たじろぐ。

 ふと視線を部屋の隅に移すと、ハヤテはあることに気づいた。大量に転がっていた酒瓶は、例え暴飲暴食したとしても、ここ数日で飲み切れる量ではない。つまり彼女は、赤ん坊が死産する以前から――赤子がお腹の中にいる時から、過度な飲酒を繰り返していたのだ。


「もしかして……妊娠中にお酒を飲んでいたんですか?」
「っ」


 信じられないような声で、ハヤテは尋ねた。信じられないというよりも、信じたく無かったのだ。彼女は誰よりも、新しい我が子の誕生を心待ちにしていたから。

 ハヤテが尋ねた刹那、母親はピクっと肩を震わせて反応した。その内に、苛立ちを抑えきれないようにガタガタと歯を鳴らすと、震える唇から声を発する。


「……さいわね」
「えっ?」
「五月蠅いわねっ!!」
「っ……!」


 キッと、涙で滲んだ鋭い眼でハヤテを睨み据えると、彼女は昂った感情のまま怒鳴り声を上げた。同時に彼女は、傍にいたハヤテの首元に手を伸ばす。驚きと恐怖で身体が竦んでしまったハヤテは、それを避けることが出来なかった。

 母親はハヤテの首を片手で乱暴に掴むと、自身の布団に彼を押し倒し、全体重をかけて彼の首をきつく締めあげた。


「ぐっ……」
「全部っ、ぜんぶっ……全部アンタのせいよっ!アンタさえ生まれてこなければっ……」


 ハヤテの首を絞める手が、片手から両手に変わり、ハヤテは苦悶の表情を浮かべた。だが、ハヤテの首を絞めているはずの母親の方が、今にも壊れてしまいそうな表情で彼を見下ろしており、ポタっ……と、その雫がハヤテの頬に落ちる。

 彼女を苦しめる魔物から解放してやりたくて、ハヤテは苦し紛れに声を絞りだす。


「ぐ、ぁっ…………お、かぁ……」
「違う違う違うっ!!私はアンタの母親なんかじゃないっ!……そうよ……そうじゃないといけないのよっ!」


 激しく首を横に振るその姿がハヤテには、彼女が自分自身を否定しているように見えた。まるで、自分に母親を名乗る資格など無いと嘆いているようで、ハヤテは胸を締め付けられる。


「お前が忌み色持ちとして生まれてきてから、私の人生滅茶苦茶よっ!一族中に後ろ指を指されてっ……あの子が死んでしまったのだってっ、結局はお前のせいなのよっ!!お前が生まれさえしなければっ、私……こんな風になって無かった!子供がお腹にいるのにお酒なんて飲まなかった!でもっ、でもっ……」


 あぁ、そうか――。
 ハヤテは悟った。

 母が今、我が子を手にかけようとしているのも。
 母が今、苦しそうに涙を流しているのも。
 母が変わってしまったのも。母の赤ん坊が死んでしまったのも。

 ――母を苦しめる全て、自分のせいなんだ。


「っ……」


 首を絞める母の手から、そっと自らの手を離すと、ハヤテは抵抗を止めた。もう、嫌になってしまったのだ。

 母を苦しめることしか出来ない自分にも。忌み色持ちとして生まれてきてしまった自分にも。母の為に何もしてやれない自分にも。

 母を傷つけることしか出来ないのなら、死んだ方がいい。ハヤテは本気でそう思ってしまい、思考がそこで止まってしまった。
 ハヤテは、気づけなかったのだ。もし、ハヤテがここで死ねば、母親が人殺しになってしまうということに。


「な……」


 抵抗をやめたハヤテを目の当たりにし、彼女は困惑の声を漏らした。どうして反撃してこないんだ?と、首を絞める力がほんの少し緩んでしまう程。
 ハヤテは操志者だが、母親はただの人間。子供と大人の力の差は、操志者というだけでいとも簡単に埋められてしまう。ハヤテがその気になれば、彼女の拘束など簡単に抜け出せるはずなのに、どうしてそれをしないのか。彼女には分からなかった。

 母親がそれを問いただそうとした、その時だった。


「ハヤテに何してやがんだこのクソババァ!!!」
「っ!?」


 突然の来訪者に狼狽えた彼女は、目を見開いて襖の方を振り向いた。そこには血相を変え、怒りのあまり凄まじい剣幕になっているユウタロウがおり、彼は殴り掛かる勢いで彼女の身体を突き飛ばした。


