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王の望み
魔獣の戦士
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――オーラリオに向かう、アージュとフィルドの目的を知りたい。
リューの質問に、フィルドは黙った。
「あの、駄目なら」
「ああ、いえ。意外だっただけです。陛下と私の目的ねえ。それを訊いてどうしようと?」
「アージュ様にとって大切な意味があるようだったから。ただ、知りたいだけです。……アージュ様のこと」
「…………」
何か考えているのか、答えに少し間があった。
「ガグルエ王のお考えを引き出すのに、薬草と引き換えというのも……」
「あの! 教えてくれるなら何でもします!」
「うんうん、良い返事です。では……」
フィルドはリューに一つ頼み事をした。リューは真剣に耳を傾ける。
聞き終わって、リューは首を傾げた。
「それは一体……?」
「陛下にとって悪いことではないから大丈夫ですよ。陛下が戻ったら、お願いしますね」
「はい!」
よく分からないが、アージュが信頼しているフィルドの言うことなら大丈夫だろう。
フィルドが立て掛けてあった床几を使うよう勧めてくれる。いよいよ話してくれるようだ。リューは床几を開き、膝を揃えて座った。
「オーラリオという国について、どのくらい知っていますか」
簡易机の上に丸まっていた地図を、フィルドが広げた。
リューは地図を覗きこむ。地名を読めないでいるとフィルドが指を立て、越えてきたばかりのオールディーク山脈の場所をなぞって教えてくれた。
「真珠や毛皮が獲れる国だと聞きました。学んだことがないので、あまり知らないんです。隣の国なので、少しは噂を耳にするのですが」
「真珠……、そう。この国の南東の端に、入り江があるんですよ。昔はとても澄んでいて、魚人族しか知らない、神秘的な場所だった」
「昔……?」
「オーラリオの王軍が、その入り江を制圧し、抵抗する者たちを皆殺しにした……、その日まで……」
(皆殺し――)
リューは息を飲んだ。
「君は陛下のことを知りたいのでしたね。申し訳ないですが、陛下自身はオーラリオに興味ありませんよ」
机に置いたフィルドの手が、拳を握った。
「オーラリオを目指したのは私です。そして陛下は、私の悲願に付き合ってくれると約束した」
---
種族の統一されていないガグルエは、故郷を失った魚人のフィルドにとって、入り込みやすい国だった。
青春時代の全てを、オーラリオとの戦闘に費やしたフィルドは、すぐに兵として頭角を現した。大国ガグルエの軍でそれなりの働きをしていれば、金には困らない。ガグルエに根を下ろすのは、存外簡単だった。
「また砂嵐か」
荒々しい自然。フィルドの故郷とは似ても似つかない国。
無機質なこの国の風がどれほど荒々しく吹いても、フィルドの心は波立たなかった。
「……アッ……ぐ……」
眠るたびに響く波音。
気持ちはいまだ、あの入り江にある。
夜を迎えるたびに、澄んだ青が赤く染まった。
そんな日々の中、フィルドはある男に気を留めるようになった。
魔力、剣技、指揮、全てにおいて他を圧倒する力を持つ。
それなのに皆、その男を遠巻きにして近づかない。
――魔獣族の戦士アージュは、いつも一人でいた。
「助かったよ……」
敵に囲まれたところを、アージュが駆けつけてくれた。アージュは敵兵を蹴散らし、礼を言うフィルドを一瞥する。
「……ッ」
その目に、フィルドは全身が竦んだ。四つ目の容姿のせいだけではない。魔力をほとんど使えないフィルドは、魔力を感知したことはなかった。そのフィルドの体が、本能的に怯えを感じているのだ。
アージュはフィルドの反応に気づいたか気づいていないのか。すぐに他の首を探して駆けていった。
「あれが、魔獣の王子……」
