上 下
14 / 49
第一章 ドラゴン・スレイヤー

第14話 黒狼と魔獣

しおりを挟む
 ゆっさ、ゆっさと船が揺れる。
 短い手で甲板の一部を掴み、魔獣ヘイステス・アリゲーターが、ぐらんぐらんっと左右に船を揺すっていた。

 それは小さくない衝撃で、甲板に立つことも出来ず、みんな転がってしまう。
 海上で嵐に遭遇し、マストより大きな波にもまれた時みたいに、船が大きく軋んだ。

「いかん、船が壊れる! お前たち、杖を立てろ!」

 水夫長が力のあらん限りを叫んだ。
「おう!」と甲板のそこかしこから力強い男たちがそれに応える。

 各自、所定の位置に付いたのか、カールたちの近場に立つ水夫の一人は、甲板に突き出た管の覆いをはがすと、そこに杖を突きたてていた。

 ジュワッと音がする。
 各杖は共鳴しているのか、虹色の光を上空へと放つと、それは一番高いマストの上に集まった。

 集約された光の帯は、そこから船そのものを包む結界へと、転送されていく。
 やがて、それまで目に見えない透明な幕だった結界が、虹色の被膜となって船を覆っていた。

「ギワっ!」

 と魔獣が叫ぶ。
 甲板にかかっていたその両手のひらが、赤く焼けただれていた。
 魔獣の手が離れると、船はなんどか大きく揺れた。

 揚力を取り戻した船は、今度は水から離れていく。水面に反発しているのではなく、結界を覆う被膜を利用して、風に浮かぶようになったのだ。
 魔獣はまだ悲鳴のような唸り声をあげて、それでも船より上にある顎を開き、船を丸のみにしようとする。
 大きく開かれた咥内には、人間一人なら簡単に切り裂けそうな白い牙が鋭利な刃先を覗かせていた。

「うひっ。あんなの無理!」

 イライザが顔をしかめて手で目を覆った。
 にちゃっとした唾液が上から下につたい、それが被膜に堕ちるとジュっと嫌な音を立てて煙を立てる。

「なに……あれ」
「結界が魔物を阻んでいるのです。でもこのままでは――」

 ケリーが逃より先に魔獣の牙が船体に迫るだろう、とイライザに教えた。
 子供の黒狼は、「そんなの嫌っ!」と叫んで尻尾をぶわっと大きく膨らませる。
 言葉では逃げ腰でも、狼の本能は戦いを恐れていないのだろう。そんなふうにカールとサティナには見えた。

「大丈夫です、ケリーがついていますよ」

 と、もう一人の獣人は優しくそれを慰めてやる。
 けれども、彼女の視線の先では、水夫が「ちくしょう……もたねえぞ、あんなの」なんて呻いていた。

 結界の効力を保てないで、船は魔獣の牙によって噛み砕かれ、半壊し、乗客は川面に沈んでおいしく魔獣の餌になる。
 そんな未来が見えるようだ、とイライザは思った。

「ケリー……」
「大丈夫ですから。その為に私がいます」
「でも――」
 言い淀む少女に向かい、その頭を優しく撫でてケリーは言った。
「信じてください、イライザ」


 隣でそんな会話が交わされている中、カールは何度か襲った揺れからサティナを守ろうとして、その手を弾かれていた。

 逆に彼女の優れた反射神経により、自分を抱き上げたまま揺れに耐えるサティナは、まるで銀髪の妖精のようだった。

「……優れた使い手の元にはそれ相応の危険が舞い込む、と聞いたことがあります。旦那様といるとこれから先……」
「ごめん。そういうつもりじゃ」

 抱きかかえられて、妻の肩に顔を埋めながらカールは謝罪する。
 彼女の言っていることが正しい。自分にはトラブルが良く舞い込む。先日のドラゴンだってそうだ。
 巻き込んでしまう、と思ったら申し訳なさしか生まれてこない。

「いいです。退屈しませんから」
「……は?」
「昨日まで、母とあと二十年ほど過ごして死ぬ。平凡でなんのどきどきも沸かないまま、終わる人生だと思っていました」
「えっと。つまり、迷惑じゃない?」

