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第二章 黒狼と撃癒師

第19話 撃癒師と新妻

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「―――――――っ? ……何?」

 何だかすさまじい悲鳴を耳にした気がする。
 それは船の後方から聞こえてきた。

 方角と位置からして、さっきまで自分が管理していた医務室で起こったようにも思える。
 ローザは三つ編みにした長い赤髪をうっとおしそうに背中にやると、そちらを振り返った。

「どうかしましたか?」

 水府の一人が彼女の態度に異変を感じて近寄ってきた。

「……何でもなければいいんだけど」
「はあ?」
「悲鳴が聞こえたような気がしたの。でも多分なんでもないわ」

 医務室には彼がいる。
 どんな治療を施したの?
 そう眉根を寄せて考えると、自ずと回答は導かれてきた。

 彼は――撃癒師だ。打って殴り、全ての難病を根絶する。
 撃癒とはそういうものではないか。
 そこに思い至るとローザはにんまりと人の悪い笑みを浮かべた。

 カールが何をしたか、手に取るように分かった。
 彼は言葉の通り殴って治療した。
 殴打治療、そんなものもあったわね。

 その習得の難しさから幻と言われて消えてしまったとも言われる、神聖魔法と対極をなす治癒スキルの最高峰。
 部屋にいた忌々しい貴族たちがカールの拳の餌食になったことは間違いない。

 なんとなく自分が受けた苛立ちを、彼が全部、倍返ししてくれた気がして、ローザは胸がすっと空いた。

「何でもないんですか? 悲鳴が聞こえたんだったら確認しに行かなきゃ」

 要領を得ない顔をして水夫はそう言い、船医室に向かおうと踵を返す。
 その必要ないからと呼び止めようとして、ローザは見覚えのある頭が、階下から階段を登って来るのが見えた。

 天頂に昇ろうとする正午。
 秋の陽ざしを浴びて、彼の栗色の髪は深い金色に輝いている。

 階段を登り切りこちらを見つけてちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた彼を見て、ローザはやっぱり自分の予想が間違っていなかったことを確信した。

「もういいわ、大丈夫だから」
「いやしかし――」

 言い募る水夫だったが、船医にもういいと再度言われて、持ち場に戻って行く。
 入れ違いにカールがローザの前にやってきた。

「終わりましたか」
「うん、そうですね。皆さんしばらく深い眠りに就かれると思いますよ」
「それなら良かった……」

 カールには悪びれた素振りがない。
 しかし、彼が患者等を殴って黙らせたのは確かなことだ。

 ローザはその時のことを想像してクスクスとつい笑ってしまう。
 自分の敵討ちをしてくれたような気がして、この年端もいかない撃癒師に好感が沸いた。

「こちらはどうですか」

 カールは甲板をぐるり、と見渡す。
 大騒ぎしていた人々はどこかに行ってしまい――多分自分の家に戻ったのだろう。

 治療を受けた人々のうち商魂たくましい者は、大揺れでさんざんに散らかってしまった、自分の店を立て直そうと頑張っている。

 食堂もそうだしこの調子では昼食はおろか夕食にもありつけないかな?
 食事が取れないとなると回復もままならない。

 患者のことを考えたらまずは治療を優先して。
 それからそれ以外の人々を助けた方がいい。

「上の人はあらかた魔法で直しました。簡単な怪我だったら本当は自然に治癒するのが一番いいんですけど」
「それはそうですね。けれどこんなに短い後悔だったら医療器具もそんなに用意してないでしょう?」
「はい。そこが問題なのです。回復魔法や治癒魔法を使うことができても、それ専門の薬がなければ治せない病気というものがありますから」

 それはつまり複雑骨折とか内臓破裂とかならまだどうにかなっても、体の血をほとんど失ってしまったり回復させたところで一度機能を失った内臓が元通りにならなかったりと初級の魔法では、ままならないことだって多々ある。
 自分がもっと高度な医療魔法使いたらとローザは悔やむように言った。

「大丈夫ですよ。そのために今回は僕がいます……これも本当に神の導きかもしれないな」
「ええ、本当に。患者の含めてみなが感謝いたします、撃癒師様」
「そんな感謝されるほどのものじゃない……とりあえず重症の人を治していきます」
「殴打されるのですか?」
「いや、あれは使えば使うほど僕も魔力を失うのであまり……見た目にも良くないですし、ね」
「あはは」

 確かにそれはそうだ。
 痛みでのたうち回っている患者に向けて殴りつけたらそれは批難の対象になるだろう。

 撃癒という治療スキルが幻と言われるようになった理由が、ローザには分かった気がした。

「幸いにもこの船には結界が張られていて魔力が充満しているので。それを借りることにします」
「それがよろしいかと。重症な患者はこちらにおりますので」

 それからしばらくの間。
 カールとローザはそれぞれ役割分担をしながら、一度は飛び立った船がゆっくりと川に向かい空から降下する様子を目にしつつ、患者たちの治療に当たった。

