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第二章 過去との対峙編
106.彼が陽の光を浴びる時-序章-5
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「まさか……またしてもこの場所に戻ってくるとは、思いもしなかったのだ」
ゼルド王国にその本邸をかまえる、クルシュルージュ伯爵家にて、アデルは苦笑混じりに呟いた。そこはかつて、幼く無知であった彼を傷つけ、痛めつけ、嬲り、ありとあらゆる恥辱を味合わせてきた場所。そしてアデルは、それが苦痛であるということすら理解できないほどに無知であった。
それを教えてくれたのは、この世にただ一人。
エルという存在が無ければ、アデルがこうしてこの地に舞い戻って来ることはなかっただろう。エルのおかげで、アデルはクルシュルージュ伯爵家と正しい向き合い方ができたから。
「それにしても、まさかあの女に、こんなにも大胆な計画を企てるだけのお度量があったとは……少々意外なのだ」
あの女。アデルがそう呼ぶのは、彼の実の母――ネミウス・クルシュルージュだ。彼がこの真実を知ったのはほんの数分前。
その際語られたティンベルの推測を思い起こしつつ、アデルは本邸へ忍び込む算段を付ける。それというのも、クルシュルージュ伯爵家の隠し通路や抜け道などの知識に関して、アデルは類稀なるものを持っていたのだ。
何故ならアデルは、伯爵家の人間だけでなく、領民にもその姿を目撃されることなく、家と森を行き来することを、常に自らに要求してきたからだ。領民や伯爵家の人間に見つかれば、一体何をされるか分かったものではなかった。
もう十年以上昔の記憶でも、歩き出してしまえば昨日のことのように思い出すものである。アデルは迷うこと無く、己を蔑ろにしてきた母親の元へ向かうのだった。
********
ネミウス・クルシュルージュ。
彼女が今回の計画を企てたのは、一体いつのことだったのだろうか。
悪魔の愛し子であるアデルが産まれ、伯爵――ルークスから白い目で見られ始めた頃だろうか?
彼女にとってアデルはきっと、疫病神以外の何者でもなかっただろう。生まれてきた赤子に罪はないなどと、真っ当な思考ができるほど彼女の精神状態は健全でなかった。
それとも、アデルの弟にあたるクルシュルージュ伯爵家次男――ネオンが産まれてきた頃だろうか。
ネオンの誕生は彼女にとって、まさしく希望の光だった。悪魔の愛し子でも、忌み色持ちでもない、健康な男児。それだけで、彼女にとって。そしてクルシュルージュ伯爵家にとってネオンは重要な存在であった。
まともな跡取りが生まれてきたことで、ネミウスに対する伯爵の態度は緩和され、彼女はアデルへの嫌悪感に反比例するように、ネオンを溺愛した。
だがやはり――。
そんな愛するネオンが、突然姿を消してしまった、運命のあの日からだろうか?
********
目を閉じれば、今すぐにでもあの日の出来事が脳裏に浮かぶほど、その記憶はネミウスの頭に刻み込まれている。
『――ネオンが、失踪した……?』
現実を受け入れたくないという心の叫びが滲み出るように震えた声は、オブラートに包み隠された事実を復唱した。
その事実に、自分はこんなにも衝撃を受け、狼狽え、とても立ってはいられない状態だというのに、その事実を突きつけてきた男は、いつもの平然とした顰め面でいることが、ネミウスにとっては不快でしかなかった。
『あぁ。伯爵家の後継者に相応しい人間になるようにと、あれ程手をかけてやったというのに……厳しい教育に耐え切れず逃げだしたのだろう』
『そんなっ……もちろん、捜索しているのですよねっ?』
『一応捜索隊は出すが、一週間経っても見つからなかった場合はあきらめることだな』
『なっ……何を仰っているのですかっ!ネオンはこのクルシュルージュ伯爵家にようやく生まれてきてくれた待望の長男なのですよっ!?そのネオンを簡単に諦めるなどっ、伯爵家にとっても損失でっ』
