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乱 江梨

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第四章 少女の恨み、万事塞翁が馬

少女の恨み、万事塞翁が馬7

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 頭を上げた遥音の表情に迷いはなく、窺えるのは一人の男の決断だけだ。


「心配するな、ですか。なかなか難しい頼みですね」
「すまん」
「ま、要はゆなちゃんのことを第一優先に考えろってことですよね」
「そうだ」


 理解の早い透巳に遥音は小さな笑みを向ける。だが明日歌はどこか不服そうな、納得できないような表情で俯いていて、それを兼が心配そうに見つめている。

 話が一段落ついたかと思うと、廊下中に慌ただしい誰かの足音が響き渡った。その足音の正体は鷹雪で、息を切らしながら焦った様子の彼に全員が首を傾げる。


「結城すまん!ゆなちゃんがいなくなった!」
「「!」」


 唐突に告げられた非常事態に全員が驚きで目を見開く。先刻まで一緒に会話していたゆながいなくなったという事実に、誰もが動くことができなくなってしまった。


「トイレに行きたいって言うから、扉の前で待ってたんだが、いつまで経っても出てこないから心配になったんだ。そしたらトイレの窓が空いてて、窓の下には脚立が置いてあって……すまない、俺の不注意だ」
「……いや、佐伯先生のせいじゃないですよ。このタイミングでいなくなったということは、十中八九さっきの会話が原因。俺のせいです」


 遥音は歯を食いしばりながら、鷹雪のことを庇った。ゆなにはどうしても遥音の家を訪ねなければならない理由があったのだが、それが自身の首を締める行為であることを理解し、実現困難であることを悟った。だからいなくなった可能性が高いと遥音は思考した。

 
「……探しに行ってくる」
「ちょっと待ってください。罠の可能性はありませんか?」
「罠?」


 重々しい声で言った遥音だったが、透巳の言葉でその足を一旦止めた。だがゆなが一体何の罠を仕掛けているのだと、怪訝そうな表情で透巳に尋ねる。
 
 いつでも冷静沈着な透巳とは違い、今の遥音に落ち着いて考える余裕も時間もないのだ。


「はい。こうやって遥音先輩がゆなちゃんを探しに行くこと自体が目的という可能性は否めません。もちろん、ゆなちゃんの本意ではないと思いたいですが」
「……だが」


 透巳の真っ当な意見に、遥音は言葉を詰まらせる。これまでのゆなの不可解な行動には、全て遥音が関係している。ゆなが追い詰められてまでしなくてはいけない何かは、恐らく遥音に関係があるのだろう。
 なので今回ゆながいなくなったのも、透巳の言うような目的があってもおかしくはない。それを理解できない遥音ではないが、簡単に割り切れるわけもなかった。


「ゆなが心配だ。迂闊に俺たちの元を離れて、もしゆなの両親と遭遇すれば、また地獄を味わう羽目になる。それだけは避けたい。例え罠でも、ゆなを連れて帰る。俺の方が頑丈だしな」
「……分かりました。でも俺は一緒に行きますから。何人かはここに残ってもらいたいので、あとは……」


 頑固な遥音を説得するのは無理だと悟った透巳はため息をつくと、遥音の意思を尊重した。

 万が一のことを考え、学校でゆなの帰りを待つチームとゆなを捜索しに行くチームに分かれた方が効率的だ。そのチームをどのように分けるか透巳が思考しようとすると、兼がスッとその手を挙げた。


「俺、行く」
「……分かった。じゃあこの三人で探しに行きますから、明日歌先輩たちは学校に残っておいてください」
「おう」


 自身から名乗りを上げた兼に透巳は当惑したが、何の問題もないのでチーム分けはあっさりと済んだ。
 普段物静かで、自分から何か率先して行動することのない兼にしてはおかしな行動だったが、その理由を尋ねられるほど透巳たちに余裕はなかった。

 こうして遥音、透巳、兼が捜索班。明日歌、巧実、宅真が待機班に決まった。


「じゃあ早速ゆなを探し行くぞ。この時間も惜しいからな」


 そう言って、階段へ向かおうとした遥音の動きが不自然に止まる。その理由は遥音の動きを遮るように、彼の腕を掴む存在がいたからだ。

 遥音の歩みを妨害したのは、先刻から浮かない表情を浮かべていた明日歌だ。

 だが明日歌自身、どうしてこんなことをしてしまったのか理解できておらず、遥音の腕を掴んだまま硬直してしまっている。今にも崩れてしまいそうな、その不安定な身体と表情は、彼女の想いを汲み取るにはあまりにちんけで、ありふれたようなものだ。

