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おけいこのはじまり

20 秘書のおけいこ

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 薄暗い山道を登り切り、あの洋館が見えてきた。

 館の前に着けると、青い衛兵が飛び出して来た。レイコさんが外に出て車のトップ越しに、

「May I ?」

 そう言っただけで彼は通してくれた。館の横の鉄格子のゲートが開き、車を進めた。

 表からの目隠し用の雑木林を潜ると、夕暮れの広大な空間に、英国のカントリーを再現したような田園地帯が広がっていた。農家を思わせる、統一された意匠の家が点在し、その間を小川が流れ、低木が植えられ、それらを縫うように自然石で舗装された小路が家々を結んでいた。目の前に前に来た時は夜だったから全くわからなかったが、スミレはその十九世紀の田園を描いた絵画のような風景に見惚れた。

 そこかしこを麦わら帽を被った老農夫が手押し車を押して歩き、長靴を履いて素肌にオーバーオールを着た若い農夫がロバの引く貨車を御してレナ達の前を通り過ぎた。その若い農夫の顔に見覚えがあった。

「ヤン!」

 窓から顔を出して呼び止めた。農夫はスミレを認めると白い歯を見せた。

「なあに、知り合い?」

 レイコさんが尋ねた。

「・・・はい。前に来た時に。その時は青い制服でしたけど・・・」

「サキさんが言ってたのは本当ね」

「彼、何て言ったんですか、わたしのこと」

「・・・いいから。行って」

「ねえ。気になるじゃないですか。なんて言ってたんですか?!」

 畑には作業の片付けに入っている農夫たちがいた。耕運機などの動力機械は一台もない。全て手作業か、牛やロバが使われていた。雑多な人種がいた。東洋人が多いが、白いのも、黒いのもいる。男女の内四分の三ほどはみな老人だった。農夫にしては、みんな日焼けしていない。何かのテーマパークのような、そうでないような。不思議な場所に見えた。

「お年寄りが、ここに住んでる人なんだって。さっきあなたが声を掛けたのは警備員よ。それは聞いてた?」


 

 あのレンガ造りの家も、陽のあるうちに見上げると小さくはあるが瀟洒な古城のように見える。壁には蔦が這う小さな古城のような家の前に車を駐めた。前にここのスタッフがしたように、レイコさんがスマートフォンを操作し、あの無機質な女性の声が聞こえた。

 中の調度の位置はこの前とさほど変わっていなかったが、作りつけに思えたキッチンや収納スペースは一変していた。以前より古ぼけたような感じがする。しかし、それは外見だけだった。

 キッチンの引き出しの横に、調味料などを入れておく縦に長い小引き出しがあり、その奥にテンキーボードが嵌めこまれていた。レイコさんの指がそのうえで何度か踊る。

 カチ、と音がして、本来は鍋釜が入れられているはずの引き出しから、数台のノートパソコンが取り出された。それらがむくのテーブルの上に並べられる。レイコさんがそれらを片端から立ち上げてパスワードを打ち込んでゆくのをスミレは黙って見ていた。

「ここはセキュリティーが万全よね。警備員があちこちにいるし、日本人が入ってくるととても目立つ。サキさんがここを選んだのは正解だわ」

「ここは何なんですか」

「事務所よ。わたしたちの」

「事務所?」

「今日から一週間。あなたはここで寝なさい。学校からプリント、渡されなかった?」

「・・・もしかして、理事長の、」

「校外学習。申請書書かなくちゃね」

「・・・家に置いてきた。カバンの中」

 レイコさんはため息を吐いた。

「・・・後からミタライさんに行ってもらう。彼に提出してもらうから」

 えーっ!

 彼に部屋に入られるのは恥ずかし過ぎる。

 掃除もしていないし、クリーニングに出す服は袋に突っ込んだままだし、一週間分まとめて洗う下着は脱衣所の籠にてんこもりになっている。

「だって、保護者にって・・・」

「まだ、わかんないかな・・・」

 彼女はダイニングの椅子に腰を下ろし、脚を組んでスミレを見つめた。

「これはチームの『仕事』なの。仮にサキさんに直接渡したって実際にサインするのもハンコつくのもミタライさん。そういう書類関係法律関係が彼の担当。全体の指揮と実動がサキさん。そしてわたしは経理と雑用。そういう役割分担なの。さしあたってあなたの仕事は各プレイルームの監視と手配。今、それ教えたげるから・・・」

