ソルヴェイグの歌 【『軍神マルスの娘』と呼ばれた女 4】 革命家を消せ!

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第三部 歌姫は悲しい歌を歌う

29 不幸な田舎娘と、怪僧マレンキー

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 後宮から大聖堂に向かう秘密の地下通路は夏でもひんやりとして肌寒さを感じるほどだった。

 灯りなどはない。手にしたカンテラだけを頼りに、地下水の浸みだした石の壁を伝うようにして重い手車を引き、流れ落ちた地下水が濡らす石畳を歩いた。濡れた石畳は長年のうちに苔むし、彼女の編み上げの靴底には滑りがちだった。ともすると転びそうになる。真っ暗闇の通路には、彼女が引く手車のゴロゴロという木の車輪の音と、彼女の吐く荒い息だけが木霊していた。

 ベアーテが汗をかいていた理由は肌寒さの他にあった。

 首都オスロホルムの北に広がる大地の片隅に、忘れられたようにある侘しい寒村から都会に出て来た彼女が、ダメもとで王宮の女官に応募し幸運にも採用されてからかれこれ3年になる。

 田舎の退屈な日々の中で若い身体を持て余していたベアーテはより華やかな生き方を求めてそれまでの全てを捨てるようにして都会に出た。都会に行けば何とかなる。皿洗いでも給仕でもメイドでもなんでもする。

 そう勢い込んで田舎を出たのはいいけれど、お金もなくロクに学校にも行っておらず、しかも汚い身なりの彼女をそう簡単に雇ってくれるところはそうそうなかった。

 でも、田舎の両親に威勢のいい啖呵を切って出てきた手前、いまさらしっぽを巻いて逃げ帰ることもできず、かといって女であることを売り物にするような場所にも行く気はしなかった。自分が「醜女(しこめ)」であることは自覚していた。

 でも、この都会で生きるためにはそれも致し方ないかも。

 そんな悲痛な予感を抱きつつ、なけなしのポケットの小銭の重さが次第に軽くなってゆくのに心細い思いをしつつ、橋の下や店じまいした商店の軒先で雨だれを凌ぐ日が何日か続いた時だった。

 街の広場に王宮の御触れが出ているのを人々の頭越しに読んだ。そこに書いてある文字を辛うじて読むことができたのはベアーテの運というものだった。

 なんの後ろ盾も庇護してくれる者もいない身で、僥倖にも王宮の、しかも最も格式が高いとされる後宮の女官として採用され、なんと皇太后付きの侍女に取り立てられたときは天にも昇る夢心地がした。有頂天で故郷の家に手紙を書き送ったのがつい昨日のことのように思える。

 だが、本来であれば十分な身元の確認とたしかな庇護者の許から取り立てられるべき王宮の侍女という職が、なんの取り柄もなく何物をも持たない彼女程度の女に無条件に与えられた真意を、背景を、洞察できるだけの知性と胆力がなかったことは彼女の不幸だったかもしれない。もっとも、それほどの徳のあるおんなだったならば、華美を追い求めて都会に出ることもなく、田舎で地道に幸せを掴むこともできたかもしれないのだが。

 採用されてすぐ、彼女程度の女が易々と取り立てられた意味が彼女にもわかってきた。ベアーテは何の疑いもなく後宮に上がったことを後悔した。

 王宮の、中でも後宮の空気は田舎から出て来たばかりの小娘には冷たすぎた。

 皇太后という後宮の主である女性のあまりな傍若無人の振る舞い、無体な要求、そして、神をも畏れぬ所業の数々を苦にして、ベアーテと同じく採用された侍女たちが次々に職を辞して去って行ったからである。

 だが、それでもベアーテは耐えた。

 そして、いつしかかつての彼女のように、なんの後ろ盾もなく器量も良くなく汚らしい身なりの何も知らない無垢な田舎娘が後宮に入ってくるたびに彼女たちを教育する立場になっていたころにはもう、皇太后の無体や傍若無人などにも眉ひとつ動かさずに従えるほどの肝が、豪胆さが身についていた。

 だが、その彼女にしても、過去にも幾度か言いつけられたこの役目は、重すぎた。

 肌寒いほどの地下通路のはず。なのに、結い上げた亜麻色の髪の、その額から汗のしずくが滴り落ちそうになる。その度に後宮の女官に定められた黒い官服の袖で拭うのだが、止まらない汗にいら立ちもした。汗は官服の下の下着を濡らし、ベアーテの肌を冷やした。おかげで寒気がいや増した。