 揺れが収まった。抱き上げられたままでは格好がつかないと、カールはじたばた身をよじる。
 しかし、妻は離さない。離れないと、そう言った。

「こんな思いにまた際悩まされるなんて」
「どんな思いですか!」

 じっと目を見つめられた。菫色のサティナの瞳の底に、憮然とした何かがあるのが見える。

「知りません」

 ぱっと手を放された。慌ててバランスを取る。見上げると、頭一つ上から、サティナが腰に手を当てて眉尻を上げていた。
 冒険心と期待に満ちた顔をしている。
 さっき一瞬見えた不機嫌なあれは何だったんだろうと、戸惑うばかりだ。

「サティナ」
「どんなことをおやりになるのも、旦那様の自由です。でも、私を必ず側においてください。除け者は嫌です」
「あ‥…。さっきの転送」
「そうです!」

 彼女は顔を更に近づけて来た。

「逃げるなら二人で。戦うなら二人で、何をするにも私をお側においてください」
「う、うん。これからはそうする」

 カールとしては妻のことを守ったつもりだった。
 あの時、自分のすぐそばに転送した二人の獣人を第一に考えてしまった。
 いやそうじゃない。

 第一に考えたのはサティナの安全だ。だから船内に降りる階段の近くに転送した。
 それは他の乗客も巻き込んでのことだったけれど、彼女を二番目にしたわけじゃない。

 ただ、獣人たちも守るにはあれが一番良かったのだ。
 三人よりも、二人を守るほうが、守りやすい。
 下から這い上がってくる脅威が持つ魔力の強さなら、結界がほころんでも船そのものが破壊されることはないだろう、と見立てもできていた。

 勘に近いものだが、カールはそれを優先することにした。
 結果として黒狼の二人を近づけ、サティナを遠ざけることになった訳だが。

「でも突然のことだったからあれも仕方がないと思っています」
「え、ああ。うん……いきなりだったからね」
「だからこれからはちゃんと話してくださいね」
「間に合えば必ず」

 実は今回、あの黒狼の女の子が騒ぎ出す前に、気づいていたのだけれど。
 さすがにいまそれを口にする勇気は、カールには無い。
 ちゃんと話すから、と約束すると、サティナの不機嫌はどこかに消えた。

「はい。これからいろんなことが待っているかと思うと楽しみです」

 トラブルを自ら好んで向かっていくタイプなのだろうか。
 なんとなく一抹の不安が心をよぎる。
 それどういう意味かな、と確認しようとしたら、隣から声がかけられた。


 ギシギシ、ガジガジっと魔獣の顎が被膜に突き立てた牙で、それを破ろうと努力している中。
 船は水夫たちの努力によって、ゆっくりとわずかながら空に向かって上昇していく。

 しかしそれを阻むものがある。
 かじりついた魔獣の重さだった。

「なんて重さなんだ! ちくしょう!」
「駄目です! 浮力が足りません。このままでは共に沈んでしまいます!」
「その前に膜が破れて俺たちは終わりだ!」

 そんな悲しみの声が甲板に響いた。
 船の上に出ていた乗客のほとんどは我れ先にと船内に避難していて、甲板に残っている一般の人間はカールたちと他数名。

 剣を携えていたり杖を構えていたりする他の乗客は、多分、上級の冒険者なのだろう。
 あの魔獣をどうにかして退治しようと、連携して攻撃を始めていた。
 同じパーティーなのかもしれない。

「あんたたち、早く中に避難してくれないか」

 カール達のそばにいた水夫が叫んだ。
 同時に他の水夫も、冒険者たちに同じ内容の事を叫ぶ。
 この船には船のやり方があり、他の者からの支援は喜んでいないように見えた。

「戻ってもいいですけど。でもお手伝いできることがあるんじゃないかなと」

 カールは人見知りな自分を叱咤して、応援すると伝えた。
 水夫から見えないようにサティナと後ろ手を繋いでいるのは内緒だ。
 左手の銀環をかざして身分を明らかにする。

「僕は宮廷魔導師です。あなた達の役に立つと……思いますけど」
「これは失礼いたしました。おおっと」

 また大きく船が揺れた。
 カールたちもその揺れに放り出されそうになる。
 魔獣は噛み砕くことを諦めたらしい。
 渾身の力でもって、水中に船を引きずり込もうとし始めていた。

「宮廷魔導師様! いざとなれば被膜の中にあるものすべてを、別の場所へと転送できます」

 だから大丈夫だ、と彼は言いたいらしい。しかしその行った場合、被膜がもしほころんでいて、そのほころびにあの魔獣の牙が突き立っていたら――?

