上 下
25 / 49
第三章 ワニと船医と撃癒師

第25話 撃癒師、幻を退治する

しおりを挟む
 たぷたぷと、船が浮いている。
 水にではなく、空気の泡につつまれたような状態で、空の上に浮いている。
 そこには水もなく、風の河が幾つも見えない流れを作り出して、船を動かしている。

 手に風をつかまえる。
 両手で透明にも見える風の河をすくい、そっと天に放ってみる。
 それは青々とした粒に別れ、数十のさまざまな型を残して、空にしみ込んだ。
 この風には味かあるのかな、とふと思って、再度、足元に跪いて両手で風を救いあげる。

 サティナはそれを水を飲むようにして、喉にそっと流し込み、口の中でもごもごと撹拌する。
 水よりもなめらかで、臭みも硬さもなく、すうっと通るバラ水のような香りが鼻梁を突き抜けていく。
 そして味は――。

「……しょっぱい?」

 風がしょっぱい?
 海からの潮でも含んでいるのか?
 しかし、ここはまだ山奥と評してもいいほどの河上で……。

 そこで、目が覚めた。

「きゃああっ!」
「―――――っ?」

 鈴が鳴った。
 天界で神々が降臨する時にならすような、あんな鈴だ。

 甲高くて、耳の奥底にキーンと響いてくる。
 その威力は緊急時に掻き鳴らして危険を周囲に伝える銅鑼の用だった。

 あれが耳元で搔き鳴らされる夢を見た。
 甘い砂糖菓子を食べていた。
 熱で溶かしたできる真っ白い蚕が吐き出すような線の細いフワフワの砂糖の糸を、棒に巻いて食べるお菓子がある。
 簡単な調理器具だけで調理でき、王都では子供たちに大人気の甘いやつだ。

 砂糖の色によって、できる綿のような雲のようなそれの色も変わる。
 サティナと祭りに行き、それを買ってもらい二人で、川辺りに座っていろいろと話しに花を咲かせていた。

 そんな夢を見ていたのに、緊急の鐘で起こされてしまった。
 絹を裂くような悲鳴というのはこういうものをいうに違いない。
 夢の世界から連れ戻されて、カールは隣に寝るサティナに顔を向けた。

「ふぁ? どしたの、何!」
「カール! 水、水がっ」
「……水?」

 どこかでちゃぷんっと音がする。
 それもすぐ間近で。
 カールはおや? 船が沈没でもし始めたのかと思い、ベッドのすぐ下にまで迫っている水面にそっと手をやった。

「水――じゃないね。大丈夫。でも水に感じるんだろうな」
「水……でがはないのですか?」

 サティナは短パンのような絹の下着に、上はタンクトップの下着をつけている。
 それを引き上げたシーツで隠されると勿体ないものがあるな。
 目の保養が失われていく。

 カールはよいしょっと立ち上がると、二人で寝ていたベッドから、空いている隣のベッドに飛んだ。
 その壁側には鉱石ランプを点けるスイッチがある。
 手を伸ばし、パチンっと硬質の音がしたら、部屋の中にほのかに白い人工の光が舞った。

 闇の中では怪しいことも、恐ろしい存在も、一度、白日の元に晒してみると、その正体がわかりやすい。
 今回はその良い事例。

「これはね、幻想だね」
「まぼろし、ですか。味もあったのに」

 サティナは長い銀髪を後ろでくくると、それにつかないようにして、水面に顔を近づけた。
 それから顔を持ち上げてみると、部屋の全部という全部が、海の中に漂ったようになっている。
 浸水と間違えても仕方がない光景だった。

 その中に手を入れると確かに、水の冷たさや重さ、圧力というものを肌に感じる。
 手を引き戻し、臭いを嗅ぐとどこか潮騒の香りがした。味は……試す度胸は、いまの彼女には無かった。

「味?」
「い、いいえ」

 何でもありません、と誤魔化しておく。
 撃癒師は床に降りると、太もも辺りまでを水面に沈ませながら、部屋の中を警戒していた。

「どうかしました、カール」
「危険はないと思うんだけど。これ、どこから来たのかなって」
「どこ――とは? 幻ならば、幻覚ということも」
「まあそれはそうなんだけど。えいっと」

 そう言い、彼は水面に全身を沈めてしまう。
 しかし、泳げるわけでもなく、浮かべるはずもない。
 それほど広くない室内を丹念に調べた彼は、やがて、浴室の手前で足を止めた。