 時間が経過し怪我人の数もほぼほぼ減って、代わりにカールたち治癒する方が疲れ切ってしまった頃。
 ようやく日差しは天頂から傾いて午後を知らせようとしていた。

 そんな中、いつのまに上がって来たのか。
 船室で待っているように伝えたサティナと、魔獣を撃退したケリーの二人が、甲板でせわしなくあちこちと走り回っているのを目に入った。

 彼女が話していた通り妻もある程度魔法が使えるようだし、黒狼の彼女も回復魔法の心得があるらしい。
 簡単な骨折とか傍目にも軽傷と分かる患者を癒す。

 船の中にいる患者を二手に分かれて担当する。
 船の底に行けば行くほど、壁と壁の仕切りが多くなり、それは船が浸水した際に、扉を閉めればそれ以上の浸水を防げるのだと水夫たちは語る。

 天井と壁の間が狭くなり通路はもちろんのこと、平民たちともなれば雑魚寝をするような形で、その辺りに荷物が散らばっていた。
 身重の母親が返事をしなくなる幼い子供が発表するようにお母さんお母さんと叫んでいるのを見たとき、カールは胸の奥を強く掴まれた気になった。

 貴族の治療なんてどうでもいい。
 普通の貴族なら、魔力を持っている。
 男爵の自分だって旅行をする際には付き人を連れて歩く。

 今回の旅はそうではなかったけれど、この船に乗りような貴族なら、爵位はもっと上だ。
 当然のように連れている家人の数も多く、そのうちには当たり前のように医療魔法を使いこなす者を連れ歩くものだ。

 そして貴族自身も初級の魔法ぐらい使えるものだ。
 結局のところ彼らは自分の力を使わず、権力を使って他人に治癒させようとしていた。

 自分でできるなら自分でやればいい。僕の力はそんなもののためにある訳じゃない。
 カールは幾度か、撃癒を使った。

 緊急を要する患者には、いまそれが必要だった。
 そのために、技を見せることを惜しむなんて、愚かしい。
 人々が痛みを忘れ健康になり笑顔でいてくれることが何よりも大事なこと。

 第四層から第一層まで練り歩き、身分の差を問わず、急患と判断した順から、患者を癒していく。
 四時間ほどかけて、全部を視終わったら、すでに昼が終わろうとしていた。

 空腹と激しい疲労が眠気を誘う。
 しかし、それは達成したやりがいのある、疲労感だった。

「カール様。その……今から考えれば大変申し訳ないことお願いしたと」
「え? ああ、あれか」

 いつのまに立て直したのやら。
 甲板に戻ってみたら、屋台の多くが営業を再開していた。
 第四階層にある食堂も壊れた器具などをカールが修すと、同じように営業を再開した。

 くたびれ果てて戻ってきたカールは、心配そうに駆け寄ったサティナの用意してくれた食事を、他の治癒に当たった者たちと食べている。
 ローザの不安そうなため息は、深くカールの中にしみわたる。

 貴族たちからすればカールの行いは批判されるべきも見えたかもしれない。
 身分の高い者を癒すため。そのために宮廷治癒師は存在するのだから。
 貴族を病魔から癒すために存在するのだから。

 本来の職務を忘れて平民や奴隷たちを優先したカールは、彼らからすれば罪に価する行動を取っていた。

「もうほっとけばいいんじゃないかな」
「ええっ?」

 あっけらかんとした物言いにローザは信じられないと悲鳴をあげた。
 彼はこれから罰を受けるかもしれないのに。

「心配ないよ。宮廷撃癒師っていうのはそんなに軽い役職じゃないから。医療魔法に携わる存在の中で僕がどの地位にいるかわかるでしょう?」
「そんなことを平然と言われても……。私のように単なる治癒師に、そこまでの知識は……」

 宮廷治癒師。
 その存在は、神官と同じく行為の医療職であることは、知識として知っている。
 そこから上については特に語られることもない。

 雲の上の世界の話。
 一般の人々が関わることはない世界の話だ。
 当たり前のように開示されていない情報をローザが知ることはなかった。

「簡単に言えば、撃癒師は王族とも対面できる程度には……偉い? そういった表現の仕方は嫌いですが」
「はあ。そうなると、どうなるのです」
「僕が貴族の怠慢を陛下に申し伝えるかどうか、ということになりますね」
「……」

 ローザの頬を嫌な汗が流れ落ちる。
 今何て言いました? 陛下? 国王陛下って言った?
 目が丸くなり犬みたいな顔になった。

 驚きで瞳孔が広がっている。
 ありえないものを見る目でまじまじと見つめられて、カールは気恥ずかしさを覚えた。

「ほら、そんなことよりもこっちのパンも美味しいですよ。ほら、このエビを使った汁物も」
「そんなこと。そんなこと聞いておりません!」

 叱られてしまった。
 だってしょうがないじゃない。

 夕立に打たれてずぶ濡れになりしょぼくれてしまった犬みたいな顔をされたら……。
 全部の責任は僕が持つよ、と間接的に伝えるしかできないよ。

 場の雰囲気が途端に重苦しいものとなる。
 カールは慌てて妻に助けを求めた。

「駄目ですよ。本当のことでもそんなことを伝えたら、皆さん困るじゃないですか」
「ええ……。だって、僕は」
「だってじゃありません。国王陛下のお名前なんて滅多に出していいものではないですよ、旦那様」
「……ごめんなさい」

