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第二章 対決

49 裏切り者の末路

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 こんな小舟の舵輪を握るなど、何十年ぶりだろうか。

 カトーは一人、内火艇のキャビンにたち、本来なら水兵が行う操艇を自ら行い、狭い海峡を東に進んでいた。ミカサのような大艦と違い、内火艇には自動給炭のシステムなどない。時折舵輪を固定して船底に降り、スコップを使って釜に石炭を放り込まねばならなかった。金の肩章を着けた将官がやるべきことではなかった。

 この海峡、海の回廊は、近辺をパトロールすることのある第三艦隊の水兵たちの間では有名だった。

 神々を信じる気持ちの強い帝国の将兵たちの間で、「天国の門」とか「神の国の大門」とか呼ばれているのを知っていた。ほぼ正確に東西に伸びる回廊は、春分秋分にもなれば東の出口から陽が昇り西の出口へ陽が沈む。それにこの辺りは北回帰線より南にあたる。春先、正午ともなれば太陽はほぼ真上にやってきて狭い海峡を荘厳に照らし出す。そうした神秘的な光景を目の当たりにし、思わず甲板に膝を突いて祈りをささげる兵もいると聞いたことがある。

 だが、神を信じないカトーにはそれはただの風景でしかなかった。将官という神々を信じる兵たちの多い共同体の上に立つ立場上、信じているフリをしてきた。

 深い森だった両岸は次第に石の壁がそそり立つ絶壁となっていった。周囲から緑が消え、冷たい石の回廊になると急に不安がいや増した。今彼の心に去来する感情は、荘厳とか神の臨在という神秘的なものとは全くかけ離れていた。

 孤立。無援。孤独。

 他人を欺き陥れた者は、その罪悪感から逃れようと自己正当化に励むものだ。

 カトーもまた、例外ではなかった。

 悪いのはオレを認めなかった海軍だ、と。オレを正当に評価しなかった帝国だ、と。オレの生涯の初っ端からミソをつけたその出自のせいだ、と責任転嫁の矛先を探すことで不安から逃れようとした。

 彼は没落貴族の家に生まれた。

 平民よりも貧しい家ではあったが貴族の習わしで彼もまたリセ卒業後に士官学校を受験した。が、入学時とその後の成績が振るわず将来の順調な英達が望めなかったので一門の有力者で元老院議員の家に頼み込んで海軍兵学校を受験した。

 何とか納得のいく席次を確保したものの、気が付けば同期は皆年下ばかり。当然に同年代の者たちよりも出世は遅れた。

 それでもそれなりに昇進もし、人並み以上の収入も得た。

 だが中佐の時、指揮した巡洋艦を浅瀬に乗り上げたのがケチのつきはじめだった。ほどなく海軍省の備品調達部門という閑職に回され、腐っていたところに声をかけてきたのがチナのエージェントとして働いている内閣府の高官だった。

「あなたほどの才覚の持ち主がいつまでも燻っている法はありません」

 備品調達という立場を利用し、金を得る代わりに海軍の情報漏洩という犯罪に手を染めることになった。

 以来、求めに応じて巡洋艦や駆逐艦の設計図、エンジン図面、ターラントの大型クレーンのチェーンの製法、最新型のミカサ級戦艦の鋼板製法・・・。数えきれないほどの機密を流して来た。

 その見返りに首都ではなく、郊外の目立たない場所に地所を求め豪邸を建て、そこに夜な夜な美姫を誘い美食を食らい、元老院議員でさえもなしえない男の天国を満喫してきた。

 その高官の計らいで現場に復帰し、水雷戦隊の指揮官を務めた。流す情報も第三艦隊のパトロール予定や演習計画。戦時作戦計画などに変わった。

 だが近頃はそれも潮時だと感じていた。

 第一艦隊の参謀長に抜擢されたことが、その思いを強くしていた。同期に比べれば遅い昇進だったがポストには満足していたし、艦隊司令長官ワワン中将は仁の人だった。カトーの裁量をいつも信頼し受け入れられてきたことで自己実現欲求も満たされつつあった。

 特に今回のミカサの一件でそれを痛感した。自らの快楽のために、その代償として幾度も冷や汗を流して来たが、さすがに今回のはやり過ぎだ、と。

 話を持って来た高官には何度も断りを入れた。

「それは、ムリだ! いくらなんでも最新鋭の戦艦を強奪するなど・・・」

「強奪ではない」

 と彼は言った。

「ミカサはチナ沿岸で座礁し、乗員全員はチナに救助される。ただそれだけのことだ」

「絶対に戦争になる。帝国は、元老院は黙っていない」

「ならない。チナは乗員を救助し、ミカサをサルベージした対価としていままで帝国に割譲してきた土地と人民の返還交渉に応ずるよう要求するだけだ。君が艦隊参謀長である今が、その好機なのだ」

