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第二章 対決

32 ウリル少将の初陣と『盾の子供たち』

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 それは、クィリナリスの丘のウリル少将のオフィスで、作戦のブリーフィングを受けたときのことだった。


 

「ヤヨイ、お前は『盾の子供たち』という言葉を知っているか?」

 ウリル少将は、長身を包んだトーガを捌き、大きなデスクを回ってヤヨイの背後、部屋の中央、天井に開いた明かり取りの天窓を見上げた。

 秋。 

 日中と言えどもだいぶ陽が差す角度も和らいだ。

 それでも、大きな天窓はその真下で見上げる少将の顔を明るく照らし、陽の滋養を彼にもたらしていた。

「・・・いいえ、閣下。知りません」

 ヤヨイの答えに少将は瞑目して頷いた。

「今から話すのは、もう30年も昔の、陸軍少尉だった私の初陣の話だ」

 と少将は言った。


 

「私は士官学校を出たばかりの新米少尉だった。

 チナと国境を接する西部戦線の第十軍団に配属され、歩兵小隊を一つ任されていた。

 私も、お前と同じでな。

 父親のいない、平民出の五男坊だった。

 なんとか手柄を立てて昇進し、故郷に錦を飾り、産み育ててくれた母に報いたい・・・。

 平民なら誰もが思うそんな願い。それは、昔も今も、変わらないと思う。

 私もまたそうした淡い野望を持った、田舎から出てきた一人の小僧に過ぎなかった。

 平民出の新米士官の誰もが陥る夢想に、私もまた陥ちていたのだ」

 と、ウリル少将は、言った。

「ある日、連隊に出動命令が下された。

 チナが突如国境を越えて進軍してきたのだ。宣戦布告もなしに。

 私は小躍りした。

 ようやく手柄を立てるチャンスが訪れた! と。

 当時はまだ無限軌道車やトラックなどはなかった。

 編成は歩兵と騎兵と砲兵。歩兵は全軍徒歩で西の非武装地帯に向かい、陣地に着き、塹壕を掘り、ある部隊はトーチカに籠り、ある部隊はタコツボ穴に入り、敵の襲来を待った。

 敵は大部隊だという話だった。当時は人口比で今よりもはるかにチナの方が勝っていた。動員できる兵力は帝国の10倍以上だとも聞いた。

 一方で、兵器の質と量は今よりもはるかに帝国軍の方が優越していた。我々は敵が持っていない有効射程500メートルのライフルを持ち、携帯擲弾筒(グラナトヴェルファー)を持ち、今よりも口径は小さかったが榴弾砲も持っていた。10倍どころか、30倍の敵が来たって負けやしないと思っていた。

 恐ろしいほどの大軍が来る! 

 怖気づいている兵たちも多かった。そんな兵たちにもそう説明して落ち着かせ、士気を鼓舞した。それが指揮官としての最低限の務めだと士官学校で学んでいた。

 そして、敵は来た。

 話に聞いていたよりもはるかに兵力は大きかった。その総兵力は5万とも6万とも言われた。火力の援護もなく密集体型で。ほぼ横一線で壁のようになって向かって来た。縦深も、つまり奥行も厚そうだった。

 対してこちらは第十と第十六の2個軍団、2万弱のみ。他にも西部戦線の軍団はあったが、万が一のために後方に待機していた。軍の司令部も当初は楽観していたのだろう。たとえ10万が侵攻して来ようとも、2個軍団の手当てで十分だ、と。それほどに、当時の兵器の軍事的優位性は高かった。

 だが、それは、誤りだったのだ。

 まず味方の砲兵が榴弾砲で迎撃した。密集して向かってくる敵を混乱させ、進撃速度を緩め、こちらの歩兵の迎撃を援護する。セオリー通りの戦術だった。

 測距のために一発だけ試射が撃たれた。その弾着で他の砲の仰角を修正する。

 だが、試射一発だけで、その後ズラリと砲口を揃えた他の数十門が火を噴くことはなかった。最初の一発の試射の後、最前線の陣地から子供の泣き声が聞こえると報告があったからだ。砲兵隊の指揮官は全門攻撃中止を命令した。

 当然だ。

 激烈な戦場に絶対に存在してはならないもの。子供の姿が、そこにあったのだ。

 私も、それを見た。

 それは30年も経った今でも、思い出すだけで腸が煮えくり返る光景だった。

 夥しい数の敵の歩兵は皆、竹を編んで作った盾を持っていた。その盾の表に、年端もいかない幼い子供を縛り付けていたのだ。子供の泣き声は、その子らの上げる声だったのだ・・・」