一騎だけだというのに、彼の行く手は、まるで大軍の鋒矢に突かれたように、血に染まり、散り散りになっていく。
フィルドは呆然とその姿を見送った。
魔獣族は容姿、魔力の差が大きい。
その中でも、アージュは魔の力を濃く宿して生まれてきたそうだ。
おぞましい姿に、先代は失望したが、その膨大な魔力は惜しく、戦士として育てられた。
一歩間違えれば暴走する魔力で、側にいた者を幾人も黄泉へ送った。魔力を自力で掌握できるようになってからも、アージュはいつも一人でいた。
戦地から戦地を渡り歩き、王都には近づかない。王族という地位からは、転落したも同然だった。
「くっ。無茶な指揮して……」
フィルドのいる隊は突出し、敵陣の真っただ中だった。
幸い、アージュが近くにいる。彼の側を離れないよう立ち回れば、死ぬことはないだろう。
「今回の私たちの大将、君の兄なのだろう。随分とお粗末な指揮だな」
剣を構え敵を警戒しながら、アージュに話しかけた。
「兄と言われても、話したこともない」
「君が指揮をした方が良さそうに感じるが」
助けられて以来、時折、フィルドはアージュに話しかけている。歓迎はされないが、邪険にもされない。アージュに足手纏いとは思われていないのだろう。
指揮能力について、アージュは高い能力を持っているように感じる。
アージュは中央の権力闘争から除外されている観があり、軍団の大将になることは少ない。一兵士や小さな隊の長として、戦場を自由に走り回っていることが多い。
しかし、辺境や危険地帯に行けば、末端とはいえ王子より高い格を持つ者はいなくなる。結果として、アージュは何度か大将を務めることになった。
彼は連戦負けなしだった。
「今回だって、適切に動けばこんな劣勢……」
「口を動かす余裕はあるようだが。いつものように良い首を探しにいってはどうだ。そこにも転がっている」
「君が倒した敵を、首だけ獲る気はしない」
「それは悪かったな。だが私は手を止める気はない。お前の戦功はお前自身で確保しろ」
「分かっているよ」
そう言いつつ、フィルドはアージュから離れない。この敵の猛攻に気圧されない者など、アージュくらいだ。もう少し敵が弱るのを待たなくては。
王族のことや、出世のこととなると、話題を逸らされている気がする。
アージュからは地位への執着をまるで感じない。手を伸ばせば、掴むだけの能力はありそうなのに。
「君は……王になりたくはないのか」
「なっても誰もついてこないだろう」
アージュは自嘲するでもなく、淡々と言った。
(そうだろうか)
今、フィルドはアージュに背を預けている。
揺るぎない信頼を寄せて。
アージュを知れば知るほど、その才覚の底知れなさに、フィルドは唸った。
しかも、普段の能力に比べ、軍が危機に直面した時の能力が桁外れに高い。普段は手を抜いていることが見てとれる。
――あれほどの猛者がいれば、我々の一族は……。
涼しい顔をしたアージュを見るたび、フィルドは苛立ちを感じるようになった。
(……違う)
フィルドは気づいた。
(涼しい顔なんて……、他者を放っておいてなどいない)
アージュは、自由に行動しているように見えて、危機に陥った隊にばかり向かっている。そこに名高い首がいようといまいと関係ない。
そこにはいつも、味方が助けたいと思うような男がいた。能力のある者、懸命な者――誰かのために戦う者。
ただただ救い、颯爽と去る。
圧倒的な力を持つとはいえ、怪我をしないわけではない。疲れないはずはない。それでもアージュは、淡々と戦場を駆け、敵を屠っていった。
ガグルエ以上の国力を持つ国を知らない。
――それ以上に……。
アージュ以上に王にふさわしい男を知らない。
そんな男が――。
劣勢の戦場。
今まさに剣戟の音が響いているというのに、アージュは味方と距離を取り、作戦地点を離れようとしていた。
「どこに行く」
