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第二部 歌姫と夢想家
12 ヤヨイ、ノールに向かう
しおりを挟む「ヴィルヘルムスハーフェンを過ぎたら一番後ろの車両に移動してください。そこにあなたの『従者』が待っています。そこから先はその従者の指示に従ってください。万事彼に言いつけてあります」
チュリオの潜伏先を出る間際、ヤヨイは見送りのオスカルにそう言われていた。
「従者?」
「仮にも貴族の令嬢が従者も連れずに旅行するなどあり得ません。それに貴族の旅行ともなればトラック一台分ほどの荷物があって然るべきです。その荷物運びにも従者は不可欠ですからね」
「それに、監視役もね」
ヤヨイの軽口にオスカルは鼻白みつつもこう返した。
「護衛役も兼ねています。もっとも、貴女には必要ないでしょうけどね」
最後にやっと彼は笑った。
「ということは、あなたは行かないのね」
「当然でしょう。私が同行したら全てバレてしまいますからね」
「その従者さんのお名前は?」
「彼の名前は、アクセルといいます」
とオスカルは言った。
「貴女の任務の成功と無事の帰還を心より祈っています」
汽車が駅を出ると、ヤヨイは席を立って後方の車両に移動した。
6両編成の車両は前から順に3、2、1等車と並んでいた。
「失礼、フロイライン。その先は全席予約の特等車ですよ」
一番後ろの客車に行こうとしたヤヨイは検札の車掌に呼び止められた。
「アラ、ごめんなさい。気が付かなかった」
ヒジャーブから覘かせた目を伏し目がちにしてヤヨイはその場を取り繕った。
車掌をやり過ごした後、あらためてその「全席予約の特等車」に行った。
カギは掛かっておらず、一番最初のコンパートメントに男が一人乗っていた。
ヤヨイが見つめていると男は立って通路に出て来た。
「隣のコンパートメントに着替えがあります。そこで服をお召し替えになってください」
オスカルと同い年くらい。30がらみの黒髪で、太い眉の下の眼差しは険しかった。
「あなたが、アクセルね?」
「はい」
ヤヨイが差し出した手を、彼はしばらくじっと見下ろしていたかと思うと右手を胸に当ててバウした。
「わたくしはここに控えております。御用がありましたら、なんなりとお申し付けください、お嬢様」
彼のその言い様で、ヤヨイはすでに作戦が始まっているのを知った。ヤヨイは「ヴァインライヒ女男爵」。彼はその「従者」である、と。
「わかりました。よろしくね、アクセル」
ヤヨイもまた、任務のための「かりそめの貴族」として、彼に言われた通り隣のコンパートメントに移って、ドアを閉めた。
だがそこでふと気になって他の個室も見て回った。
車両に個室は6つ。他の客室も皆、空だった。彼女とアクセルの他には誰一人乗客は乗っていなかった。オスカルたちはヤヨイの移動のために一車両丸ごと借り切ったのだ。
一番最後の客室には荷物だけが置いてあった。その旅行ケースの大きさと数たるや、クィリナリスのヤヨイの下宿の部屋には到底収まりきらないほどのものだった。
「これが貴族の旅行というものなのか・・・」
旅といえばバッグパックか軍用背嚢一個だけを背負ってのヤツしかしたことがない。初っ端から驚いてしまったが、何事も慣れだ、と思った。
着替えの部屋に戻ってやっと鬱陶しいヒジャーブを取った。
セミロングのブルネットは金髪のショートボブに変わり、やや丸みを帯びた碧眼は切れ長のグレーに変わっていた。
ドイツ系とヤーパン系のミックスであるヤヨイとは全くタイプの違う、「北欧系絶世の美女」がそこにいた。
着替え終わってアクセルのいるコンパートメントに移った。
「どうかしら。着付け、間違ってない?」
あのパラティーノの舞踏会で男性たちが身に着けていたアビ・ア・ラ・フランセーズに身を包んだ美青年に変身したヤヨイは首を傾げ、尋ねた。
縁に金糸の刺繍がしてある緑のネル生地のコート。白のシルク地に金糸銀糸をふんだんに使い唐草模様を縫い込んだウェストコート、袖にヒラヒラのフリルのついたシャツと秀麗なシルクのフリルのネクタイであるクラヴァットはお約束。下はコートとお揃いのブリーチズにシルクの長靴下、そしてピカピカの短靴。ただし、ウィッグ(かつら)と着けボクロだけはない。
ウリル少将が、
「まったく! お前のコルセット嫌いのせいで、『伝説』に余計な手間暇がかかったではないか!」
と文句を垂れた、「男装の麗人」が出来上がっていた。
だが、アクセルはヤヨイを一瞥しただけ。すぐに窓外を流れる景色に視線を外した。
「よろしいのではないでしょうか」
たった一言、そう言っただけだった。
これまた、不愛想極まりない。お世辞でもいいから、
「よくお似合いですよ、お嬢様」
くらいは言ってくれてもいいのに。
これから彼と作戦を共にするにあたり、なんだか果てしなく心細い思いがした。
「そう・・・」
あのレーヴェンショルド書記官にしろ、オスカルにしろ、このアクセルという男にしろ。ノールの男というのは押し並べてみんなこうなのかしら。そう思わざるを得なかった。
ドン行だから終点のライプチヒまであと丸一日はかかる。この機会に親睦を深めたいと思い、彼の真向かいのシートに掛けた。
「アクセル。質問を、いいかしら」
彼はヤヨイに顔を向け、威儀を正した。
「何なりと、お嬢様」
「わたしの名前は?」
「『バロネン・イングリッド・マリーア・ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒ』様でいらっしゃいます」
ううむ。完璧だ。
ヤヨイでも舌を噛みそうな長い長い名前を、彼は澱みない発音で答えた。
「もう一つ。
ノールでお世話になるゴルトシュミット子爵様という方はどんな方なのかしら」
「私は初めてノールに行く帝国人です。ノールの方のことは一切何もわかりません」
ヤヨイは鼻白んだ。
あのね、あなたはノールの工作員でしょう?