 

 天窓を見上げるウリル少将の声は微かに震えていた。

 握りしめた拳も、肩も、震えていた。

 苦しいのだろう。過去の記憶をリフレインするのが。

 常に冷静沈着。他人には決して本心を容喙させない、完全無欠のスパイマスター。

 ましてや、若干20歳の小娘でしかないヤヨイには窺い知れなかった、その海千山千、手練手管を知り尽くした老獪なウリル少将の心のうちが、今そこに吐露されていたのだった。


 

「敵はその生身の子供たちを張り付けた泣きわめく盾を構えて、横一線に迫ってきていたのだ。

 誰も発砲しなかったし、発砲を命じられなかったし、仮に攻撃命令を受けても、誰も引き金を引けなかっただろう。砲兵隊の指揮官も、歩兵部隊も、そして、私もだ。

 そんな状況で平気で発砲できるヤツは、攻撃命令を下せるヤツは、人間ではない。

 その結果、当然ながら、最新兵器で武装した2万の部隊は、竹で編んだ盾に隠れながら矢を射かけ、数万の敵が鬨の声を上げながら一斉に槍を突き出してくる旧式な前時代の軍勢の前に機先を制され、その圧力を受けて撤退せざるをえなかった。

 とにかく、部隊を取りまとめねば。私には、それしかなかった。

 唖然として浮足立った部下たちに声をかけ、なんとか部隊を取りまとめて後方の砲兵隊の陣地まで退却するだけで手一杯だった。もちろん、私の部隊だけではない。両隣も、大隊が、連隊が、軍団も全部だった。

 我が帝国軍の前線は、一発の迎撃もできずに、崩壊したのだ。

 それまでの何十年何百年という長い間、帝国とチナとは何度となく干戈を交えてきた。その度に帝国が勝利し、チナの版図を削り割譲させ、そこに住んでいたチナ人をも共に帝国の国民とし、大切に育み、同じ帝国人として遇してきた。特に子供に対しては国を挙げて手厚く保護し、養育してきたのだ。

 チナは、それを逆手にとったのだ。

 彼らは、正攻法では勝てない帝国に対する有効な兵器として、また幼い子供の命が有効であることに気付いた。あまりに卑怯で悪辣なやり方だが、事実帝国に対しては効果はあったわけだ。現実にわが軍の最前線は崩壊し、我々のいた陣地は占領され、敵はそれを乗り越えてさらに進撃してきた。もし1000年以上前のプロシアの戦術思想家クラウゼヴィッツがこれを知ったなら、フン、と鼻で笑ったことだろう。

 だが、ついに退却する我々が非武装地帯の終わり、後方で控えていた部隊が見えるところまで敗走しかけた時、私から見れば奇跡としか言いようのないことが起こった。

 非武装地帯の中に小高い山があった。そこに伏せられていた味方の騎兵隊2000が敵の背後に強襲を掛けたのだ。

 騎兵隊は山から駆け下りてきた勢いのまま敵の背後を猛速で駆け抜けつつ、滅多やたらに騎兵銃を撃ちまくった。

 それまで、調子に乗って慢心し進撃してきた敵の軍勢は、盾の無い無防備な背後を突かれ、瞬く間に浮足立って総崩れとなった。

 万が一のためにと、そこに機動戦力を伏せていた司令部の先見の明、戦略の勝利だったと思う。

 チナは攻勢に強く守勢に弱い。調子のいい時には勢いづくが、いざ劣勢になるとその場に踏みとどまって何が何でも耐えようとする兵や指揮官に乏しい。古来専制国家の兵というものは皆そのようなものであることは戦史を紐解けばわかる。有名なアレキサンダー大王もペルシアのその弱点を突き、わずかな戦力で敵の大兵力を打ち破り広大な領土を手に入れた。チナもまた、例外ではなかったわけだ。

 わが軍は騎兵隊が作ってくれた戦機を無駄にはしなかった。崩れていた戦線を立て直し、全軍回れ右して逆に攻勢をかけた。だが、算を乱して敗走する敵を捕捉殲滅することは、できなかったのだ。

 そこには平原を埋め尽くすほどの、泣きわめく子供が置き去りにされていたからだ。

 その数、2万以上・・・。

 退却するのに邪魔だとされたのだろう、中には心無い兵に殺されてしまった子の骸もあったし、ほとんど満足に食も与えられずに栄養失調で骨と皮ばかりになり、収容されてもすぐに餓死してしまう子供もいた。そのあまりの惨さ、悲惨さに、わが軍の兵にも心を病んでしまう者すら少なからずでた。