フィルドが咎めると、アージュは仕方ないといった表情で答える。
「王が病に倒れた」
「何だと……」
「まだ箝口令が敷かれているが、王宮にいる人が情報を流してくれた」
「味方がいるのか」
「一度助けたことがあるだけだ」
それが誰だかは、アージュは口にしない。アージュの味方をしたことが、他の者に知れると、今後その人が不利になるからだろう。
「王子の一人が、私を捕縛するための軍を差し向けてきた」
王子……つまり兄か。
「従順にしていたつもりだが、それでも生きることを許さないらしい」
アージュは淡々と伝えた。
(馬鹿な……。ガグルエ軍の宝だぞ……)
アージュが時折する”手抜き”は、兄王子のくだらない嫉妬を躱すために、気を使った結果だ。その嫉妬を抑え、アージュに思う存分戦功を上げさせていれば、どれだけガグルエの領土拡大に役立ったか。
そして、兄王子はいまだ不満があり、アージュを排除しようというのか。
「王子の軍がこの戦場に乱入してきては厄介だ」
この軍は、王子の軍と敵国の軍、両方と対することになる。
「私が他国に逃げることを示すため、街道方面の敵を派手に蹴散らす。その後軍を抜け西に向かう」
「どうしてあんたが逃げなくてはいけないんだ」
「別に……、王になりたい者がなればいい。敵を差し向けられてまで、この国に残る理由はない」
「理由……」
「……じゃあな」
アージュは背を向けて、街道方面に向かおうとした。
(……静かに消えることもできるだろうに……)
派手に暴れて、この軍にアージュがいなくなったことを示そうとしている。
この軍が兄王子の軍に襲われないように。
こんな時まで、他者のことを考えている。
「なあ……」
どうしたらこの男を引き留められるだろう。生まれた国にも、王の座にも興味を持たないこの男を。
「その力、必要としている者がいたらどうだ」
フィルドの呟きに、アージュは足を止めた。ただ、こちらに振り向こうとはしない。
「私がお前に協力する義理は……」
「賭けをしよう。どちらが先に敵総大将の首を落とせるか。それに勝った者は、相手にどんなことでも要求できる」
「それに私が負けるとでも?」
「お前の力を手に入れるためには、奇跡を起こすしかない」
アージュは敵の布陣を見渡す。総大将の旗は、奥の方。
「……それで気が済むならな」
アージュならともかく、他の者が単騎で飛び出して討てるわけがない。途中で歩を止めると思ったのだろう。
フィルドもそう思っている。
けれど、
(一度は死んだ身だ)
あの波の音を振り払うこともできず、ただ生きながらえていることに、フィルド自身も疲れ果てていたのかもしれない。
フィルドはまっすぐに総大将を目指した。
アージュと違い、フィルドには途中の敵全てを倒す力はない。敵の間を縫って、気づかれないように、追われないように、けれど全速力で進む。
アージュはすぐ後ろをついてきていた。フィルドを観察するように、少し遅れて。けれどフィルドが孤立しないよう距離が開かないように保って。
「……どこまで行く気だ……!」
アージュの声が少し遠くなった。この人数だと、さすがに思うようには進めないらしい。
幾筋もの剣が、槍がフィルドを襲う。フィルドは猛者ではあるが、アージュのような圧倒的な力はない。どれだけ返り討ちにしても、前を塞ぐ敵兵。
真っ赤に染まる視界。
(ああ……)
赤い世界が消え、青に染まっていく。あの入り江の美しき……。
「馬鹿野郎……!」
アージュの怒鳴り声と共に、フィルドの体は浮き上がった。
そこに多数の剣が、ガシャンと、音を立ててぶつかった。
「……っ」
避けていなければ、八方から刺されていた。アージュに引き寄せられていなければ。
(号令とかの大声ではなく、感情的に怒鳴るの、初めて聞いた……)
フィルドは周りを見て、気がついた。
目の前には、敵軍のひと際大きい青い旗が風に翻っている。