 暁明日歌というただ一人の少女の気持ちを、そんなもので表せるわけもないのに。


「……明日歌」
「…………っあ……ご、ごめんごめん遥音。驚いたよね。何してんだろ私。は、早く行って来なよ」


 慌てたように早口で言った明日歌に遥音はどこか苦しそうな相好を向けた。明日歌に何があったのか。遥音が何を思っているのか透巳たちに知る術はない。

 F組が明日歌と遥音二人だけだった頃を間近で見て来た存在は一人もいない。だからこそこの二人の関係を完全に理解出来ている者などいるはずもない。強いて言えば、兼がこの中で最も二人の関係性を理解していると言えるが、透巳たちとの違いは微々たるものだ。

 髪を手でボサボサにしながら、一向に遥音の顔を見ようとしない明日歌。なので明日歌は遥音がゆっくりと自身に近づいていることに気づかない。  

 遥音は明日歌の目の前まで来るとそっと右手を伸ばし、明日歌の頭の上にポンポンと二回置いた。いつも明日歌の頭を叩くその手が優しく撫でたことで、明日歌はポカンとした表情で遥音を見つめている。

 だが呆気に取られているのは明日歌だけではなく、透巳たちも思いもよらない遥音の行動に茫然自失としている。


「明日歌。ゆなを探しに行ってくる」
「っ……し、知ってるし」
「姉貴、も……行く?」


 再度明日歌にそう伝えた遥音に明日歌はたどたどしい返事しかできない。遥音の様子から、止めても無駄だということは明らかなのだから。

 すると、明日歌の様子を心配そうに窺っていた兼はそんな提案をしてきた。


「そうですよ。遥音先輩のことが心配なら、明日歌先輩も一緒に探しに行ったらどうですか?ここに残るのは僕と兄さんだけで十分だと思いますし」
「じゃあ、そうしよっかな。……ふふん、みんな喜ぶと良いよ!私がいれば百人力さ!」
「過大評価も甚だしいな」


 兼の誘いを後押しする形で、宅真はそう提案した。その提案に乗ることにした明日歌は謎の自信でいつものペースを取り戻した。そうなると当然遥音もいつものペースに戻るので、相変わらずな毒舌が炸裂される。

 こうして、透巳、遥音、明日歌、兼の四人は、いなくなったゆなを捜索するため、青ノ宮学園を後にするのだった。

 ********

 衛川結菜えいかわゆな。それがゆなの本名だ。

 借金の絶えないギャンブル狂の父親と、そんな父親を盲目的に愛する母親の間に産まれた彼女が虐待を受けるのに、時間はかからなかった。

 元々子供ができた時、堕ろすことを望んでいた父親が、産まれて来てしまった結菜を愛することはなく、日頃のストレスを結菜に手を挙げることで発散させるようになった。

 そして父親との愛の形を残したい一心で結菜を産んだ母親も、結局は父親に与するだけなので、一緒になって結菜に暴力を振るうようになった。

 そのせいで結菜にとって両親は自分の世界の全て、絶対君主のような存在であった。そしてそんな環境下で育った結菜は、少しずつ少しずつ、自主的に何かをしようとしなくなった。

 結菜の行動源は全て親。親に命令されれば何だってやった。それが悪いことでも、自身を苦しめるものでも。逆に親に命令されなければ何もしなかった。自分の意思で何かをすることは罪だと思い込んでいたからだ。

 何か発言すれば殴られる。勝手に動き回れば怒鳴られる。仕舞いには息をするのも許されないのではないかと思う程に、結菜の親に対する恐怖は常軌を逸していた。

 何も話さず、動くこともなく、何も思わない。そうしているうちに、恐怖以外の感情がどんどんと薄れていくのが、結菜自身にも分かった。
 それが一番平穏に暮らせる、自分の身を守るための最善手だったのだ。


 居間。油まみれの台所。水垢の絶えない風呂。寒く、小さなトイレ。これが結菜の知る世界。ゴミが散乱し、カーテンを開けないせいで全く光の差し込まない薄暗い部屋。埃も溜まっているので、今カーテンを開こうものなら、部屋中大惨事になるだろう。

