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ターニング・ポイント スレーベン領 その2
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「……ふぅ……」
グリエルムは自身の仕事部屋に戻るなり、一つ大きく息を吐いた。
書類に埋もれた机の上を、気持ち程度に片付けると椅子にどかりと腰を落とす。
年の割に体格の良いグリエルムの体重を受けて、椅子がギシリと軋み声を上げた。
その音は、決して広くはない室内に、一際大きく響いた様な気がした。
視力には自身があったが、最近はやたらと手元が霞んで見える。
年の所為……だけ、と言う事はないだろう……
グリエルムは軽く目頭を押さえると、そのまま天を仰いだ。
「お疲れの様だな、大将」
突然背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
グリエルムは部屋に入る際、鍵を開けて入った。
そして、自分が部屋に入ってからは、誰かが扉を開けた感じはしていない。
窓はあるが、ここは二階でまた窓の前には机があり書類が堆く積まれているので、これらの山を崩さずに窓から入る事は困難をようするだろう。
ましてや、この部屋の窓などここ数年は開閉していない。そもそも開くかどうかが疑問でならない。
つまり、これらが意味することは、自分の留守中にこの声の主はどうやってかこの部屋へと侵入し、自分が帰ってくるのを待っていた、と言う事になる。
それも、今の今まで自分にまったく気配を感じさせることなく、だ。
これでも、スレーベン領を守護する騎士団の団長を務めた事もある身としては、プライドに傷をつけられた思いだった。
(私も耄碌したものだな……こいつの気配に気づけなんだとは……
どうせ手癖の悪いこいつの事だ。
大方、扉の錠を外して入ったのだろうが……まったく、器用なものだな)
そして、ご丁寧にも内側から鍵を掛け直した、と。
「ああ、これからまた貢租状の書き直しだ。
なんとか工面して3分の1は確保したのだがな……
閣下はそれではお気に召さなかったらしい」
貢租状とは、言わば“請求書”のような物だ。
実際に村や町に徴税吏を向かわせる前に、前年度の納税額を元に算出した、今年度の納税額の概算を通知する書状を送るのだ。
これを、貢租状と呼んだ。
いきなりやってきて“さぁ、税金を払え!”と言われても、無理がある。
だから、“今年の納税額はこれくらいになる予定です。だからあらかじめ用意しておいて下さい”と、先に通知したうえで、徴税吏を向かわせるのだ。そして、一度全てを徴収する。
貢租状には、麦ならこれだけ、金銭ならこれだけ、金貨ならこれだけ……と言った具合に納めるべき額が種類別に事細かく記されているので、支払いは払う側が任意で選ぶ事が出来る様になっていた。
勿論、それらを組み合わせた方法で支払っても構わない。
とは言え、農村部は麦以外に支払う方法はないので、実質的には無用の長物ではあったが。
そしてその後、農村部なら田畑の測量をしたうえで、年度の正確な納税金額を算出し、町なら人口や行商の往来、店舗の数などを記した帳簿を元に精査したうえで総合的に判断を下す。
足りない用なら追徴され、多ければ払い戻しだ。
測量は数日で済むのだが、帳簿の精査には数十日と言う期間を要することも少なくない。
それだけのものをグリエルムは一人で作成していたのだった。それも、スレーベン領の町村全ての分を、だ。
しかも、次に作る貢租状は減税なしの、領民にとってはまさに“死刑宣告”に等しい書状を、グリエルムは書かねばならなかった。
自然と筆も腕も気も重くなると言うものだった。
「で、大将。
俺はいつ、あの“油肉ダルマ”をやればいいんだ?」
「……滅相も無い事を言うな」
グリエルムはため息を漏らしつつ、声の主のいる背後へと振り返った。
そこには齢にして20に達するかどうかの若者が、壁に背を預けた姿で立っていた。
獣を思わせる鋭い眼光、ただ短く切っただけのざんばらな黒い髪。
そして、一際目を引く顔の傷。
その傷は、額から鼻筋の脇を抜けて左頬へと真っ直ぐに顔を縦断していた。
それは一見して、この若者が堅気の人間ではないことを如実に物語っていた。
ぱっと見、若い女性が好みそうな二枚目もこれでは台無しだった。
若者の名は、ヴァルターと言った。
苗字はあるのだろうが、グリエルムは知らない。特に興味もない。
そもそも、それが本名なのか偽名なのかすら判断する材料を、グリエルムは持っていなかった。
「大体なんで大将は、あんな小物に固執してんだよ?