少し視線をずらせば、総大将は目の前だった。
「こんな……」
自分がこんなところまで来たのか。自分で賭けを持ち出しておいて、信じられなかった。
(死ぬ気というのは、これほど……。いや、違う。心のどこかで、アージュが来てくれれば、無事辿りつくと信じていた)
フィルドの無謀な突進を、アージュが”守るべきもの”と判断してくれれば。
(来てくれた)
アージュはきっと、フィルドの賭けに興味を持ったのだ。
(あと、少し……)
フィルドは傷ついた体を起こす。
「総大将の首は私のものだ」
青い旗を見上げる視界が、やがて白く霞んでいく。足は重く、剣を杖にして進む。
「勝負……だ……。アージュ……」
敵兵が正面から剣を振りかぶる。フィルドは剣を持ちなおそうとして、手が滑った。足も崩れ落ちる。
(迎え……撃たなくては……)
その敵兵が目の前で胴を寸断される。血飛沫が、フィルドの視界を塞いだ。
「見捨てれば勝つ賭けなど……私の負けでいい。ここまで来た時点で、お前の勝ちだ」
暗闇で聞こえた、戦場に似つかわしくない、穏やかな声。
その真意を訊き返す間もなく、フィルドの意識は、暗闇の中に落ちていった。
目覚めた時、敵国の軍も、兄王子の軍も蹴散らされた後だった。
そして、軍病院のベッドに横たわるフィルドを、アージュが訪ねてきた。
「他国へ、行ったんじゃ……」
「お前の願いを聞く前に、ガグルエを離れるわけにはいかないだろう」
「私は、勝ったのか……?」
「ああ」
敵国の総大将の首を上げたのは、フィルドということになっていた。フィルドは記憶を手繰り寄せようとするが、まだ頭がずきずきする。
(敵総大将に、会った覚えもないのだが、本当に?)
頭を抱えるフィルドに構わず、アージュは訊く。
「それで? 私への要求は何だ」
彼の赤い目に見つめられる。ぞくりとする暗い魔力の波動が、フィルドにあの日の絶望を思い起こさせた。
「私の悲願……。この大陸の東の端に置き忘れた、あの美しい故郷を取り返してくれ。ガグルエの力を手に入れて……」
「いいだろう」
悪魔のような容姿でありながら、アージュは穏やかに笑った。
即位式の日。新しき王の前に、臣下が一堂に集まる。
まだ痛む全身。立っているのもやっとのフィルドの目の前で、アージュが玉座への階を上った。
そしてフィルド一人の足では決して届かなかった場所へ――ガグルエは東への遠征を開始する。
アージュを動かすために、失った体の機能。ボロボロになったフィルドの体は、以前のようには動かなくなった。
「……お前は頭がいいから、大丈夫だろう」
アージュはぽんっとフィルドの頭を叩いた。
(陛下……)
このころには、もう思い出していた。
フィルドはあの日、敵国の総大将の前に辿りつく前に倒れたのだ。あそこにいた味方はアージュだけ。総大将を倒したとしたら、アージュしかいない。
そして、フィルドが政治を学んでいる間、軍中にありながら、アージュはガグルエ国政も回してくれた。荒く対処療法的なところはあるが、アージュはそれを対応の素早さで補っていた。己の欲望に忠実な今までの王と比べると、アージュは私欲が無く、国政も優れている。最初はフィルドの方が彼のやり方を盗んでいた。
(……陛下、貴方にとって、王になることは、ただの重荷かもしれない。他国に行った方が、よほど自由に生きられた)
罪悪感が、ちくりと心を刺す。
(けれど私は、貴方を主に戴けて……。ガグルエが好きになれそうです)
ついていきたい。
例え最初に方向を指し示したのがフィルドであったとしても。
アージュが歩き出した道こそ、フィルドの行く道だ。
リューの質問に、フィルドは黙った。
「あの、駄目なら」
「ああ、いえ。意外だっただけです。陛下と私の目的ねえ。それを訊いてどうしようと?」
「アージュ様にとって大切な意味があるようだったから。ただ、知りたいだけです。……アージュ様のこと」