「失敗したら魔獣ごと転送してしまうことになるんじゃない?」
「えっ! それはー……」
「そうなるとバランス的にあっちが覆いかぶさってくる可能性があるし。船は重さでへこんでしまうかもね」
「……」

 水夫が絶句する。
 船の上からでっかいワニが舞い降りてくる様を想像して、サティナは顔を青くした。
 その想像は黒狼の二人にも難しくなかったらしい。

「大変だわっ!」

 と、イライザが絶望したような声を上げると、途端、オタオタとして逃げ出そうとした。
 さっきまで勇敢に膨れていたその尻尾は、丸まって足の間に挟まれてしまっている。

 さてどうやってこの危機を回避する?
 彼女たちを尻目にカールはぬめっとした鱗の向こうに見える、魔獣の目を見上げた。

「ケリー、ケリー……どうしよう。このままじゃ、お母様に会えないわ! お父様にもお叱りを受けてしまう」
「イライザ様。その前に死んでしまったらどちらにも会えませんよ」
「そういう意味じゃなくて!」

 黒狼の少女は大きな藍色の瞳をめいっぱい見開き、大粒の涙を溜めていた。

「依頼人からの依頼は遂行いたしますので。どうかご安心を」
「だからー……どうするって言うのよ」

 二人の仲は主従らしい。発言の内容から、親しい仲というわけではなく、どこかから王都までこの船でイライザという少女を警護して、無事に送り届けるのが仕事のようだ。
 ケリーと呼ばれた黒狼の女性は、愛情に満ちた微笑みをイライザに与えた。

「あまり目立つわけにはいかないのですがこのままでは仕方ありません」

 そう言うとケリーはカールに一礼した。
 こんな混乱の最中にとても真似できそうにない、落ち着いたそれはケリーの自信を代弁しているようだ。

「先ほどは主従共々、お助けいただきまして、感謝いたします。宮廷魔導師様」
「ああ、いえ。みんな助けたから、別にお礼は……いいです」

 初対面の人間と話をするのは怖い。
 視線を外しそうになる。及び腰になるカールをしっかりしろ、とサティナは軽くお尻を叩いた。

 頑張って、と言われている。
 意識してケリーが言おうとすることに耳を傾けた。

「……助けられついでというわけではないのですが、もう一つお願いを聞いていただけないでしょうか」
「お願い? それはどんな? 僕はこれからあれをどうにかしようと考えてるんだけど」
「宮廷魔導師様が、お手を下されるまでもないと思います」

 それはつまり彼女ケリーが始末をつける。
 そういう意味だった。

 普通の獣人と違い、黒狼を始めとするいくつかの狼の獣人は、その身に精霊を宿すという。
 普段は隠されているものの、戦闘ともなれば彼らの力は比類なきものになるという。

 昔何かの書物で読んだことを思い出して、カールは彼女が強者であることを理解する。
 たぶんあそこで転送しなくても、もしかしたらもっと早く彼女が能力を発揮して、魔獣の騒動はさっさと収束したかもしれない。
 できるというのなら任せてみてもいい、そう思った。

「できますか?」

 やれますかとは質問しない。確実にこの船を救うことができるかと質問する。
 返事は自信たっぷりの肯定だった。

「あの程度でしたら」
「それで僕は何を手伝えばよろしいと」

 彼女は指先を上げて魔獣の横腹あたりのを示した。

「結界の向こうに転送していただけますでしょうか。ついでに回収も――」

 面白い戦法だ。
 結界を壊さずに何かを通過させることは難しくない。

「やってみましょうか」

 もちろんダメだったら後始末は自分がするつもりで。
 本当に受けて大丈夫なのかと心配するサティナの手を握り、大丈夫だと安心させる。

「ケリー! あんな大きい魔獣相手にして本当に大丈夫なの? 食べられたらそれで終わりなのよ!」
「イライザ様。心配でしたらケリーを応援してください」

 二人の間でそんな会話が終わり、ケリーはカールにお願いしますと目で合図をする。
 何の武器も持たず着の身着のままでどうやって戦うのか。

 伝説に聞く、黒狼の戦闘力のすさまじさ。
 それはすぐに、実証された。
しおりを挟む

処理中です...