この俺の顔に、こんだけでかい傷をつけたあんたほどの男が付従う様な器じゃねぇだろあれは?」
ヴァルターは“呆れた”と言わんばかりに、大仰に肩を竦めて見せ、顔を縦断する傷をすっとなぞった。
この無礼な態度からも分かる様に、ヴァルターはプギャールの家臣でも、グリエルムの部下でもなんでもない。
ましてや、グリエルムの友人などでは断じてなかった。
この男とグリエルムが初めて会ったのは、今から半年ほど前のことだった。
屋敷に賊として忍び込んだヴァルターを、グリエルムが切り伏せたのだ。
ヴァルターの顔の傷は、そのとき負ったものだった。
当時、いや今もなのだが……ヴァルターは所謂“義賊”として悪徳商人や金に汚い貴族の邸宅に侵入しては盗みを働き、それを貧しい者達に分け与える、というようなことをしていた。
が、腕に絶対の自信を持っていたヴァルターだったが、ここスレーベン領領主であるプギャールの屋敷に忍び込んだことで、その自信は完膚なきまで打ち砕かれることになった。
それは賊としても、戦士としても、二つの意味でだ。
結局、ヴァルターはプギャール邸から石ころ一つ盗み出すどころか、ただの一太刀もグリエルムに浴びせることが出来ぬまま、ただ一方的に敗れ去った。
今、ヴァルターが息をしてこの場に立っていられるのは、偏にグリエルムの慈悲に他ならないのだ。
先ほどヴァルターは、グリエルムの背後を取った。が、そこまでが限界だった。
もし、あの場で身動ぎ一つでもしていれば、グリエルムにすぐさま感づかれていたことだろう。
ましてや、斬りかかっていたとしたら……
その数瞬の後には、自分の首が胴体から泣き別れしていたであろことくらいヴァルターは十二分に理解していた。
グリエルムの剣は神速だ。
自分が剣を鞘から抜くまでの時間で、グリエルムなら5回は斬る。
そこには最早、天と地ほどの差があった。
一体どれほどの修練を積めばその頂へと至れるのか、一体どれほどの修羅場を潜ればあれほど隙のない身のこなしが出来るようになるのか……羨望した。
ヴァルターはグリエルムの剣に惚れたのだ。
一度は見逃してもらった身だったが、その後もこうしてこっそりと屋敷に度々訪れてはグリエルムに挑んで惨敗する……と言う事を繰り返していた。
……その度に生傷は増える一方だったが。
ヴァルターはもう、ここでは盗みを働くつもりはなかった。
金品より、目を惹くものがあるからだ。
それはグリエルムも分かっているようで、斬りかかって来るヴァルターをいつも適当にあしらっては追い返していた。
今は害も無い様なので好きにさせているが、もし、またぞろおかしな事を考えるようなら、次はない。膾に斬って捨てるだけだ。
ヴァルターから見れば、明らかに手を抜かれているのが分かるだけに業腹ではあったが、それが現状の実力差なのだと素直に認めていた。
そして、たまに……本当にたまにだが、グリエルムの仕事の手伝いなどもしたりしていた。
「買いかぶり過ぎだ。今はただの老いぼれた一兵卒に過ぎんよ。
私は、先代の領主であるプレギウス様から、直々に閣下の事を頼まれたのだ……
なればこそ、私が閣下を支え、付従うは当然のことではないか」
「先代の領主様ねぇ……あれの親父ってことだろ?
あの“脂身の塊”を見る限り、大して違いはなさそうだがな……」
プレギウスが逝去し、すでに二十と余年が過ぎようとしていた。
それはヴァルターのような若者にとっては、プレギウスと言う人物が過去の偉人でしかない、と言うことを意味していた。
そのことに、グリエルムは一抹の寂しさを感じた。
「お前のような若造では、知らぬのも無理からぬ事だが、スレーベン領の発展はプレギウス様の働き無くしてはあり得ぬ大業であり……」
「で、その偉大なプレギウス様は子育てには失敗した……と?