「早う行ってまいれ! ヴェンケに、女官長には絶対に気づかれぬようにな。あの者に気付かれると厄介だ」

 常ならば雲の上のさらに高みにおわしまし、手を触れることはおろか直接言葉を交わすのさえ畏れ多い尊い存在であるはずの御身が、女の情念を恥ずかしげもなく曝け出し、本来ならば自らを虚しくして神に罪の許しを請う告解にかこつけて、夜な夜な大司教を呼びだしてはいかがわしい性愛に耽る・・・。正規の手続きならば女官長のヴェンケを通すべきところなのに、彼女に内緒でベアーテ程度の下級の侍女を直接召し、その手引きをせよというのだ。

 これで4度目になる。後宮の出納係から無事金を引き出すことができて少し油断していたかもしれない。

「皇太后陛下の急なご入用です」

 そう言えば万事通った。出納係は全て心得ていた。前と同じ。金貨の詰まった革袋がふたつ、目の前に置かれた。

 初めての時はあまりなことに絶句し、硬直してしまった。なにしろ、革袋ひとつにクローネ金貨が、千枚。この金貨一枚で、つましい暮らしのベアーテの実家ならば一年は暮らせる。それが、千枚! しかも、ふた袋も!

 一度目は度肝を抜かれたベアーテも、二度目は欲が出た。

 革袋の口は鎖で縛られ錠前が付いていた。が、時としてその縛りが甘く、革袋を押し下げると、縛りの甘い口から中に詰まった金貨の妖しい煌めきが覗けてしまったのだった。

 無意識に、と思いたい。決して最初から罪を犯すつもりはなかった。魔が差した、としか言いようがない。

 袋の口から指を差し込み、苦労して一枚を抜き出した時、ベアーテの心の中で、何かが変わった。どうせ皇太后陛下はこの後も度々お布施をなさるだろう。その度に一枚ずつなら、バレるわけがない。10枚溜まったら、やめよう・・・。そう、思い込んだ。

 そして、これまでは、バレずに済んでいた。

 そして今日も。手車を引いて出納係の部屋を出、階段の下の暗がりに潜み素早く金貨を抜き取るのに成功した。誰にも見られることなく。

 だが、秘密の地下通路に降りる階段のあるドアに手をかけようとしたとき、

「ベアーテ、どこに行く?」

 ひいっ!

 全身の毛が逆立ち、金縛りにあったように身を固くした。振り向くのさえ、恐ろしかった。声だけで、ベアーテを呼び止めたのが誰か、わかってしまった。皇太后直々に「絶対に気付かれるな」と厳命された、その女官長に、見つかってしまったのだ。

「陛下のお召か?」

「・・・はい」

 そう、答えるしかなかった。こんな夜更けに目隠しの布を被せているとはいえ手車を引いて大聖堂に向かう秘密の地下通路に向かおうとする、都合の良い言い訳は、他になかった。

「こっちを向け、ベアーテ」

 観念したベアーテはゆっくりと振り向いた。漆黒の髪を結い上げた、黒く鋭いキツネ目の光が彼女を刺した。思わず目を閉じた。

「震えているな。何を怯えているのだ。わたしの目を見るのだ、ベアーテ」

 恐る恐る、ふたたび目を開けた。人の胸を切り裂いて心の奥底に刃物を突き立てるような灰色の目。まるで心の臓をねじ切られるような息苦しさに、窒息してしまいそうな予感があった。たちまちに、汗が噴き出た。

「なにか、隠しているな」

 とつぜん、女官長の手ベアーテの身体を探り始めた。

「な、何をなさるのです! 女官長様!」

「大人しくするのだ、ベアーテ!」

 黒い官服の襟元から始まった女官長の手の探索はベアーテの身体の隅々を叩き、触れ、まさぐった。生きた心地がなかった。

 ああ、見つかる・・・。

 そして、探索は左足のふくらはぎの上の靴下留めのあたりで止まった。スカートがまくり上げられ、冷たい指先がベアーテがそこに挟み込んだものを見つけ、取り出し、目の前に突きつけられると、身体中の血が抜け失せて行くような感覚が襲った。

