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第二章 対決
35 そして、裏切り者は・・・。
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「ブリッジより全艦に達する。上甲板の武装兵は左右両舷より接近中の敵の舟艇を攻撃せよ! ただし絶対に子供に当てるな。よく狙って、敵兵のみ攻撃せよ!」
言ってくれるものだな・・・。
艦上で小銃を構えるのは何年ぶりだろうか。
こっちも揺れている。むこうは小舟だからもっと揺れる。
敵はとにかく艦を狙えばいい。運よくミカサの搭乗員に当たれば斃せるかもしれない。それに煙幕の向こうから続々と援兵が現れてきている。百発一中でも100人いれば万発百中になる道理だ。
対して、こっちの小銃は50丁ほどしかない。銃の性能は良くても、数で劣る。煙幕のせいで遠目も利かないし姿が見えたらもう300の近距離にいる。しかもこちらは無暗に撃てない。敵船に狙いを定めても子供には絶対に当てずに銃を向けた敵兵にだけ命中させるなんて至難の業。実戦経験豊富な陸軍の偵察兵じゃあるまいし。陸軍にさえ希少(まれ)だろう、そんな一流スナイパーのような銃の手練れが、ましてや海軍の大艦に大勢乗っているわけもないのに・・・。百発百中のプロのスナイパーでさえ難しい技を銃に不慣れな者ばかりに担わせるのはどだい、無理がある。射程の長いライフルの有利は完全に無くなってしまった。戦力の無効化、というやつだ。
敵は周到に計画してこのような状況を作っているのだ。この状況下で子供に当てないように敵兵だけを狙えというのはまったくの机上の空論でしかない。
敵兵の銃声がパンパンと響くなか、ヨードルは奥歯を噛んだ。
いったいチナはどのようにしてこれだけの子供を集めたのだろう。平和な家庭に押し込んで有無を言わさず子供を攫い、駆り集めてこんな戦場に連れて来て、今にもひっくり返りそうな小舟の上に乗せるとは。人の心など持ち合わせていないとしか思えない。常人では考えられぬ暴挙。腹も減っているだろう。喉も乾いているだろう。長時間炎天の船上に置かれて衰弱している子も見えた。母を求めて名を呼んでいるのだろう、泣き叫び続ける子もいた。わが娘ヒルダの幼少の頃がイヤでも思い出され、目の前の小舟に乗せられた子供たちに重なった。
こんな惨いことをするなんて・・・。コイツら、人間じゃない・・・。
人として子を持つ親として、ヨードルはプリミティヴな怒りを堪えきれなかった。
だが、命令は命令だ。
それにもう、最も近い敵船はその旧式小銃の射程に入るほどに接近していた。
ヨードルは甲板に片膝を立て銃を構えた。膝の上に肘を乗せて銃身を安定させ、最も接近している小舟を狙った。
心を押し潰されそうになりながらも、子供たちの背後に立ちあがって銃を構えている敵兵を見つけた。距離はおそらく100を切っている。引き金を絞りつつ、上下に揺れる小舟の上の敵影が一度沈み、浮き上がってくる間合いで、撃った。
ズダーン!
弾は幸運にも敵兵の胸を直撃し、敵兵は後ろに倒れ、水しぶきを上げて海に落ちた。
よかった・・・。子供を撃たずに済んだ。
だが、やっと一人・・・。
小舟は煙幕の向こうから続々と近づいてきていた。まったく、キリというものがなかった。
「おまえたち! 身を低くして物陰に隠れて撃て! 落ち着いてよく引き付けて撃つんだぞ。自信の無い者は立って撃ってくるヤツだけ狙え! 」
槓桿を引いて次弾を銃身に送りつつ、周囲で小銃を構えている兵たちを励ました。
カンッ、ピチューン! カン、カンッ!
