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05 いびつなふたり

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 外はもう暗くなっていた。
 涼介の家の薄暗い階段を静かに降りていき、愛花は玄関へと向かう。

 帰宅の時間は、いつも、とても寂しい気持ちになる。

 涼介は見送りなどしてくれない。それは構わない。たっぷりと愛してもらえたのだから、それ以上を望むなんて、おこがましい。

「…………」

 それでも。
 彼が触れてくれた肌や、乱暴にされた体内にまだ熱が残っていて、それが疼くたびに寂しさを覚えるのだ。もっともっと。まだ足りない、と――。

「愛花さん」

 不意に背中に声を掛けられて、愛花はビクリと立ち止まる。振り返ると、涼介の妹が立っていた。

真凜まりんちゃん――」
「兄さんも酷いですよね。送っていってあげればいいのに」
「そんな……」

 薄暗がりで会うには、心臓に悪い少女だった。

 切りそろえられた前髪。ストンとまっすぐな長い黒髪。外出時からそのままだったのか、休日だが制服姿だ。

「兄さんってば、服を着るのが面倒なんですよ、きっと。ああ見えて無精なところがありますからね」

 近づいてくる真凜から、目を離せない。
 ゾっとするほどの美貌に、いつも薄い微笑をたたえている涼介の義妹。

 彼女を見るたび、愛花は薄くて鋭い刃物を想起して、身震いを起こしてしまう。彼女に切り裂かれる自身を妄想して、足が竦んでしまう。

「愛花さん、最近その髪型ですよね」
「…………」

 愛花は答えあぐねて、口をつぐむ。

 まったく隙のない真凛の美貌。近くで見れば見るほど、それを実感させられる。

 黒目がちで切れ長な、魅惑的な大きな双眸。すっと通った鼻筋に、薄い桃色の唇。顎は細く、透き通るような肌をしている。

 完成されすぎていて可愛げを感じさせない、どこか人形めいた少女。

 涼介とは血の繋がりはないはずなのに、なぜか彼を連想させるところがある。表情だろうか。それとも、その鋭い眼光だろうか。

 そのまなざしで射貫かれると――なおさら愛花の足がすくんでしまう。

「愛花さんもゆっくりしていけばいいのに。たまには夕飯一緒に食べましょうよ。兄さんの料理は身内の欲目を抜きでも、なかなかの味なんですよ」
「でも私、門限があるから――」
「門限」
「う、うん」
「残念ですね」