「これは、なんだ」

 女官長の指先には、先の国王のプロフィールが彫られたクローネ金貨があった。

 全て、終わった・・・。

 ベアーテは言葉を失い、首を垂れた。

「ベアーテ。お前が隠し持っていたこれは、畏れ多くも王宮の公金であるぞ。それを密かに着服するとは・・・。神をも畏れぬ所業とは、まさにこのことだ。

 お前が陛下の告解を使いするのはこれで4度目。毎度このような悪事を働いていたのか」

「いいえ! まだ3度にございます!」

 言ってしまってから、これが初めてですと言えばよかったと思ったが、一度口から出た言葉はもうどうしようもない。

「・・・3度も、か」

 これで終わりだ。後宮の侍女の職を失うだけではない。逮捕され収監されて牢獄行きは確実。下手をすれば、死刑だわ・・・。

「申し訳ありません! 魔が、魔が刺したのです。おゆるしくだい、女官長さま!」

 脳裏に浮かんだ彼女を待つ残酷な未来を打ち消すように、必死に哀願するベアーテの頭上から、彼女の運命を決するゾッとするほどの冷たい言葉が降りて来た。

「3度もやれば十分であろう」

 と。

 あの専横を恣(ほしいまま)にする皇太后さえ窘めるほどの力を持つ女官長。それだけにソニア様は「女官長には気づかれるな」と念を押した、その後宮の絶対者。

 もう、ダメだ・・・。

 汗が滝のように流れ、ノドがカラカラに乾いた。

 自分を待つ暗黒の運命を覚悟し、目を瞑った時、黒い官服のポケットに、ストンと落ちる小さな重みを感じた。

 え?

「お前のために忠告する。皇太后陛下を侮るでない。さもなくば、死ぬぞ」

「・・・」

 一瞬何が起こったのかわからなかった。

「もう二度とやるなよ」

 目の前のゾッとするほどに冷たい灰色の目に、かすかな優しさの色が射したように見えたとき、ベアーテの全身から、力が抜けた。

「あ、あ、あり、・・・あり、が・・・」

「もうよい。行け!」

 立ち去る黒い官服の女官長の、神々しいほどの後姿を、ポケットの中の金貨の肌触りと共に見送ったばかりだったのだ。

 もう、辞める! こんな恐ろしいところにはもういられない! この役目が終わったら、明日、後宮を出る。退職を、願い出よう! そして、田舎に帰って地道に働こう! 3枚の金貨があれば捨てたはずの親にも格好がつくというものだ。

 そうして自分を励まし、肌寒いほどの地下通路を大汗をかいて手車を引いて来た、

 通路の行き止まりに、暗い木のドアがあった。

 コンコン。

「お願いいたします!」

 ああ、早く! 早く出て来て!

 祈るようにドアを叩いた。

 何度目かのノックの後、ドアの小さな覗き窓が開いて暗い地下通路に光が射した。Munk、修道士の誰かの目が覗いた。目は無言でベアーテを睨んだ。

「皇太后陛下が、大司教様に、告解をお求めでいらっしゃいます!」

 もどかしくも早口で、祈るように、言った。

「ドナショーン・・・。ご寄付がございますか?」

「はい、これに・・・」

 ドアが半ば開かれ、ベアーテは手車を押し込んだ。

「たしかに。大司教様にお伝えしましょう。皇太后陛下とあなたに神の祝福がありますように。アーメン」

「アーメン!」

 バタン!

 そして、ドアは閉まった。

 終わった!

 後宮にもどる通路を駆けるようにして歩いた。

 もう辞める! 後宮を出る! 田舎に、自分の故郷に、自分の家に、帰る!

 それだけを何度も念じながら、濡れて滑りやすい石畳に何度も足を取られそうになりつつ、ベアーテは地下通路を急いだ。

 だが、あと数十フィートで後宮の通路に出るドアに辿り着く、その時だった。

 ふいに彼女の足元の石畳が揺らぎ、スーッと傾いた。

「あっ!」

 濡れて傾いた石畳はよく滑った。彼女の身体は滑り台で遊ぶ子供のように滑り落ち、その下の、底の窺い知れぬような深淵に落ちていった。

「きゃあああああっ!・・・」

 短い悲鳴はすぐに掻き消えた。彼女の姿が消えると、石畳はふたたびせり上がってもとの地下通路の床に復した。そばに、火の消えたカンテラが、落ちていた。

 この落とし穴の存在は、過去にその犠牲になった者が誰一人生きて再び陽の光を浴びることはなかったので、後宮のごく限られた者を除いては誰も知らない。

「どうせまたヒマを出されたのだろう」

 突然姿を消したベアーテを同僚の侍女たちは、そうウワサしただけだった。

「やっぱり、若い女は辛抱が足らないのだ」と。


 


 


 

 修道士長ムンク・トロンハイムは、カンテラを下げ、大聖堂から修道院への道を急いでいた。大聖堂に詰めていた宿直(とのい)の若僧が、ドナショーン、寄付を携えた後宮の使いを迎えた。その報告をせねばならなかったのだ。