頭上の構造物の鋼板に敵兵の撃った弾が当たるのが聞こえ始めた。敵兵の銃の射程距離に入ったのだ。今はまだ甲板の上だが、これが甲板の下の舷側に当たり始めると命中率が上がり兵に被害が出るだろう。だが敵の銃声の量に比べこちらの反撃は散発にしかなかった。皆躊躇しながら慣れない銃を手にしているのだ。無理はない。それでも、反撃しなければこちらがやられるのだ。
すぐ隣でダンッと銃声がした。
「撃っちゃった・・・。子供を撃っちゃったかも・・・」
ミカサの水兵たちの中でも軍務経験の長い女性の上等水兵が完全に動揺し、委縮してしまっている。だが今は彼女を慰めている時ではない。上官として委縮し尻込みする兵たちを叱咤激励せねばならなかった。
「気にしてる場合か、アンナ! お前の部下に示しがつかんぞ。気をしっかり持て! そんな構えではダメだ。銃床を肩につけて、頬をピッタリ寄せる。もっと身体を低く。銃が重いなら甲板に腹ばいになって撃て!
みんな、気を抜くな! これ以上敵を艦に近付けるな!」
現実の敵を目の前にしてこんな初歩の指導をしてやらねばならないとは・・・。ここ数十年の平和が長すぎたのを思わざるを得ない。
今はまだ海がこちらと敵を隔てているが、ヤツらが乗り込んで来て白兵戦にでもなれば水兵たちは手出しもできないかも知れない。ましてや子供を盾にしてきたら・・・。敵兵の姿を見ながら戦うのに慣れている陸軍兵と、敵兵を見ないで戦う海軍兵の違いは大きい。海戦を陸戦に変えてしまった時点で、こちらが不利になってしまったのだ。
帝国艦隊の第一艦隊旗艦、最新鋭の戦艦が他国に拿捕されることになるとは・・・。
これは、無理かもしれない。
もう、ダメなのか。
いや、何か、何か他に手だてがあるはずだ!
敵弾が真下の舷側に鋭い音をさせて命中した。敵はもう100を切り、有効弾を送れるほどに迫ってきていた。ヨードルは再び狙いを定め引き金を引いた。二人目に命中させ槓桿を引き次弾を銃身に送り込みながらブリッジを見上げた。
眼下の甲板上では水兵たちが苦闘していた。
30年前に陸軍の第十軍団が、少尉だったウリル少将が直面した悪夢が再びミカサを襲っていた。
だが彼ら彼女らの苦悩を取り去ってやるどころか、ブリッジは新たな試練の種を発見してしまっていた。
「艦尾後方500にも新たなバリケード視認。やはり、三重です。囲まれましたっ!」
後部監視哨からの報告に、重い空気をさらに目に見えないフードに幾重にも覆われたようにブリッジは沈黙していた。
「進退窮まれりとは、まさにこのことだな」
「そもそもこんな航路をとるから敵の策略に嵌ってしまったのだ。島を迂回して燃料切れになるなら、そこで僚艦から燃料を分けてもらえばよかったではないか」
「そうですな。少なくとも外洋ならこんな事態には絶対にならなかった」
砲術長のハンター少佐が航海長のメイヤー少佐に詰め寄り、ラカ少佐がその意見に賛同した。
「皆、止めんか」
カトー参謀長がその場を諫めた。
「今は過去を検証する場でも責任を追及する場でもない。君たちの頭脳はこの事態を打開するためにあるのだぞ!」
ついに接所に来た。
ブリッジの動揺や混乱に気を配りつつ、ヤヨイは出来得る限りの送信を続けた。
—ミカサより第一艦隊全艦へ達する。本艦は当海域からの脱出を試みるも、敵の妨害工作を受け、現在停船中なり。東西両出口は流木によるバリケード封鎖を受く。敵兵はすでに小銃の射程距離に入り攻撃を継続、本艦も目下小銃によりこれに応戦中・・・—
「ヴァインライヒ少尉!」
幹部士官たちの戯言には加わらず、それまでジッと黙したまま沈思していたチェン少佐がふいに声を上げた。
「ハイ、副長」
「救援の到着予定時刻は1230だったな」
「はい、そうであります!」
ヤヨイは答えた。
「あと、2時間か・・・」
ブリッジの下からは彼我の銃声と敵の弾が艦体を叩くチュン、ガン、という音とが交錯し、ときおり兵たちの怒号が飛び交うのが聞こえて来ていた。
「参謀長。意見具申します」
彼は艦長用のコマンダーシートを立って参謀長の前に進み出た。
「どうやら敵の目的は本艦の拿捕、奪取にあるようです。
で、あるなら、いっそここは降伏しましょう」
彼は事も無げに言った。
ブリッジにいたほぼ全員が色を成し、水を打ったように沈黙した。
「降伏ですと?」
ラカ少佐が皆の感情を代表するように反問した。
火力では圧倒的にわが方が優れている。なのに、何故・・・・。
それが皆の共通した思いだったからだ。
「そうです」
と、チェン少佐は言った。
「脱出と反撃を打ち切り、漂流し海に落ちた子供の救助を再開させるよう、交渉するのです! ただし・・・」
と副長は付け加えた。
「ただし、これは偽計です」
「・・・偽計?」
参謀長が副長の言葉を捉えた。
「エンジンルームと前後部の弾薬庫に武装した水兵を立て籠もらせます。ヴィクトリーもリュッツオーもあと2時間弱でここに到着します。外側からならバリケードに接近してロープを切るのも艦砲で粉砕するのも可能です。それまで本艦は、膠着状況を維持します。それまでの時間を稼ぐのです!