『我が伯爵家には、ティンベルがいるではないか』
『えっ……』
思わずネミウスの口からは、呆けた声が漏れ出てしまう。今は大事な息子――ネオンの話をしているというのに、何故ここでティンベルが出てくるのか。ネミウスは一瞬、理解するまでの思考を停止させた。
そして気づく。己と伯爵との間では、決定的な解釈の違いがあることに。
『ティンベルはあのバカ息子の数倍……いや?数十倍も知的で賢い子に成長するだろう。ティンベルは能力者だからな。これ以上ない跡取り候補だ』
『で、ですがっ……次期伯爵は、通常男系後継者から選出され……』
『それは何事もなかった場合の話だろう。今は状況が異なる。……そもそも、ネオンが失踪したのは、己より能力のあるティンベルを妬んだ結果だろう。自らが次期伯爵として期待されていないことを悟ったのではないか?』
彼女と彼との間に生じた、決定的な解釈の違い――それは、ネオンのことを我が子として捉えているか、後継者として捉えているかという点であった。
『なぜ……そのように冷静でいられるのですかっ。ネオンのことが心配ではないのですかっ!?』
『心配?なぜ私が心配などする必要がある?恥知らずにもこの伯爵家から逃げ出したような人間は、もはや息子でも何でもない。子でもない人間のことを心配する暇など、生憎持ち合わせていないのでな』
『っ……!』
衝撃と悲憤のあまり、ネミウスは言葉を失った。
この男は最初から、子供たちのことを次期伯爵候補という道具としてしか見ていなかった。そして、その道具として機能しないアデルは、文字通り失敗作だったのだろう。
子供たちのことも、彼らを産み落としたネミウスのことも。同じ人間だという意識すらない。
その事実に、当初ネミウスはただただ絶望し、項垂れるしかなかった。
だが、ネオンの失踪を調べるうち、ルークスの執事が情報を握っていると知ったネミウスは、その執事を問い詰め、ネオンが伯爵の命によって殺された事実を知った。
その瞬間、ネミウスの心を支配していた哀傷は憤怒に変わり、彼女はルークスに対する復讐を決意したのだった。
********
「ふふっ……」
全身が粟立つ程の不気味な笑い声が、じっとりと部屋に木霊する。この日、ネミウスはめっぽう機嫌が良かった。
理由はただ一つ。ずっとずっと胸の奥底で燻っていた憎しみ、そして復讐心が、漸く報われてくれたからだ。
ルークスの評判を徹底的に落とし、もう二度と陽の光の下を歩けなくなるまで貶め、彼を社会的に抹殺するという計画は、見事成功を収めた。
こんなに愉快なことはないだろう。
半分は自分の責任だというのに、アデルが産まれた原因を全てネミウスに負わせたあの男を。
愛しい愛しいネオンを、ティンベルを殺そうとしたという、そんなちんけな理由で殺めたあの男を。その事実を長年ネミウスに隠し、素知らぬ顔で今までのうのうと生きてきたあの男を、漸く地獄に叩き落とすことができたのだから。
だが彼女は知らなかった。
その目的を果たす過程で、己がとんでもない相手に睨まれざるを得ない状況に陥ってしまったということに。
ティンベルがアデルたちにXの正体を告げていた頃。クルシュルージュ家には最低限の人間しかいなかった。それというのも、ネミウスの計画によって伯爵家は大混乱に陥っており、当事者であるルークスは各方面へ説明、もとい言い訳をする為に家を留守にしていたのだ。
妙な静けさが逆に暑苦しい部屋の中、一人愉悦に浸るネミウスの元へ、その影は音もなく忍び寄る。
「――楽しそうだね、おばさん」
「っ!?」
耳から脳にかけて、鳥肌が立つようなざわめきが起きる。心底愉し気と言えば聞こえはいいが、実際は緊張感のない伸びた声だ。若い女のだらしのない声は、ネミウスの意表を突くという点において十分すぎる働きをした。
突如、何の前触れもなく耳元で囁かれたネミウスは、形容しがたい不快感を追い払うように立ち上がり、後ろを振り返った。