 これが、当てこすりや、挑発の意味で言っているのではないところが、愛花には怖くてたまらない。

 そう、真凛は、本心から食卓を共にしたいと思っているのだ。ただし、真凛自身が愛花と友好を深めることが目的ではない。

 彼女もまた歪んでいる。

 真凛は、涼介を愛している。家族としてではなく、正真正銘、男として義兄のことを愛している。

 真凛から直接聞いたわけでもないし、涼介もそんなことは言わない。

 だが、愛花は確信している。
 愛花は人の感情の機微に鋭いほうではないが、それでもこれは確信して言えた。

 ――だって、自分も真凛と同じように歪んでいるから。だから分かってしまうのだ。

 ただし、2人の歪み方は種類が違う。

 真凛は、愛する義兄が他の女性を抱き、慈しんでいるというその事実に、どうしようもなく劣情を覚えてしまう……そんな罪深い業を背負っている。

 だから今日に限らず彼女は、愛花のことを留めようとする。涼介と愛花の仲睦まじい姿を見たくて――見せつけられたくて、真凛は愛花を引き留める。

 さっきだって。
 きっとこの1階に居ながら、上階で行われていた涼介と愛花のセックスのことを想って愉悦に溺れていたに違いない。

 何が彼女をそのように歪めてしまったのかは分からない。

 けれど、彼女は本当に愉しそうに笑う。愛花が語る涼介の話を聞いて、嬉しそうに笑うのだ。

 それが愛花には、怖くてたまらない。自分もこの子と同じだけ狂っているのだと突きつけられるようで、悪寒が止まらなくなる。

 実際のところ、真凛が涼介とどこまでの関係にあるのかは分からない。


 ――いや。
 おそらく、何もない。

 真凛は、その点では愛花と違うのだ。きっと彼女は、兄妹の関係はそのままに、それでも涼介を男として愛していたいのだ。

 その一点において真凛は、他の女に勝(まさ)っている。

 けっして肉欲に溺れない。純潔のままで涼介の一番近くに居る――それだけで真凛は、愛花にも、他の女性にもなし得ない、特別な存在になれる。

 ……真凛には絶対に敵わない。

 それを思い知らされるからこそ、愛花は彼女が怖くて仕方ない。一刻も早く、この場から逃げ出したいと思う。

「……ごめんね、真凛ちゃん。私、帰るね」

 しかし今日の真凛は、簡単には逃がしてくれなかった。

「ねえ、愛花さん」

 きびすを返そうとした愛花の動きを先制し、さらに距離を縮めてくる。

「っ……!」

 重心が揺らぐ。愛花に追い詰められる形で、廊下の壁に背をつけた。

「な、なに?」
「愛花さんって、彼氏さんが出来たんですよね?」
「え、ううん、それは――」

 つい先刻、ベッドの上で涼介に詰問された感覚が、愛花の身体に刻み込まれていた。条件反射的に、腹奥がじんと熱くなる。

「付き合ってないんですか? 好きじゃないんですか?」
「和樹くんとは、その……」
「和樹さん、って言うんだ。へえ」

 薄ら笑う美貌からは、彼女の意図がまったく読み取れない。そんなところまで涼介に似ている。そう思うと、背筋がゾクリと震えた。

「その和樹さん、可哀想だなぁ」
「…………」
「向こうは付き合ってると思ってるんじゃないですか? 思わせぶりな態度で引き留めておくなんて、酷いと思いますけど。だって、愛花さんって兄さんのことが好きなんですよね」
「も、もちろん」

 そこだけは譲れない。
 たとえ真凛が相手だろうとも。

 ただし、独占しようとは思わない。誰かと競って押しのけるという行為は、愛花のもっとも苦手とすることだった。

 そんな必要はない。
 今までのように、涼介に愛してもらえさえすればそれでいい。その対象が、自分ひとりでなくても構わない。

「ちゃんと付き合ったほうが、兄さんも喜ぶと思うんですけど。愛花さん自身のためにも」
「どういう、こと――」
「だから」

 愛花がさらに顔を近づけてくる。愛花より背の低い彼女から、上目づかいに見つめられる。目を逸らしてしまいたいのに、出来ない。

 妖しい光をたたえた黒い瞳。
 とても怖くて、とても苦手で――

 愛する人にとても似た、おそろしいまなざし。愛花の内面の、もっとも恥ずべきところを見透かしてしまう、そんな双眸。

「分かってるでしょう? 愛花さんが和樹さんと恋人同士になれば――きっと、兄さんは愛花さんのこと厳しく叱ってくれると思うんです。口では兄さんのことを愛してるなんて言いながら、他の男と付き合っちゃうんですよ? そんなはしたない牝猫のこと、兄さんは許さないと思うんです」
「――――ッ」

 指先まで硬直して、息が出来なくなる。やっぱり、この娘には見透かされている。

「それって、愛花さんにとってはとても嬉しいことなんじゃないですか?」
「わ、私はっ――、私はそんなこと……」
「今朝、兄さんから聞きましたよ。今日だって、その人とデートしてたんでしょ? その足で兄さんのベッドに潜り込んで、たくさんたくさん、愛してもらったんでしょう?」

 真凛の指先が、愛花の腹部に触れる。

「やっ――」

 服の上からなのに、電流のような感覚が走った。
 彼女が触れたその箇所は、涼介に一番深く愛してもらった場所だった。真凛の指は、今なお疼くその部位を、的確に指し示していた。

 真凛が、指先に力を込める。愛花の柔らかな部分が、ぐっと押される。

「あっ、あ――」
「愛花さんが和樹さんと付き合ったら、もっといっぱい可愛がってもらえるんじゃないですか? 和樹さんといっぱいデートして、優しくしてもらって。そのことを兄さんに告げれば、きっと――いいえ。絶対に、兄さんは愛花さんのことを、激しく愛してくれると思うんです」
「ぁっ、やっ――」

 真凛は首を伸ばして、愛花の首筋に鼻を近づけてきた。

「――兄さんの匂いがします。愛花さんの肌から、髪からも。たくさんキスしてもらいましたか? 撫でてもらいましたか? とてもとても幸せだったんじゃないですか? ねえ――」

 真凛の鼻先が、愛花の喉元に当たる。

「っく――」
「私、愛花さんのこと大好きです。とても脆くて、意地汚くて――まるで、私を見ているみたい」
「あ、ぅ――」

 真凛に囁かれると、倒錯した快感が脳髄に巡る。

「愛花さん」

 名を呼ばれて、顎を引くと、唇が触れ合いそうな距離に真凛の顔があった。

「――――ね?」

 真凛はさらに背伸びをして、唇を近づけてくる。

「…………っ」

 覚悟して、愛花はぎゅっと目を閉じる。

 ――だが。
 いつまで経っても、それ以上のことは起こらなかった。

 途端。

「あはっ、あははッ。なに本気にしてるんですか。馬鹿なんじゃないですかっ」

 真凛は身を折り曲げながら、おかしそうに笑う。

「女同士ですよ? するわけないじゃないですか。年下の同性に迫られてそこまで流されちゃうなんて、愛花さんって本当に馬鹿なんですね。あははッ」

 全身が、恥辱に炙られてかあっと熱くなる。

「っ、ッ――――」

 愛花はもう、振り返ることなく靴を履いて玄関を出て行った。

 その背中に、真凛の声が浴びせかけられる。

「いいですかッ!? ちゃんと考えてくださいよ、どうすれば兄さんに愛してもらえるか――愛花さんなら分かりますよねっ?」

 身体が火照るのをまったく止められないまま、愛花は息が切れるまで駆けていった。

 それでも、彼女の放った言葉がまるで呪詛のように背中に絡みついて、消え去ることはなかった。


  + + +

 
 その2日後、愛花は和樹と正式に交際を開始した。


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