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「ようやく見つけたぞ、ミオン! この恥さらしめ! お前のような庶民の血を引く女など、最初から妻にするつもりはなかったんだ! 僕たちのウェディングドレスを返せ!」

 ……馬鹿がやって来た。 
 侯爵令嬢ミオンはいきなり部屋に踏み込んできた不審者に対して、そんなこと思っていた。
 初夏の春。
 いや、何か表現がおかしい。
 とはいえ、この北国の帝都では初夏になるころになって、ようやく他国の春程度の暖かさになってくれる。
 その意味ではこの表現は正しいのかも。
 そして、春になると頭が変な連中が湧いてくると言う。
 暖かくなり、寒さに冷え込んでいた心が人としての本能を呼び覚ますかもしれない。
 その男は彼女と侍女が住むアパートメントの一室に踏み込んでくると、いきなり意味不明なことを叫んでいた。


「は?」
「何が、は? だ! 覚えていないのか、この泥棒猫め!」

 僕たちのウエディングドレス?
 それは自分が彼の前から姿を消した後に売り払った、あのウェディングドレスのことだろうか?    
 ふと、記憶の果てに押し流していたその事実をどうにかこうにか引っ張り出して、あああのことか、と手の平を打ち合わせた。

「あー……思い出したくないから、忘れ去っておりました。あなたでしたのね、ジーク。いったいどこの変質者が現れたのかと、一瞬不安になりました」
「変質者! この僕が? お前の婚約者だぞ」
「……いま、僕たちのウェディングドレスを返せとおっしゃいませんでした? まだ私と結婚したいのですか? 結婚するのが嫌で、あなたの目の前から逃げたこの私とですか?」

 いやー何と言うか。
 世の中には物好きな男もいるのね、とミオンは首を傾げてしまう。
 彼の目の前から消えてもう半年近くになるが、その間、彼はずっと自分を探していたのだろうか?
 だとしたらものすごい執着力だなと、ある意味感心してしまった。

「ふざけるな! お前などもう愛想が尽き果てたわ!」
「へえ……それなのに、半年近くもかけて私の居場所を探り当てた、と?」
「仕方ないだろう! お前から、与えたものを取り返さなければ、何も始められないのだ!」

 それだけの能力があるなら、あの時もっと尽くしてくれていたらこんな未来にはならなかったのにねーなんて思いつつ。
 ぎゃあぎゃあと大声でわめいている男に憐れみを込めた視線を送ってやる。

「何も始まらない? もう終わったはずですが。あなたとの婚約は解消させていただきますと、手紙にもしたためたと思います」
「ああ、それだ! その手紙の送り元からお前の居場所を探り当てたのだ! この泥棒猫め……お前など婚約破棄してやる!」

 あー、あれ?
 話が通じてない?
 やっぱり馬鹿なのかしら、この殿下。
 そう、こんな男でも一国の殿下なのだ。
 皇太子なのだ。
 そして、自分が半年前まで愛していると思っていた相手だった。
 だが、婚約破棄してくれると言うならこんなにありがたいことはない。
 是非、受け取るとしよう。
 ミオンは嬉しさのあまり、心の中で手を叩いていた。
 だけど、その前に嫌味の一つも言わないと気が収まらない。

「は……? 婚約者の妹に手を出すような恥知らずと誰が結婚したいと思うのよ! 貴方なんて、こっちから願い下げだわ!」
「あ、あれは――違う、僕が先に手を出したんじゃない! あれは、お前の妹からクレアから……っ」
「どっちが先でも同じことじゃない。今更、言い訳するなんてそれでも皇太子ですか、ジーク? 婚約破棄は丁重に頂いてきます。さあ、お帰りはあちらですよ? どうぞ?」
 
 もうあなたは用済みとばかりに部屋の出入り口を指さしてやる。
 すると、なぜか皇太子は……帝国の皇太子のはずなのにいつもの部下はどこに行ったのか。
 たった一人でそれも貴族らしくないぼろ布をまとった浮浪者の彼は、いままで見たことがないほど顔を真っ赤にして奇声を上げ、いきなりミオンに襲い掛かる。
 あと一歩でその手がミオンに届くかという時――ゴンっと妙に鈍い音が部屋に響き渡る。
 そして、ジークはゆっくりと泥人形のように床に崩れ落ちた。

「お嬢様! 大丈夫ですか?」
「……はあ。遅いわよ、もう少しで危ういところだったわ、サリナ」
「間に合ったからいいじゃないですか!」
「そんな問題じゃないの! 怖かったんだから……なんてしつこいの、この男」
「この男? 知り合いですか?」

 危機一髪というところで、鈍器と化した陶磁器の花瓶を手に持ち、侍女は助けに来てくれた。
 そして、二人の足元にうつぶせに横たわる謎の男を知っているというミオンに、侍女は不思議そうな顔をする。
 どう見ても浮浪者にしか見えない風体だ。

「……彼よ、サリナ。ジーク……」
「ええっ? あたし、皇太子殿下を殴った……?」
「このまま死んでくれないかしら。そうしたら遺体を河に流すだけで済みそうなのに」
「お嬢様! 冗談になっていませんよ! でももし彼なら、なんてしつこい……」
 
 本当にね、とまだ生きてるかなと思いつま先で倒れ込んだジークの横腹をつつきながら、ミオンは大きなため息をついた。
 ことの起こりは半年前。
 ここから遠く離れた王国で実妹クレアと婚約者ジークの浮気を知ったミオンが、逃げるようにして王国を離れたのがきっかけだった。
 

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