お菓子の船と迷子の鳩

緋宮閑流

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第4章

#06

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羽ばたきの音。
聞き慣れた声。

──聞きたかった……声。

「ごきげんよう、ジョーゼット船長」
長衣の裾をふわりと靡かせて手摺りの上に、しかしこの上なく優雅に降り立ち一礼を贈るその姿は。
「……ガナッシュ君」
「この度は現地のかたがたとの交流会にお誘い頂きましたそうで有難う存じます。遅れ馳せながら御礼申し上げます」
柔らかに微笑むその貌に、しかし細められた瞳は氷の温度を有するそれだ。
「しかしながら、先程も申しあげました通り当船の見張り台は手狭にて大変危険でございますゆえ、お客人の立ち入りはご遠慮頂いております。お引き取り頂けますかな?」
「……いや、すまないね」
背に張り付いていた生温い体温が離れる。
「レディ船長の姿が見えたので今宵の眺めを共に楽しもうと上がってきたのだがね。手摺りから乗り出しそうになっていたものだから、翼が有るのを忘れてつい支えてしまった。不躾に女性の身体に触れてしまったことは謝罪しよう」
「それはそれはご親切に、痛み入ります」
違う、と飛び出しかけた言葉を遮ってガナッシュは言葉を続ける。
「しかし僭越ながら、今宵のような美しい夜は神々も海面へとお出ましになり夜を楽しんでおられましょう。海神様のお目に留まることがなくて良うございました」
海や船の神はむつごとを嫌う。船乗りならば誰でも識る言い伝えだ。特に凪いだ静かな夜には恋人同士の指先が触れることすら見通され、物陰で囁き合う声すら聞き咎められるという。
故に、船乗りを生業とする者は海上で表立って愛を育むことが無い。
「我ら兄妹は神に操を捧げた身ゆえ」
ガナッシュの駄目押しに、ジョーゼットが折れた。
「……私も船乗りだからね。君たちの献身は理解しているつもりだ。港にも降りぬほどの気概、さぞ海神の寵愛も厚かろう。今後いっそう気を付けることにするとしよう。必要以上に妹御に近付いて申し訳なかった。病み上がりに要らぬ気を揉ませたな」
「ご理解頂きありがとうございます」
「君にもだ、お嬢さん。次はもっと紳士的にプロポーズすることにしよう──」


飛び去る飛行闘魚、その背が隣の船に移り見えなくなるまで見送った──否、見送らざるを得なかった。あんな会話の後だ、再度姿を現すことはないだろう、そうは思っても警戒に強張った心と身体が動き出すまでに暫くの時間を要した。


気付けば、船長室だった。


「……プラリネ……ごめん」
どうして、ガナッシュが泣いているのだろう。
「……ごめん……」
「……ガナッシュ……?」
どうして、ガナッシュが謝っているのだろう。
「……僕が……僕が君を守らなくちゃならないのに……」
何がどうなっているのかよくわからない。けれどガナッシュがひどく辛そうなことだけは解った。
確かにガナッシュが怪我で休んでいる間は大変だったけれど、クルーの皆が助けてくれたから、なんとかかんとか船は守られたはずだ。なのに。
「ごめん……プラリネ……ごめんね……」
「……何を謝られているのか判らないわ」
だから、正直に言った。
「片方が動けなければもう片方が頑張るのは当たり前でしょう?」
ガナッシュが一瞬大きく目を見開き……直後にくしゃりと顔を歪ませる。伸びてきた手に力一杯抱き締められた。
そんなに責任を感じなくても、大丈夫なのに。
小刻みに震えるガナッシュの肩を軽く叩く。
「キャンディさんが置いていってくれたお菓子が有るの。身体が大丈夫ならこれを持って浜辺の様子を見に出ない?きっと楽しいわ」


「陽が落ちるの、早いわね」
既に薄暮を過ぎた海岸線、船縁から浜辺に灯る光を眺めながら妹が──プラリネが呟く。
心底楽しげに、嬉しげに。
「もう少し早く見に来れば良かったわ」
そうすれば皆がお菓子を楽しんでいるところ、もっと見られたのに。
そう言って無邪気に笑うプラリネの顔を見るのが辛くて、手元の甘パンに視線を落とした。
やはり、覚えていないのだ。
プラリネを探せとグランマに放り出されたあのとき、妙に閑散とした船内に戦慄した。通り掛かったクルーを捕まえて事情を聞き安堵したものの、若干残る目眩を抑えつつ甲板に出た自分の肌に感じたのは異質な気配で。
見回し、気づいたときにはもう他所の飛行闘魚が見張り台に寄せられていた。急いで見張り台に昇れば妹の『声』が発せられかけていて、慌てて割り込んだのだけれど。
何をされたのかは判らない。
なんとか穏便に追い払うことはできたものの、妹の心を完全に守ることはできなかった。
甘パンをひとくち、齧る。
そこまで甘くはない筈なのにパンのかけらが喉を焼く。妙に引っかかるのが苦しくて、船縁に置いた穀物茶を詰まる喉へと流し込んだ。
「私ね、頑張ったのよ?」
「……うん」
知っている。事情を聞いたクルーが言っていたから。
「でも、あんまり自信が無いから後でチェックしてね?」
「……プラリネが仕切ったのならあまり心配していないけどね」
微笑んでみせる。
自分が眠りについてから結構な時間が経った筈だ。ガレットも帰っていないならさぞ心細かったに違いない。本当なら手放しでいきなり褒めてやりたい、労ってやりたいところだが、きっとそれでは妹が嫌がるだろう。
「……ガレットさんも……」
微風のような声が、吹き抜ける。
「……うん、褒めてくれると思うよ」
その呟きをそっと受け止めて。
「後で一緒に船内を回ろう。プラリネの頑張りを僕にも見せて?完璧にしておいてガレットさんを驚かせよう」

自分の感情にも、蓋をした。
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