アクトコーナー

乱 江梨

文字の大きさ
上 下
66 / 93
第四章 少女の恨み、万事塞翁が馬

少女の恨み、万事塞翁が馬11

しおりを挟む
 序盤、明日歌視点になります。

 ********


 小さな頃から要領の良いタイプだった。テストでは毎回九十点以上をとっていたし、かけっこでは上位以外をとったことが無かった。容姿も割と整っていたのか、よく周りの大人たちからは可愛いと言われて育ってきた。

 字も綺麗な方だったし、絵も人並み以上に描けた。才能というものがどうしても必要になるどの分野においても、劣った結果を導くものは無かった。

 両親、親戚、教師、クラスメイト。みんなが口々にこう言った。〝明日歌ちゃんはすごいね〟と。

 私は昔からこの言葉が大嫌いだった。

 〝明日歌ちゃんは明るくていい子だね〟〝明日歌ちゃんは堂々としていてすごいね〟〝明日歌ちゃんは強い子だね〟

 そんな薄っぺらい言葉が、私を追い詰めていることなんて誰も理解できなかった。たった二人を除けば。

 たった一人の姉と、たった一人の弟。この二人だけは私の気持ちを理解してくれた。二人だけは私を特別扱いしたりしなかった。私を苦しめる期待を向けてくるわけでも、無関心でいる訳でもない。丁度いい暖かさを私に与えてくれた。

 だから私はそんな二人に依存していたんだと思う。自分のことを少しでも理解してくれる存在が近くにいるというのは、ぬるま湯に浸かっているようで。私にとって、とても居心地の良いものだった。

 だけどそんな平穏は長くは続いてくれなかった。お姉ちゃんが家出したあの日、私は何故か、裏切られたと感じてしまった。

 実際はお姉ちゃんは裏切ってなどいない。家を出ないと私に約束したわけでもなければ、ずっと一緒にいてくれると言ったわけでもないのだから。私が勝手にそうであるはずだと、自分勝手に思い込んでいただけなんだ。

 ********

「明日歌ぐらいの子、世界中探せばいくらでもいるわよ」

 
 これがお姉ちゃんの口癖だった。それに同調するように、まだ小さかった兼が首肯するのもセットで。

 お姉ちゃんにとっては何てことない軽口でも、私にとってはとても嬉しくて共感できる言葉だった。私は要領が良いだけで、周りの大人たちが言うような凄い子でも、ましてや天才でもない。

 上には上がいるとよく言うけど、私はそれに当て嵌めるのも烏滸がましいほど平凡な人間だ。私は誰よりも努力してトップをとり続ける人を、何よりも尊敬する。私にはできないことだから。
 目を瞠るほどの才能を持っている人も尊敬する。私は人並み以上のことが出来るだけで、唯一を何一つ持っていないから。

 どんな時でも明るく振舞う私を、強いと言う人がいた。一体どこをどう見てるんだと本気で思った。

 私が普段おちゃらけているのは、本気が苦手だからだ。そういう空気も苦手だし、自分が何かに本気になることもない。それを周囲にバレたくなくて、誤魔化しているだけ。だから私は本当は心底弱くて、どうしようもない人間だと本気で思っている。

 弱いから、お姉ちゃんがいなくなった時は相当酷い状態だった。唯一の救いは兼だったけれど、あの出来事で私は更に臆病になってしまった。

 大事な存在が。自分の癒しになる存在が。いつか突然いなくなってしまうかもしれないということを実感したから。

 そんな時だった。

 
 遥音のことを知ったのは。

 ********

「おい。そんなことをして恥ずかしくないのか?俺だったら自身に対する失望で死ぬぞ」
「はぁ!?」

(……あれって確か)


 いじめられっ子を庇って、いじめっ子に毒舌を繰り出している人物。私はその顔を知っていた。名前も知っていた。小学生の頃から互いに青ノ宮学園に通っていたから、面識があってもおかしくはないのだけれど、キチンと会話をしたことは無かった。

 結城遥音という人物は私にとって、一言で表すのなら尊敬に値する存在だった。何故なら私は初等部の頃から一度たりとも、試験の成績で彼に勝てたことが無いから。

 私は要領がよく、大して勉強をしなくても学年上位を取れるタイプだったけど、遥音にだけは勝てなかった。小学生の後半、一度だけ柄にもなく本気で試験勉強をしたことがあったけど、その時も遥音には勝てなかった。一点差だったけれど。