 常識という盾をもって叱る妻。
 素直に謝罪する夫。
 その光景がなんだか面白くて、ローザたちは思わず笑いを誘われた。

「お二人は仲がよろしいのですね。まるで本当の姉弟の様」
「夫婦です」

 さらっとサティナの訂正が入る。
 あら、とローザが驚き、いつの間にか混じっていたケリーが羨ましそうに、サティナを見ていた。
 イライザがさらにそこに加わり、女たちの祝宴が始まる。

「え、まだ結婚式も挙げてないのですか?」
「昨日? いきなりの新婚旅行! 凄いっ」
「初日からこれって……もっと運の良い夫にした方が良かったんじゃない?」

 おい、黙れそこの黒狼の小娘。
 余計な一言にカールは心で毒づいた。

「いけませんよ、イライザ様。確かにあの魔獣の件は酷いものでしたけれど」
「でも昨日って言えば、この辺りには――」

 と、ローザが眉根を寄せる。
 会話がなんだか変な方向に向かっている気がしてカールは冷や汗をかいた。

「そう、ドラゴン! 真っ黒いやつが暴れたって、噂になっていたわ!」
「そういえばそんな話も、船の中で耳にしましたね」

 話が嫌な方向に寄ってきた。
 そんな中、船長と他数名が、見回りを兼ねて話の中に混じってくる。

「ドラゴンがどうかしましたか」
「ああ、あの天災がどうしてこんな短期間に移動したのか、と」
「船医殿、それは自分も気になっていたのだ。普通、ドラゴンが暴れたら、二週間はこの辺りをうろついて、被害をもたらすものだが……」

 彼はふとカールを見て言った。

「そういえば治癒師様は、前の駅から乗られたのでは。ドラゴンについて何かご存知ないですか」
「いや、それは―……。僕は妻の実家で治療していたもので。終わったら、全部が終わっていたっていうか」
「なるほど。それならば分かりませんな」
「そうなんですよ。ええ、そうです。僕は何も知らない……」

 隣にいるサティナも真相を話すのは今はまずいと理解しているようだ。
 作り笑いをして、場をやり過ごそうとしていた。
 会話が元に戻り、サティナとカールの出会い、なれそめについて聞こうと姦しい女性陣の攻撃をどうにか躱しつつ、二人は部屋に戻る。

 そのころにはもう、夕方になっていた。
 ベッドに辿り着きうつ伏せになって倒れこむカール。
 そんな彼の靴を脱がせてやり、上着を壁にかけてやったりと、サティナはかいがいしく世話をする。

「君も休んだらいいのに」
「私はそんなに疲れておりませんから」
「……それならいいけど」

 秋の夕暮れは日が沈むのが早い。
 窓から差し込んでいたオレンジ色の光がいつしか銀色の月のものに手を取って代わられていた。

 自動的に発光する仕掛けになっているらしい、鉱石ランプの明るさに、サティナは目を見張ってびっくりしていた。
 王都ならこれ以上に明るい夜はたくさんある。

 彼女の驚きように、文明の尖端へと連れ出してきてしまって本当によかったのか、カールは迷いを覚える。
 そんな中、水夫の一人が何時から夕食ですと、扉を叩いて告げた。

 遺族には貴族専用の食堂があるらしい。
 壁にかかった時計を見る。
 告げられた時間までもう少し余裕があった。

「どうしますか?」
「先に湯を浴びてもいいよ。船の中なら湯は使い放題だから。お風呂に入るもいいし、のんびりとするもいいし。そこは任せる」
「使い放題。そんなに使ってお金はどうするんです」

 不安そうにサティナは言った。
 彼女の暮らしぶりから考えると、その不安が先に立つのも無理はない。

 あの土地では、浴槽に湯を張ってそこに浸かる、という習慣はないだろうし、あったとしても、それだけの湯を沸かす燃料代が先に立つ。
 彼女たちにとってはふんだんに水を使えるということがどれだけ贅沢なのか、実感できた。

「料金は先に払ってるから大丈夫だよ」
「でも、そんな。お風呂だなんて、困ります」

 何をどう考えたのか彼女の頬は桜色に染まっていて、恥じらうように視線が横を向いていた。
 男と女の人って結婚したら何をするんだっけ……。

 恋愛なんて全く未体験なカールにとって、彼女の言う困った事態は、全く想像ができなかった。

「一人で入ればいい……よね? それぞれ別に順番に、さ? 僕が食事に行ってる間に入ってくれてもいいし」

 さすがに女性の裸を覗くのは趣味じゃない。
 ベッドも二つある。
 最低でも距離を置くのは礼儀だと思って言うと、相手は何だか残念そうな顔した。

「そ、そうですね。私ったら」
「?」

 疑問符がカールの頭の上に大量に浮いて出ていた。
 
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