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1976

42 Your Song

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 次の日に次兄が帰って来てくれたので、お正月に母を一人にせずに済み、助かりました。

「なんだよ、ミオ。もう帰っちまうのかよ」

「ウン。いろいろあるの。・・・じゃね、お母さん」

「ちょっと待ちなさい!」

 玄関口まで出てきた母が珍しくわたしを抱きしめてくれました。三和土に立ったわたしとかまちの上の母がちょうど同じ背丈になりました。

「身体に気を付けるのよ」

 そう言うと、エプロンのポケットから大きい方の聖徳太子さんを二三枚取り出して四つに畳み握らせてくれました。

「いいこと、ミオ。親より先に逝ってしまうなんて、最大の親不孝だからね。よく覚えておきなさい!」

 母はわたしの気持ちをわかってくれていたのだと思います。

 わたしはもう子供ではありませんでした。大きくなった子供のどうしようもない思いを癒すのは、すでに親の役目ではなくなってしまったことをわかってくれていたのだと思います。親にとってはいつまでも子供は子供なのですけれど・・・。

 ブーンという優しいプロペラの音と共にYS-11が飛行場を離陸すると、ヤマギシ君のお母さんから手渡された封筒の束を取り出しました。それらは全て未開封で、切手もなく、宛名が全部わたしになっていました。

 丁寧に封を切り、一通ずつ読んでゆきました。


 

『初めて手紙書きます。こんな手紙寄越してって、引かないでくれな。おれ、一年の時からハヤカワをずっと見てたんだ。同じクラスになれたらいいなって。ずっと思ってた。そしたら、なれた。神様ありがとうって、思った・・・』


 

『六月の体育祭の写真ができたから同封します。後ろの席なんだから、ひょいと渡しちゃえばいいんだけどさ、教室では、渡しづらくて。でも、ハヤカワばっか撮ってると思われないようにするのも大変だったんだぜ・・・』


 

『夏休みはイヤだな。早く新学期にならないかな。写真部として各部活の記録係を提案しようとしたけど、やめた。女子バレーに当たればいいけど、そうなる確率低すぎだから・・・』


 

『どうしてこんなにハヤカワが気になるんだろう。

 はっきり書くけど、怒らないでくれな。

 ハヤカワって、そんな美人じゃないし、デカいし、成績だって下から数えた方が早いし・・・。だけど、そんなお前が気になって仕方がないんだ。おれ、お前が好きなんだと思う・・・』


 

『・・・今日の新生徒会の役員の記念撮影。学校の広報に載せるやつさ。

 あれ、すげー、苦しかったよ・・・。

 お前がずっとワシオを見てたから。アイツのこと好きだったんだな、お前・・・。見りゃわかるさ。わかりすぎるぐらいに、わかっちゃった。

 苦しいよ。苦しくてたまらない・・・。おれは、道化だな・・・』


 

『弁当のこと、ごめんな。イジワルするつもりじゃなかったんだ。でも、どうしても、お前をイジめたくなっちゃう。お前がだんだん綺麗になってくのが、辛いよ・・・』


 

『ハヤカワ! お前、サイコーだ! すっげー、カッコイイ。その姿を絶対写真に収めておきたい。きっと、アイツとヤッタんだろうな。チクショー! そうでなければ、こんなにキレイでキラキラしないもんな。すげー、悔しい。そして、欲しい。お前が欲しい。お前を抱きたいよ・・・』


 

『アイツとなんかあったのか? 今日のお前、キラキラがなかった。一応、サオトメってやつのも撮ったけど、今日の写真はダメだな。あまり来るものがなかった。皮肉過ぎるよ。だって、お前が一番キラキラしてるのは、ワシオと上手くいってる時なんだから。今ならお前に告白するチャンスかもしれないけど、やめとく。そういうのは、フェアじゃないから・・・』


 