「…………」
何か考えているのか、答えに少し間があった。
「ガグルエ王のお考えを引き出すのに、薬草と引き換えというのも……」
「あの! 教えてくれるなら何でもします!」
「うんうん、良い返事です。では……」
フィルドはリューに一つ頼み事をした。リューは真剣に耳を傾ける。
聞き終わって、リューは首を傾げた。
「それは一体……?」
「陛下にとって悪いことではないから大丈夫ですよ。陛下が戻ったら、お願いしますね」
「はい!」
よく分からないが、アージュが信頼しているフィルドの言うことなら大丈夫だろう。
フィルドが立て掛けてあった床几を使うよう勧めてくれる。いよいよ話してくれるようだ。リューは床几を開き、膝を揃えて座った。
「オーラリオという国について、どのくらい知っていますか」
簡易机の上に丸まっていた地図を、フィルドが広げた。
リューは地図を覗きこむ。地名を読めないでいるとフィルドが指を立て、越えてきたばかりのオールディーク山脈の場所をなぞって教えてくれた。
「真珠や毛皮が獲れる国だと聞きました。学んだことがないので、あまり知らないんです。隣の国なので、少しは噂を耳にするのですが」
「真珠……、そう。この国の南東の端に、入り江があるんですよ。昔はとても澄んでいて、魚人族しか知らない、神秘的な場所だった」
「昔……?」
「オーラリオの王軍が、その入り江を制圧し、抵抗する者たちを皆殺しにした……、その日まで……」
(皆殺し――)
リューは息を飲んだ。
「君は陛下のことを知りたいのでしたね。申し訳ないですが、陛下自身はオーラリオに興味ありませんよ」
机に置いたフィルドの手が、拳を握った。
「オーラリオを目指したのは私です。そして陛下は、私の悲願に付き合ってくれると約束した」
---
種族の統一されていないガグルエは、故郷を失った魚人のフィルドにとって、入り込みやすい国だった。
青春時代の全てを、オーラリオとの戦闘に費やしたフィルドは、すぐに兵として頭角を現した。大国ガグルエの軍でそれなりの働きをしていれば、金には困らない。ガグルエに根を下ろすのは、存外簡単だった。
「また砂嵐か」
荒々しい自然。フィルドの故郷とは似ても似つかない国。
無機質なこの国の風がどれほど荒々しく吹いても、フィルドの心は波立たなかった。
「……アッ……ぐ……」
眠るたびに響く波音。
気持ちはいまだ、あの入り江にある。
夜を迎えるたびに、澄んだ青が赤く染まった。
そんな日々の中、フィルドはある男に気を留めるようになった。
魔力、剣技、指揮、全てにおいて他を圧倒する力を持つ。
それなのに皆、その男を遠巻きにして近づかない。
――魔獣族の戦士アージュは、いつも一人でいた。
「助かったよ……」
敵に囲まれたところを、アージュが駆けつけてくれた。アージュは敵兵を蹴散らし、礼を言うフィルドを一瞥する。
「……ッ」
その目に、フィルドは全身が竦んだ。四つ目の容姿のせいだけではない。魔力をほとんど使えないフィルドは、魔力を感知したことはなかった。そのフィルドの体が、本能的に怯えを感じているのだ。
アージュはフィルドの反応に気づいたか気づいていないのか。すぐに他の首を探して駆けていった。
「あれが、魔獣の王子……」
一騎だけだというのに、彼の行く手は、まるで大軍の鋒矢に突かれたように、血に染まり、散り散りになっていく。
フィルドは呆然とその姿を見送った。
魔獣族は容姿、魔力の差が大きい。
その中でも、アージュは魔の力を濃く宿して生まれてきたそうだ。
おぞましい姿に、先代は失望したが、その膨大な魔力は惜しく、戦士として育てられた。
一歩間違えれば暴走する魔力で、側にいた者を幾人も黄泉へ送った。魔力を自力で掌握できるようになってからも、アージュはいつも一人でいた。
戦地から戦地を渡り歩き、王都には近づかない。王族という地位からは、転落したも同然だった。