ついでに、そのボンクラ息子は親が育てた領地をせっせと食いつぶしてる、と?
はっ、笑えない冗談だ」
……グリエルムには耳に痛い言葉だった。
スレーベン家は武門の家柄だった。
歴史こそ浅いが、武に纏わる者らに彼らの名を知らぬ者はいないほど、広く知れ渡っていた。
“スレーベン家とだけは戦いたくはない”
そう内外に言わしめるほどに……
(それも、今となっては昔の話か……)
グリエルムは、現在当主の姿を思い浮かべて、心の中で嘆息した。
先代当主プレギウスはまさに絵に描いたような武人であった。
それは良い意味でも、悪い意味でも、だ。
プレギウスの身は常に戦場にあった。
当時のスレーベン領は今より幾分小さく、いくつかの国の国境線に面していた。そのため、隣国との国境線問題で小競り合いを繰り返していたのだ。
プレギウスは領地を守る為に戦い、領地をより豊かにする為に働いた。
それが領地を持つ貴族の責務と信じて。
家庭のことなど、一切顧みない男ではあった。
家のことも、子どものことも全て妻に任せきりになっていた。
彼にとって家族の存在は領民の次だったのだ。
しかし、だからと言って家族を愛していなかった訳ではない。
プレギウスは信じていたのだ。家族であるなら理解してくれる、と。
しかし、実際はそうではなかった。
少なくとも、彼の妻はプレギウスを理解してくれてはいなかった。
政略結婚だったとは言え、まったく家に寄り付かないプレギウスに嫌気がさした彼の妻は、生まれたばかりの息子を残して、屋敷を出て行ってしまったのだ。
取り残された息子、それがプギャールだった。
勿論、彼女だけが悪かった訳ではないのだろう。
口数が非常に少なく、必要最低限の言葉しか口にしなかったプレギウスにも問題はあったのだ。
しっかり互いに話し合っていれば、そんな事にはならなかったのではないか……
少なくとも、誰かが二人の間を取り持っていれば……と、それは自分の役目だったのではないか……と、グリエルムは未だにそんな詮無き事に思い悩む時があった。
そんな事があっても、プレギウスは変わらなかった。変われなかった。
長年染み付いた主観はそうそう変えられるものでもなかった。
母は屋敷を出てしまい、父は寄り付かない。
そんなブギャールを世話をしていたのは、プレギウスに仕える使用人たちだった。
しかし使用人はあくまで使用人。
プレギウスの息子であるプギャールの言葉は、屋敷の中では絶対であり誰もプギャールには逆らわなかった。
子どもが権力を手にして、増長しない訳がない。
プギャールは、我侭に傍若無人に育っていった……
確かに、それはプギャールを教育しなかったプレギウスの所為と言えた。
しかし……
誰よりも誠実で不器用だったプレギウスの姿を間近で見てきたグリエルムにとって、プレギウスを責める事がどうしてもできなかった。
プレギウスはグリエルムをはじめとした信頼の置ける部下たちに、酒の席などでよくこうこぼしていた。
“自分は戦うことしか知らない”と、“自分に人に何かを教える器量などない”と……
だからこそ、自分の姿で語ろうとしたのだ。伝えようとしたのだ。
貴族とはどうあるべきか、戦うとは、守るとはどういうものかを。
しかし、プレギウスの思いは欠片もプギャールには伝わることはなかった。
今際の際に、プレギウスが自分を呼び力なく“息子を頼む”と言った言葉は、今でもグリエルムは鮮明に覚えていた。
プレギウスが亡くなって、もう二十と余年が過ぎようとしていた。
その間、グリエルムは必死でプギャールを更生させようと試みたが、全て徒労に終っている。
特に最近は、自分の進言は一切聞かない素振りがある。
あのサンチョとか言う商人を囲うようになってから、その反応は特に顕著だった。
「大将、あんたまさか“親父が立派だったから、その息子も立派な人間になる”……
なんて夢物語を期待してんじゃないだろうな?」
「……」
返す言葉がなかった……
それこそある日突然、憑き物が落ちたように今までの行いを恥じ、プギャールが善政を執り行う……
そんな淡い期待が、まったく無いかと言うと嘘になった。
「はっ……マジかよ……」
無言のままだったグリエルムに何を思ったのか、ヴァルターは馬鹿にする様に鼻で笑うと冷笑をグリエルムへと向けた。
「この際だから、はっきり言ってやるよ。
アレはもう終ってる。あの手の輩が破滅するところんていくらでも見てきたからな」
「…… ……」
「早めに処分しねぇと、この領地……取り返しのつかない事になるぜ大将」
「…… ……うな」
「俺に言わせりゃ大将、あんただってあの豚野郎と同罪なんだぜ?