『ワシオがいなくなってから、お前のキラキラが消えた。そういうお前はつまらない。おれがキラキラのお前に戻してやりたいって思うんだけど、きっとダメなんだろうな。もういつもの夫婦漫才にも乗ってこなくなったな。ちくしょう! ワシオのやつ! おれのハヤカワをこんなにしやがって! 勝手に黙って消えやがって! ぶっ殺してやる! 』


 

『びっくりした。お前があんな大学に行っちゃうなんて。おれにはもう手の届かないところに行っちゃうんだな。寂しいな。おれがもっと有名になったら振り向いてくれるんかな。一流の写真家になって、写真集とかもバンバン出して・・・。

 そうすれば、お前は、おれのことを振り向いてくれるのかな・・・』


 

 わたしは知りました。ヤマギシ君こそ、わたしなんかの手の届かないところへ行ってしまったのだと。

 恋は、時に残酷なものです。


 


 

 羽田に着くとマスターの店に直行しました。

「いら・・・しゃいませって、おい、お前、どうした?」

 カバンからサケを咥えたクマの置物とイクラのしょうゆ漬けとルイベとクッキーを取り出してカウンターにバンと投げ出しました。そのうち生ものはすぐに冷蔵庫行きになりクッキーの缶が開かれてカウンターにいたお客さんたちにおすそ分けになりました。

「・・・コーヒーちょうだい!」

「お前、なんか、怖わ・・・」

 目の前に出されたコーヒーが冷めてもまだ、わたしは茶色い液体の表面に映る自分の顔を見つめていました。お通夜のとき。彼のお母さんから訊かれたことがずっと気にかかっていたのです。


 

「こんなことを訊いて申し訳ないとは思うのだけれど、あなたはあの子と、洋一とどういう関係だったのかしら・・・。恋人として、男と女の関係だったのかしら・・・」

 お母さんが彼の、ヤマギシ君の部屋にわたしを誘ったのは、それが訊きたかったからだと知りました。

 もしその時ウソを吐いてあげれば、少しはお母さんの心も安ませてあげられたのかもしれません。ちゃんと女の子と付き合い、恋愛もして、したいことをして、亡くなったのだと。息子の人生はそれなりに意味のあるものだったのだと、子を持つ親ならそうやって自分を納得させたいと思うでしょう。

 でも、わたしは、自身散々遊んでおきながら、後々のことを考えてしまっていました。

 もしその時吐かなくてもいいウソを吐けば、後で無用なことに巻き込まれて困ることになるのではないか。ここは正直なところを話した方がいいのではないか・・・。

 わたしは自己保身に走ったのです。全てが急に怖くなってしまったのです。

 もしかすると、わたしが『普通の人を撮った方がいいよ』なんてことを言わなければ、彼を唆さなければ、ヤマギシ君は死なずに済んだのでは・・・。そう思ってしまったのです。

「ヤマギシ君とは高校時代、仲のいい友達でした。東京で偶然に再会しましたが、一人の男性としてお付き合いしたことはありませんでした・・・」

 お母さんの肩からすうっと力が抜けてゆくのがわかりました。

「・・・そう・・・」

 お母さんはそう呟くと、彼方のほうを見上げました。


 

 東京に帰ってもまだ、彼のお母さんの絶望したような表情が頭に焼き付いて離れなくなっていたのです。

 一台のカメラを取り出し、カウンターの上に載せました。

「何だ、それ」

「同級生の、遺品」

「遺品?」

 カメラにはまだ泥がついていて、心なしかレンズが曲がっているように見えました。ちょうどレッド・ツェッペリンさんがいつものカウンターの隅にいて、どれどれというように席を移ってきてました。

「お葬式に行って来たんだよ。高校時代の同級生の。彼、写真撮りに行って、死んじゃったの」

「はあ?・・・。なんだってまた・・・」

「地雷踏んじゃったんだって。一人で歩いちゃいけない、あそこに行っちゃいけないって、そういうところにわざわざ一人で行って、それで踏んじゃって、死んじゃった・・・。

 あっけなさ過ぎてさ、なんだか・・・」

 カギを貰って先に部屋に行きました。

 マスターが帰って来るまで、部屋の明かりも点けずにじっとテーブルに座っていました。実家には友達の家に泊まっているとウソを吐きました。自分の都合なら簡単にウソを吐くのに。自分は穢れているからといって彼に手を差し伸べもしなかったくせに。彼のお母さんの心を救うウソが、吐けなかったのです。