 一点差なら、次やった時は勝てるかもな。そんな呑気なことを考えていた私はまだ、結城遥音という人間のことを何も分かってなかった。
 
 一点差という結果を叩き出した後の最初の定期試験。私は目を疑った。遥音の点数が、オール満点だったから。

 小学校の試験ではそう珍しくないと思われるかもしれないけど、青ノ宮学園は馬鹿みたいに試験が難しいことで有名。だから満点を出すのは相当難しい。

 だけど私が目を疑ったのは、その点数だけのせいじゃない。テストの結果が張り出された途端、遥音がぶっ倒れたのだ。

 思わず目を点にしてしまった。遥音の目には分かりやすすぎる程隈が出来ていて、倒れた遥音は静かな寝息を立てていた。

 今まで遥音と話したことの無かった私は勝手に、遥音は要領がいいとかではなく、本物の天才なんだろうと思っていた。でもそれは間違いで、寧ろ真逆だった。

 遥音は天才どころか要領も良い方ではなく、全て気が遠くなりそうな努力で成り立っていたのだ。私はその時そのことに初めて気づいた。

 そして同時に、遥音が私への対抗心でいつも以上に努力して、オール満点を叩き出したのだということにも気づいた。ぶっちゃけ、どんだけプライド高いんだよと思ったけど、本当にすごいとも思った。

 遥音には努力の才能がある。私にはできないこと。だからその時から私は、本気で遥音のことを尊敬している。ちなみにそれから、私は試験を本気で挑むのをやめた。遥音が無理をし過ぎて倒れる姿を見たくなかったからなのだけど、これは死ぬまで遥音に言うつもりはない。


 そんな尊敬の対象が、いじめられっ子のために怒っている姿を目の当たりにして私は思った。

 この人なら、裏切らないかもしれない、と。

 そんなことを思った自分自身に驚いたし、何を馬鹿なことを考えているんだと自分自身をツッコみたくなった。

 でもそんな馬鹿な考えは、いつまで経っても私の頭から離れてはくれなかった。その内私は、この学校を変えるためのクラスを作って、その最初のメンバーに遥音を引き入れるという計画を思いついた。

 長年この学園の異常さには眉を顰めていたし、それを解決するために絶対に裏切らない仲間を作れるのなら一石二鳥かもしれないと考えたのだ。

 遥音は正義感が強くて、真面目で、諦めという言葉を知らない。だから私みたいなどうしようもない相手でも、根気良く付き合ってくれるんじゃないかなと思った。
 実際遥音は無茶なことばかり言う私に飽きることなく、見捨てることなく毎回叱ってくれた。それに毎回毎回、〝馬鹿〟〝阿呆〟〝脳なし〟と罵ってくるのも、私を過大評価していない証明の様で、内心嬉しかった。

 F組は私にとって、居場所になっていった。私が馬鹿なことを言っても、突拍子の無いことを思いついても、誰も失望したりしない。しょうがないなぁって顔で、いつも通り呆れるだけ。その普通が、私をいつも救ってくれていた。

 特に遥音は、いつもいつも私の一挙一動に反応してくれて、私のことをよく見てくれていた。遥音なら、一生匙を投げることなく傍にいてくれると思えるほどに。

 
 そんな遥音が今、目の前で動かなくなった。

 ********

 うつぶせの状態で、遥音が倒れている。私の右手には遥音の体温のまま生温かい血がべったりと付いている。

 嘘。嘘だ。嘘に決まっている。何かの悪い冗談だ。そう思いたかった。だけどそんなわけないってことも、私は良く知っている。遥音はこの手の冗談が大嫌いだから。

 それに遥音は私を庇うためなら、簡単に自分の命を投げ出せるだろう。

 いくら呼んでも、叫んでも、遥音は起きない。遥音がいつもの不機嫌面で、私を見てくれない。息が出来ない。苦しい、苦しい……。怖い。

 あぁ、やっぱり私は弱い。遥音が私を見てくれないだけで、こんなにも息苦しいなんて。

 ********

 明日歌も結菜も、その瞬間をキチンと視界に捉えられていない中、透巳ただ一人ははっきりと見えていた。

 明日歌に銃口が向けられた途端、遥音が拘束の縄をバサッと切り落としたこと。誰よりも早く駆け出して明日歌の元へ走ったこと。明日歌を庇う様にして遥音が銃口に背中を向けたこと。そのまま遥音が撃たれ、目の前が真っ白になったこと。

 透巳には嫌になるぐらい、はっきりと見えていた。


「はると、おにいちゃん?」
「遥音先輩!!」


 明日歌たちが今まで見たことない様な、酷く動揺した表情で遥音の元へ走る透巳。目の前で大事な存在を傷つけられた衝撃と、それを阻止できなかった自身に対する嫌悪感でどうにかなりそうなのを必死で抑え、透巳はその足を走らせた。


「遥音先輩!遥音先輩!」
「あ……あぁ……は、はる……」


 遥音の傍に駆け寄り、その身体を支えながら必死に透巳は呼び掛けた。透巳が逼迫した様子で声を荒らげている姿を目の当たりにした明日歌はどんどん現実感を覚えてきたのか、事の重大さに狼狽してしまう。

 声は震え、遥音へと伸ばす手も震え、上手く言葉を紡ぐことさえできない。


「明日歌先輩しっかりしてください!遥音先輩はまだ息してます!」
「っ……」


 過呼吸を起こしかけている明日歌を正常に戻すため、透巳はわざと叱咤するように言った。

 透巳はポケットからハンカチを取り出すと、背中の出血箇所にそれを当てて止血を試みる。だが小さなハンカチはすぐに赤黒く染まってしまい、透巳は思わず舌打ちをしてしまう。


