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第九夜 あなたを焦らしたい。門倉医師の治療 二回目

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 意外にも紗和はすんなりと承諾した。

「わかったわ。次からはわたし一人で行きます」

 あまりにもあっさり同意したのに狼狽した。少しは躊躇の素振りを見せて欲しかったが、それは全くと言っていいほどに、無かった。

 書類に署名捺印して二通分の同意書をスキャンしPDFにしてメールで送った。

 折り返しすぐに返信が来た。

「同意書を受領しました。次回の来院は六月七日の午後五時に。ご都合が悪ければご連絡ください。またあなたと奥様とのご連絡をLINEで行いたいと思います。下記のIDで一度ご連絡いただけますようお願いいたします」

 妻はパソコンの画面を見ながらその作業を黙々とこなし、やがて書斎を出て行き、家事に戻って行った。

 しばらくぶりに紗和の身体に勃起して射精出来た日から三日経った。その間、セックスをしていなかった。あの昂奮が醒めてしまうとまた元の気弱な夫に戻ってしまったようだ。求めれば応じてくれたかもしれない。だが、勃起するにはあの妻の「夜伽話」が必要なような気がしていた。

 つまり、自分は紗和そのものにではなく、紗和の過去に嫉妬し、昂奮してしまったのではないかと。

 一緒にベッドに入ってもムラムラが来ない。だが、妻がリモートできない部分を調整するために翻訳事務所に出向いたり買い物に外出したりする僅かの時間に、紗和の話に出て来た峰岸とのセックスやSM行為を想像するととても興奮して勃起できるのだ。

 しかし、それは禁止されていた。

「施術は複数回行いますが、全て終了するまでマスターベーションは控えてください」

 と、先生から厳命されていた。

 ドキリとした。共にキョーコという女性とプレイした間だったが、これほど事務的に性的な行為の名称を言われるとは思ってももみなかった。

「もちろん、奥様以外の女性との性交も禁止です。必ず奥様とかかわって、奥様に導いてもらうようにしてください」

 先生のあまりにももっともな、夫婦として当たり前の指示に、頷くしかなかった。本来夫婦はそうあるべきで、その「本来」が出来ないが故の施術であるわけだが。

 もしかして、妻は、紗和は、彼女がカミングアウトしたような「プレイ」を、彼女を強引に犯すような激しい「プレイ」を待っているのだろうか。

 そんな風にも考えて、わずかの時間にネットの動画を、そうした「プレイ」の動画を検索して探して観たりもした。様々なそういう「プレイ」の研究も兼ねて。あのキョーコを抱いた夜のように、そうした動画を観てもわずかの時間で勃起でき、射精まで達することができる。それが禁じられているのがもどかしかった。本当は夜も観たいが寝室に紗和が寝ていると思うとさすがに無理だった。それに、仮にそれを観ながら妻とセックスできたとしても、それは偽りだ。真の解決にはならない。

 では、それを想像しながら妻とすればいいのではないか。そう考えてしてみようとしたが、これが思ったほどスムーズにはいかなかったのだ。

 ベッドに入って来た紗和に話しかける。「・・・抱きたい」とか「したい」とか「キレイだ」とか。それからキスして、身体を触って・・・。そうしたステップを意識し始めると、ダメなのだ。まったく下半身が反応しない。どこか彼女に遠慮をしてしまっている自分がいる。

 そんな風に日々が過ぎ、そして運命の七日を明日に控えた夜が来た。

 明日は午前中だけ出社する用がある。午後密かにクリニックまで行ってみようかとも考えたが、「妻一人で通院する」と約束したことでもあり、それはやめた。家にいても落ち着かないだろう。気晴らしに映画でも借りてこようか・・・。