「プレイルームの、監視?」

「ここ、座って」

 操作を始めるレイコさんの横で、彼女のフルーティなコロンの香りを感じながら、開かれたウィンドーを見た。

「ここ。クリックしてごらん」

 スミレは言われた通りの「5」と書かれたアイコンをクリックした。動画のソフトが起動しローディングがしばらくあり、先日サキさんに与えられた部屋の赤外線映像が映し出された。使った後、掃除も何もしないで部屋を出たが、そこに映ったのは綺麗に清掃されベッドメーキングもされた部屋だった。

「誰が掃除してくれたと思う?」

 そんなもの、全く考えてなかった。実家の自分の部屋でさえしたことがない。最近になって自活し、初めて掃除というものをしたぐらいだ。サキさんが案内してくれたのだから、彼がハウスキーパーか何かを手配するだろうとしか。

「考えたりなんか、してなかったでしょう。そういうお掃除をしてくれるところがあるの。その手配をしているのが、わたしなの。ハイ、これ」

 レイコさんは黒いスマートフォンをくれた。

「秘書用。そこにお掃除屋さん、ってTEL番があるから、そこに電話して『何番お願いします』それだけ言う。それ以外、言わない。それだけで、わかるの」

「あの、ちょっといいですか。サキさんたちの仕事って、あの、SM関係の、なんですか?」

 ウフフ、から始まって、やがてレイコさんの笑いは爆笑になった。

「ああ、ごめんね。無理もないよね。知らない人から見れば、そう見えちゃうよね」

 あー、笑っちゃった。

 そう言いながら指で涙を拭き、彼女は胸を抑えて息を整えた。

「そうね。そのうちわかるよ。サキさんと居れば。でも、今は知らなくていい。SM関係の仕事をしてる。それは事実だから、そう思ってくれていい」

 と、レイコさんは言った。

「聞いて。

 わたし一週間ほど出張しなくちゃいけないの。その間、このお世話をあなたに頼みたいの。難しくはないでしょう?

 学校には行かなくていい。毎日一回、各プレイルームを監視する。使用した部屋があればお掃除屋さんを手配する。そして夜はここに泊まる。それだけ。ここで勉強してもいいし、昼間どこかに遊びに行ってもいい。だけど、夜は必ずここに泊まる。そして、必ず安全運転する。できるよね?」

「あの、レイコさんは、その・・・スレイヴ、なんですか?」

「違うよ。わたしは彼と同じ趣味はない」

「あのお店やってるからそうかと思った」

「あれはね、彼に付き合わされてるの。でもその方が何かと都合がいいことが分かったの。だからやってる。

 ちょっと考えてみて。

 あなたが今住んでるマンションの家賃。

 あの赤い車。

 サーキットを貸切るお金。

 あなたの通う学校の授業料。

 あなたが壊した車、その回送費用。

 そのほかの、あなたに関係する出費だけでもかなりの金額になるんだよ。億の半分くらいにはなる。

 他にわたしやミタライさん、それからサキさんの費用やお給料、あのお店の賃貸料、ミタライさんの事務所、そしてこの事務所の購入費用・・・。それ全部足したら、莫大な金額だよ。それ全部、こんなSM関係の商売だけで賄えると思う? あなたの分だけだって、その十分の一にもならないよ。お嬢様の世界で生きてきたあなたは、そんなの考えたこともなかったでしょう。

 あなたがこの街に来て最初に住んだボロアパートも手配をしたのはわたし。彼に進言したの。あなたのようなお嬢様にはそういう経験が必要だと思ったから。ここで過ごす一週間は、貴重な経験になると思うよ。サキさんにとっても、貴方個人にとってもね。

 一週間、頑張って過ごしてごらんなさい。ちなみに、デリバリーはできないからね。あの本館のレストランで食べるか、わざわざ麓まで下りて外食するか、出来合いを買ってくるか、ここで自分で作るか。料理、出来るようになった?」

 それを言われると、どうしようもなかった。無理だ。今のマンションでの生活も、トーストを焼いてコーヒーを淹れるぐらいしかできない。あとは全て外食になっていた。健康な十七歳の食欲はそんなものだけではとても持たない。

「外食ばっかりなんでしょう。今はまだ若いからいいけど、そんな食生活じゃ身体に悪いよ。

 あ、そうそう。パソコンは使ったら必ずあのキッチンに戻す。引き出しの番号とパソコンのパスワードはこれ。今すぐ全部暗記しなさいね。それから、これが一番大事だけど」

 スミレにメモをくれながらレイコさんの目が冷たく光った。

「レストランで食べてもいいけど、この事務所でのことは絶対に他言無用だからね。さっきの警備員の彼も連れ込んじゃ駄目よ。あなたの命のために忠告してるの、忘れないでね」
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