その過程で何人か何十人かの将兵に損害が、犠牲が出るやもしれません。ですが、わが軍の最新鋭戦艦であるこのミカサは帝国にとってかけがえのない存在なのです。それをすんなりと敵に渡すなんて絶対に許せません。絶対に、ミカサは敵に渡しません! 」
血肉をふり絞るような言葉。そういうものを、ヤヨイは初めて聞いた。この人は絶対に裏切り者ではありえない。
「だがもし敵が交渉に応じなかったら? その可能性は十分にあるぞ」
参謀長が質した。
副長は待ってましたとばかりに持論を展開した。
「参謀長。
休戦協定違反のこの暴挙。そしてその暴挙から純然たる帝国の財産である本艦と乗員の生命を守る。我々には確固とした名分があります。
もし子供たちの命さえ無視できるなら、今からでも可能なオプションはいくらでもあるのです。
たとえは、主砲装薬を積んだ救命ボートを海に投下し、これを機銃で掃射、爆発させると威嚇するのです。もちろん本艦にも若干の被害は及ぶ可能性がありますが、周辺の敵の小舟などは全て跡形もなくなります。おそらく10発分の装薬で本艦周辺100メートル以内の小舟は全て破壊できるでしょう。
一度それをやって見せればいいのです。子供にも被害が及ぶ可能性はあります。ですが、それを目の当たりにすれば他の敵船は本艦の拿捕を躊躇するでしょう。そうなれば、より多くの子供たちの命も救えます。それで時間を稼ぐことが出来るのです! 僚艦さえ到着すれば事態は変わります。ミカサも、さらに多くの子供たちを救うチャンスも生まれます!」
チェン少佐は長官と参謀長に宣言するように言い放った。
さすがだ・・・。
転んでもタダでは起きない、このチナの血を引く少壮の士官に、ヤヨイは真の「漢(おとこ)」を見た思いがした。
「・・・いかがしますか」
とチェン少佐は言った。
カトー少将は、何かを思案しているふうに唇を噛んだまま沈黙していた。
「参謀長、どうするのかね? 今の副長の意見具申に対し、即時司令部としての見解をまとめたまえ。みすみす最新鋭艦を敵に渡すのかと言ったのは、君じゃないのかね」
長官が珍しくカトー少将を督促した。
するとやおら顔を上げ、
「今の少佐の提案を実施いたしましょう」
参謀長は言った。
そしてブリッジ後方に控えている信号兵を顧みて、言った。
「ルメイ艦長を呼べ」
その一言はブリッジ全てを困惑させ、沈黙させた。
それを破ったのは、ラカ少佐だった。彼は参謀長に向かい、反問した。
「あの、お言葉ですが参謀長、なぜ今艦長をお呼びになるのですか?」
ラカ少佐の疑問はブリッジにいる全ての者の思いだった。
「操艦が稚拙だから、対応に機敏を欠くからと艦長の任を凍結したのは参謀長ご自身ではないですか。それを・・・」
「そうだ。凍結であって解任ではない」
とカトーは言った。
「そもそも、一艦の責任者を解任する権限は我々にない。必要だから彼の任を凍結し、副長に操艦を委ねた。チェン少佐はよくやった。だが、事は降伏に関する事務的な作業だ。正式な艦の責任者が不在では困る。降伏の交渉にもルメイ大佐を同席させる」