 修道士は普段の衣食住に関わる一切を自給自足するのが習わし。修道院の裏にある綿花畑で摘み取った綿を糸車を回して紡ぎ、手織りばたで織る。そのようにして自分たちで縫った漂白していない、荒い織の綿の僧衣の裾を引きずるようにして、急いでいた。


 

 司教区はノール全国に十数カ所ある。各司教区を統べる司教たちの頂点に立つのが大司教であり、それぞれにある教会の総本山がこの首都オスロホルムの大聖堂であった。修道院は、各司教区や首都に住まう信者の中から生涯を神に捧げたいと志願してきた者が生活する場なのだった。

 修道士たちは昼は修道院で祈りと神の教えの探求に身を捧げる傍ら、日々の糧である食物を得るために畑を耕し、生活に使う食器や家具も木を切って組み立てたり鑿で穿って自ら作る。そして機を操り布を織り身に纏う衣まで縫う。それが修道士たる者の務めであり、修行なのだった。故に修道士たる者、世俗を捨て、世俗から隔離され、日夜修道院の中で起居し、神と聖書の中に生き、必要がある時のみ大聖堂での務めを果たす。本来ならばそれが修道士たる者の正しいありようなのだった。

 トロンハイムが修道士の道を選んだ頃は、修道士たちはたしかにそのように日々を送っていた。

 だが、今は。多くの修道士同様、彼も昼は修道院で修行しても、夜は大聖堂の宿所に退くようになって久しかった。

 何故修道士長であるトロンハイムが夜の寝所を修道院内に求めないのか。

 現在の大司教であるマレンキーがその地位に就いたのは、今は皇太后と呼ばれているソニアが先王の王妃になってからのことだった。

 その時から修道院の汚穢が始まった。

 本来ならば清浄静謐を旨とし、清らかなる信仰心だけを胸に日々神への祈りの中にあるはずの修道士たち。その彼らの起居する神聖な場であるはずの修道院が、夜な夜な催される淫らな酒池肉林の宴の場になってしまったのである。

 女人禁制であるはずの聖域に、「告解」と称して淫らな女たちが出入りし、マレンキーや彼が連れて来た者達と戯れ、魚肉を喰らい、酒に溺れる。次第に真面目な修道士たちの中にもその色に染まる者が出てくるのも自然な流れだった。

 皇太后の「告解」も、その実は大司教との男女の閨の交わりであることも知っていた。神聖な求道の場である修道院での、まさに神をも畏れぬ所業。すでに修道院は、まともな求道者が「やってられない」、悪の巣窟に成り下がっていたのだ。

 謹厳実直ではあるが小心な修道士長はそんな境遇にただひたすらに耐えた。耐えながら大司教一派を諫めることのできない不徳を神に懺悔する日々を過ごしていたのだった。


 

 一日二十四時間。一年を通じて常に信者にその扉を開いている大聖堂とは違い、修道院はその性質上俗世から隔離され閉ざされている。小高い丘を登った院の扉は訪問者を固く拒絶しているのが常だった。

 トロンハイムは樫の木で組まれ、鉄帯を施された頑丈な扉を叩いた。

「ブルール(兄弟)・トロンハイム。いかがされましたか」

 除き窓が開き、見知った後輩修道士が顔を覗かせた。元々彼はトロンハイム同様古参の修道士だったのだが、マレンキー一派という怠惰で堕落した「ニセエロ修道士」たちにやや影響されてきた者達の一人であり、院の中にあって交替で扉の番をしていたのだった。

「おお、エングレ(yngre bror弟)よ。大司教猊下に至急の言伝があるのだ。開門されよ」

 修道士同士はお互いを「兄弟」と呼びあう。歳上の者は年若を弟、逆は兄と。

「明日になされませぬか? ただいま猊下は『迷える子羊』の告解の最中にございますれば・・・」

 このような夜更けに告解なぞあるものか! おおかた「スカートを穿いた」子羊だろう。

 そう言いたいのをグッと堪えて、修道士長は重ねた。

「皇太后陛下のお召である! 取り次がねば、弟よ、皇后陛下に対し奉り、そなたにその責を負ってもらわねばならぬ仕儀とあいなるぞ! 」

「わかりました。なにとぞ、皇后陛下と大司教猊下には、よしなに・・・」

 小心者同士の意地の張り合いは、この若い修道士よりもトロンハイムの方に数年の長があった。

 重い扉のカンヌキが外され、開いた。トロンハイムは大司教の部屋に急いだ。

 カンテラを捧げて猊下の部屋に赴く途中、一派の主だった「ニセエロ」達の個室の前を通ったが、どの部屋からも卑猥であられもない女の嬌声があがっていた。

 神に仕える者の館で・・・。全くもって、不愉快極まるっ! 今に見よ! 神の怒りが落ちようぞっ!

