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おけいこのおけいこ

54 揺れるスミレ

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 サキさんは年に2、3度、大きなミッションを行う。

 スミレを入れて現在4人いるスレイヴを相手にプレイをするのはそのミッション間の休閑期になる。4人も相手するなんて大変じゃないのか。スミレの目から見るとこれ以上増やさなくてもいいのにと思う。もちろん、その思いには十分にエゴが入っている。でも彼にはそれが、新しいスレイヴの徴募が、どうしても必要なのだという。

「渇くんだよ、どうしようもなく・・・。渇いてしかたがないんだ」

 と。

 何となくわからなくもない。

 サキさんに愛され、調教を受けるたびに満足のゲージが上がる。その時は十分に愛され、官能を刺激されて性欲が満たされるが、もっともっとと、より多くを求めるようになってしまう。あまりにも高みに押し上げられると、どこまで自分の欲望が大きくなるのか、怖くなるときがある。その欲望の果ての外側を見るのが、たまらなく恐ろしくなる。いつかはそれがなくなる。その時が来るのも怖い。


 

 スレイヴ候補は例によってサキさんのフリをして最初はスミレが応対する。

 彼女の場合はホームページのメールフォームから始まった。

--オナニーは毎日? 一日に、何回?

--ノーパンで学校に行ったことある?

--ブログの写真、見たでしょう。何も着ないで、全裸で、赤い首輪をつけて、犬みたいに四つん這いで、お散歩してみたい?

--縛られるってどう思う? 縛られてみたい?

--あの写真の女の子たちのマネゴト、してみたい?

--できれば、本当のことを話してください。シオリさんは大学生。これまでの体験人数は5人。好きな体位は、後背位。そうですね?

 それにYESと答えてきたので一度やり取りを止め、調べていたのだった。

 その続きをサキさんが勝手に進めていた。

--あの写真の女の子たちのマネゴト、してみたい?

 と、送り、ブログの中のチャットルームに誘っておしゃべりの最中だったのだ。

--どうするんですか

--まず、今着ているものを、全部脱いで

--脱ぎました

--鏡はある?

--はい

--鏡で自分の顔をよく見てごらん

--どうしてですか

--この世界に入るにはね、自分を強く意識することが大事なんだ・・・


 

 ふーん・・・。


 

 このブログはそのために、サキさんのスレイヴを募るのを目的に運営しているから、彼がしていることを責めることはできない。

 でもなぜか、無性に腹が立つ。どうしてなのかは、スミレにもわからない。その気配を察したのか、キーボードをたたきながらサキさんが横目で睨んでいる。

「なんだよ。文句あるのか」

「別に」

 それでもキーボードをたたくのをやめないサキさんに、諦めて帰り支度を始めた。

「事務仕事しようと思ってきたけど、帰るね」

「おい、ちょっと待ってろよ。これ済ませたら可愛がってやるから先にシャワーでも浴びてベッドで待ってろ」

「気が変わっちゃった。夜通し走ってきて疲れたから、帰って寝ます。入金処理は明日します。おやすみなさい」

 そう言ってずんずん事務所を出た。

 相変わらず女心を読んでくれない最愛の男。

 彼はいつもこんな風だった。そんな男だと知りながら、それでも彼と離れられない。

 だけど今夜は何かがいつもと違う。疲れがどっと出てきてしまった。今日は抱かれる気になれなくなった。

 事務所を出て赤い馬に乗ってしばらく待っていたが、サキさんは追いかけてきてもくれなかった。

 もう、いい!

 赤い馬をめちゃくちゃに飛ばしてマンションに帰り、その夜は、というよりも朝は、ふて寝した。ふて寝するしかなかった。

 ベッドに入ったらすぐに寝られると思っていた。が、眠れない。

 孤独。

 思えば、物心ついた時からスミレは孤独だった。

 幼いころはそれでもよかった。孤独を孤独として認識せず、誰でもこんなもんだと思いながら育ってきた。

 それが変わったのは、マークに寄せていた思いが愛だと知ってからだ。

 好きあうもの同士、愛し合うもの同士が自然に結ばれる。

 そういう世界で生きられれば、スミレは今ここでこうして眠れない夜を過ごしてはいない。それが出来なかったから、曲がり、くねり、いろいろあって、今こうして自分の汗のにおいのするタオルケットにくるまっている。

 その孤独な自分を、閉じ込められた廃城から朽ちかけた扉を壊して救い出してくれたのは、サキさんだ。

 彼に出会わなかったら、今の自分はない。心を閉ざし心を殺して人形のように一生を送っていたか、廃人同様になってその筋の病院に幽閉されていたか・・・。

 サキさんだけが自分を一人の人間として扱ってくれた。自分の奥底に滓のように、沈殿池の糟のように溜まっていた異様な嗜好を愛で、掘り起こしてくれた。

 彼のおかげでいっぱしの人間としてこの世で生きてこられた。金とか地位とか、そんなものは関係ない。極端に言えば、彼さえいてくれるならあの高校生の時に入れられたボロアパートだってかまわない。