と、参謀長は付け加えた。
しかし、カトーの言は誰が聞いても奇妙なものだった。
おかしい。なぜ参謀長はルメイに拘るのか・・・。
ヤヨイもそう思わざるを得なかった。
「海上での敵国との交渉は単艦なればその艦長が、艦隊行動中ならば我が司令部の専権事項のはず。小官が長官の名代として出向けばよろしいのでは? 」
ラカ少佐は執拗に食い下がった。
彼はルメイの亡命の一件を知っているのだ。
ワワン中将はもう、すべてを少佐に打ち明けたのだろう。同郷の、名付け親も務めた信頼置ける彼に。だからこその食い下がりだろう。それは、ヤヨイにもわかった。
「私が指令部を代表して交渉に臨む」
と参謀長は言った。
「参謀長自ら、ですか?」
「左様。私と大佐で交渉に臨む。司令部代表と艦の責任者だ。何か交渉に不都合があるのかね?」
「ですが・・・」
「もうよい、少佐!」
なおも食い下がろうとする少佐を抑え、ワワン中将が割って入った。
「参謀長の言もあり、我々はチェン少佐の提案を実施する。
降伏の交渉は擬態として行い、子供たちの救助を要求する。一方で、艦内の重要部分に若干兵を立て籠もらせ、援軍到着までの時間稼ぎを担保する。交渉には参謀長が、ルメイ大佐を伴い臨むものとする」
長官が宣言し、それでラカ少佐も沈黙した。
「ルメイ大佐をお呼びします!」
信号兵が艦長室へ走った。
「では長官。司令部を代表し交渉に赴きます」
長官はじっとカトーを見据えたまま無言を貫いた。
そして、参謀長に対峙したまま、口を開いた。
「ヴァインライヒ少尉!」
とヤヨイを呼んだ。
「サー!」
ヤヨイは立ち上がって、敬礼した。
「少尉、貴官も交渉に同席したまえ」
とたんにカトーは色をなした。
「・・・なぜですか、長官? この者は臨時の士官です。このような外交には無用です!」
ワワン中将は事も無げに言った。
「別におかしくはなかろう。
交渉の内容はターラントへ報告されねばならない。通信担当として同席させれば合理的だし、彼女が連絡官として適任だと私が判断した。
少尉、参謀長の随員として交渉に参加しなさい!」
二人の将官の対峙が生む異様な緊張感がブリッジを覆った。動悸がした。
もしかして・・・。
このカトー参謀長が・・・。
もしかして、ワワン中将はこの参謀長が、カトー少将が裏切り者だと言うのだろうか。
「アイ、サー!」
鼓動が止まらない。
参謀長は言った。
「・・・わかりました。ではラカ少佐、降伏交渉を行う旨、敵方に伝達の手配をせよ」
カトー参謀長はそう言い残しブリッジを降りていった。
ワワン中将は穏やかな中にも謹厳の籠った瞳をヤヨイに落し、言った。
「ヴァインライヒ少尉。
貴官には重要な任務があるはずだ。その任を全うせよ。
現時刻をもって、貴官の海軍臨時少尉としての任を解く。貴官の本務に戻り、最適と信ずる行動をとれ!」
貴官の、本務?
