紅き鬣と真珠の鱗

緋宮閑流

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第1章 はじまり

1-10 未知の龍

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「どうして」
『瘴気喰い』の長は絶望の瞳で問い掛ける。
「なんで、お前が」



酷い時化だった。
あわや岸壁を超えるかと思うほどの高波が岩山の上で飛沫を上げた。
空は晴れて風も凪いでいたけれど、海だけが荒れていた。
巫女姫──イスカは集落でも一際高い邸から向かいの岩山に雨ではない飛沫が舞い上がるのを見ていた。
とてもではないけれど、海に行ける様子ではない。例の祠へお詣りにも行けない。
つまらないの、と花の唇がとんがった。
穀物を挽いた粉を練って焼き上げた麺砲はほんのりと香ばしく、先日漬け上がった花蜜とよく合う。大満足の朝餉であるはずなのに、気分は塞いだ。
ただでさえ豊漁続きで浜はおおわらわ、神事もあったから祠に行けていないのだ。
麺砲の焦げ部分で余った花蜜を一気に掬い、口の中に放り込む。ふんわりとした花の香りと焦げ目の香り、強い甘さが喉の奥から鼻の方まで広がった。
今日は兄の部屋に行ってみよう。
穀物の葉を煎って煮出した茶を飲み干す。
商人の来る時期が終わったから、きっと部屋にも入れてくれるはずだ。
兄は祭司の傍ら彫刻師も担っている。周囲の岸壁から採れる輝石を花や鳥、魚の形に彫り抜き、商人の持ってきた布や蜜と交換するのだ。ときには特別な注文を受け、次の時期まで掛けて彫ることもある。
彫っている間はなかなか部屋へ入れてもらえない。
イスカは磨かれた廊下にペタペタと足音を響かせながら兄の部屋を訪ねた。
「珍しいな。伝記に興味は無かっただろう」
「そうだったかしら」
実際、本はさほど好きではなかった。大抵小難しい言葉で書いてあるし、何より文字を追わねば先がわからない。
例えばこれが絵ばかりであれば解りやすいのに。
「巫女姫であるお前が知らない龍神譚か……」
「そう、月と海じゃない龍神様。あっ、太陽龍様と大地龍様は少しなら知っていてよ。けれどそうではないの。誰も知らないような龍神様のお話が知りたいのよ」
「そうは言っても……あ」
兄は何かに思い当たったようだった。時折どこだったかなと首を傾げながら棚を漁り、少々洟をすすりながら一冊の本を取り出した。
「これはどうだろう」
縁にけっしてありがたくはない綿埃の装飾を付けた書物を受け取り、ふぅ、と埃を吹けば兄に本を取り上げられてしまった。石工時の削りかすを払う手拭いで縁と表紙を綺麗に拭ってくれる。とはいえ見るからに古い書物だから新品のようにとはいかないが。
「『瘴気龍』?」
「ああ、海底に囚われた龍神の話だよ。海の龍神が素行の悪い兄弟を海底に封じ込めたとされている」
兄弟に封じられるなんて、どんな悪いことをしたのだろう。適当に、勝手に腰掛けて冊子を捲る。厚さと文字の大きさから考えて、さほど長い物語でもないらしい。
イスカは物語を読み進めていった。

────────────

世は、押しなべて美しかった。

大いなる監視者のもと、生物はそれぞれの役目を果たし喰い喰われて大地に還り、また次の輪廻を生む。世界の秩序を守るための役割を皆が皆、不完全ながらも本能として魂に刻み込んでいた。
少なくとも、世界の濁りは目に見える場所に現れることは無かった。
その濁りを消費する者が居たからだ。
彼らは『瘴気龍』と呼ばれる龍族の末端、海の龍神の弟たちであった。
世界の片隅で瘴気と呼ばれる澱みを主食とし密かに生息していたが、増えた彼らには瘴気が足りなくなってしまった。
瘴気は生有る者なら誰でも流す、魂の残骸。
『瘴気龍』の長は考えた末にマモノを創り出して世界に放ち、生きものたちの恐怖や悲しみ、憎しみを元に瘴気を作り出すことに成功した。故意に生きとし生けるものの魂を削り、無理に残骸を増やす残酷な行為だ。
マモノは瘴気を作り出し、自らもそれらを吸って力を増す。そして再び瘴気を生む。
このままでは世界が増え過ぎた瘴気に覆われ、マモノたちが世界を壊してしまう。
見かねた海の龍神が立ち上がった。
弟の不始末は兄の不始末。海の龍神は『瘴気龍』の長に戦いを挑み、勝利した。

『瘴気龍』は海底に幽閉され、永劫の闇の中で淡々と復讐の機会を狙っている──

────────────

「海龍様の英雄譚なのに聞いたことの無いお話だわ」
「確かに巫女姫の教育書には無いな」
いつしか侍女が差し入れてくれていたらしい茶をすすり餅菓子をつつく。
「なんでかしら」
「先人の意図はわからないが……歴史として書かれたものではなくて創作なのかもしれない」
創作。
確かに聞いたことのない話だったけれど、創作ではあまり意味が無いかもしれない。
最後の餅菓子を口に放り込む。
「ありがとう、お兄様」
もぐもぐごくんと口の中のものを飲み込んで礼を言えば、役に立てなかったなら悪かったと返ってきた。首を振る。
「お話は面白かったもの」
知らない龍の話があった。
それだけでも祠の謎が解ける希望は見えたような気がした。
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