思わずそう言いかけたのだが、黙った。
自分は「帝国人であり、ノールの貴族の末裔の従者であるアクセル」
彼はその役割にすでに入っている、と。そう言いたいのだろう。
前途の遣り辛さを思い、ヤヨイは長い溜息をついた。
そのようにして、不愛想な「従者」を目の前に、退屈な汽車の旅を続けた翌日、ヤヨイは帝国の東の国境の街、ライプチヒに着いた。
千年ほど前の大災厄。ポールシフト。
今はもう北極となってしまい、人も寄せ付けない極寒の地となってしまったヨーロッパ。そして、その故郷を追われるようにして辛くも難を逃れた帝国人の祖先たち。
災厄を逃れた欧州人たちはひとまず現在帝都のある七つの丘に寄り集まるようにして棲み、その後数百年をかけて周辺の土地に入植して移り住み、それぞれにかつての民族の記憶を引っ張り出して街の名を付けていった。
とりわけ帝国の東に移住していったドイツ系帝国人たちは、彼らの街にキール、ボン、ウィルヘルムスハーフェン、といった、かつてのドイツの街の名を冠した。
ライプチヒもその一つである。
帝都の東駅から出る鉄道の終点でもあるこの街は、隣国ノールの国教であるキリスト教の影響を受け昔からプロテスタントやカソリック系の住民が多かった。もちろん、教会もある。産業は豊富な森林資源を生かした林業や牧畜、小麦を主体にした農業が主である。
加えて、約150年前のノールからの大規模攻勢以来、第九軍団の司令部とその二つの師団のうち第35歩兵師団の司令部も置かれている帝国の防衛基幹都市ともなっていた。
そのためなのか、辺境と言われる土地にも拘わらず、鉄道を利用する人は多かった。ヤヨイたちの乗ったドン行も乗客の三分の一はカーキ色のテュニカを着た軍人たちだった。
終点に着くや、アクセルは駅員たちに指示して荷物を下ろさせ、次いで駅の案内所で馬車の手配をした。
「国境を超えるので、なるべく質素な目立たないものを」
彼は案内所の係員にそう注文を付けた。
「どうして目立たない馬車にするの?」
素朴な疑問を感じてヤヨイは彼に尋ねた。
「国境を越えればお嬢様にもわかります」
とだけ、彼は答えた。
「でも、あなたは『初めてノールに行く帝国人で、ノールのことは一切何もわかりません』て言っていなかったかしら?」
揶揄い半分にそう言うと、彼は不愛想にいっそう縒りをかけて押し黙ってしまった。
その風情にどこか可笑しみと可愛いさを感じてしまい、ヤヨイはやっと彼に愛すべき一点を見出すことができた。
その晩は街一番のホテルに泊まり、翌朝早くライプチヒを出て国境に向かった。
出国はルーズなものだった。
なんとホテルの中に帝国の国境管理事務所があり、そこで出国手続きは済んでしまった。
問題は、ノールへの入国である。
帝国とノールとを隔てる高い山が連なる山脈のわずかな切れ目を縫うようにして、深い針葉樹林を両脇に見ながらの細い道を、馬車はひたすらに登って行った。
その昔はずいぶんと山賊も横行していたらしいと聞く。だが、すぐそばに帝国軍の駐屯地も置かれて久しい今は、平穏、静粛そのものの道中だった。
両側にまだ雪を頂いた高い山の山頂を望む、峠を登りきったところにノールのイミグレーションはあった。三角の鋭い尖塔を持った、いかにもノール的といえばノール的な、オレンジの壁の建物だった。建物の前の街道は重いバーが渡されて閉ざされていた。季節は初夏に向かう頃なのに、標高が高いせいか少し底冷えがした。
「御者はこちら。乗客の方はこちらへ」
レーヴェンショルド氏やオスカルを想い出させる、白い肌に長い金髪を編んで背中に垂らした黒いコートに半ズボンの不愛想な管理官がヤヨイたちを建物に導いた。
そこは低いカウンターのある一室だった。
カウンターの向こう側に、今ヤヨイたちを案内した管理官が座った。一人で何役もこなさねばならないようだ。慢性的に人手不足なのだろうと思われた。もっとも、日に一人か二人しか来ない国境の番人だから、当然といえば当然か。
金髪の管理官氏はほぼオスカルとの模擬問答通りに尋問を進めていった。ただし、ヤヨイが男装しているせいで、最初の呼びかけが「Frue(奥様)」ではなく「Herre(旦那様)」であったこと以外は、だったが。