 なんというやつらなのだ。人の命を何と思うのか・・・。

 専制君主国家というものは、そういうものなのだ、ヤヨイ。

 我々は進撃を止め、敵に向けた銃を収め肩にかけ、敵が遺棄していった竹の盾に縛り付けられていたままの可哀そうな子供たちをことごとく抱き上げ、介抱してやった。絶好の追撃機会を犠牲にしてまでも、子供の収容と救援を優先しのだ。

 私も兵たちも皆背に子供を負い、両手に一人づつ抱えるようにして、その地獄のような戦場から子供たちを救出した。助けた子供たちを後方の待機部隊の陣地まで運び、何度も戦場と陣地とを往復した部隊もいた。とにかく子供たちに食を与え、傷ついた子の手当てをしてやらねば、と。

 一人でも多く救いたかった。私も含め、その場に居合わせた全ての将兵たちの心のうちだったと思う。

 それが、私の初陣だったのだ」

 ウリル少将は天窓を見上げ、その陽の光を全身に浴びながら述懐を続けた。だが、ヤヨイの涙に気付くと目を閉じ、頷いた。

「我が帝国は子供を大切にする。

 広大な領土に比して人口が少ないこともある。だが、国家や家に大切にされた子供が持つ自尊心を重視するからでもある。その国民一人一人の自尊心が自他の尊厳を重んじる心を育み、信義を重んじ尊ぶことを知っているからだ。帝国がその建国から神々と同様に信義と尊厳を大切にしてきたのはそれがためだ。

 子供たちは軍の将兵のうち妻帯している者の家に一人ずつ預けられ、西部戦線だけでは足りず一般の市民や政府の役人や元老院議員までもが里親として名乗りを上げた。そうして里親たちに引き取られていった子供らは、後に『盾の子供たち』と呼ばれるようになったのだ。

 覚えているだろう。レオン少尉の副隊長だったチャン軍曹を・・・」

 二か月前。

 徴兵され、ウリル少将の特殊機関に徴募され、初めての任務を果たした折の記憶が甦った。

 陸軍有数の優秀な野戦指揮官レオン少尉が他の部隊と謀って反乱を企てているとの情報を受け、ヤヨイはウリル少将の命で彼女の部隊に潜入した。

 ヤヨイが受けた指令。それはレオン少尉の反乱を未然に防ぎ、彼女を逮捕することだった。しかし反乱は起きてしまい、レオン少尉は雷に撃たれて死に、彼女に心服していた副隊長のチャン軍曹も、モリソン伍長はじめ彼女の小隊のほとんどが鎮圧部隊に突撃し全滅させられ、死んだ。そして、そこで出会った愛しい男、ジョーを、自らの手で殺めてしまった・・・。

 ヤヨイにとっては苦しく苦い記憶だった。もう任務はイヤだ。その思いは、その記憶があるからこそ、だった。

「はい・・・。覚えています」

 と、ヤヨイは答えた。

「それに、もしお前がこの任務を引き受けてくれたなら乗り組む予定の第一艦隊旗艦ミカサ副長を務めるチェン少佐。

 彼らはその時の『盾の子供たち』なのだ、ヤヨイ。

 あの時の、薄汚れて骨と皮ばかりで泣きわめいていた子供たちの大半が、今帝国各地で帝国のあらゆる分野で、この国の重要な構成員として生き、活躍している。

 あまりに帝国と軍を愛するあまり、チャン軍曹についてはあのような残念な結果に至ってしまった。だが、チャンにしてもチェンも、他の者たちも。まだ幼児であるにもかかわらず、生国にモノのように使われゴミのように捨てられた子供たち。その子供たちが今、命を援け育みを与えてくれた帝国のために様々な分野で献身してくれている」

 とウリル少将は言った。

「当時私と同じ第十軍団で少佐で大隊を率いておられた皇帝陛下も、一人の『盾の子供たち』を引き取り里親になられた。現在、元老院議員の中でも若手の指導的な役割を果たしておられるヤン閣下こそ、その人なのだ。

 閣下は今回のこの作戦を立案時から支持し、皇帝陛下に対し説得の労を尽くしてくださった。そのヤン閣下からも直々に、お前に対して言伝(ことづて)を預かった。閣下はお前の最初の任務、レオン少尉の一件もご存じであられる。