そこに佇んでいたのは、ネミウスの全く知らない一人の女――仮面の組織の一員である、アイシャ・サランドラだった。
仮面の組織と一時は協定を結んでいたネミウスも、彼女のことは知らず、困惑と不安が一気に押し寄せてくる。
「あなたっ、一体どうやってここまで……。誰かっ!誰かいないのっ?」
「無駄だ」
屋敷に残っているはずの数名の使用人たちに向かって甲高い声を上げるネミウスだったが、そんな彼女の問いかけは呆気なく遮られる。
アイシャの後ろ――部屋の扉から姿を現したのは、彼女の叔父でもあるメギド・サランドラだった。
彼によって声を遮られたにもかかわらず、メギドを目の当たりにしたネミウスは、ほんの少しだけ緊張の解けた表情を見せる。
「あら……あなただったの。ということは、この失礼な娘はあなたの仲間かしら?」
「あぁ。儂の姪でな」
先刻までの張りつめた空気感が一気に解ける程度に、ネミウスとメギドは知った仲であった。何せ、ネミウスが仮面の組織に伯爵家の情報を提供したきっかけは、メギドに協定を結ぶことを提案されたことにあったから。
「それで。今日は何の用かしら?前にも話したけれど、もうあなたたちが欲するような情報は持っていないわよ……」
再び彼らに背を向け話す中、ネミウスは微かな違和感を覚えた。それは、奥歯に何かが挟まっているような些細な心地の悪さで、それでも気になってしまえば最後、無視など到底不可能な違和感であった。
先刻、使用人たちに呼びかけたネミウスに対して、メギドが冷徹に放った言葉。
「無駄」とは、一体何が無駄なのか。ネミウスは追求しようと彼らの方を振り向いた。
刹那、冷たく重厚な狙撃銃の銃口が、ネミウスの視界の中心を占拠した。思わず目を点にし、狼狽えるネミウス。その狙撃銃を構えるアイシャは、相も変わらず緩んだ相好のままだった。
「っ……!?……これは一体、何の真似なのかしら」
銃口を向けられながらも、ネミウスが平静を失わずにいられたのは、人を殺す寸前とは思えないアイシャの表情と、その引き金に指がかけられていないことが起因していた。
「いやぁ、ごめんねおばさん。おばさんが本気で成し遂げたいことと、私たちの目的は相性が良くなかったみたい。ほら、よくあるでしょ?性格の不一致で別れる夫婦とか恋人同士とか」
「?……何を言っているのかよくわからないのだけど」
「要するに、お前は儂らにとって不利益となる行動を起こしたということだ」
「っ!」
現実感のないふわふわとしたアイシャの語り口調とは対照的に、地響きのように低いメギドの声は、ネミウスに危機感を抱かせる役割としては、十分すぎる働きをした。
彼の解説でようやく事態の深刻さを理解したネミウスは一歩後退るが、華美なドレッサーがその行く手を阻む。
「まさか……私を殺すつもり?」
「悪魔の愛し子を伯爵が虐待していたという情報を世間に公表したのはやりすぎだったな。あれでは悪魔の愛し子を憐れむ人間も出てきてしまうだろう……。まぁ、これに関しては確たる証拠もないからな。お前のでっち上げだと世間に公表すればいいだけのことだ」
悪魔の愛し子に対する虐待など、誰であろうと容易に想像のできること。それこそ、証拠など必要にすらならないほどに。そのことを、メギドがあえて口に出すことはなかった。
「それで……口封じに私を殺すということね」
「……アイシャ。頼んだぞ」
「あいあいさー」
ネミウスの問いかけに答えないまま、メギドは彼女に背を向け部屋を後にしようとする。そんなメギドの背に敬礼したアイシャは、能天気な声で返事をした。
一方のネミウスは、一人取り残されたまま話が一方的に進んでいく状況に当惑する。同時に、死への恐怖に心臓の鼓動は高まっていった。
アイシャが引き金に指をかけ、メギドがドアノブに手をかける。恐怖のあまり声も出せないネミウスを嘲笑うように、狙撃銃の引き金は引かれた。
バンッ!!
耳を劈くような発砲音の後に聞こえるのは、血飛沫の音と重量約五十キロの物体が倒れこむ衝撃音のはずだった。しかし――。
キンっ!!
