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第一章 潜伏
26 ワワン中将と南の国の民
しおりを挟む海軍という組織は軍政を担当する海軍省、それに作戦と艦艇や兵を動かす命令を下す軍令部の二つでできている。軍令部のトップは軍令部総長。陸軍の参謀本部参謀総長と同格になる。陸と海、二人の総長の上に立つのが帝国軍最高司令官である皇帝(インペラトール)になる。
ヤヨイの前をきびきびした足取りでゆく背の高い老将は、その軍令部総長の指揮下で最も強大な権限を持つ人だ。いざ戦時ともなれば海軍全ての艦艇が統合され連合艦隊が編成されるが、この前を行くワワン中将が連合艦隊司令長官となり、全ての作戦と海軍艦艇に対しての指揮権を担うことになっている。
その雲の上のような人の後ろについて歩いていると、甲板にいる全ての乗組員の敬礼を受ける。食後のロードワーク中の一隊。デッキブラシで甲板を磨いている一隊に、昨日咆哮した主砲の先に跨って棒を突っ込み砲身の整備をしている一隊。皆司令長官を認めるや作業の手を止めて直立不動で敬礼を送る。まるで自分まで何か偉い存在になれたかのような錯覚を起こしそうになる。長官はその度に立ち止まり、気持ちの籠った丁寧な答礼を返すのだった。
その長官が前部主砲塔を回ってしばし立ち止まり左舷の海の先を望んだ。彼の視線の先には不愛想なチナの不毛の大地が霞んでいた。
と、突然くるりと振り返ったかと思うと、ブリッジの上のマストの先端に目を細めた。
「少尉。マストの上に上がったことはあるかね?」
と、ヤヨイに尋ねた。
「いいえありません、長官」
「ひとつ、登ってみよう!」
ワワン中将は、金の縁取りのある銀の肩章を着けた将官とも思えないような、悪戯そうな笑顔を浮かべた。
再びブリッジの中に入りスタスタとタラップを登り、ブリッジと前部煙突との間から天に向かって真っすぐ聳え立っているマストの根元に着くや、中将はその梯子を上り始めた。そのあまりにも軽快な身のこなしに、まず驚かされた。
穏やかだった海風は上に登るにつれて強まり、凪いだ海のゆったりした揺れがその振幅を大きくする。マストの後方には真っ赤な帝国海軍旗と軍艦旗、それにワワン中将が座乗していることを示す中将旗がビリビリと音をさせてはためいていた。
「慣れぬと揺れで振り落とされることもある。梯子をしっかり握って登るのだ!」
ヤヨイを気遣い指示をくれる中将を見上げ、
「アイ、サー! わかりましたっ!」
と答えた。
そのようにしてやっとミカサで最も高い位置にある監視哨に着いた。先に上がった中将が貸してくれた手をヤヨイは握った。日焼けしてゴツゴツした岩のような、力強い掌だった。彼は息も切らしていなかった。50台も後半だろうに、長官はまだ強靭な肉体を維持しているように見受けられた。
そこには一人の一等水兵が双眼鏡を構え東の方角になるチナの大地を睨んでいた。
「なんだ、ジム。もう交代か。ずいぶん気が早ええなあ・・・」
「ありがとうございます、閣下」
ヤヨイは手を貸してくれた礼を言って、長官の傍に立った。
「ああん、閣下だあ? 」
そう言ってウザそうに振り向いた金髪のクリューカットの水兵は仰天した。彼はゲッと言って、慌てて身体を硬直させ敬礼をした。
「ご苦労、一水。驚かせて済まなかった」
答礼を返しながら、ワワン中将は穏やかに言った。
「詫びに、次の交代が来るまできみの任務を引き受けよう。双眼鏡を貸してくれ」
「アイ、・・・ええっ?」
驚くのも無理はなかった。雲の上のような艦隊司令長官がわざわざマストを登ってきて任務を交代してくれるなど前代未聞、彼にとっては驚天動地の出来事だったに違いない。