「くっ。無茶な指揮して……」
フィルドのいる隊は突出し、敵陣の真っただ中だった。
幸い、アージュが近くにいる。彼の側を離れないよう立ち回れば、死ぬことはないだろう。
「今回の私たちの大将、君の兄なのだろう。随分とお粗末な指揮だな」
剣を構え敵を警戒しながら、アージュに話しかけた。
「兄と言われても、話したこともない」
「君が指揮をした方が良さそうに感じるが」
助けられて以来、時折、フィルドはアージュに話しかけている。歓迎はされないが、邪険にもされない。アージュに足手纏いとは思われていないのだろう。
指揮能力について、アージュは高い能力を持っているように感じる。
アージュは中央の権力闘争から除外されている観があり、軍団の大将になることは少ない。一兵士や小さな隊の長として、戦場を自由に走り回っていることが多い。
しかし、辺境や危険地帯に行けば、末端とはいえ王子より高い格を持つ者はいなくなる。結果として、アージュは何度か大将を務めることになった。
彼は連戦負けなしだった。
「今回だって、適切に動けばこんな劣勢……」
「口を動かす余裕はあるようだが。いつものように良い首を探しにいってはどうだ。そこにも転がっている」
「君が倒した敵を、首だけ獲る気はしない」
「それは悪かったな。だが私は手を止める気はない。お前の戦功はお前自身で確保しろ」
「分かっているよ」
そう言いつつ、フィルドはアージュから離れない。この敵の猛攻に気圧されない者など、アージュくらいだ。もう少し敵が弱るのを待たなくては。
王族のことや、出世のこととなると、話題を逸らされている気がする。
アージュからは地位への執着をまるで感じない。手を伸ばせば、掴むだけの能力はありそうなのに。
「君は……王になりたくはないのか」
「なっても誰もついてこないだろう」
アージュは自嘲するでもなく、淡々と言った。
(そうだろうか)
今、フィルドはアージュに背を預けている。
揺るぎない信頼を寄せて。
アージュを知れば知るほど、その才覚の底知れなさに、フィルドは唸った。
しかも、普段の能力に比べ、軍が危機に直面した時の能力が桁外れに高い。普段は手を抜いていることが見てとれる。
――あれほどの猛者がいれば、我々の一族は……。
涼しい顔をしたアージュを見るたび、フィルドは苛立ちを感じるようになった。
(……違う)
フィルドは気づいた。
(涼しい顔なんて……、他者を放っておいてなどいない)
アージュは、自由に行動しているように見えて、危機に陥った隊にばかり向かっている。そこに名高い首がいようといまいと関係ない。
そこにはいつも、味方が助けたいと思うような男がいた。能力のある者、懸命な者――誰かのために戦う者。
ただただ救い、颯爽と去る。
圧倒的な力を持つとはいえ、怪我をしないわけではない。疲れないはずはない。それでもアージュは、淡々と戦場を駆け、敵を屠っていった。
ガグルエ以上の国力を持つ国を知らない。
――それ以上に……。
アージュ以上に王にふさわしい男を知らない。
そんな男が――。
劣勢の戦場。
今まさに剣戟の音が響いているというのに、アージュは味方と距離を取り、作戦地点を離れようとしていた。
「どこに行く」
フィルドが咎めると、アージュは仕方ないといった表情で答える。
「王が病に倒れた」
「何だと……」
「まだ箝口令が敷かれているが、王宮にいる人が情報を流してくれた」
「味方がいるのか」
「一度助けたことがあるだけだ」
それが誰だかは、アージュは口にしない。アージュの味方をしたことが、他の者に知れると、今後その人が不利になるからだろう。
「王子の一人が、私を捕縛するための軍を差し向けてきた」
王子……つまり兄か。
「従順にしていたつもりだが、それでも生きることを許さないらしい」
アージュは淡々と伝えた。
(馬鹿な……。ガグルエ軍の宝だぞ……)