「「っ!?」」
まるで、彼らの計画を阻む合図のようだった。
発砲された弾丸が弾かれる音に目を見開くと、メギドは退出を放棄して後ろを振り向く。
彼の瞳に映るのは、自身同様、想定外の出来事に当惑するアイシャの背中。怒涛の展開に目を回し、尻餅をつくネミウスの姿。
そして――。
「っ……」
彼ら――仮面の組織の人間が、その姿を目の当たりにするだけで、こみ上げてくる涙を禁じ得ない、美しい黒髪と赤眼の男。
弾丸をその剣ではねのけた侵入者――アデルは、射貫くような眼差しで彼らを捉え、感嘆の声を漏らすのだった。
「まったく……ティンベルの先見眼には驚かされるのだ」
ゼルド王国にその本邸をかまえる、クルシュルージュ伯爵家にて、アデルは苦笑混じりに呟いた。そこはかつて、幼く無知であった彼を傷つけ、痛めつけ、嬲り、ありとあらゆる恥辱を味合わせてきた場所。そしてアデルは、それが苦痛であるということすら理解できないほどに無知であった。
それを教えてくれたのは、この世にただ一人。
エルという存在が無ければ、アデルがこうしてこの地に舞い戻って来ることはなかっただろう。エルのおかげで、アデルはクルシュルージュ伯爵家と正しい向き合い方ができたから。
「それにしても、まさかあの女に、こんなにも大胆な計画を企てるだけのお度量があったとは……少々意外なのだ」
あの女。アデルがそう呼ぶのは、彼の実の母――ネミウス・クルシュルージュだ。彼がこの真実を知ったのはほんの数分前。
その際語られたティンベルの推測を思い起こしつつ、アデルは本邸へ忍び込む算段を付ける。それというのも、クルシュルージュ伯爵家の隠し通路や抜け道などの知識に関して、アデルは類稀なるものを持っていたのだ。
何故ならアデルは、伯爵家の人間だけでなく、領民にもその姿を目撃されることなく、家と森を行き来することを、常に自らに要求してきたからだ。領民や伯爵家の人間に見つかれば、一体何をされるか分かったものではなかった。
もう十年以上昔の記憶でも、歩き出してしまえば昨日のことのように思い出すものである。アデルは迷うこと無く、己を蔑ろにしてきた母親の元へ向かうのだった。
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ネミウス・クルシュルージュ。
彼女が今回の計画を企てたのは、一体いつのことだったのだろうか。
悪魔の愛し子であるアデルが産まれ、伯爵――ルークスから白い目で見られ始めた頃だろうか?
彼女にとってアデルはきっと、疫病神以外の何者でもなかっただろう。生まれてきた赤子に罪はないなどと、真っ当な思考ができるほど彼女の精神状態は健全でなかった。
それとも、アデルの弟にあたるクルシュルージュ伯爵家次男――ネオンが産まれてきた頃だろうか。
ネオンの誕生は彼女にとって、まさしく希望の光だった。悪魔の愛し子でも、忌み色持ちでもない、健康な男児。それだけで、彼女にとって。そしてクルシュルージュ伯爵家にとってネオンは重要な存在であった。
まともな跡取りが生まれてきたことで、ネミウスに対する伯爵の態度は緩和され、彼女はアデルへの嫌悪感に反比例するように、ネオンを溺愛した。
だがやはり――。
そんな愛するネオンが、突然姿を消してしまった、運命のあの日からだろうか?
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目を閉じれば、今すぐにでもあの日の出来事が脳裏に浮かぶほど、その記憶はネミウスの頭に刻み込まれている。
『――ネオンが、失踪した……?』
現実を受け入れたくないという心の叫びが滲み出るように震えた声は、オブラートに包み隠された事実を復唱した。
その事実に、自分はこんなにも衝撃を受け、狼狽え、とても立ってはいられない状態だというのに、その事実を突きつけてきた男は、いつもの平然とした顰め面でいることが、ネミウスにとっては不快でしかなかった。
『あぁ。伯爵家の後継者に相応しい人間になるようにと、あれ程手をかけてやったというのに……厳しい教育に耐え切れず逃げだしたのだろう』
『そんなっ……もちろん、捜索しているのですよねっ?』
『一応捜索隊は出すが、一週間経っても見つからなかった場合はあきらめることだな』