 不思議なもので、彼の訃報に接してもお通夜に出ても、彼の手紙を読んでも泣けなかったのに、その晩部屋に戻ったマスターの顔を見て、昨日今日と何故か出なかった涙が急に溢れるように出て来たのです。

「うわ~ん!・・・」

 マスターは何も言わずに一晩中抱きしめて頭を撫でてくれました。その晩から年が明けるまで、わたしはずっとマスターの部屋に籠っていました。

「・・・この、ウソツキ娘が。その同級生、お前の男だったんじゃねえかよ」

 マスターの太鼓腹に寄り添い、彼の鼓動を感じていました。

「だって・・・」

「ま、死んじまっちゃしょうがねえやな。おっぽりだして後でも追われると面倒だしな」

 彼はレコードをかけに行って冷たい身体でベッドに戻ってきました。


 

 心の中がざわついて少し変なんだ。

 不器用だから、すぐにバレちゃうんだよな・・・

 これじゃ足りないかもしれないけど・・・。

 だけど、今の僕にできることは歌うことぐらいなんだ。

 だからこの歌を君に贈る・・・


 

 彼はわたしの額にかかった髪をすき、おでこにキスをしてくれました。

「人が死ぬ。すると誰もがそれに何かの意味をつけようとする。死んだ人間はもう何も言わないから。誰でも勝手に意味をつけることができる。意味をつけて、納得しようとする。だけど、本当のことは、死んだ人間にしかわからない。他人には、わからない。

 そんなの薄情たというヤツがいるかも知らん。だけど、わからんもんは、わからん。

 無理に意味をつけようとするな。無理して意味を見出そうとするより、ありのまま、そのままを覚えておけば、いつか自然にわかる日が来るかも知らん。来ないかもしらん。

 でも、お前がありのままのソイツのことを憶えている限り、ソイツはずっとお前の中で生き続ける。

 それで、いいじゃねえか・・・」

「どうして? ・・・どうしてマスターはそんなに優しいの?」

 フフン。

 マスターは笑って答えませんでした。そしてわたしのお尻をいつまでも撫でていました。

「きっと、人生の最後の最後に、何かとてつもなく美しい素晴らしいものを見たんだろうな。そこが地雷原だってことを忘れさせるような・・・」

   カメラの中のフィルムは全部感光してしまっていたそうです。だから、ヤマキシ君が最後に何を見たのかは彼にしかわからないことでした。


 それから卒業するまで、わたしはもうマスター以外の男と寝ることはありませんでした。他の男などまったく興味持てませんでしたし、眼中にありませんでした。


 

 最後の舞台となった四年生の春のリーグ戦ではやはり勝ち越しはしたものの、Dランクの壁を破ることはできませんでした。

 人伝に聞いたり、大学のホームページを見る限りでは、そのころが頂点だったらしく、今ではまたわたしたちの最初のころのように最下位リーグでお茶を濁して活動しているらしいです。ですが、それで楽しいのなら、それでいいのです。人はそれぞれですから。


 

 あいにくの就職難で、今でいう「就活」は困難を極めましたが、希望通りではないにしてもなんとか就職先も決まりました。

 そしてやはりその日はやって来ました。マスターからも卒業する日です。

 四年間お世話になった女子寮のおばちゃんズにも丁重にお礼を言いましたが、さすがにマスターにはすんなりとは行きませんでした。その日が近づくにつれて、それを口に出そうかどうしようか、どんどん悩みが深くなっていったのです。

「どうしても別れなきゃダメ? ずっと一緒にいちゃダメなの? どうしても、ダメなの・・・?」

 いつの日かマスターと別れる日が来るのはわかっていました。最初からの約束だったからです。でも、それまで一緒に過ごした日々が、もしかしたらそれを変えてくれるんじゃないかと密かに期待をしていたのです。