ブリッジの他の士官や水兵たちが怪訝な表情を浮かべる中、ヤヨイは、悟った。
やはり、そうなのだ。
ついに、その時が来たのだ、と。
「・・・アイ、サー!」
ヤヨイは敬礼で応えた。
「では、さっそくこの降伏交渉の件と艦内立て籠もりによる時間稼ぎの件をヴィクトリー、リュッツオー、そしてバカロレアに通報し、その後交渉に同席します」
長官は、ウムと頷き席を離れ、煙幕が晴れつつある海峡の岸に双眼鏡を向けた。
通信機に向かった。
「ミカサからヴィクトリー、ミカサからヴィクトリー・・・」
ヤヨイの任務のクライマックスは唐突に訪れた。
意識するほどに抑えかねる高揚が溢れてきた。
言ってくれるものだな・・・。
艦上で小銃を構えるのは何年ぶりだろうか。
こっちも揺れている。むこうは小舟だからもっと揺れる。
敵はとにかく艦を狙えばいい。運よくミカサの搭乗員に当たれば斃せるかもしれない。それに煙幕の向こうから続々と援兵が現れてきている。百発一中でも100人いれば万発百中になる道理だ。
対して、こっちの小銃は50丁ほどしかない。銃の性能は良くても、数で劣る。煙幕のせいで遠目も利かないし姿が見えたらもう300の近距離にいる。しかもこちらは無暗に撃てない。敵船に狙いを定めても子供には絶対に当てずに銃を向けた敵兵にだけ命中させるなんて至難の業。実戦経験豊富な陸軍の偵察兵じゃあるまいし。陸軍にさえ希少(まれ)だろう、そんな一流スナイパーのような銃の手練れが、ましてや海軍の大艦に大勢乗っているわけもないのに・・・。百発百中のプロのスナイパーでさえ難しい技を銃に不慣れな者ばかりに担わせるのはどだい、無理がある。射程の長いライフルの有利は完全に無くなってしまった。戦力の無効化、というやつだ。
敵は周到に計画してこのような状況を作っているのだ。この状況下で子供に当てないように敵兵だけを狙えというのはまったくの机上の空論でしかない。
敵兵の銃声がパンパンと響くなか、ヨードルは奥歯を噛んだ。
いったいチナはどのようにしてこれだけの子供を集めたのだろう。平和な家庭に押し込んで有無を言わさず子供を攫い、駆り集めてこんな戦場に連れて来て、今にもひっくり返りそうな小舟の上に乗せるとは。人の心など持ち合わせていないとしか思えない。常人では考えられぬ暴挙。腹も減っているだろう。喉も乾いているだろう。長時間炎天の船上に置かれて衰弱している子も見えた。母を求めて名を呼んでいるのだろう、泣き叫び続ける子もいた。わが娘ヒルダの幼少の頃がイヤでも思い出され、目の前の小舟に乗せられた子供たちに重なった。
こんな惨いことをするなんて・・・。コイツら、人間じゃない・・・。
人として子を持つ親として、ヨードルはプリミティヴな怒りを堪えきれなかった。
だが、命令は命令だ。
それにもう、最も近い敵船はその旧式小銃の射程に入るほどに接近していた。
ヨードルは甲板に片膝を立て銃を構えた。膝の上に肘を乗せて銃身を安定させ、最も接近している小舟を狙った。
心を押し潰されそうになりながらも、子供たちの背後に立ちあがって銃を構えている敵兵を見つけた。距離はおそらく100を切っている。引き金を絞りつつ、上下に揺れる小舟の上の敵影が一度沈み、浮き上がってくる間合いで、撃った。
ズダーン!
弾は幸運にも敵兵の胸を直撃し、敵兵は後ろに倒れ、水しぶきを上げて海に落ちた。
よかった・・・。子供を撃たずに済んだ。
だが、やっと一人・・・。
小舟は煙幕の向こうから続々と近づいてきていた。まったく、キリというものがなかった。
「おまえたち! 身を低くして物陰に隠れて撃て! 落ち着いてよく引き付けて撃つんだぞ。自信の無い者は立って撃ってくるヤツだけ狙え! 」
槓桿を引いて次弾を銃身に送りつつ、周囲で小銃を構えている兵たちを励ました。
カンッ、ピチューン! カン、カンッ!