『いろいろ思うところはあろうが、なにぶんよろしく頼む』と。

 閣下はそう、仰っておられた」

 陽の光を十分に浴びた少将は、再びデスクに着いた。

 そして、

「これはまだ、極秘だが・・・」

 と、閣下は声を落とした。ヤヨイは顔を上げ、ウリル少将の深い皴の刻まれた相貌を見上げた。

「近いうちに、帝国はチナに侵攻する」

 ヤヨイの背中に戦慄が走った。

「チナの行きかたは、我が帝国とはまったく相いれない。それはもう、折り合うことのできぬ、埋めることのできぬ乖離(かいり)なのだ。

 度々の軍事的嫌がらせだけのことではない。毎年無視できぬほどの人的、経済的被害が嵩じてきている。加えて、最も重要な情報資産がまるで水路を通る水のようにチナへと流れ過ぎている。彼らは我々が苦労して引き上げた海底情報、我々が心血注いで得た科学技術、軍事情報。それらを悉く盗んでいるのだ。今、この時も、だ。

 自ら探したり考え出したりするよりも、スパイを使ってそれらを掠め取る方がラクだしトクだと考えたのだろう。だがこのままこの状況を放置すれば、いずれわが帝国とチナの技術格差、軍事格差はなくなり、緊張緩和の土台であった軍事的優位も消える。そうなれば、イヤでもチナとのいくさにならざるを得なくなってしまう。

 帝国は自らいくさを仕掛けることはあっても、他からいくさを強いられるのを嫌う。それは帝国のいくさの仕方ではないからだ。いくさは人の命を奪うものだ。であるから我が意のままに、それを喪っても余りある成果を国民に与えることが出来るという目算の上でこれを行わねば。そうでなければ、喪われる命がムダになる。

 そうなる前に、こちらに軍事的アドバンテージがあるうちに、事を決したい。

 皇帝陛下もそう、ご決断されたのだ」

 と、少将は言った。

「いざ戦ともなれば、海軍はそのほぼ全艦隊が、陸軍も全軍30万の総兵力のうち北と東の国境沿いにわずかの兵を残し、その6割を西部国境に集結するだろう。陸海軍の総力を挙げた巨大な規模のものになる。

 今はまだ詳細には言えんが、その戦略目的はチナ王国の主要な領土4分の1程度の攻略を目指すものとなる。敵の首都まで肉薄し、わが方に有利な形で講和に持ち込み、最終的にチナの専制君主国家としての政体を打ち砕き、わが帝国の傀儡、保護国とすることを目論むものだ。

 政府の中でもこれを知っている者はわずかしかない。十人委員会と私、元老院議員の中でもヤン閣下を含むわずかの人間だけだ。陸海軍の中枢にさえ、まだ極秘の計画なのだ。事を起こす前に、是非とも『獅子身中の虫』を駆除してしまわねば。軍の中枢にさえ漏らすわけにはいかないからなのだ。

 わかるな? ヤヨイ。

 もし、その憎むべき『虫』どもを駆除せぬままチナと事を起こせば、どうなるか。

 失わなくても済む命が失われ、また大勢の子供たちが、死ぬ!」

 ヤヨイはきつく唇を噛んだ。そして、キッと、少将を睨んだ。

「この度の作戦は海軍の最新鋭戦艦をエサにした、裏切り者の炙り出しだ。

 裏切り者を摘発することも大事だが、ミカサは絶対に敵の手に渡してはならない。どんな状況になるかは完全には予測不能だが、万全を期して海兵隊を乗艦させるわけにもいかぬ。それでは裏切り者たちは警戒し、表に出てこなくなる。乗員たちに白兵戦などをさせるわけにもいかぬ。

 敵を油断させ、ワザと隙を見せ、惹きつけ、かつ敵が艦内に乗り込んできてもこれを完全に排除でき得る。そのための猛者が必要なのだ、ヤヨイ・・・」

「・・・前から・・・」

 ヤヨイは拳を握り締めた。そして、絞り出すように唸った。

「前から思ってましたけど、閣下は、ズルいです。とっても・・・」

「この職についてから、人に憎まれることが増えた」

 と、彼は笑った。

「だが、もう慣れた。

 私が憎まれる程度のことでムダに失われる命がひとつでも多く救えるなら。帝国の国民の命だけではない。ひとりでも多くチナの圧政に苦しみ、喘ぐ人々を解放できるのなら。こんなものは、安いものだ、と・・・。

 これでもまだ、お前は引き受けてはくれぬと言うのか、ヤヨイ・・・」

 ウリル少将の、その眼に滲む涙を見てしまったら、ヤヨイにはもう、何も言えなかった。


 


 

 そうして今、ヤヨイはミカサにいる。


 

「本当に、ズルいです、閣下・・・」

「え? 何か言ったか?」

 デービス大尉が怪訝そうにヤヨイを見上げた。
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