アージュが時折する”手抜き”は、兄王子のくだらない嫉妬を躱すために、気を使った結果だ。その嫉妬を抑え、アージュに思う存分戦功を上げさせていれば、どれだけガグルエの領土拡大に役立ったか。
そして、兄王子はいまだ不満があり、アージュを排除しようというのか。
「王子の軍がこの戦場に乱入してきては厄介だ」
この軍は、王子の軍と敵国の軍、両方と対することになる。
「私が他国に逃げることを示すため、街道方面の敵を派手に蹴散らす。その後軍を抜け西に向かう」
「どうしてあんたが逃げなくてはいけないんだ」
「別に……、王になりたい者がなればいい。敵を差し向けられてまで、この国に残る理由はない」
「理由……」
「……じゃあな」
アージュは背を向けて、街道方面に向かおうとした。
(……静かに消えることもできるだろうに……)
派手に暴れて、この軍にアージュがいなくなったことを示そうとしている。
この軍が兄王子の軍に襲われないように。
こんな時まで、他者のことを考えている。
「なあ……」
どうしたらこの男を引き留められるだろう。生まれた国にも、王の座にも興味を持たないこの男を。
「その力、必要としている者がいたらどうだ」
フィルドの呟きに、アージュは足を止めた。ただ、こちらに振り向こうとはしない。
「私がお前に協力する義理は……」
「賭けをしよう。どちらが先に敵総大将の首を落とせるか。それに勝った者は、相手にどんなことでも要求できる」
「それに私が負けるとでも?」
「お前の力を手に入れるためには、奇跡を起こすしかない」
アージュは敵の布陣を見渡す。総大将の旗は、奥の方。
「……それで気が済むならな」
アージュならともかく、他の者が単騎で飛び出して討てるわけがない。途中で歩を止めると思ったのだろう。
フィルドもそう思っている。
けれど、
(一度は死んだ身だ)
あの波の音を振り払うこともできず、ただ生きながらえていることに、フィルド自身も疲れ果てていたのかもしれない。
フィルドはまっすぐに総大将を目指した。
アージュと違い、フィルドには途中の敵全てを倒す力はない。敵の間を縫って、気づかれないように、追われないように、けれど全速力で進む。
アージュはすぐ後ろをついてきていた。フィルドを観察するように、少し遅れて。けれどフィルドが孤立しないよう距離が開かないように保って。
「……どこまで行く気だ……!」
アージュの声が少し遠くなった。この人数だと、さすがに思うようには進めないらしい。
幾筋もの剣が、槍がフィルドを襲う。フィルドは猛者ではあるが、アージュのような圧倒的な力はない。どれだけ返り討ちにしても、前を塞ぐ敵兵。
真っ赤に染まる視界。
(ああ……)
赤い世界が消え、青に染まっていく。あの入り江の美しき……。
「馬鹿野郎……!」
アージュの怒鳴り声と共に、フィルドの体は浮き上がった。
そこに多数の剣が、ガシャンと、音を立ててぶつかった。
「……っ」
避けていなければ、八方から刺されていた。アージュに引き寄せられていなければ。
(号令とかの大声ではなく、感情的に怒鳴るの、初めて聞いた……)
フィルドは周りを見て、気がついた。
目の前には、敵軍のひと際大きい青い旗が風に翻っている。
少し視線をずらせば、総大将は目の前だった。
「こんな……」
自分がこんなところまで来たのか。自分で賭けを持ち出しておいて、信じられなかった。
(死ぬ気というのは、これほど……。いや、違う。心のどこかで、アージュが来てくれれば、無事辿りつくと信じていた)
フィルドの無謀な突進を、アージュが”守るべきもの”と判断してくれれば。
(来てくれた)
アージュはきっと、フィルドの賭けに興味を持ったのだ。
(あと、少し……)
フィルドは傷ついた体を起こす。
「総大将の首は私のものだ」
青い旗を見上げる視界が、やがて白く霞んでいく。足は重く、剣を杖にして進む。