頭上の構造物の鋼板に敵兵の撃った弾が当たるのが聞こえ始めた。敵兵の銃の射程距離に入ったのだ。今はまだ甲板の上だが、これが甲板の下の舷側に当たり始めると命中率が上がり兵に被害が出るだろう。だが敵の銃声の量に比べこちらの反撃は散発にしかなかった。皆躊躇しながら慣れない銃を手にしているのだ。無理はない。それでも、反撃しなければこちらがやられるのだ。
すぐ隣でダンッと銃声がした。
「撃っちゃった・・・。子供を撃っちゃったかも・・・」
ミカサの水兵たちの中でも軍務経験の長い女性の上等水兵が完全に動揺し、委縮してしまっている。だが今は彼女を慰めている時ではない。上官として委縮し尻込みする兵たちを叱咤激励せねばならなかった。
「気にしてる場合か、アンナ! お前の部下に示しがつかんぞ。気をしっかり持て! そんな構えではダメだ。銃床を肩につけて、頬をピッタリ寄せる。もっと身体を低く。銃が重いなら甲板に腹ばいになって撃て!
みんな、気を抜くな! これ以上敵を艦に近付けるな!」
現実の敵を目の前にしてこんな初歩の指導をしてやらねばならないとは・・・。ここ数十年の平和が長すぎたのを思わざるを得ない。
今はまだ海がこちらと敵を隔てているが、ヤツらが乗り込んで来て白兵戦にでもなれば水兵たちは手出しもできないかも知れない。ましてや子供を盾にしてきたら・・・。敵兵の姿を見ながら戦うのに慣れている陸軍兵と、敵兵を見ないで戦う海軍兵の違いは大きい。海戦を陸戦に変えてしまった時点で、こちらが不利になってしまったのだ。
帝国艦隊の第一艦隊旗艦、最新鋭の戦艦が他国に拿捕されることになるとは・・・。
これは、無理かもしれない。
もう、ダメなのか。
いや、何か、何か他に手だてがあるはずだ!
敵弾が真下の舷側に鋭い音をさせて命中した。敵はもう100を切り、有効弾を送れるほどに迫ってきていた。ヨードルは再び狙いを定め引き金を引いた。二人目に命中させ槓桿を引き次弾を銃身に送り込みながらブリッジを見上げた。
眼下の甲板上では水兵たちが苦闘していた。
30年前に陸軍の第十軍団が、少尉だったウリル少将が直面した悪夢が再びミカサを襲っていた。
だが彼ら彼女らの苦悩を取り去ってやるどころか、ブリッジは新たな試練の種を発見してしまっていた。
「艦尾後方500にも新たなバリケード視認。やはり、三重です。囲まれましたっ!」
後部監視哨からの報告に、重い空気をさらに目に見えないフードに幾重にも覆われたようにブリッジは沈黙していた。
「進退窮まれりとは、まさにこのことだな」
「そもそもこんな航路をとるから敵の策略に嵌ってしまったのだ。島を迂回して燃料切れになるなら、そこで僚艦から燃料を分けてもらえばよかったではないか」
「そうですな。少なくとも外洋ならこんな事態には絶対にならなかった」
砲術長のハンター少佐が航海長のメイヤー少佐に詰め寄り、ラカ少佐がその意見に賛同した。
「皆、止めんか」
カトー参謀長がその場を諫めた。
「今は過去を検証する場でも責任を追及する場でもない。君たちの頭脳はこの事態を打開するためにあるのだぞ!」
ついに接所に来た。
ブリッジの動揺や混乱に気を配りつつ、ヤヨイは出来得る限りの送信を続けた。
—ミカサより第一艦隊全艦へ達する。本艦は当海域からの脱出を試みるも、敵の妨害工作を受け、現在停船中なり。東西両出口は流木によるバリケード封鎖を受く。敵兵はすでに小銃の射程距離に入り攻撃を継続、本艦も目下小銃によりこれに応戦中・・・—
「ヴァインライヒ少尉!」
幹部士官たちの戯言には加わらず、それまでジッと黙したまま沈思していたチェン少佐がふいに声を上げた。
「ハイ、副長」
「救援の到着予定時刻は1230だったな」
「はい、そうであります!」
ヤヨイは答えた。
「あと、2時間か・・・」
ブリッジの下からは彼我の銃声と敵の弾が艦体を叩くチュン、ガン、という音とが交錯し、ときおり兵たちの怒号が飛び交うのが聞こえて来ていた。
「参謀長。意見具申します」
彼は艦長用のコマンダーシートを立って参謀長の前に進み出た。
「どうやら敵の目的は本艦の拿捕、奪取にあるようです。
で、あるなら、いっそここは降伏しましょう」
彼は事も無げに言った。
ブリッジにいたほぼ全員が色を成し、水を打ったように沈黙した。
「降伏ですと?」
ラカ少佐が皆の感情を代表するように反問した。
火力では圧倒的にわが方が優れている。なのに、何故・・・・。
それが皆の共通した思いだったからだ。
「そうです」
と、チェン少佐は言った。
「脱出と反撃を打ち切り、漂流し海に落ちた子供の救助を再開させるよう、交渉するのです! ただし・・・」
と副長は付け加えた。
「ただし、これは偽計です」
「・・・偽計?」
参謀長が副長の言葉を捉えた。
「エンジンルームと前後部の弾薬庫に武装した水兵を立て籠もらせます。ヴィクトリーもリュッツオーもあと2時間弱でここに到着します。外側からならバリケードに接近してロープを切るのも艦砲で粉砕するのも可能です。それまで本艦は、膠着状況を維持します。それまでの時間を稼ぐのです!