あんたがあの豚を放置しただけ、どこかの誰かが苦しんでんだ」
「……いうな……」
「今ここであいつをやらなきゃ、これから先あいつに苦しめられる領民がどれだけ出てくると思ってる?
今、この現状があんたの仕えてた“先代の領主”の望んだ姿だと……」
カインッ!
「言うなぁ!!」
グリエルムの裂帛の気迫と共に、ヴァルターの耳元を何かが掠めた。
確かめるまでも無く、それはグリエルムの剣だった。
それが、ヴァルターが背を預けていた壁に突き刺さっていたのだ。
「そんなことはお前の様な若造に言われずとも、百も承知しているっ!
だが、私には……」
プレギウスとの約束があった。
死に逝く盟友に、自分は誓ったのだ。
“必ず立派な領主に育ててみせる”と。
「随分と難儀な性格だな……」
ヴァルターはそう言って押し黙ったまま、硬直しているグリエルムの脇を通り過ぎる、と……
「あっ、そうだった……
頼まれてた例の件、おおよそ調べはついたぜ。
聞くかい?」
「……聞こう」
数拍の後に、グリエルムは壁から剣を抜き、鞘へと収めて振り返ると、そう答えた。
思うところはあったが、ヴァルターに調べ事をさせていたのは自分であり、本来はヴァルターもその報告の為にここへと来たのだ。
とにかく、今は報告を聞くべきと、グリエルムは蟠った思いは飲み込むことにした。
グリエルムは自身の仕事部屋に戻るなり、一つ大きく息を吐いた。
書類に埋もれた机の上を、気持ち程度に片付けると椅子にどかりと腰を落とす。
年の割に体格の良いグリエルムの体重を受けて、椅子がギシリと軋み声を上げた。
その音は、決して広くはない室内に、一際大きく響いた様な気がした。
視力には自身があったが、最近はやたらと手元が霞んで見える。
年の所為……だけ、と言う事はないだろう……
グリエルムは軽く目頭を押さえると、そのまま天を仰いだ。
「お疲れの様だな、大将」
突然背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
グリエルムは部屋に入る際、鍵を開けて入った。
そして、自分が部屋に入ってからは、誰かが扉を開けた感じはしていない。
窓はあるが、ここは二階でまた窓の前には机があり書類が堆く積まれているので、これらの山を崩さずに窓から入る事は困難をようするだろう。
ましてや、この部屋の窓などここ数年は開閉していない。そもそも開くかどうかが疑問でならない。
つまり、これらが意味することは、自分の留守中にこの声の主はどうやってかこの部屋へと侵入し、自分が帰ってくるのを待っていた、と言う事になる。
それも、今の今まで自分にまったく気配を感じさせることなく、だ。
これでも、スレーベン領を守護する騎士団の団長を務めた事もある身としては、プライドに傷をつけられた思いだった。
(私も耄碌したものだな……こいつの気配に気づけなんだとは……
どうせ手癖の悪いこいつの事だ。
大方、扉の錠を外して入ったのだろうが……まったく、器用なものだな)
そして、ご丁寧にも内側から鍵を掛け直した、と。
「ああ、これからまた貢租状の書き直しだ。
なんとか工面して3分の1は確保したのだがな……
閣下はそれではお気に召さなかったらしい」
貢租状とは、言わば“請求書”のような物だ。
実際に村や町に徴税吏を向かわせる前に、前年度の納税額を元に算出した、今年度の納税額の概算を通知する書状を送るのだ。
これを、貢租状と呼んだ。
いきなりやってきて“さぁ、税金を払え!”と言われても、無理がある。
だから、“今年の納税額はこれくらいになる予定です。だからあらかじめ用意しておいて下さい”と、先に通知したうえで、徴税吏を向かわせるのだ。そして、一度全てを徴収する。
貢租状には、麦ならこれだけ、金銭ならこれだけ、金貨ならこれだけ……と言った具合に納めるべき額が種類別に事細かく記されているので、支払いは払う側が任意で選ぶ事が出来る様になっていた。
勿論、それらを組み合わせた方法で支払っても構わない。
とは言え、農村部は麦以外に支払う方法はないので、実質的には無用の長物ではあったが。