 両親共が喫煙者のせいで、部屋はいつでも煙く咳き込んでしまうほど。そんな小さなアパートの一室が結菜の知る世界だった。


「結菜。アンタ、外出たいでしょ?」


 ある日。結菜の母親が突然そんなことを言い出した。結菜はただ当惑した。母親の意図していることも、どう返すのが正解なのかもわからなかったからだ、

 結菜は今までの人生で外出した経験がほとんどない。ほとんどと言っても、結菜に物心がつく以前の記憶がないので外出したことがあるかが分からないだけで、結菜は実質外というものを知らない。

 知りもしない場所に行きたいと考えたことはない上、ここで返答を間違えればまたたれるかもしれないという恐怖で、結菜はなかなか口を開くことができない。


「どうだって聞いてんのよ!?」
「っ……ご、ごめんなさい」


 母親は結菜の髪を引っ張って怒鳴り散らした。頭皮に走る強烈な痛みと、怒鳴られたことによる恐怖で、結菜は咄嗟に謝罪の言葉を口にした。あまりにも言い慣れすぎた言葉が、口をついて出てしまったのだ。


「はぁ……アンタっていつもそうよね。謝れば許してもらえるとでも思ってるの?昔は泣いてばかりで余計ムカついたけど、そうやって薄っぺらい謝罪されてもムカつくわね」
「…………」


 叩かれて泣かない子供いない。それでも結菜は親からの暴力で泣くことが比較的少なくなっていた。慣れてしまったから。代わりに結菜は息をするように謝るようになった。それを母親は咎めたが、誰がそんな風にしたんだと結菜は朧気に思う。


「まぁいいわ。結菜、アンタにはこれから外に出てもらうわ」


 母親からの指示に、結菜は思わず目を見開く。遂に捨てられるのかと思ったからだ。でもそれでも結菜にとっては良かった。


(やっと、解放されるの?)


 捨てられても構わなかった。この地獄から抜け出せるのなら。捨てられ、一人で寂しく徐々にその命を枯らすことになろうとも、結菜にとってはここで生き続けるよりずっとマシなことなのだ。

 だが、結菜の淡い期待は一瞬のうちに儚く散りと化す。


「私の言う通りに動くの。そして目的が達成されたら戻って来なさい」


 戻って来いということは、決してここから逃げられるわけではないということだ。それでも結菜は落胆したりしない。期待した自分が悪いという思考回路が彼女の中で出来上がっているからだ。

 それから結菜は両親の指示通りに動くことにした。だがやることは理解できても、結菜にはその目的まで理解することはできなかった。

 結菜に課せられた行動は、結城遥音という男子高校生に接触すること。ただ近づくだけでは不審に思われる可能性があったので、虐待されていることを悟らせ、同情を買わせるよう指示したのも両親だ。

 そうして遥音に接触した結菜には、まだしなくてはいけないことがあった。それは結城家に関する何らかの弱みを見つけることだった。それを見つけるために、両親からは結城邸に忍び込むことを指示されていたが、結菜は強すぎる恐怖が邪魔をしてそれを実行することができなかった。

 遥音たちに優しくされる度、結菜は迷いと焦りに襲われた。特に結菜のことを一番気遣ってくれる遥音の実家の弱みを探るというのは、結菜にとって遥音に対する裏切りでしかない。
 自分にためにここまで優しさという温かいものを与えてくれた人を、あんなクズの命令で騙さなければならないのかと思うと、結菜は自分に対する不甲斐なさで泣きたくなった。

 それでも結菜は両親からの指示を遂行しなければ、あとで酷い仕打ちを受けるだろう。こんなものは簡単に予想のつくことで、必然とも言えた。
 だから結菜は文化祭のあの日、何か結城家の弱みになることはないかと遥音の鞄を探ろうとした。透巳に鉢合わせてしまったことでそれも失敗に終わってしまった結菜は、焦りをさらに募らせた。

 一ヶ月以上経っても弱みを探れなかった場合は、強制的に家に帰らされることになっていたからだ。そうなれば結菜は間違いなく以前よりも辛い環境下で過ごすことになる。

 だがこれ以上遥音たちのそばにいて、迷惑をかけるのも結菜としては不本意だった。何よりも、自分の苦しみを少しでも分かろうとしてくれた遥音を欺き続けるのは、両親に打たれるよりも苦しいことだったのだ。

 結菜は痛みに慣れていた。だが自分の大切な人を傷つけることがこんなにも辛いのだというのを結菜は知らない。だから結菜は慣れている方を選んだ。そちらの方が耐えられると思ったのだ。

 
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