「Herre! hva heter du?(旦那様。貴方のお名前は?)」
ヤヨイは付け焼刃のノール語で答えた。
「(バロネン・イングリッド・ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒ、です)」
「(バロネン?)」
管理官氏はヤヨイの提示した帝国のパスポートを二度見三度見しつつ、ヤヨイの顔を、次いでその服装をマジマジと、見た。
ノールの法律に女性が男装してはいけないという文言はないと聞いた。だが、ほとんど日がな一日ヒマを持て余しているだけの国境勤務での、これは彼にとって「椿事」ともいうべき出来事だったに違いない。
管理官氏は気を取り直して質問を続けた。
「(ノールへは観光で? それとも商用ですか、バロネン)」
「(観光ですが、滞在が少し長引くかもしれません)」
「(というと、どのくらいですか? )」
「(ひと月か、ふた月ほどになるかと思います)」
「(滞在期間中の宿泊先はもうお決まりで?)」
「(オスロホルムのゴルトシュミット子爵のお屋敷に。これが招待状です)」
ヤヨイは傍らのバッグから招待状を出し、管理官氏に示した。しばらくの間、彼はその書状を穴のあくほど眺めたあと、もう一度ヤヨイを見つめゴホン、と咳払いして既定の質問を続けた。
「(貴女の宗教は?)」
「(プロテスタントです)」
「(恐れ入りますが、洗礼名は?)」
「(『マリーア』です)」
「(『ノルトヴェイト』が家門名ですな。ふむ、よろしいでしょう。
ではノールご滞在中はファーストネームと家門名の間に洗礼名を名乗られるのが願わしゅうありますな)」
そのあまりなオスカルの想定問答通りの質問内容に微笑を堪えるのが骨折りなほどだった。でも考えれば当たり前だ。オスカルはノールの官吏。官吏同士職務内容に精通しているのはあながち不思議ではない。
「では、バロネン。こちらへ、あ・・・、ではなくてこちらへどうぞ。規定により、検査を受けていただきます」
ヤヨイは席を立って管理官氏に従った。管理官氏がヤヨイを女性用の「Feminin」の部屋ではなく男性用の「Herrer」に誘いかけ、それを訂正したのが密かに可笑しかった。
ヤーパンの「Edo period」、江戸時代と言われる時代に、国境の関所が重視した「入り鉄砲に出女」という項目があった。地方から中央へ武器弾薬が入るのを防ぐためと、中央から地方へ、地方の諸侯が人質として中央に残した女子供が脱出するのを防ぐためであった。つまり国内反乱を未然に防ぐための措置である。
ノールの国境管理にもそれと似たような意味合いの目的があったのだ。
すなわち、「帝国からの高度な武器が国内に入らないように」。
そして「過度な奢侈品が国内に流入しないように」。
これはいずれもノール国内のある勢力に対する配慮だった。この後間もなく、ヤヨイは自身の眼でそれを間近に見ることになる。
いわゆる身体検査にはちゃんと女性の管理官が付いてくれた。男性のほうは管理官氏がそちらも兼務して行うのを、あとでアクセルも検査されたことで知った。結局のところ、このノールの国境管理は管理官氏ともう一人の女性のただ二人だけでこなしているのだ。
なんという「省力化」だろうか。
ヤヨイは感心した。
イミグレーションの最後に、管理官氏はこんな不思議な言葉を付け加えた。
「国境を越えてから半日の間はなるべくゆっくりと移動してください。なるべく馬車を停めないでください。窓はシェードを下ろし、そこに棲む住人たちをなるべく見ないようにして通過してください」
全ての手続きから解放され、やっと国境のゲートが開かれると愁眉を開いた時。
「初めまして。バロネン・ヴァインライヒ。
貴女にお会いできるこの日を、一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました」
艶やかな亜麻色の豊かな髪を束ねた、30歳ほどの堂々たる紳士がヤヨイを待っていた。
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