 ここだけが、サキさんの傍だけが、自分の居場所だった。

 しかしそれが今、消え去ろうとしている。

 それはサキさんのせいではない。

 スミレの持って生まれた、身体に刻み込まれた焼き印のようなものだ。聖書に出て来る、額に押された666の数字のように。抗うことのできない、やはりこれは運命なのかもしれない。

 サキさんの執着していた女子高生は、そんな運命とは無縁の娘なのだろうか。

 だとしたら、あまりにも、せつなすぎる。

 枕もとのスマートフォンが明滅した。サキさんからのLINEだ。

 ベッドの上で飛び上がらんばかりに開くと、すぐに見たことを後悔した。

「この子をナンバー8のスレイヴにしたい。プレイルームを用意しておけ」

 


 

 昼過ぎに起きた。なかなか寝付けなかったが2、3時間ぐらいは熟睡できた。

 身支度をしながらハウスキーパーに電話をして部屋の掃除を頼んだ。汗臭い寝具も洗ってもらう。このところ寝汗がひどい。

 近場のホテルでクロワッサンとサラダの朝食兼ランチを摂った後、事務所に行って入金処理をした。

 当たり前だがもうサキさんはいなかった。

 彼はダラダラ一つ所に落ち着くような男じゃない。用が済めばさっさといなくなり次の行動に移る。事務所は秘書のもので、彼の居場所ではない。すこしぐらいはまったりとしてくれてもいいと思うのだが。

 吐息をついてパソコンを出す。

 先日大きなミッションが終わったばかりだ。申請した金額が既に振り込まれていたから今日のレートを確認して必要な分を円に換え、それぞれの口座に分散して入金する。そのミッションでは総額で赤い馬が四十台は買えるぐらいの金を使った。

 だが、その投資は後に数百倍数千倍、金には換えられないほどの利益になって返ってくる。もちろん、雇い主に、だ。この国を彼の財布のままに保つ。それがサキさんの目的であり、雇い主から託された使命だ。スミレはそのアシスタントをもう8年も続けてきた。

 

 そのミッションの終わりにサキさんが言った言葉。このところスミレが寝汗をかいているのは彼のその言葉のせいだ。

「秋までにもう一つちょっとしたミッションがある。それがお前の最後のミッションになる」

「どういうこと?」

 突然の言葉に驚いて問い返した。

「お前はもう、非合法の活動には関わらない方がいい。それがお前のためだ。わかるだろう? お前はもう顔と名前が世間に知られ過ぎた」

「わからないよ。どうしてそんなこと言うの?」

「・・・アタマの悪いヤツだな、お前も」


 

 入金処理を終え、もう一つの指示を、出来ればやりたくない仕事にかかる。

 不動産屋に連絡をして出物を聞いた。防音、天井の高さ。駐車場。ニ十四時間アプローチ可能。そうした条件に合う物件は今のところは出ていないという。引き続き探してもらうことにして電話を切った。

 そしてお次は・・・。

 大工さんに電話をする。

 大工さんと言っても本当の、いわゆる街の工務店のことではない。サキさんの同僚チームの備品調達を担当する部局のことだ。サキさんがミッションを実行する際に使用する備品をここが調達する。子供服から対戦車砲まで、あらゆる備品を調達し配達してくれる。そこに新しいプレイルームに搬入するベッドを注文する。具体的にはマットレスの中にあるものを仕込んでもらうのだ。それにはちょっと時間がかかるから事前に手配しておかねばならないのだ。それは新しいスレイヴのプレイルームを開設する度に手配する「儀式」のようなものだ。

 その「もの」はスミレが用意する。ベッドの図面とその「もの」をどこかで落ち合って手渡す必要がある。一般の宅配業者や手紙やメールLINEは一切使わない。電話か、直接手渡しが原則だ。あらかじめ決めてある場所と時間だけを伝える。

「あ、もしもし。味噌ラーメン3つとギョーザ二皿を・・・」

「お間違いですよ。来々軒は下四桁が2213です。・・・ったく」

 ぶつっ。

 これで連絡は完了だ。

 味噌ラーメン3つは午後三時。ギョーザが明日。二皿でB地点。これが例えば明後日の午前四時にD地点なら、醤油ラーメン四つのチャーハン四つになる。それに下四桁が2213のラーメン屋はこの市内には存在しない。隣の市に、出前が届く前にスープが冷えて麺が伸びてしまいそうな距離にある。これは、「了解した」という合言葉だ。電話する場合は常に盗聴されていることを念頭に置いている。

 明日の午後3時に大工さんに配達を終えた後、またタチバナの本社に向かわねばならない。明後日は取締役会があるからだ。

 サキさんからの指示は手配した。あとはルームのチェックだが・・・。どのルームも、ランのさえキレイなものだった。

 ふと思い立ってブログのメールフォームのログを見る。

 サキさんから相手のスマートフォンへ、

「パンツ類は着用禁止。一番短いスカート着用の事」

「ストッキング類は着用禁止。ただしお尻を覆わないものはこの限りではありません」

 という指示が送られている。

 サキさんは今日、誰かと会っている。多分あの、レナという娘だ。


 