「透巳くん……これ……」
「どうも」
「ね、ねぇ。救急車……」
「兄ちゃん呼んだ時に念の為救急車も呼びました。もうすぐ来ます」


 明日歌は大きめのハンドタオルを透巳に手渡すと、救急車を呼ぶことを提案した。だが既に透巳が呼んでいたので、要らぬ心配だったようだ。

 圧迫止血をしながらふと、透巳は結菜の様子を横目で確認する。結菜は膝から崩れ落ちていて、ポロポロと雫のような涙を零していた。

 遥音が目の前で撃たれたショックなのだろうが、透巳には今結菜を気遣う余裕さえない。


「ふふっ……」
「……」


 突然、何がおかしいのか不気味な笑い声を漏らした雪那に、明日歌たちは怪訝そうな視線を向ける。


「おねえ……」
「アンタって相変わらずよねぇ」
「……え?」
「いつもいつも、誰かに依存して。その相手がいなくなることにいつも怯えて。しかも周りのこと何にも見えてなくて。そんなんだから大事な存在失うのよ」


 明日歌は姉からそんな風に見られていたことも。それを否定できない自分自身も信じられなかった。


「まぁ、そこで死にかけている遥音っていう子だって、アンタのこと本気で心配なんてしてないんでしょうけど……」


 シュッと、心地の良い音と共に何かが雪那の肩に直撃した。それは透巳が雪那に投げつけたもので、射殺さんばかりの目を彼女に向けている。

 それは遥音が縄を切るのに使用したナイフで、それが肩に刺さった雪那は苦悶の表情を漏らしながらしゃがみ込む。信じられないものを見る様な目で自身の肩をナイフごと押さえた雪那は、怯えたようにその視線を透巳に移す。


「お前、ちょっと黙ってろよ」


 明日歌たちも聞いたことの無い様な、背筋が凍ってしまう様な声。突き放すような、切り捨てる様なその声と表情が余程恐ろしかったのか、雪那はひゅっと息を呑みこんで震え始める。


「あ、あんた……なんなのよ……」
「言っとくけど、今の正当防衛だから」


 震える泣き声で尋ねた雪那に、透巳はそう冷たく返した。先に拳銃を向けてきたのは雪那なので反論は出来ないが、透巳の攻撃は完全に個人的な怒りによるものだ。

 透巳は許せなかったのだ。明日歌のことを侮辱したことも。何も知らない雪那が、知ったような口で遥音のことを語ったことも、透巳にとっては許せるはずの無いことだった。


「……おい、そんな……情けない顔を、するな……明日歌」
「っ!遥音!?」


 ゆっくりと瞼を開けて、消え入りそうな声を出した遥音に明日歌は泣きそうな表情を向ける。透巳も結菜も遥音が目を覚ましたことにほっと安堵し、小さくため息をついた。


「まったく……お前は、いつまで、経っても……成長のない……」
「遥音、あんまりしゃべると……」
「急所は、外れているはず……だ。すぐに、治療すれば……問題、ない……」
「問題ないわけないでしょ!?だって……こ、こんなに血が……」


 明日歌に心配をかけたくない遥音だったが、この状況で心配するなという方が無理な話だ。明日歌は遥音が無理をして話すほど心配になってしまい、思わず大声を出した。

 傍から見れば情けない姿なのだろうと、明日歌は自嘲する。今一番辛いのは遥音だというのに、明日歌は自身が一番動揺してしまっていることを自覚していた。流石にこんな姿を目の当たりにすれば、遥音も自身に嫌気が差してしまうだろうかと、明日歌は心配になってしまう。


「……お前は、相変わらず……弱いな」
「……遥音?」
「強がって、いても……俺がいないと、不安になってしまう……そんなこと、初めて会った……あの日から、分かりきっている……ことだ。お前が、変わろうと、変わらなくとも……関係、ない……お前を、残して……勝手に、死んだりは……しない」


 止めどない涙が明日歌の目から溢れた。こんな涙が、止まるわけも無かった。今起きたこと、今分かったことに泣きたくなってしまう。

 明日歌は思う。やはりこの存在には敵わないと。最初に遥音のことを知った時に感じた尊敬は間違いでは無かった。だが、尊敬という言葉一つで表せるような感情でもない。

 明日歌は弱く、それを他人に分かってもらえなかった。だけど遥音はそれを分かってくれていた。それでもそんな明日歌を見捨てることなく、ずっと傍にいてくれた。

 そして、これからも傍にいてくれると約束してくれた。

 遥音が約束を破るような人間ではないことを、明日歌は誰よりも知っている。だからこそ、遥音のその約束が何よりも重く、明日歌の心を信じられないほど軽くしたのだ。


しおりを挟む

処理中です...