『なっ……何を仰っているのですかっ!ネオンはこのクルシュルージュ伯爵家にようやく生まれてきてくれた待望の長男なのですよっ!?そのネオンを簡単に諦めるなどっ、伯爵家にとっても損失でっ』
『我が伯爵家には、ティンベルがいるではないか』
『えっ……』
思わずネミウスの口からは、呆けた声が漏れ出てしまう。今は大事な息子――ネオンの話をしているというのに、何故ここでティンベルが出てくるのか。ネミウスは一瞬、理解するまでの思考を停止させた。
そして気づく。己と伯爵との間では、決定的な解釈の違いがあることに。
『ティンベルはあのバカ息子の数倍……いや?数十倍も知的で賢い子に成長するだろう。ティンベルは能力者だからな。これ以上ない跡取り候補だ』
『で、ですがっ……次期伯爵は、通常男系後継者から選出され……』
『それは何事もなかった場合の話だろう。今は状況が異なる。……そもそも、ネオンが失踪したのは、己より能力のあるティンベルを妬んだ結果だろう。自らが次期伯爵として期待されていないことを悟ったのではないか?』
彼女と彼との間に生じた、決定的な解釈の違い――それは、ネオンのことを我が子として捉えているか、後継者として捉えているかという点であった。
『なぜ……そのように冷静でいられるのですかっ。ネオンのことが心配ではないのですかっ!?』
『心配?なぜ私が心配などする必要がある?恥知らずにもこの伯爵家から逃げ出したような人間は、もはや息子でも何でもない。子でもない人間のことを心配する暇など、生憎持ち合わせていないのでな』
『っ……!』
衝撃と悲憤のあまり、ネミウスは言葉を失った。
この男は最初から、子供たちのことを次期伯爵候補という道具としてしか見ていなかった。そして、その道具として機能しないアデルは、文字通り失敗作だったのだろう。
子供たちのことも、彼らを産み落としたネミウスのことも。同じ人間だという意識すらない。
その事実に、当初ネミウスはただただ絶望し、項垂れるしかなかった。
だが、ネオンの失踪を調べるうち、ルークスの執事が情報を握っていると知ったネミウスは、その執事を問い詰め、ネオンが伯爵の命によって殺された事実を知った。
その瞬間、ネミウスの心を支配していた哀傷は憤怒に変わり、彼女はルークスに対する復讐を決意したのだった。
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「ふふっ……」
全身が粟立つ程の不気味な笑い声が、じっとりと部屋に木霊する。この日、ネミウスはめっぽう機嫌が良かった。
理由はただ一つ。ずっとずっと胸の奥底で燻っていた憎しみ、そして復讐心が、漸く報われてくれたからだ。
ルークスの評判を徹底的に落とし、もう二度と陽の光の下を歩けなくなるまで貶め、彼を社会的に抹殺するという計画は、見事成功を収めた。
こんなに愉快なことはないだろう。
半分は自分の責任だというのに、アデルが産まれた原因を全てネミウスに負わせたあの男を。
愛しい愛しいネオンを、ティンベルを殺そうとしたという、そんなちんけな理由で殺めたあの男を。その事実を長年ネミウスに隠し、素知らぬ顔で今までのうのうと生きてきたあの男を、漸く地獄に叩き落とすことができたのだから。
だが彼女は知らなかった。
その目的を果たす過程で、己がとんでもない相手に睨まれざるを得ない状況に陥ってしまったということに。
ティンベルがアデルたちにXの正体を告げていた頃。クルシュルージュ家には最低限の人間しかいなかった。それというのも、ネミウスの計画によって伯爵家は大混乱に陥っており、当事者であるルークスは各方面へ説明、もとい言い訳をする為に家を留守にしていたのだ。
妙な静けさが逆に暑苦しい部屋の中、一人愉悦に浸るネミウスの元へ、その影は音もなく忍び寄る。
「――楽しそうだね、おばさん」
「っ!?」
耳から脳にかけて、鳥肌が立つようなざわめきが起きる。心底愉し気と言えば聞こえはいいが、実際は緊張感のない伸びた声だ。若い女のだらしのない声は、ネミウスの意表を突くという点において十分すぎる働きをした。
突如、何の前触れもなく耳元で囁かれたネミウスは、形容しがたい不快感を追い払うように立ち上がり、後ろを振り返った。
そこに佇んでいたのは、ネミウスの全く知らない一人の女――仮面の組織の一員である、アイシャ・サランドラだった。
仮面の組織と一時は協定を結んでいたネミウスも、彼女のことは知らず、困惑と不安が一気に押し寄せてくる。
