紅き鬣と真珠の鱗

緋宮閑流

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第1章 はじまり

1-9 水の輪

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少女は見た。
海面が渦を巻いていた。
海が表情を変えるのを見たことが無いわけではないけれど、籠船ならいきなり飲み込まれてしまいそうなほどの渦巻きを見るのは初めてだ。
どうしよう。
岩場に佇んだまま、少女は小さな爪を噛む。
集落の者に渦巻きのことを報告すれば、秘密の穴から岩場へ出ていたことが判ってしまう。でも放置しておけば知らず漁に出た者を危険に晒すかもしれない。
心臓は早鐘を打っていた。
叱られるのは怖い。でも里の者を危険に晒すのも怖い。
去って……
胸の前で手を握りしめる。
お願い、鎮まって……
少女は巫女姫として育てられてきた。自身の巫女としての資質を疑問視などしたことが無い。
龍の神は祈りを聞いてくれるものだと、少女は無条件に信じていた。

そして渦は、唐突に掻き消えた。

龍の神が自分の願いを聞き届けてくれた。少女の胸は高鳴った。
外からの侵入を許さないぶん、そもそも平和な集落である。おそらく少女が本気で祈ったのはこれが初めてだったであろうが、目の前で願いが形を持った事実は少女に巫女としての自信を植えつけた。
例えそれが海龍の諍いから生まれた偶然だったとしても、少女には知る由もない。
夜の祈りでは龍の神にお礼を言おう。
少女は機嫌良く浜へ向かった。


「ボクに、名前?」
怪訝な声色。
あのちょっとした諍いのあと、探し出した友に詫びを入れて、そして。
「なんで?」
「あんま、嬉しくなさそうだな」
ツノの付け根を膨らませて拗ねてみせれば、銀の身体持つ友は鰭を揺らめかせて笑った。
「そりゃ若長からの贈り物だったら何でも嬉しいけどさ、実感湧かなくて。龍族でもないのに名前で呼ばれるってよくわからないよ」
「……まぁ、確かにそうか」
これまで龍族以外の民は名を持っていなかった。それぞれの種族はにおいや音、模様など種族独特の個性と役割を持っており、名を必要としなかったからだ。
「まぁ、なんだ、オレがだな……」
改めてこんなことを言わねばならぬとなれば、照れ臭くてツノが抜け落ちそうではあるが。
「いや、オレにとってお前がトクベツだから呼ぶ名が無いと不便なんだよ」
言葉が終わりに近づくにつれ小さくなってしまったが、彼には聞き取れたようだった。
クルリと輪を描いて回り、ひらひらとその平たい身体をくねらせて辺りを泳ぎ回ったあと大きく旋回して戻ってくる。
「『トクベツ』?!『トクベツ』なの?!」
「……うるっせぇな……そう言ってんだろ」
友があまりに『トクベツ』を連呼しながらくるくる回るのが照れ臭くていたたまれない。
「あー!もう!そんなにトクベツトクベツ言ってるとトクベツって名前にしちまうぞ!!」
「いいよ!!」
「良くねえ!!即答かよ!!」
公務のことほどではないけれど、それなりに一所懸命考えたのだ。そんなワケの解らない名前になられても困る。
「『ミズノワ』!お前の名前は『ミズノワ』だ!!」
本当はもっと勿体ぶって重々しく命名してやるつもりだったのだが。
「『ミズノワ』……!」
今度はつけられたばかりの名前を連呼しながら、長い身体を輪にして回り始める。それは彼自身が水の輪になってしまったかのようで……我ながらぴったりな名前をつけてやったものだ。
「気に入ったか」
「『トクベツ』で『ミズノワ』!すっごくいいよ!」
「『トクベツ』は名前じゃねえ!」
何かが違う気がするけれど、嬉しそうだからまぁ、いい。
息をつくと同時に、ふと、気になる気配を感じた。
「……ミズノワ、お前もしかして怪我してンのか?」
「怪我?」
ぴたりと止まった彼の細い胸鰭あたりに髭を伸ばし、その場所に触れる。
「瘴気に取り憑かれかけてんぞ」
小さな傷に僅かな瘴気が引っかかっているのを払ってやった。怪我や病を患うと瘴気を引き寄せることが有る。幸い大きなものではないようだから、これで傷が塞がればこれ以上広がることはことは無いはずだ。
「こんな小ちぇえ傷なら大丈夫だとは思うが気ぃつけてくれ」
「大袈裟だなぁ。若長について泳いでるんだから取り憑かれるならとっくに取り憑かれてるよ」
尾を回して作った水流を投げてきたので鼻先に届く前に投げ返した。
「……光の粒って長く触ってると火傷しちゃうのかな……」
「何だ?」
「んーん、なんでもない」
何かボソボソと聞こえたような気がするが、なんでもないと言うのならそうなのだろう。
「そんなことより、名前ありがと!大事にする!」
無邪気な礼に、またツノが抜け落ちそうな照れ臭さを感じて尾鰭を反す。
「じゃあ、オレはシゴトに戻っから」
歯をカチカチ鳴らしてから泳ぎ始めると、背後からいってらっしゃいの声に見送られた。
──久々の安心感だった。
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