「キャっ……」


 身体を押され、畳の上に倒れ込んだ母親は小さな悲鳴を上げるが、ユウタロウには彼女に構っている暇など無かった。


「ゴホッ!ゴホッ……ケホッ……ケホッ……」
「ハヤテ!ハヤテ!大丈夫か?しっかりしろハヤテ!」


 ユウタロウはハヤテの身体を抱えると、懸命に呼びかけた。
 ハヤテの首には痛々しい手形が赤黒く残っており、思わずユウタロウは悔しげに唇を噛みしめる。

 母親に文句の一つでも言わなければ気が済まず、ユウタロウは顰めた顔で母親を睨みつけるが、そんな彼を制止するように、ハヤテは彼の腕を弱々しく掴んだ。微弱な感触だけで、母親に対する憤怒など吹き飛び、ユウタロウは縋るようにハヤテを見下ろす。

 ハヤテは、止めてくれと言わんばかりに首を振った。
 ――母を責めないでやってくれ。
 ――事を荒立てないでくれ。
 そんなハヤテの思いが痛いほど伝わり、ユウタロウは言葉を失う。


「……ごめ、なさい……お母さん……」


 掠れた声で紡がれたその言葉は、ユウタロウの胸を痛いほど締め付けた。そして母親は、当惑した様子でハヤテを見つめている。その瞳には、先刻までの憎悪や悲痛さは感じられず、ただただビー玉のように揺れていた。


「俺がっ、忌み色持ちに、生まれてきたせいで……迷惑かけて、ごめんなさいっ……。辛い思いさせて、ごめんなさいっ……生まれてきてごめんなさいっ!」


 ユウタロウの腕の中、ハヤテは嗚咽交じりに陳謝した。あまりにも悲痛な謝罪に、ユウタロウはじわっと涙を滲ませ、ハヤテにこんなことを言わせる全てを憎んだ。

 剥き出しの感情をぶつけられた母は、茫然自失とした様子で目を丸くしていた。ハヤテがそんな風に思っているとは露程も知らず、当惑してしまったのだ。

 泣きじゃくる我が子の姿を見たのは赤子の時以来で、彼女は漸く、ハヤテがまだ六才の幼子であることを思い知らされる。
 ハヤテは昔から聞き分けがよく、一度指摘されたことは二度と犯さず、我が儘を言ったことなんて一度も無かった。だから彼女は、そんなハヤテに甘えてしまっていたのだ。


「おれっ……お母さんを困らせたくて生まれてきたわけじゃないのにっ……!
 ……お母さんっ。……俺、どうすればいいのっ?どうすればっ、お母さん……笑ってくれる?」
「っ……」


 刹那、彼女は涙を滲ませ、息を呑んだ。

 ハヤテはずっと、自問自答し続けていた。

 自分は、期待されなくなるのが嫌なのか?母親から愛されないことが不満なのか?
 いや、違う……俺は――。

 ――ハヤテはただ、自分が母親を笑顔にしたかっただけなのだ。


「何をすればっ、お母さんは幸せになれるのっ?……分からない……わからないっ!全然分からないよっ!俺、まだ子供だからっ……分からないんだっ。……うぅっ……。
 ……俺が死ねば、お母さんは……楽に、なるの?」


 虚ろなその表情はあまりにも悲痛で、ポロポロと零れる涙もどこか機械的である。それが自然であるかのように、ツーっと涙を流すと、母親は力無く首を横に振った。

 その時、彼女は初めて、漸く理解した。
 誰よりも、彼女のことを思っていてくれたのは。彼女のことを気遣っていてくれたのは。彼女の為に何が出来るか、常に考え続けてくれたのは――。

 この世でただ一人。彼女が傷つけ続けてきた、たった一人の我が子なのだということに。

 ――だが、気づくのが遅すぎた。


「ちがう……ちがうの……。ハヤテ……私っ」


 もう、元には戻らないかもしれない。当たり前の、ありふれた親子になるのは難しいかもしれない。

 それでも、このままではいけないと。駆り立てられた思いのまま、声を震わせて伝えようとした、その時――。


「――これは一体、どういうことだ?」


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