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第四章 ワニと女神と絶対領域

第36話 撃癒師と目覚めの朝

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 神聖で清廉な朝がやってくる。
 夜の闇よりも濃い真っ黒な笑みを浮かべて、ワニは去って行った。

 女神様の遣い?
 それにしては、いやに手の込んだ嫌がらせみたいに面倒くさい、回り込んだやり方をする……。

 目を開けると窓から朝陽が室内を薄く照らしていた。
 光はカーテンの隙間から差し込んでいるものの、何故か、目の前に眩しい光源がありなんだろうと、目を瞬かせる。

 左腕が重くて上がらない。
 胸にずしりと普段の寝起きには感じない鈍さを感じた。

「サティナ」

 昨夜、大人の男の真似をしてみたくなり、腕枕をしてもいいいと提案したら、彼女は快諾してくれた。

 幼い弟が、背伸びをしたい年頃の願望を語り、それを叶えてやる優しい姉のように、共に寝た。

 カールは普段から寝つきがよい方だ。
 妻と会話を楽しみたいという欲求よりも、昼間に侯爵とやりあったあの応酬で、相当、疲労が溜まっていたらしい。

 気づけば彼女の銀色の髪から立ち昇る甘やかで爽やかなミントの香りが、鼻孔を刺激し、脳をリラックスさせてくれたのかもしれない。

 お陰で、あのワニと夢の世界で出会うことになった訳だが……。
 妻を起こさないようにそっとその左手を動かして、頭をさすってみる。

 起きているときにやれば、「子供じゃありませんから!」と叱られるのは分かっている。

 王国では男性は子供や妻出ない限り、それも女性に対しては二人きりのときでない限り、女性の頭には触れることは許されていない。
 人前で、恋人関係の男女がいちゃつきながら、そうやれば、感心されない行為だと年長者から叱られる。

 ここにいるのは自分と彼女だけ。
 まあ一人深く寝入っているローゼがいるけど、それは数にいれないでおく。

 サティナを自分のほうに抱き寄せた。
 額の位置が鼻先につき、長い睫毛が唇辺りを撫でていく。

 二十代だけど、こうやって間近で見れば、まだまだ彼女は十代でも通るくらい、美しく若く見えた。
 長い長髪が彼女の頬に垂れていて、それが全体像をぼやかしてしまう。

 ちょっとだけ顔を放して斜め上からすがめつつ見ると、その無防備な寝顔をこれからずっと見ることができるのだと思い、人知れず頬が緩んだ。

 自分は世界一の幸せ者だ。
 この世界を、朝のほんの一瞬を、幸福のひとときを。
 あの不躾なワニなんかに壊されてたまるもんか、と心の中で毒づいてやる。

 カールは再び彼女の豊かな銀髪の中に顔を埋めると、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 すると、ワニのせいで小さく押し潰されそうになっていた自分の闘争心に火が付き、再び、戦う気力が湧き上がる。

 それは同時に朝早くに怒ってしまう男性の生理現象にもつながってしまい……。
 そこは起きなくていいんだよ!
 と、妻に気づかれないようにそっと腰を下げるのだった。

「……おはよう」

 自分の頭部をしっかりと抱いてくれている誰かがそこに顔を埋め、大型犬がやるかのように思いっきり息を吸い込んだの感じて、サティナは目を覚ました。

 普段の彼女は気を使っているだけで本当は、敬語などを使うことはあまりない人物だった。
 義母イデアとの生活でもそうだし、人前では丁寧な口調になるものの、心知った人物との間では柔らかく、少しだけ男性のような口ぶりで話すのが彼女の普通だった。

「おはよう、ござい、ます。目が覚めたんだ」
「覚めました……どうしたの、カール? 私、なにかしましたか?」

 腕枕の体制はそのままに、体を斜めに傾けどこかよそよそしい夫に、妻は首を傾げる。

「う、ううん。なにもしていないよ。僕の問題だから」
「はい?」

 気恥ずかしそうにしている彼を見て、なんとなくその理由が理解できた。
 今はまだ求められていないが、夫婦ともなればいずれそういった関係にもなるだろう。

 いつ彼がそれを求めるかは分からないけれど。
 そういえば最後に夫を失って、もう少しで二年を迎えようとしている。

 女性としての自分を磨くことをどこか忘れていた気がして、そういった意味でサティナもまた、彼に求められなくてよかった。

 なんてことを考え、耳まで赤く染めた。
 彼女の場合は生粋の肌の白さとその混じり気のない銀髪と相まって、顔色が変わるとすぐに見て分かる。

 そんな自分の特徴をサティナは理解していたから、なるべくカールに見られないようにと、その胸に顔を埋めて気づかれないようにした。
 最初に出会った穴の中で持ち上げた時もそうだったが、この若さでこれだけ引き絞った肉体を、サティナは目にしたことがない。

 亡くなった夫達もそれなりに鍛えてはいた。
 しかし、カールほどかと言われたら、首を横に振らざるを得ない。
 それほどに撃癒師の肉体は逞しい。

 これから先彼が成長していく中でその外観に魅了される女性は沢山出てくるだろう。
 そんな心配をしなければならない未来なんてもちろん予想してこなかった。

 夫の成長とともに、嫉妬心も成長してしまいそうな気がした。
 そんな自分は嫌いだ。

「だから僕の問題だから。あまりその気にしないで」
「そんなよそよそしい素振りをされたら気になってしまいますね」

 意地悪な笑みがこぼれてしまう。
 嫉妬なんて感情、捨ててしまったものだと思っていたのに。

 よみがえらせてくれた彼が可愛らしくて憎らしい。
 そしてまた愛らしくもあった。

「お願いだからあまり寄ってこないで」
「別にいいですよ私に触れたくなければ。私あちらで寝ますから」
「違うんだって、そういう意味じゃなくて」

 彼の腕から頭を抜け出し、起き上がろうとすると、慌ててこちらに顔を寄せてくる。
 本当の大型犬みたいな慌てぶりで、嫌いなんて一言を発すればそれだけで涙を流しそうな顔をしていた。

「じゃあ、どういう意味?」
「それはその……」

 意地悪はこの辺りで切り上げるべきだろうか。
 年上の物分かりのいいお姉さんを演じるべきだろうか。

 あまり距離を詰めすぎて彼に苦手意識を持たれてもそれはそれで困りもの。
 嫌いとは思われたくない。

「いいですよ。朝食の時間、抱きしめていただければ」
「あ。ええ……」

 困惑し予測していた答えと違ったのだろう。
 困り果てた顔をしながら再び腕を首にまわしてくれる。

 ワニの災難に続いて、今度は妻が意地悪だ。
 僕だけはいつも報われない。

 なんてことを考えながら、カールは逆に彼女の両腕に抱かれてその胸に顔を埋めた。
 ちょっと自尊心を傷つけられた気がして。

 カールは食堂に行くまでの間、少しばかり不機嫌だった。
 
 
 
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