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第二章 黒狼と撃癒師

第24話 夫婦の時間

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額の飾り布を外した彼女を見て、カールは最初、別人が浴室から戻ってきたのかと思った。
 備え付けの鳶色をした布で髪を巻き、まとめていると、銀髪はその中に埋もれてしまい、ひろいおでこが露わになる。
 目元もより印象的になり、ちょっと垂れ目なぶんだけ、甘え上手の狼を思わせた。

「上がりました」
「あ……ああ。おかえり」

 カールは個人用のソファに座り、帳面になにやら書きつけて、書き物をしてる最中だった。
 一見して別人になった妻にぎょっとし、それから声と雰囲気で彼女だと分かった。
 昨夜、彼女の実家で過ごした時、サティナは上下の部屋着に身を包んでいたし、髪に藍色の布を巻いていた。

 布は無くなり、絹製の手縫いだろう。
 刺繍糸で唐草紋様のような縁取りをされた上下の下着をつけたままやって来られたら、少年が絶句するのは無理もない。

「どうかしましたか?」
「……いや」

 身分証明書に『妻』と記載していないだけで、そういう関係になると約束した当日だ。
 これからずっと共に過ごすことになる。
 たとえ恥ずかしくても相手からすれば、結婚当日の夜をどう過ごすのかは、慣れたものだろう。

 ただ、カールが知らなかっただけで。
 髪に巻いていたタオルを解くと、サティナは確認を取ってくる。

「あちらには場所がなくて。ここでしてもいいですか」
「……何を?」
「髪の手入れなどです」
「ど、どうぞ」

 彼女が片手にしているバッグの中にはガラス瓶が幾つか治まっていた。
 髪に塗る香油、化粧水、ハチミツから造り出した肌に塗るクリーム……などなど、健康そうなものから不健康そうなものまでさまざまだ。

「見ないで下さいね」

 恥ずかしいので、とサティナに言われ、カールは席の向きを横に向けた。
 下着姿の女性は検診の時にいつも気にしているから特に恥ずかしいはずがないんだけど。

 今夜ばかりは部屋に気分が先に立ってしまい平然としていられない。
 同年代の既婚者や年上の連中はみんなこんな大変な気分を味わっているんだろうか。

 レストランを出るとき、たまたますれ違った船長と水夫たちは「良い夜を!」何て言ってくれたけど。
 あれはからかいだったのか……。

 両手をせわしなく動かしながらマッサージをしているサティナを見て、そこにはリンパ腺があるからこうした方がいいよとか。
 そこはこっちの方から押し上げているとシワが消えやすいよ。
 とか、アドバイスしてあげたくなったけど。

 多分怒られる。
 ここは黙って見えているけど見えないふりをして彼女の美しさを堪能しよう。
 しばらくそうやっていると、目元あたりに何か違和感を感じる。
 瓶の一つ一つを間近に持って行ってじっと睨みつけている彼女。
 目が悪い、老人がするような仕草に、カールは首を傾げる。

「サティナ、その……目が良くない? さっきまでそんな仕草してなかったことない?」
「え、ああ。遠くはよく見えるのですが、生まれつき近くが弱く。額に巻いている布に昔魔導師の方に教えて頂いた「視力増幅の紋章」を、縫い付けて補助にしています」
「そうだったんだ」

 そうと聞いたら話は早い。
 遠視も乱視も近視も目の器官がちゃんと作用していないか、損傷しているか、生まれつき弱いか、そのどれかに当たる。

「少し痛くてもよかったら完全に治せるけど?
「え? 生まれつきのものを治療できるの?」

 彼女は驚いて言った。
 持って生まれたものはそれが自然な形だから治せないのだろうと思っていた、と言われた。
 カールは丁寧に誤解を解くように説明してやる。

 人間にはどんな身分の人間であっても生まれつき共通の設計図を持っていること。
 その設計図の中に設定された数値が強いか弱いかで人の力や考え方や脳の働きなどに差異がでるということ。
 設計図が一部、欠損してしまうためによって病気が起こったり、体の一部がなくなって生まれてきたり。

 そういったものを本来の姿に戻すことが出来るのも『撃癒』の作用なのだ、と。

「ではどうすればよろしいです」
「目を瞑って。顔をちょっと前に突き出してくれたらそれでいいよ」

 今日は色々と船の乗客を治療するために魔力を使いすぎて、もうあまり残っていないけれど。
 その程度の撃癒を行うのに、支障はない。

 人差し指の先に力を込める。
 治癒の魔力を増幅して、眉間めがけてそれを打ち出す。

 デコピンの要領で放たれたそれは、サティナの肌にぶつかり、パンっと乾いた音を立てて散った。

「いった―っい!」

 彼女らしくない悲鳴だった。
 痛いです、酷いです、何するんですか! と散々、叱られる。
 両方の目に大粒の涙溜め、ポロポロと惜しみなくそれを流しながら、妻は「ひどいじゃないですか! ちょっと痛いだけって言ったのに!」とカールに苦情を申し立てた。

「ごめん、ごめん。撃癒だから、痛いんだ。ほら治癒魔法をかけてあげるから」
「もっと優しくしてくれるって言ったのに……」

 今まで彼女の中に溜まっていた不満が一気に噴出したらしい。
 治癒魔法かけ痛みはなくなったはずだけど。

 しばらく、サティナのひどい、とか。我慢したのに、とか。
 散々な不満の嵐は、治りそうにない。

「ごめん悪かったから。次からは気をつけるから、ね? でもほら、涙をふいて瓶をよく見てごらん」
「え……瓶。そうだ!」

 促され両方の涙をきれいに拭き取ると、彼女は瓶のラベルに目を近づける。

「見えないわ」
「近づけすぎなんだよ。布を頭に巻いているときと同じ要領でいじめて」
「うん……」
 すっと手を長く伸ばして距離を取る。
「凄い! この小さな文字まで……布を巻かなくても、手のひらが。皺まで良く見えます! カール、あなた凄いわ!」
「そう言ってもらえたら良かった」

 急転直下。機嫌は真逆に反転する。
 いきなりやってきた不機嫌の豪雨は、あっという間にどこかに消え失せた。
 笑顔という名前の太陽がサティナの苛立ちを和らげていく。

「本当に感謝します。あなたはとても素敵な旦那様」
「さっきまで怒ってたの誰?」
「あれはとても痛かったから。次もあんなことされたら本当に泣きますからね」
「泣いていたよね?」

 静かに睨まれてカールは口を閉じた。
 上機嫌のまま肌の手入れを済ませていく彼女は、大人というより少女のような幼さも素振りも見せる。
 どれも本当の妻の姿だ。僕だけが知ることのできる。

 そう考えるとなんだか得した気分。
 特別な誰かになれた気がした。

「そういえば、あの魔石を封じた革袋。あれもそのままに?」
「え? ああ、そうだね。他に移動するにも、中身が中見だし」
「ドラゴンとヘイステス・アリゲーターが入っていると、一緒の部屋で寝るには気味が悪いです」
「うーん……。なら、浴室にでも置いておく? 別に中身が抜け出てくることもないだろうし」
「そう……ですね」

 この何気ない決定が、翌朝になったら大事件に発展するなんて。

 二人は夢にも思わなかった。

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