「そんな要求に元老院が屈すると思うか。絶対に、断る!」

 そのうちに話が大きくなり、なんとミカサのルメイ艦長が亡命を企てているという。まさかルメイが自分と同じ穴の貉であったとは・・・。

「ルメイ大佐一人に罪を被せればいいのだ。君は司令長官を説得してミカサから下ろし、あとは大佐に任せればいいのだ。ただそれだけのことではないか」

「君はワワン中将という人を知らない。彼はミカサを離れることはない」

「そこをうまくやりたまえ」

「無理だ。断る!」

「・・・今更断れる立場だと思っているのか、カトー。今まで君が流して来た情報。そしてその対価として君が得てきた報酬・・・。私利を得るために帝国に仇なしてきた君の行為は、立派に国家反逆罪に値するのだぞ。

 やるしかないのだ、カトー少将!」

 石炭は満載しているが、帝国の最も近い港であるマルセイユまでとなるとおぼつかなくなる可能性がある。ミカサの一件はすでに軍令部や第三艦隊まで行き渡っているだろう。援軍として来るはずの第三艦隊の駆逐艦にも、運が良ければ出会うかもしれない。

 そこからが腕の見せ所だと思った。

 とにかく、拿捕されたミカサから報告と交渉のために遣わされた参謀長。その役割を演じきることだ。

 季節は秋。冥界の入り口のような石の両岸の底には陽も差さなかった。その薄暗い海峡の黒い海面を、ポンポンとエンジンを響かせながら低速で進む内火艇。カトーはふと小さな操舵室から首を出して狭い空を見上げた。切り立った崖の端から美しい雲が現れて、すぐに反対側の崖の上に消えた。

 ボーッ!

 狭い海峡の石の壁に聴きなれた霧笛が響き渡り、カトーは船首方向に目を戻した。かつて自分も指揮したことのある、懐かしい艦形。そのマストには辛うじて赤い帝国海軍旗がはためいているのが見て取れた。

 第三艦隊だ!

 よし、やってやる。これが最後の大舞台だ。

 そう、勢い込んだものの、彼我の距離が近づくにつれてそれが第三艦隊の巡洋艦ではなく、つい昨日まで共に演習を行って来たリュッツオーであることが明らかとなっていった。

 何故だ。ヴィクトリーに随伴しているはずのリュッツオーが、しかも海峡の反対側の東側から・・・、

 なぜ、ここにいる。

 やがてリュッツオーは逆進をかけて速度を落とした。それに合わせ、アイドルしながらかの通報艦に近づいていった。

 やがてリュッツオーの乗員たちの顔も視認できるようになった。彼らの顔は一様に険しかった。特に艦長のヘイグ大尉が。筋骨隆々の偉丈夫であるヘイグは、怒髪天を突く勢いでブリッジの傍に立ち、敬礼していた。

 そして内火艇はリュッツオーに接舷し、水兵たちが舫を結ぶために艇に移ってきた。

 カトーは答礼し、言った。

「出迎えご苦労」

 リュッツオーから垂らされたロープを掴んで通報艦の艦上に移った。

「すでにヴィクトリーに通報したが、ミカサがチナに拿捕された。第一艦隊参謀長としてこれを直ちにターラントへ報告し、前後策を講じねばならん。進路を変更して、急ぎターラントに向け帰港することを命ずる」

 だが、ヘイグは冷ややかに答えた。

「参謀長閣下。本艦はターラントに帰港します。ですが、それはミカサを救出した後です。従って進路は変更できません」

 カトーは沈黙し、マッチョの大尉を見上げた。

「ヴィクトリーのフレッチャー少将より、閣下を拘束するよう命令を受けました。申し訳ありませんが、指示に従っていただきます」

 ヘイグの後ろに、ミカサのブリッジで見かけた通信機と一緒にバカロレアからやってきた臨時の少尉がレシーバーをかけている姿があった。彼の前の操作卓の上に、見慣れない小さな機械が載っているのもわかった。

「あれは、通信機かね」

「そうです。

 現在ミカサが海峡北岸に穿たれた運河を曳航されつつあるのも知っています。本艦はミカサ奪還のための作戦行動を続行します。おい、ボブ。参謀長閣下を船倉にご案内しろ」

「アイ、サー、キャプテン! 閣下、どうぞこちらに」

 案内を命じられた水兵の後ろには小銃を携えた二人の水兵がいた。

 カトーは大人しく甲板下の船倉に引き立てられていった。帝国を裏切った第一艦隊参謀長は全てを悟り、これから自分を待つ運命を、知った。
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