そしてその後、農村部なら田畑の測量をしたうえで、年度の正確な納税金額を算出し、町なら人口や行商の往来、店舗の数などを記した帳簿を元に精査したうえで総合的に判断を下す。
足りない用なら追徴され、多ければ払い戻しだ。
測量は数日で済むのだが、帳簿の精査には数十日と言う期間を要することも少なくない。
それだけのものをグリエルムは一人で作成していたのだった。それも、スレーベン領の町村全ての分を、だ。
しかも、次に作る貢租状は減税なしの、領民にとってはまさに“死刑宣告”に等しい書状を、グリエルムは書かねばならなかった。
自然と筆も腕も気も重くなると言うものだった。
「で、大将。
俺はいつ、あの“油肉ダルマ”をやればいいんだ?」
「……滅相も無い事を言うな」
グリエルムはため息を漏らしつつ、声の主のいる背後へと振り返った。
そこには齢にして20に達するかどうかの若者が、壁に背を預けた姿で立っていた。
獣を思わせる鋭い眼光、ただ短く切っただけのざんばらな黒い髪。
そして、一際目を引く顔の傷。
その傷は、額から鼻筋の脇を抜けて左頬へと真っ直ぐに顔を縦断していた。
それは一見して、この若者が堅気の人間ではないことを如実に物語っていた。
ぱっと見、若い女性が好みそうな二枚目もこれでは台無しだった。
若者の名は、ヴァルターと言った。
苗字はあるのだろうが、グリエルムは知らない。特に興味もない。
そもそも、それが本名なのか偽名なのかすら判断する材料を、グリエルムは持っていなかった。
「大体なんで大将は、あんな小物に固執してんだよ?
この俺の顔に、こんだけでかい傷をつけたあんたほどの男が付従う様な器じゃねぇだろあれは?」
ヴァルターは“呆れた”と言わんばかりに、大仰に肩を竦めて見せ、顔を縦断する傷をすっとなぞった。
この無礼な態度からも分かる様に、ヴァルターはプギャールの家臣でも、グリエルムの部下でもなんでもない。
ましてや、グリエルムの友人などでは断じてなかった。
この男とグリエルムが初めて会ったのは、今から半年ほど前のことだった。
屋敷に賊として忍び込んだヴァルターを、グリエルムが切り伏せたのだ。
ヴァルターの顔の傷は、そのとき負ったものだった。
当時、いや今もなのだが……ヴァルターは所謂“義賊”として悪徳商人や金に汚い貴族の邸宅に侵入しては盗みを働き、それを貧しい者達に分け与える、というようなことをしていた。
が、腕に絶対の自信を持っていたヴァルターだったが、ここスレーベン領領主であるプギャールの屋敷に忍び込んだことで、その自信は完膚なきまで打ち砕かれることになった。
それは賊としても、戦士としても、二つの意味でだ。
結局、ヴァルターはプギャール邸から石ころ一つ盗み出すどころか、ただの一太刀もグリエルムに浴びせることが出来ぬまま、ただ一方的に敗れ去った。
今、ヴァルターが息をしてこの場に立っていられるのは、偏にグリエルムの慈悲に他ならないのだ。
先ほどヴァルターは、グリエルムの背後を取った。が、そこまでが限界だった。
もし、あの場で身動ぎ一つでもしていれば、グリエルムにすぐさま感づかれていたことだろう。
ましてや、斬りかかっていたとしたら……
その数瞬の後には、自分の首が胴体から泣き別れしていたであろことくらいヴァルターは十二分に理解していた。
グリエルムの剣は神速だ。
自分が剣を鞘から抜くまでの時間で、グリエルムなら5回は斬る。
そこには最早、天と地ほどの差があった。
一体どれほどの修練を積めばその頂へと至れるのか、一体どれほどの修羅場を潜ればあれほど隙のない身のこなしが出来るようになるのか……羨望した。
ヴァルターはグリエルムの剣に惚れたのだ。
一度は見逃してもらった身だったが、その後もこうしてこっそりと屋敷に度々訪れてはグリエルムに挑んで惨敗する……と言う事を繰り返していた。
……その度に生傷は増える一方だったが。
ヴァルターはもう、ここでは盗みを働くつもりはなかった。
金品より、目を惹くものがあるからだ。
それはグリエルムも分かっているようで、斬りかかって来るヴァルターをいつも適当にあしらっては追い返していた。