「ここだね。漏れてる」
「……?」
「幻覚ってのは誰かの強い意識をもってすれば、弱い意識の人間や、寝ている無意識の人間を引き込むことができるんだ」

 とりあえず、とカールは言うと、拳に魔力を溜めた。
 それを水面にぶつけるようにして、ゆっくりと押し込んでいく。
 その場に現れたのは濁流を呑み込んでいく渦のような光景で、その中に部屋に充満していた水は全て吸い込まれてしまった。

「一体、何を……したの、あなた」
「僕たちと幻覚を見せている相手と、精神的なつながりを断ち切った、というべきかな。さて、誰がこの奥に?」

 カールの声が弾んでいる。
 困難や冒険に出くわしたとき、彼は楽しむことができる人種なのだと、妻は新たに夫の側面を知る。

 それが成長して、たんなる蛮勇にならないことを祈りつつ、自分も荷物に携えていた弓と取りいつでも射ることができるように身構えた。

 余裕の表情で彼は扉に手をかける。
 引く方式の扉の向こうにあるものの存在は、二人ともに検討がついていた。

 水に、幻覚。そして、魔石。
 向こうにいるのは、多分、あの封じられたヘイステス・アリゲーターの幼生なのだろうと。
 二人はなんとなくの想像をつけていた。 
 しかし、カールはもったいぶったようにして、なかなかその扉を引こうとしない。

「飛び出してくるかな?」
「……開けないのですか?」
「いや、仮にもワニでしょ。どんなに気を付けていても、あっちの方が早いよ。だって、自然の猛獣だもの」
「手前に引いて、扉で挟みこめばよいのでは?」
「そんなに上手く行くかなあ……」

 どういう手順でやり合おうかとカールは悩む。
 そんなこんなとしている間に、玄関の扉から多くの人々の声が聞こえた。

「おいっ、あれは何だったんだ! いきなり水が部屋に沸いたかと思うと、さっと消え去ったぞ!」
「こっちもだ! おい、水夫。どういう管理をしている! どこか浸水したんじゃないのか!」
「いえ、それはこちらでも調査中でして……。水が船内に浸水した事実はありません」

 なんて数人がかりで一人の水夫を問い詰めている声が一際大きく、廊下に響いていた。

「あいつらだ」

 レストランで侯爵に摘まみだされた下級貴族たちだと、声でわかる。
 がなり立てるその口調といい、声量の大きさといい、そいつらの方が近所迷惑だった。
 こんな夜中だというのに、静かにすることを知らない。

「また撃癒で……」
「こらこらっ」

 打撃するカールの真似をして、妻の形の良い胸元が揺れた。
 暴力はダメだ、と諭すとつまらなさそうな顔をする。
 その内、クレーマーたちはヒートアップしていき、あの水はどこに消えたんだ! とまで話が進んだ。

 扉一枚隔てた廊下側亜では、賑やかさに何が起こっているのだと、昼間の騒動で疲れた人々が集まってくる。
 船員たちもこの頃には一人から十数人に増えていて、クレーマーを黙らせようとしていた。
 その中に聞き覚えのある声をにして、聞き耳を立てていたカールとサティナは思わず固まってしまう。

 それは船医であるローザ・マリオッドの不機嫌そうな寝起きの声だったからだ。

「うるっさいわね! 貴方たち――男爵様。周りには高貴な方々も控えておられます。深夜なのでどうかお静かに願います」
「お前に言われずとも分かっているわ! ……その高貴な方々にご迷惑がかからないように、こうして事実確認をしているのだ」

 夕食時にレストランから摘ま出された経緯を思い出したのだろう。
 男爵の声は一瞬だけ怯む。
 ところが、彼は下級貴族として上級貴族の安全を確保することが、我らの尊い使命だ! などとのたまい、引く姿勢を見せなかった。

「……ここで騒いでもっとうるさくすることこそ、迷惑だ、とは気づかないのでしょうか」
「くくくっ。それはそうなんだけど、あハハッ。彼らの言っていることにも一理あるからね。戦争時には、身分が低い者が高い者を守るのは、当然とされているし」

 ローゼは男爵の言い分に押し負けそうだ。
 このままではどこから水が出たのか、徹底検証をしろ、と言い出しかねない。

「全部の部屋を点検したりされたら」
「それはないと思うよ。侯爵様の部屋まで、船長でも手出しできないから」

 身分とはそういうものだ。
 さくさくと片付けよう。
 そして、またサティナの胸に抱かれて、あの砂糖菓子の夢を見るのだ。

 カールは浴室の中に渦巻く魔素の動きを読み取り始めた。
 魔素が脳裏で映像を結び、立体的に描かれる。

「なんだ、これ」
「どうしたの、カール!」

 ワニが浴槽で仰向けにまどろんでる。

 そう言おうとして、口を塞いだ夫だった。
しおりを挟む

処理中です...