その過程で何人か何十人かの将兵に損害が、犠牲が出るやもしれません。ですが、わが軍の最新鋭戦艦であるこのミカサは帝国にとってかけがえのない存在なのです。それをすんなりと敵に渡すなんて絶対に許せません。絶対に、ミカサは敵に渡しません! 」
血肉をふり絞るような言葉。そういうものを、ヤヨイは初めて聞いた。この人は絶対に裏切り者ではありえない。
「だがもし敵が交渉に応じなかったら? その可能性は十分にあるぞ」
参謀長が質した。
副長は待ってましたとばかりに持論を展開した。
「参謀長。
休戦協定違反のこの暴挙。そしてその暴挙から純然たる帝国の財産である本艦と乗員の生命を守る。我々には確固とした名分があります。
もし子供たちの命さえ無視できるなら、今からでも可能なオプションはいくらでもあるのです。
たとえは、主砲装薬を積んだ救命ボートを海に投下し、これを機銃で掃射、爆発させると威嚇するのです。もちろん本艦にも若干の被害は及ぶ可能性がありますが、周辺の敵の小舟などは全て跡形もなくなります。おそらく10発分の装薬で本艦周辺100メートル以内の小舟は全て破壊できるでしょう。
一度それをやって見せればいいのです。子供にも被害が及ぶ可能性はあります。ですが、それを目の当たりにすれば他の敵船は本艦の拿捕を躊躇するでしょう。そうなれば、より多くの子供たちの命も救えます。それで時間を稼ぐことが出来るのです! 僚艦さえ到着すれば事態は変わります。ミカサも、さらに多くの子供たちを救うチャンスも生まれます!」
チェン少佐は長官と参謀長に宣言するように言い放った。
さすがだ・・・。
転んでもタダでは起きない、このチナの血を引く少壮の士官に、ヤヨイは真の「漢(おとこ)」を見た思いがした。
「・・・いかがしますか」
とチェン少佐は言った。
カトー少将は、何かを思案しているふうに唇を噛んだまま沈黙していた。
「参謀長、どうするのかね? 今の副長の意見具申に対し、即時司令部としての見解をまとめたまえ。みすみす最新鋭艦を敵に渡すのかと言ったのは、君じゃないのかね」
長官が珍しくカトー少将を督促した。
するとやおら顔を上げ、
「今の少佐の提案を実施いたしましょう」
参謀長は言った。
そしてブリッジ後方に控えている信号兵を顧みて、言った。
「ルメイ艦長を呼べ」
その一言はブリッジ全てを困惑させ、沈黙させた。
それを破ったのは、ラカ少佐だった。彼は参謀長に向かい、反問した。
「あの、お言葉ですが参謀長、なぜ今艦長をお呼びになるのですか?」
ラカ少佐の疑問はブリッジにいる全ての者の思いだった。
「操艦が稚拙だから、対応に機敏を欠くからと艦長の任を凍結したのは参謀長ご自身ではないですか。それを・・・」
「そうだ。凍結であって解任ではない」
とカトーは言った。
「そもそも、一艦の責任者を解任する権限は我々にない。必要だから彼の任を凍結し、副長に操艦を委ねた。チェン少佐はよくやった。だが、事は降伏に関する事務的な作業だ。正式な艦の責任者が不在では困る。降伏の交渉にもルメイ大佐を同席させる」
と、参謀長は付け加えた。
しかし、カトーの言は誰が聞いても奇妙なものだった。
おかしい。なぜ参謀長はルメイに拘るのか・・・。
ヤヨイもそう思わざるを得なかった。
「海上での敵国との交渉は単艦なればその艦長が、艦隊行動中ならば我が司令部の専権事項のはず。小官が長官の名代として出向けばよろしいのでは? 」