 憤懣を堪えつつ、目指す大司教の部屋に着いた。やはりここからも、ひと際大きな嬌声が聞こえて来た。

「おお、大司教様! 神よ! 素晴らしいですわっ!」

「愛いやつじゃの。それそれ!」

 うおっほんっ!

 聞こえよがしに咳払いなど試みたが、カエルのツラにナントカだったようで、一向に嬌声が収まる気配はなかった。そこでトロンハイムは大きく息を吸い込み、もうハッキリと、叫ぶように、くしゃみをした。

 うわっくしょいっ、あうっ!

 さすがにこれには大司教の部屋だけでなく、彼の子飼いの一派たち全ての部屋からの声が止んだ。そして、ひそひそ、ゴソモソ。

「大司教猊下! トロンハイムにございます! 急ぎ、お耳に入れたき儀が・・・」

 すると、ガチャ、とドアが開いた。中からトロンハイムを突き飛ばすようにしてショールを被った妙齢の女が飛び出してきて、小走りに消え去った。かなり慌てていたもののようで、廊下の石の床にドギツイ原色の肌着を落としていった。神に仕える下僕の館にはあるまじきモノだった。

「告解の最中であるぞ! 何事であるか、トロンハイム!」

 部屋の中からは、さも、メンドくさそうな声が、怒鳴り声が上がった。

「失礼を致しまする」

 彼は女が落としていった肌着を拾い上げて僧服の中に隠し、部屋に入った。

 その大きな部屋の奥には、本来修道院にあるはずのない巨大で豪華すぎる寝具の乱れた寝台があり、髪を振り乱した異形の大男がこれも寝乱れた下着姿で半身を起していた。

「急ぎの用とはなんだ!」

 あまりな様子に視線を逸らせたトロンハイムに、大司教はおっかぶせるように言った。

「皇太后陛下がお召しにございます。告解のため至急後宮にお出でを賜るように、と」

「ふんっ! あのメギツネめが! 構わぬ。放っておくがよい」

 平均身長が6フィートを超えるノール人男性の中でもひと際大柄な大司教マレンキー・イーブレーニヤは、北欧系というよりもどこかアジア的な、そして奇怪な容姿をもった異人だった。向かって右目は黒だが、左目の眼球の中の瞳が白く濁っていた。鼻はすこぶる大きく長くカギ型に曲がり、歯並びが異常に悪かった。それ故か、慣れない者には恐ろし気な印象を与えた。

「しかし、そうは言われましても、再三のように督促が・・・」

「捨ておけと申しておる! ・・・それで、ドナショーンは?」

「はい。いつものようにふた袋。兄弟に命じてお預かりしております」

「ふん・・・」

 大司教はつまらなそうに鼻を鳴らすと大きな背伸びと共に大きな欠伸をした。歯並びの悪い、汚らしい口からは醜悪な匂いが漂った。

「して、『地下室のしもべ』は施しを求めて参ったか」

「はい、先ほど。いつものように施しを与えてございます。あの、猊下・・・」

「なんだ」

「あの者は、その、『地下室のしもべ』とは、いったい何者なのでございますか? 猊下の御係累の方なのですか? あの大金は、一体何に使われるのですか?」

 大司教はその異様な瞳を小心者の修道士長に向けた。黒と白の、恐ろし気な色の瞳はとても神に仕える者の長のそれではなく、むしろ悪魔のしもべに見えた。

 トロンハイムの背中に、思わず怖気が走った。

「修道士長。そなたが知る必要はない。わしが大司教に任命されたからには、どのように布施を使おうとも誰にも詮索も指図も受けぬ。そう申したはず」

「それは、確かに・・・」

 神に仕える者は俗世や政治に関わる一切に無縁でなくてはならない。

 遥かな昔。彼が修道士として修道院に入る折に固く申し渡された義務を、トロンハイムは思い出した。確かに、自分とは関わりのないこと。すべては神の思し召し次第なのだ、と。

「では、もう用は済んだであろう。大聖堂へ戻るがよい、トロンハイム」

「・・・かしこまりました。おやすみなさいませ、猊下」

 内心の疑問や不信、懐疑を幾重にも押し殺し、トロンハイムは部屋を出てドアを閉じた。

 確かに。

 王宮のカネがどこからどこへ渡ろうとも、自分には一切、関わりのないこと。

 自分にそう言い聞かせながら、修道士長は大聖堂の司祭宿舎に引き上げた。
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