今は害も無い様なので好きにさせているが、もし、またぞろおかしな事を考えるようなら、次はない。膾に斬って捨てるだけだ。
ヴァルターから見れば、明らかに手を抜かれているのが分かるだけに業腹ではあったが、それが現状の実力差なのだと素直に認めていた。
そして、たまに……本当にたまにだが、グリエルムの仕事の手伝いなどもしたりしていた。
「買いかぶり過ぎだ。今はただの老いぼれた一兵卒に過ぎんよ。
私は、先代の領主であるプレギウス様から、直々に閣下の事を頼まれたのだ……
なればこそ、私が閣下を支え、付従うは当然のことではないか」
「先代の領主様ねぇ……あれの親父ってことだろ?
あの“脂身の塊”を見る限り、大して違いはなさそうだがな……」
プレギウスが逝去し、すでに二十と余年が過ぎようとしていた。
それはヴァルターのような若者にとっては、プレギウスと言う人物が過去の偉人でしかない、と言うことを意味していた。
そのことに、グリエルムは一抹の寂しさを感じた。
「お前のような若造では、知らぬのも無理からぬ事だが、スレーベン領の発展はプレギウス様の働き無くしてはあり得ぬ大業であり……」
「で、その偉大なプレギウス様は子育てには失敗した……と?
ついでに、そのボンクラ息子は親が育てた領地をせっせと食いつぶしてる、と?
はっ、笑えない冗談だ」
……グリエルムには耳に痛い言葉だった。
スレーベン家は武門の家柄だった。
歴史こそ浅いが、武に纏わる者らに彼らの名を知らぬ者はいないほど、広く知れ渡っていた。
“スレーベン家とだけは戦いたくはない”
そう内外に言わしめるほどに……
(それも、今となっては昔の話か……)
グリエルムは、現在当主の姿を思い浮かべて、心の中で嘆息した。
先代当主プレギウスはまさに絵に描いたような武人であった。
それは良い意味でも、悪い意味でも、だ。
プレギウスの身は常に戦場にあった。
当時のスレーベン領は今より幾分小さく、いくつかの国の国境線に面していた。そのため、隣国との国境線問題で小競り合いを繰り返していたのだ。
プレギウスは領地を守る為に戦い、領地をより豊かにする為に働いた。
それが領地を持つ貴族の責務と信じて。
家庭のことなど、一切顧みない男ではあった。
家のことも、子どものことも全て妻に任せきりになっていた。
彼にとって家族の存在は領民の次だったのだ。
しかし、だからと言って家族を愛していなかった訳ではない。
プレギウスは信じていたのだ。家族であるなら理解してくれる、と。
しかし、実際はそうではなかった。
少なくとも、彼の妻はプレギウスを理解してくれてはいなかった。
政略結婚だったとは言え、まったく家に寄り付かないプレギウスに嫌気がさした彼の妻は、生まれたばかりの息子を残して、屋敷を出て行ってしまったのだ。
取り残された息子、それがプギャールだった。
勿論、彼女だけが悪かった訳ではないのだろう。
口数が非常に少なく、必要最低限の言葉しか口にしなかったプレギウスにも問題はあったのだ。
しっかり互いに話し合っていれば、そんな事にはならなかったのではないか……
少なくとも、誰かが二人の間を取り持っていれば……と、それは自分の役目だったのではないか……と、グリエルムは未だにそんな詮無き事に思い悩む時があった。
そんな事があっても、プレギウスは変わらなかった。変われなかった。
長年染み付いた主観はそうそう変えられるものでもなかった。
母は屋敷を出てしまい、父は寄り付かない。
そんなブギャールを世話をしていたのは、プレギウスに仕える使用人たちだった。
しかし使用人はあくまで使用人。
プレギウスの息子であるプギャールの言葉は、屋敷の中では絶対であり誰もプギャールには逆らわなかった。
子どもが権力を手にして、増長しない訳がない。
プギャールは、我侭に傍若無人に育っていった……
確かに、それはプギャールを教育しなかったプレギウスの所為と言えた。
しかし……
誰よりも誠実で不器用だったプレギウスの姿を間近で見てきたグリエルムにとって、プレギウスを責める事がどうしてもできなかった。
プレギウスはグリエルムをはじめとした信頼の置ける部下たちに、酒の席などでよくこうこぼしていた。