ラカ少佐は執拗に食い下がった。
彼はルメイの亡命の一件を知っているのだ。
ワワン中将はもう、すべてを少佐に打ち明けたのだろう。同郷の、名付け親も務めた信頼置ける彼に。だからこその食い下がりだろう。それは、ヤヨイにもわかった。
「私が指令部を代表して交渉に臨む」
と参謀長は言った。
「参謀長自ら、ですか?」
「左様。私と大佐で交渉に臨む。司令部代表と艦の責任者だ。何か交渉に不都合があるのかね?」
「ですが・・・」
「もうよい、少佐!」
なおも食い下がろうとする少佐を抑え、ワワン中将が割って入った。
「参謀長の言もあり、我々はチェン少佐の提案を実施する。
降伏の交渉は擬態として行い、子供たちの救助を要求する。一方で、艦内の重要部分に若干兵を立て籠もらせ、援軍到着までの時間稼ぎを担保する。交渉には参謀長が、ルメイ大佐を伴い臨むものとする」
長官が宣言し、それでラカ少佐も沈黙した。
「ルメイ大佐をお呼びします!」
信号兵が艦長室へ走った。
「では長官。司令部を代表し交渉に赴きます」
長官はじっとカトーを見据えたまま無言を貫いた。
そして、参謀長に対峙したまま、口を開いた。
「ヴァインライヒ少尉!」
とヤヨイを呼んだ。
「サー!」
ヤヨイは立ち上がって、敬礼した。
「少尉、貴官も交渉に同席したまえ」
とたんにカトーは色をなした。
「・・・なぜですか、長官? この者は臨時の士官です。このような外交には無用です!」
ワワン中将は事も無げに言った。
「別におかしくはなかろう。
交渉の内容はターラントへ報告されねばならない。通信担当として同席させれば合理的だし、彼女が連絡官として適任だと私が判断した。
少尉、参謀長の随員として交渉に参加しなさい!」
二人の将官の対峙が生む異様な緊張感がブリッジを覆った。動悸がした。
もしかして・・・。
このカトー参謀長が・・・。
もしかして、ワワン中将はこの参謀長が、カトー少将が裏切り者だと言うのだろうか。
「アイ、サー!」
鼓動が止まらない。
参謀長は言った。
「・・・わかりました。ではラカ少佐、降伏交渉を行う旨、敵方に伝達の手配をせよ」
カトー参謀長はそう言い残しブリッジを降りていった。
ワワン中将は穏やかな中にも謹厳の籠った瞳をヤヨイに落し、言った。
「ヴァインライヒ少尉。
貴官には重要な任務があるはずだ。その任を全うせよ。
現時刻をもって、貴官の海軍臨時少尉としての任を解く。貴官の本務に戻り、最適と信ずる行動をとれ!」
貴官の、本務?
ブリッジの他の士官や水兵たちが怪訝な表情を浮かべる中、ヤヨイは、悟った。
やはり、そうなのだ。
ついに、その時が来たのだ、と。
「・・・アイ、サー!」
ヤヨイは敬礼で応えた。
「では、さっそくこの降伏交渉の件と艦内立て籠もりによる時間稼ぎの件をヴィクトリー、リュッツオー、そしてバカロレアに通報し、その後交渉に同席します」
長官は、ウムと頷き席を離れ、煙幕が晴れつつある海峡の岸に双眼鏡を向けた。
通信機に向かった。
「ミカサからヴィクトリー、ミカサからヴィクトリー・・・」
ヤヨイの任務のクライマックスは唐突に訪れた。
意識するほどに抑えかねる高揚が溢れてきた。
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