「あ、あり、あり、ありがと、・・・ありがとごじゃいましゅ・・・」
何度もつっかえ、唾をのんで、しかも舌を嚙みながら、その一等水兵は急いで梯子を下りて行った。
ワワン中将はマストの支柱の中から突き出ている伝声管の開いている蓋を閉じた。ブリッジまでつながっているこの伝声管を閉じてしまえば、監視哨の上は完全に密室と同じ状態になる。
「これでようやく話せるな、ヴァインライヒ少尉」
老提督は言った。
「何の打ち合わせもなく、いきなり乗艦させられ、しかも孤立無援。ずいぶん心細い思いをさせてしまったことだろう。君には本当に済まないことをしたと思っていた。改めて、今までのことを詫びておく」
「そんな・・・。これがわたしの、任務ですから」
左右にゆっくりと大きな振幅で揺れるマストの上の監視哨。彼は手摺を掴んで身体を支えつつ、まだ20歳そこそこの小娘をまっすぐに見つめた。彼の向こうにはチナの大地が広がり、ヤヨイの背後には丸みを帯びた水平線を俯瞰する。おおきな揺れを除けば、その監視哨がミカサでもっとも気持ちのいい場所かもしれない。
彼は手摺にぶら下がったフックの一つを取り、ヤヨイの軍服のベルトにかけた。同じように自分のベルトにもひっかける。その手際の良さに、長年鍛え上げてきた老練な海の男、船乗りの風格を垣間見た。
「この度のことは、全て我が海軍指導部の不甲斐なさが招いたことだ。本来なら海軍部内で処決せねばならない事案だ。
しかし事ここに至り、ルメイなどという裏切り者がとんでもないことを企てているのが内閣府にまで知られ、ついには皇帝陛下の御心まで御騒がせする事態を招いた。
その尻拭いをさせる結果となったことを、海軍指導部の一人として大変に心苦しく感じている」
それまで無口で荘重という雰囲気しか纏っていないように見えた提督は、二人きりになった途端快活に言葉を発し始めた。彼の誠実。それはその澄んだ瞳で十分に察せられた。そしてその言葉だけで、使命を帯びてから今までの心労が報われ、薄れていくような気持になれた。
「だが今は、君の力に待つところ、大なのだ」
彼は高い背を向けた。それを丸め、手摺に肘をつき、双眼鏡を構えて遥かかなたのチナの大地を睨んだ。
「君のことはウリルから聞いている。レオン事件では多大な功績を果たしたことも。私もウリルも部族は違うが里が同じでな。こうして陸と海に分かれているが、彼とは昔からよく見知った間柄だった」
「閣下は、ウリル少将と、そして皇帝陛下と同じ、南の国のご出身でしたね」
「そうだ」
と、提督は言った。
「君はわが民族の経緯を知っているかね? 帝国に併合されるまでのことを。わが民族はいささかチナとは因縁があってな」
「いいえ、深くは存じませんでした」
と、ヤヨイは答えた。
提督は言った。
「ウリルから、君のご母堂がヤーパンの血筋であることも聞いた。
かつてわが民族もヤーパンと同じ島国に住んでいた。そしてヤーパンと同じように、あの大災厄で海底深く沈んでしまった。わずかに生き残った先祖たちは粗末な筏に乗って海流に任せ大陸を目指し、命からがら陸に足をつけることができた。それがこの西のずっと先の地だった。そこはチナの土地だったのだ。」
そう言って彼は左手を大きく上げ西に広がる大地を指した。
「食うに食なく飲むに水なく。半死半生でやっとの思いで大地に降り立った先祖たちを待っていたのは、チナの迫害だった。
先祖たちは生きるために漁をし土地を耕した。だがチナの奴らは度々やってきては先祖たちの得たものを奪い、男を殺し、女を犯し、我々の神を冒涜した。