「勝負……だ……。アージュ……」
敵兵が正面から剣を振りかぶる。フィルドは剣を持ちなおそうとして、手が滑った。足も崩れ落ちる。
(迎え……撃たなくては……)
その敵兵が目の前で胴を寸断される。血飛沫が、フィルドの視界を塞いだ。
「見捨てれば勝つ賭けなど……私の負けでいい。ここまで来た時点で、お前の勝ちだ」
暗闇で聞こえた、戦場に似つかわしくない、穏やかな声。
その真意を訊き返す間もなく、フィルドの意識は、暗闇の中に落ちていった。
目覚めた時、敵国の軍も、兄王子の軍も蹴散らされた後だった。
そして、軍病院のベッドに横たわるフィルドを、アージュが訪ねてきた。
「他国へ、行ったんじゃ……」
「お前の願いを聞く前に、ガグルエを離れるわけにはいかないだろう」
「私は、勝ったのか……?」
「ああ」
敵国の総大将の首を上げたのは、フィルドということになっていた。フィルドは記憶を手繰り寄せようとするが、まだ頭がずきずきする。
(敵総大将に、会った覚えもないのだが、本当に?)
頭を抱えるフィルドに構わず、アージュは訊く。
「それで? 私への要求は何だ」
彼の赤い目に見つめられる。ぞくりとする暗い魔力の波動が、フィルドにあの日の絶望を思い起こさせた。
「私の悲願……。この大陸の東の端に置き忘れた、あの美しい故郷を取り返してくれ。ガグルエの力を手に入れて……」
「いいだろう」
悪魔のような容姿でありながら、アージュは穏やかに笑った。
即位式の日。新しき王の前に、臣下が一堂に集まる。
まだ痛む全身。立っているのもやっとのフィルドの目の前で、アージュが玉座への階を上った。
そしてフィルド一人の足では決して届かなかった場所へ――ガグルエは東への遠征を開始する。
アージュを動かすために、失った体の機能。ボロボロになったフィルドの体は、以前のようには動かなくなった。
「……お前は頭がいいから、大丈夫だろう」
アージュはぽんっとフィルドの頭を叩いた。
(陛下……)
このころには、もう思い出していた。
フィルドはあの日、敵国の総大将の前に辿りつく前に倒れたのだ。あそこにいた味方はアージュだけ。総大将を倒したとしたら、アージュしかいない。
そして、フィルドが政治を学んでいる間、軍中にありながら、アージュはガグルエ国政も回してくれた。荒く対処療法的なところはあるが、アージュはそれを対応の素早さで補っていた。己の欲望に忠実な今までの王と比べると、アージュは私欲が無く、国政も優れている。最初はフィルドの方が彼のやり方を盗んでいた。
(……陛下、貴方にとって、王になることは、ただの重荷かもしれない。他国に行った方が、よほど自由に生きられた)
罪悪感が、ちくりと心を刺す。
(けれど私は、貴方を主に戴けて……。ガグルエが好きになれそうです)
ついていきたい。
例え最初に方向を指し示したのがフィルドであったとしても。
アージュが歩き出した道こそ、フィルドの行く道だ。
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水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
【完結】僕の好きな旦那様
ビーバー父さん
BL
生まれ変わって、旦那様を助けるよ。
いつ死んでもおかしくない状態の子猫を気まぐれに助けたザクロの為に、
その命を差し出したテイトが生まれ変わって大好きなザクロの為にまた生きる話。
風の精霊がテイトを助け、体傷だらけでも頑張ってるテイトが、幸せになる話です。
異世界だと思って下さい。
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
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