「あなたっ、一体どうやってここまで……。誰かっ!誰かいないのっ?」
「無駄だ」
屋敷に残っているはずの数名の使用人たちに向かって甲高い声を上げるネミウスだったが、そんな彼女の問いかけは呆気なく遮られる。
アイシャの後ろ――部屋の扉から姿を現したのは、彼女の叔父でもあるメギド・サランドラだった。
彼によって声を遮られたにもかかわらず、メギドを目の当たりにしたネミウスは、ほんの少しだけ緊張の解けた表情を見せる。
「あら……あなただったの。ということは、この失礼な娘はあなたの仲間かしら?」
「あぁ。儂の姪でな」
先刻までの張りつめた空気感が一気に解ける程度に、ネミウスとメギドは知った仲であった。何せ、ネミウスが仮面の組織に伯爵家の情報を提供したきっかけは、メギドに協定を結ぶことを提案されたことにあったから。
「それで。今日は何の用かしら?前にも話したけれど、もうあなたたちが欲するような情報は持っていないわよ……」
再び彼らに背を向け話す中、ネミウスは微かな違和感を覚えた。それは、奥歯に何かが挟まっているような些細な心地の悪さで、それでも気になってしまえば最後、無視など到底不可能な違和感であった。
先刻、使用人たちに呼びかけたネミウスに対して、メギドが冷徹に放った言葉。
「無駄」とは、一体何が無駄なのか。ネミウスは追求しようと彼らの方を振り向いた。
刹那、冷たく重厚な狙撃銃の銃口が、ネミウスの視界の中心を占拠した。思わず目を点にし、狼狽えるネミウス。その狙撃銃を構えるアイシャは、相も変わらず緩んだ相好のままだった。
「っ……!?……これは一体、何の真似なのかしら」
銃口を向けられながらも、ネミウスが平静を失わずにいられたのは、人を殺す寸前とは思えないアイシャの表情と、その引き金に指がかけられていないことが起因していた。
「いやぁ、ごめんねおばさん。おばさんが本気で成し遂げたいことと、私たちの目的は相性が良くなかったみたい。ほら、よくあるでしょ?性格の不一致で別れる夫婦とか恋人同士とか」
「?……何を言っているのかよくわからないのだけど」
「要するに、お前は儂らにとって不利益となる行動を起こしたということだ」
「っ!」
現実感のないふわふわとしたアイシャの語り口調とは対照的に、地響きのように低いメギドの声は、ネミウスに危機感を抱かせる役割としては、十分すぎる働きをした。
彼の解説でようやく事態の深刻さを理解したネミウスは一歩後退るが、華美なドレッサーがその行く手を阻む。
「まさか……私を殺すつもり?」
「悪魔の愛し子を伯爵が虐待していたという情報を世間に公表したのはやりすぎだったな。あれでは悪魔の愛し子を憐れむ人間も出てきてしまうだろう……。まぁ、これに関しては確たる証拠もないからな。お前のでっち上げだと世間に公表すればいいだけのことだ」
悪魔の愛し子に対する虐待など、誰であろうと容易に想像のできること。それこそ、証拠など必要にすらならないほどに。そのことを、メギドがあえて口に出すことはなかった。
「それで……口封じに私を殺すということね」
「……アイシャ。頼んだぞ」
「あいあいさー」
ネミウスの問いかけに答えないまま、メギドは彼女に背を向け部屋を後にしようとする。そんなメギドの背に敬礼したアイシャは、能天気な声で返事をした。
一方のネミウスは、一人取り残されたまま話が一方的に進んでいく状況に当惑する。同時に、死への恐怖に心臓の鼓動は高まっていった。
アイシャが引き金に指をかけ、メギドがドアノブに手をかける。恐怖のあまり声も出せないネミウスを嘲笑うように、狙撃銃の引き金は引かれた。
バンッ!!
耳を劈くような発砲音の後に聞こえるのは、血飛沫の音と重量約五十キロの物体が倒れこむ衝撃音のはずだった。しかし――。
キンっ!!
「「っ!?」」
まるで、彼らの計画を阻む合図のようだった。
発砲された弾丸が弾かれる音に目を見開くと、メギドは退出を放棄して後ろを振り向く。
彼の瞳に映るのは、自身同様、想定外の出来事に当惑するアイシャの背中。怒涛の展開に目を回し、尻餅をつくネミウスの姿。
そして――。
「っ……」
彼ら――仮面の組織の人間が、その姿を目の当たりにするだけで、こみ上げてくる涙を禁じ得ない、美しい黒髪と赤眼の男。
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