“自分は戦うことしか知らない”と、“自分に人に何かを教える器量などない”と……
だからこそ、自分の姿で語ろうとしたのだ。伝えようとしたのだ。
貴族とはどうあるべきか、戦うとは、守るとはどういうものかを。
しかし、プレギウスの思いは欠片もプギャールには伝わることはなかった。
今際の際に、プレギウスが自分を呼び力なく“息子を頼む”と言った言葉は、今でもグリエルムは鮮明に覚えていた。
プレギウスが亡くなって、もう二十と余年が過ぎようとしていた。
その間、グリエルムは必死でプギャールを更生させようと試みたが、全て徒労に終っている。
特に最近は、自分の進言は一切聞かない素振りがある。
あのサンチョとか言う商人を囲うようになってから、その反応は特に顕著だった。
「大将、あんたまさか“親父が立派だったから、その息子も立派な人間になる”……
なんて夢物語を期待してんじゃないだろうな?」
「……」
返す言葉がなかった……
それこそある日突然、憑き物が落ちたように今までの行いを恥じ、プギャールが善政を執り行う……
そんな淡い期待が、まったく無いかと言うと嘘になった。
「はっ……マジかよ……」
無言のままだったグリエルムに何を思ったのか、ヴァルターは馬鹿にする様に鼻で笑うと冷笑をグリエルムへと向けた。
「この際だから、はっきり言ってやるよ。
アレはもう終ってる。あの手の輩が破滅するところんていくらでも見てきたからな」
「…… ……」
「早めに処分しねぇと、この領地……取り返しのつかない事になるぜ大将」
「…… ……うな」
「俺に言わせりゃ大将、あんただってあの豚野郎と同罪なんだぜ?
あんたがあの豚を放置しただけ、どこかの誰かが苦しんでんだ」
「……いうな……」
「今ここであいつをやらなきゃ、これから先あいつに苦しめられる領民がどれだけ出てくると思ってる?
今、この現状があんたの仕えてた“先代の領主”の望んだ姿だと……」
カインッ!
「言うなぁ!!」
グリエルムの裂帛の気迫と共に、ヴァルターの耳元を何かが掠めた。
確かめるまでも無く、それはグリエルムの剣だった。
それが、ヴァルターが背を預けていた壁に突き刺さっていたのだ。
「そんなことはお前の様な若造に言われずとも、百も承知しているっ!
だが、私には……」
プレギウスとの約束があった。
死に逝く盟友に、自分は誓ったのだ。
“必ず立派な領主に育ててみせる”と。
「随分と難儀な性格だな……」
ヴァルターはそう言って押し黙ったまま、硬直しているグリエルムの脇を通り過ぎる、と……
「あっ、そうだった……
頼まれてた例の件、おおよそ調べはついたぜ。
聞くかい?」
「……聞こう」
数拍の後に、グリエルムは壁から剣を抜き、鞘へと収めて振り返ると、そう答えた。
思うところはあったが、ヴァルターに調べ事をさせていたのは自分であり、本来はヴァルターもその報告の為にここへと来たのだ。
とにかく、今は報告を聞くべきと、グリエルムは蟠った思いは飲み込むことにした。
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偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。
スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!
冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!
異世界に召喚されて2日目です。クズは要らないと追放され、激レアユニークスキルで危機回避したはずが、トラブル続きで泣きそうです。
もにゃむ
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父親に教師になる人生を強要され、父親が死ぬまで自分の望む人生を歩むことはできないと、人生を諦め淡々とした日々を送る清泉だったが、夏休みの補習中、突然4人の生徒と共に光に包まれ異世界に召喚されてしまう。
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