もちろん何度も話し合いを試みた。だが、無駄だった。奴らは力と金にしか興味を示さなかった。先祖たちは生きるために戦った。だがやがて、それ以上その上陸の地で生きるのは不可能だと思い立ち、そこから東に向かって歩き始めた」
ワワン中将はヤヨイを顧みて柔和な表情(かお)を浮かべ、こう言った。
「帝国の人間にとって最も大切なものが何か、君にはわかるかね」
「・・・わかりません、閣下」
「信義(Fides フィデス)と尊厳(dignitate ディニタテー)だ。
人と人、人と国、神と人。その信義と尊厳を尊重するからこそ、帝国は強くなったとも言える。人種は問われない。いかなる肌の色をしていようとも、人と人の信義を重んじ、尊厳を尊重するからこそ、帝国はかくも強大になれたのだ。
我が祖先も同じだったのだ、ヤヨイ」
そう言って中将は手摺に置いたヤヨイの手にそっと手を置いた。大きくて固い岩のような手だった。そのいかつい手に包まれ、ヤヨイはまるでまだ見ぬ祖父の手に抱かれているような安堵を覚えた。
「東への道は苦しいものだった。だが自分たちの信義と尊厳と神への信仰を全うできる土地を探して、行く手を阻み脅かしてくるチナ人たちと戦いながら、やっとの思いで今のターラントの地に辿り着き、そこで生きることにしたのだ。
そしてそれからさらに何百年もの時が過ぎた。
ある日北に帝国が現れた。幾度か干戈も交えたが、帝国と戦ううちに彼らもまた自分たちと同じ信義と尊厳と神を大切にしている、同じ価値観を共有している者たちであることを知った。
わが民族の中興の祖たちは、帝国と共に歩むことを選んだ。
帝国は我らにほんの少ししか求めなかった。
帝国の法に従うこと。利益の10分の1を税として支払うこと。帝国に事起こった場合は兵を提供すること。お互いの神を尊重すること。
併合に際して帝国が我が祖先に求めたのはたったそれだけだった。失うものはほとんどなかった。収入ではなく利益の10分の1の税など安いものだったし、どうせまたチナとのいくさになれば兵を挙げねばならない。だったら、共に戦ってくれる者と手を結ぼうというのは自然な選択だった。そしてその選択はまったく正しかった。
帝国はその対価として市民権をくれた。同じ帝国に生きるパートナーとして我々を迎え入れてくれたのだ。その代わり、ともに苦難に立ち向かって欲しいと。
そして同じく、共に帝国の指導者層の一員として働く者を推挙し提供せよと言ってきた。現在の皇帝陛下の一族の先祖は、そのようにして帝国の元老院議員となったのだ。
わかったかね、少尉」
彼は再び双眼鏡を構えるとチナの土地に向かった。
「この帰港の行程は、海軍の裏切り者を炙り出すための餌としてこのミカサを敵の術中に嵌ったと思い込ませるためのものだが、図らずも同時に私の先祖たちが味わった苦難を海上からではあるがトレースし、偲ぶためのものにもなった。
帝国はいずれ、このチナと雌雄を決する戦いに臨まねばならなくなると思う。その日のためにも、我々は常に先祖の心に思いを馳せ、偲ばねばならん。
今一度いう。
チナでは金と力が全てだ。人の命などなんとも思わない。例え子供でも、だ。他国の者は言うに及ばず、自国の民であっても平気で殺す。
彼らは6000年の歴史を誇ってはいる。だが6000年もの間、そのような蛮行を何の反省もなく繰り返してきたのだ。
そのような行き方は私の里はもちろんのこと、帝国とも全く相いれない。彼らと分かり合えないのは、それが理由なのだ。
そのチナと密かに通じ、帝国を害そうとするような不届きな者は、この私自ら成敗してやる!
これから起こる、事の前に、君に、是非ともそれを、伝えておきたかった」
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