 そんなことをつらつら考えながら先にベッドに入っていると紗和が寝室に来た。

 いつものように半袖のパジャマを着てドリンクのカップを持ち、洗面所で施して来たクリームの香りをさせてベッドに入って来た。

「眠れないの?」

 と紗和が尋ねた。

「うん・・・。ちょっと」

 と答えた。

 妻は枕を立てて半身を起こし、読みかけの雑誌をパラパラめくりながらドリンクを含んだ。いつも通りの妻がそこにいた。緊張しかけている自分に比べ、あまりにもいつも通りな妻に気後れがした。そんな紗和を眺めていると、あの狂乱の「夜伽話」の夜が嘘のように思えてしまう。なかなかその気になれなかったのは、そのせいもあった。自分だけ盛り上がって、バカみたいだ、と。

 紗和にとって、あの夜はさして重要ではなかったのだろうか、と。そんな風にも思えてしまうのだった。

 いや、そんなことはない。

 妻は、紗和はたしかに変わった。

 先生の診察を受けて帰宅する電車の窓の外を眺めていた紗和の横顔を見てそう思ったのだった。初めて見る表情(かお)。その時はそう思った。今、譲治の横で雑誌を読むとはなしにパラパラしている顔と同じだ。

 それが違うのだ、と気づいた。

 どこか吹っ切れたような、落ち着いた風情。清楚で大人しい控えめな印象の中にある、どこか覚めたような、悟りを得たような、内に熱いものを秘めたような、そんな雰囲気。

 初めて見る表情ではない。前にも見た。どこかで、見た・・・。

 紗和がパタ、と雑誌を閉じ、ベッドサイドの小さなテーブルの上に置いた。

「どうしたの」

 小首をかしげて覗き込んできた。

「・・・きれいだな、って」

 うふ・・・。

 紗和は笑った。


 

「浅香さん。こちらは部下の神崎です。神崎、いつもお世話になってる浅香さんだ。今後何かとあると思うから・・・」

 峰岸に紹介されたのは、清楚で大人しい控えめな印象の美しい女性だった。

「神崎紗和です。よろしくお願いします」

 うふ・・・。


 

 その時の紗和の瞳。その瞳の中に宿っていた熱い光。

 想い出した! これだ。あの時の、あの顔だ。清楚で大人しい控えめな中に、どこか妖艶な、悪女の一面を垣間見て背筋がゾクゾクした、あの時・・・。

 紗和が身を寄せて来た。化粧水。ナイトクリーム。リンス。その奥に、愛する妻の、紗和のほのかな体臭を感じる。甘く柔らかな唇が頬、頬に、唇に触れる。就寝用に緩いツインにまとめた髪のうなじに手を添え、抱き寄せる。そして、もっと深い口づけを・・・。

「ね、なあに?」

 ウフ。

「きみと始めて会った時のことを、峰岸に紹介された時のことを、思い出してた」

 紗和の目の奥が光った。

「ねえ、・・・したい?」

 彼女の手が譲治のズボンのゴムをくぐってパジャマの中に忍び込み、それを捉えた。少し冷たい手が硬くなり始めたそれを擦る。だが回想を中断して正面から妻に向かい合おうとすると、萎えかける。

 キャリアも。人間的な魅力も。セックスアピールも、強引さも、ない・・・。

 カミングアウトの夜の、紗和の言葉がまだ胸に刺さっていた。紗和を咎めるつもりはない。妻は本心を、本当のことを話してくれたのだから。今は違うと、言ってくれたのだから。

「大きくなってる」

 と、紗和は言った。

 紗和の唇が耳に移り、あの夜と同じに耳たぶを甘噛みされた。

「どうして大きくなってたの?」

 紗和のささやきが耳に吹き込まれる。右耳よりも左耳に囁かれる方が感じるような気がする。右脳と左脳か。左耳は右脳に。イメージを司る右脳に。たしかに、これは理屈じゃない。イメージだ。再び譲治の男根が勢いを取り戻してゆく。

