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第二章 対決

41 軍神マルスの娘

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 ヤヨイは一足先にブリッジに戻っていた。

 裏切り者は、カトー少将。

 敵を実力排除する前に、それをヴィクトリーとリュッツオー、それにクィリナリスに送信せねばならなかった。

 ワワン中将はじめブリッジの面々は交渉の結果を心待ちにしていた。が、それには取り合わず、ヤヨイは通信機の前に座った。

 何故か電源が切られていた。それを入れても、ザーッという空電が鳴らなかった。

「おかしいんだ。急に不調になった。前の故障と状況が似ているかもな」

 傍らのデービス大尉が困惑気に言った。

「そんな。さっきまで・・・」

 不審に思い、裏のカバーを取り外して中の基盤を改めようとすると、頭に異物が突き付けられた。

「それ、触る。ダメ。立て!」

 一人のチナ兵が旧式銃を構え片言の帝国語を発した。

 ラカ少佐がマークを伴って入って来るとそれを追うようにしてあの女士官のミンがチナ兵たちを従えて乗り込んできた。少佐は長官に復命する暇を奪われた。

「まず、ツーシンキを確保しろ。全員手を上げて後ろの壁の前に並べ。司令長官は誰か?」

 入って来るなり命令を下し、手を上げたブリッジの要員たちを銃で小突いて背後の壁の前に並べようとした。

「私が司令長官のワワンだ」

 長官が進み出るとチナ兵が彼の頭に銃を突きつけた。

「全艦に我々の指示に従えと放送しろ。言う通りにしなければ、長官が死ぬ」

 皆沈黙し自然にチェン少佐に注目した。

 ミンは皆の視線を追ってチナ人の容貌を持った副長にチナ語で話しかけた。

 が、副長は言った。

「そんな腐った国の言葉など知らん。私は帝国に育てられた帝国海軍の士官だ。調子に乗るなよ、この淫売が!」

 とたんにミンの平手が少佐の頬を打った。

「私は名を名乗った。誰だか知らんが、チナの兵は礼儀も知らぬようだな。まず交渉の結果について部下の復命を受けたいのだが。そうでなければ私も含めて部下も貴官の応対もできぬではないか」

 銃を突き付けられつつも、ワワン中将は冷静に事を分けて話した。

 ミンは長官を無視した。そして再びチェン少佐に対し、

「お前が副長か。今一度いう。全艦に我々の指示に従えと言え」

 副長は切れた頬から流れる血を払い、赤い唾をペッと吐き捨て、ミンを睨みつけた。

 ミンは傍らの兵から銃を奪うと少佐の脚を撃った。

 ズダーン!

「ぐおっ!」

 少佐は右の太股を射抜かれ、その場に昏倒した。

「待て。撃つな。代わりに放送する」

 デービス大尉が手を挙げて進み出た。ミンが彼に顎をしゃくり、大尉は艦内放送に取りついた。

「ブリッジより全艦に達する。チナ兵への反抗を止め、各員居住区か兵員食堂に入れ。繰り返す・・・」

 それに気をよくしたミンは兵たちに何かを命じた。どうやら士官たちを幕僚室へ監禁しろと言っているらしい。幕僚室を意味するStabsoffizierzimmerという単語だけが帝国語だった。

 連行される直前、

「ヴァインライヒ少尉!」

 ワワン中将がにこやかに、

「見てごらん。あの山は美しいなあ。あの山の頂上に立てば、海峡も内陸奥深くまで見渡すことができそうだなあ・・・」

 こんな修羅場に不似合いなあまりにも暢気な声を上げ、左舷の遥か上を見上げた。

「無駄口を叩くな!」

 ミンは脚で長官を蹴り上げた。

 あっ!

 駆け寄ろうとしたヤヨイをチナ兵が小突いた。

「私にかまうな、少尉。言った通り、貴官の信ずるとおりに行動せよ」

 中将は穏やかに微笑み再び小突かれ、ラカ少佐やマーク、負傷した副長を支えた航海長らと共にブリッジを後にした。

 列の最後にヤヨイはいた。が、

「あ、」

 急に何かを思い出したか思いついたかのように立ち止まった。

 彼女を背後の兵が銃で小突いた。その瞬間、瞬く間に身を翻しチナ兵の銃口を上に跳ね上げた。驚いて銃を奪われまいとした兵が引き金を引き、銃が暴発した。

 もし銃に執着せねば、彼は今少し生きられたかもしれない。ヤヨイの右手が瞬時に手刀に変わり、兵の首筋に強烈な一撃を見舞った。頸椎を折られた兵が頽れ落ちる前に、ヤヨイは風のようにタラップを駆け下りて姿を消した。即死して床に倒れた兵の身体の上に、発射された弾丸により変形した天井の塗料がパラパラと落ちた。異変に気付いた他の兵が彼女の後姿に何発かの弾を見舞ったが、むなしくタラップを叩いただけだった。

 あまりの早業にミカサ幹部の面々もチナ兵たちもみな呆然とした。

 血相変えたミンが大声でチナ語を叫び、2、3の兵がヤヨイを追ってタラップを降りていった。

「あの娘を捕らえろ!」

 マークの通訳を待つまでもなく、そんな命令を下したのだろうことは誰にもわかった。

 脚を撃たれた副長に肩を貸していたメイヤー少佐は、ワワン中将に密かに語り掛けた。

「長官、長官はご存じなのですよね。彼女は、何者なのですか? ただのバカロレアの学生ではないような・・・」

 ワワン長官は、フフンと笑った。

「あの娘か。あれはな、このミカサを救うために天から遣わされた、軍神マルスの娘なのだ」

 傍らにいるチナ兵やミンに聞えるように、ワワン中将は答えた。
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