 パソコンを仕舞って事務所を出た。

 時間はある。

 ソノダの事務所に遊びに行こうかとも思った。

 タチバナの取締役になって辞めたことが2つある。その一つがレースだった。

 レースをやめるのは、悲しく、苦しかった。断腸の思いとはこのことだ。でも、

「タチバナの役員に万が一のことがあったら、スポンサードしている孫会社にもソノダレーシングにも多大な影響を及ぼすことになりますよ。それに、私にとっても、ね」

 マキノに諭され、泣く泣くドライバーズシートを手放さざるを得なかった。

 その代わりにソノダレーシングにはスミレのポケットマネーから増資し、自分のグラビアやビデオの権利も全て渡した。もちろん、ソノダは喜んだ。彼は「ラリーアイドル」路線に味を占めたらしくスミレに続く「美少女ドライバー」を育成して仕込んでいる最中らしい。「株式会社ソノダレーシング」の70%の株を持つ、ほとんどオーナーとなったスミレにとっても興味深い時だ。

 だが今日はやめておく。どうしてもそういう気分にならない。

 まだ夕食には少し早いがプレイルーム傍のレストランに行く。そこのウェイティングバーにいつもいる、腹の出たオーナーシェフとお喋りをして軽くディナーを摂り、夜は明後日の取締役会のために勉強しなければ。


 

 バーのドアを押した。カウンターにいたのはいつものシェフじゃなくて初めて見る男だった。

「いらっしゃいませ」

 目元の涼し気な和風の好男子だ。歳はスミレより五六歳は上だろうか。

 いつもの定位置である一番奥の席に座る。シェフは初めての客にはチェイサーとメニューを出す。スミレのような「超常連」には。今日は早いじゃないの、とか、いやー天皇賞でこんな大穴が来るとはねえ、とか雑談を仕掛けてきて客が落ち着いたころ合いで「いつものでいい?」と訊いてくる。

 しかし、初対面となると、こちらから切り出さねばと思い、

「新人さん?」

 と声を掛けた。

「あ、はい。ムラカミといいます。先週から入らせていただいてます。よろしくお願いします」

 落ち着いた口調で挨拶された。

「こちらこそ」とスミレも言い、

「じゃあ、マティーニを。ヴェルモット少な目で、シェイクで」

「かしこまりました」

 髪は短くカットしてオイルで撫でつけている。髭の剃り跡が少し濃い。男性の魅力がある。

 ボトルのキャップを開ける手際、シェイカーにカップをかざして注ぐ手の切れ、シェイカーの振り方。全てが絵のように完璧に流れる。素直に美しいと思う。スミレはそのムラカミというバーテンダーの所作に魅了された。

「彼、いいだろう」

 いつの間にかシェフが傍に立っていた。

「彼が来てから6時以降の女性客が増えたんだ。レストランの売り上げにも貢献してくれてねえ」

「マスターももう少しお腹引っ込めればそれなりなのに」

 スミレは人差し指でシェフのエプロンを押し上げている太鼓腹をつんつん突いた。


 

 食事が終わってからも店を出ずにバーへ行った。シェフの言葉通り、カウンターはいつもの倍ほどの若い女性客で埋まっていた。

 やむなくカウンターを諦めてボックス席につき、ウィスキーを一杯だけ飲んで帰ろうと思った。車はプレイルームの駐車場に置いておけばいい。注文を取りに来たウェイトレスにオーダーして、あとはカウンターの彼を見ていた。

 彼の技を目の前にしている女性たちの目がウットリしている。スミレもスマートフォンでタチバナの株価をチェックしながら、時折チラチラと視線を送った。

 ちょうど彼と目が合う。

 とっさのことでドキドキしてしまい、無意識にスマートフォンに目を落とした。男あしらいなら十分に経験を積んできたスミレらしくもなかった。

 オンザロックのグラスをトレーに乗せてきたのは、ムラカミだった。彼の美しい手が置いたグラスの下に小さな紙片が張り付いていた。


 

 一人プレイルームで待つのもバカらしい。通りをぶらぶらしてブティックを冷かしたり、遅くまで開いている本屋を見つけ立ち読みしたり、買った経済関係の本を片手にコーヒーショップで時間をつぶした。

 紙片には彼のものらしい番号と「10時半には上がります」とメモがあった。ウェイティングバーだから、9時ラストオーダーのレストランが終われば営業終了なのだ。

 時間を少し回ったところで電話を入れた。

「今どこですか? もし飲み足りないなら、ぼくが知っている店に行きませんか」


 

 その路地を入った一番奥の、カウンターと小さなボックス席が一つだけの狭いバーに入り、ボックス席でいきなり2人で並んで乾杯し、照明が暗いのをいいことに、おつまみのキスチョコを口移ししたりして遊んだところまでは覚えている。

 気が付いたらラブホテルらしきベッドの上で裸になっていた。もちろん、隣には同じく全裸のムラカミが眠っている。

 慌ててスマートフォンを探し時計を見た。夜中の3時だった。


 

 やれやれ。やっちまった・・・。


 

 スミレは頭を抱えた。
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