「だから、きみと初めて会った時のことを思い出してたから。そうしたら、勃っちゃった」

「・・・そう」

「今さ、役所で、峰岸に紹介されたとき・・・」

「うん・・・」

「あの時と、同じ目をしてる」

 紗和の手が頬に置かれた。やや冷たい、柔らかな美しい手。自然に見つめ合った。美しい表情(かお)に光るあの蠱惑な瞳、それがここにある。

「こういう目だった? あなたを見てた目・・・」

「いや、峰岸を。・・・きみは峰岸を、そういう目で、見てた」

 紗和の瞳の奥が、また光った。

 あの、ありふれた役所の担当官と業者の打ち合わせの席。その席の向こうに座った上司と部下。話しの合間のほんのわずかな刹那、一瞬の間。部下の、上司を見上げる目が、心に残った。あの、甘えるような、挑みかかるような、魅惑的な蠱惑とも思える目。

 譲治が惚れたのは、実は、その目だった。その目が、今、目の前にある。

「でも、そんなわたしを変えてくれたのは、あなた。あの時からこの目はあなたしか見ていない。それだけは、信じて」

 先生の診察を受けて、紗和はそれまで忘れていた、その目を取り戻したのだった。

「ねえ、・・・したい?」

 と紗和は言った。だが、妻の顔に自分はそれほどでもないが、したいならつき合ってもいい、そんな色が少し、垣間見えてしまった。そういう、「したい?」だったのが、わかってしまった。そんなことは普通の夫婦ならばごくありふれたことで、とるに足りないことだ。夫が二人の出会いを思い出して、催している。しかたない、付き合ってやるか・・・。そんな風に夜を始める夫婦は、ゴマンとある。

 だが、そこを機敏に捉え、あっさり行為に持ち込んだり、気乗りのしない妻を煽てて強引にグイグイ押すことができるのならば、こんな苦労はしていない。

「うん・・・。けど・・・」

 大事な診察を前に不用意にグイグイ押して、またトライして失敗したら・・・。そう思うとさらにそれが萎縮してしまった。紗和は自分のために施術を受けてくれるのだから。今はあのカミングアウトの夜のような、突き上げるような張り裂けるような欲求がない。ならば、無理にする必要もないだろう。紗和から求められれば、話は別だが。

「・・・それより、先生から連絡はあった?」

 いつもの癖であまり掘り下げ過ぎると余計に状況が悪化するような気がしたので、目下の課題である明日の件に話しを移そうとした。

「あったわ。LINEに・・・」

「なんて?」

「明日の、服装とか・・・」

「服装? 服を指示されたの? どんな?」

「出来るだけ、軽装に、って。それと・・・」

「それと、何?」

「着替えを持ってきてください、って・・・」

 鼓動が早くなった。

 そんな指示を送ってくるなんて。一体どんな施術をするつもりなのか。しかも、着替えとは・・・。先生のもとで服を着替えるとは、いったい・・・」

 LINEを見せて。

 その言葉が咽から出掛かったが、抑えた。

 同意書の確認事項に、先生から妻への連絡を覗き見たりしない、という項目があった。もし、そうした行為があればそれが判った時点で施術を打ち切る。半ば脅しだが、そういう約束があった。

「奥さんの口から私の指示を聞きだすのは構いません。ですが、私からの指示を直接見るのは厳禁します。あなたの奥さんへの意識を高め、自然な性交が出来るようにするのが目的なのですから、極力奥さんとコミュニケーションをとるようにしてください。

 いままでのご夫婦の事情はお察ししますが、パートナーへの信頼を取り戻すことが第一なのです」

 そう、先生は言った。もっともな配慮だと思った。だから、スマートフォンにロックがかかっていないのを知っていながら、譲治は妻のそれを盗み見たりはしていない。

「・・・もう一度確認するけど、本当に、いいんだね?」

 紗和はすでに枕を戻して明かりを消していた。彼女にとってはもう、先生の診察を、施療を受けることは既定の事実になっているかのようだった。今更何を確認するの? そんな言葉さえ出てきそうな気がした。

 そして、まったりするようなキスをくれた。

「あなたのためだもの。・・・やるわよ、もちろん」

 薄着になり肌を露出した紗和が先生の「施術」で散々に感じさせられ、イカされる光景を想像してしまうと、イヤでも勃起し自分で慰めたくなってしまうが、ガマンせざるを得ない。譲治は歯噛みしながら耐えるしかなかった。
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