 でも、結局、それは叶いませんでした。

「今までありがと、マスター・・・」

 やっとの思いで、それだけは、言えました。

「礼を言われる筋じゃあ、ねえよ」

 と、彼は言いました。少しは涙ぐんだりしてくれるかと思ったのですが、マスターはやっぱり、いつものマスターでした。

「お前が今までで一番長かったな。四年間まるごとなんてよォ・・・。明日からは店に来ても金は貰うからな」


 

 そのことに気づいたのは、彼と別れて一人になってからでした。

 わたしはマスターにいろんなものを貰いました。タダのコーヒー、タダのモーニングとランチ、タダのビール、極上のセックス、辛いときや悲しいときにはいつも傍にいてくれた。そして、なによりも、とても大きな、安らぎをくれました。

 それで気づいたのです。

 わたしは彼から貰うばかりでした。でもわたしは、彼が必要としているものを何かあげられたのだろうか、と。

 わたしは彼に何をあげただろう、と。

 マスターは、わたしに何も、ただの一つも、求めませんでした。

 それが答えだったのです。

 彼が本当に必要としていたものはあまりに重く、わたしには、それを与えることができなかったのです。

 やっとそれに気づいた時には、わたしにとってすでに彼は「過去の男」になっていました。

「わたし、少しはいい女になったかなあ・・・」

「ふふふ・・・。もっともっと、いい女になれ。じゃあ、達者でな」

 マスターとはそんな風にカラっと別れました。

 結局彼の口からは聞けませんでしたが、マスターが本当に求めていたものをあげられたのは、たぶん彼が学生運動をしていた頃の彼女と、あと、もう一人、だけだったのでしょう。


 

 それから二十年以上の時が過ぎました。

 ある日突然ヤマダさんから電話がありました。彼女とは毎年年賀状をやり取りする仲でしたが、あのいつもクールでポジティヴだったヤマダさんが、バリバリの女性キャリアとして霞が関の課長だか次長だかに出世しようとしていた人が、電話の向こうで取り乱していたのでびっくりしました。

「タクヤが・・・、タクヤが・・・」

 ちょうど世紀末とかミレニアムとかで世の中がザワザワしていた時でした。

 とるものもとりあえず、当時長女は大学生をしていて家に居なかったので、高校生だった次女とおじいちゃんにまだ小学生の下二人を預けて東京に向かいました。

 広尾の病院に着いた時には、すでに彼は旅立ったあとでした。

「ミオが来るよって言ったんだけどね。なんどもなんどももう少しで来るよガンバッテって言ったんだけどね。アイツによろしくなって・・・。あああん! ミオ~! タクヤ、死んじゃったあああああああああああん~っ!」

 すっぴんの目を真っ赤に腫らして、エッ、エッ、としゃくりあげ、なかなか泣き止まない彼女を宥めるのにとても苦労しました。彼女がようやく落ち着きを取り戻してそれまでの経緯を話してくれたのは、彼が霊安室に安置されてからのことでした。お線香の香りの中で、わたしはそれを聞きました。

 その四五年ほど前から、マスターが体調を崩して彼女と同居していたのを、です。店も畳み、ほとんど寝たきりになってしまい、晩年はヤマダさんがなにくれとなく世話をし、夫婦同然に過ごしていたと。

「ミオには絶対言うなって。幸せに暮らしてるヤツには言っちゃいけないって。だから、言えなかったの。・・・ごめんね」

 彼の親族はもうかなり遠縁の人しかいませんでした。

 ヤマダさんとわたしだけで見送り、青山のお墓に埋葬しました。闘病生活が長かったせいで、彼の骨はスカスカでした。骨壺の中も余裕があったので、時々お墓に降りて来て一服できるように、彼の好きだった缶入りのタバコを入れてあげたのを思い出します。缶入りだから、ヤマダさんやわたしがあの世に行ってもしばらくの間はまだ十分に、あの懐かしいフレーバーを保ってくれることでしょう。
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