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第十二話『人を捨てる』
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魔女の館の地下室、赤黒い光が灯るランタンのもとで、私はニールと向かい合っていた。棚には瓶詰めの奇怪な素材がずらりと並び、血が染みついたまな板の上には何かの臓器が乗っている。空気は薬草と鉄錆の匂いに満ちていたが、もう私はこの臭いにも慣れてしまっていた。
「なあ、セリーヌ」
つぎはぎの使い魔──ニールが壁に凭れたまま口を開いた。
「一番、魔力を上げる手っ取り早い方法って、なんだと思う?」
「え? ……誰かの真似をするとか?」
私は首を傾げながら答えた。ヴァルセリアのように動く、話す、振る舞う。私の魔女としての模倣は、そこから始まっていた。
だが、ニールは苦笑いを浮かべて、ゆるく首を振る。
「まあ、それも基本中の基本だな。でも、真似るだけじゃ根本的に力は身につかない。魔力ってのは、もっと本能的で、もっと……胃袋にくるものなんだよ」
「……胃袋?」
思わず聞き返した私に、ニールはにやりと笑って、顎で隅の木箱を指し示した。開かれた箱の中には、干からびた肉のようなものが、いくつか並べられていた。
「そう。食事さ。魔力を増幅させるには、魔女にふさわしい“食材”を摂取するのが一番手っ取り早いんだ」
私は唾を飲み込んだ。
「たとえば……どんなの?」
「うちのご主人様──ヴァルセリア様が特に好むのは、こんな感じさ」
ニールは指を一本立てて、朗々と語り始めた。
「まずは『未完の夢を見た脳』。生前に何かを成し遂げられずに死んだ者の脳を干し肉みたいに乾燥させたやつだ。夢の残り香が、魔女にとっては極上の香辛料になる。ご主人様は、銀の皿に盛って、まるでトリュフみたいに舌で転がして味わうんだよ」
「……気持ち悪い……けど、なんか……すごい」
私はぞくりと背筋を走る感覚を覚えながら呟いた。嫌悪よりも、なぜか興味が勝っていた。
「次は『後悔で濁った涙酒』。極限の後悔に沈んだ者の涙を一滴ずつ集めて、長年発酵させると、黒い酒になる。これを一口飲むと、未来が歪んで見えるらしい。ご主人様は、儀式の前に必ずそれを一口飲んで、口元に血のような笑みを浮かべるんだ」
「未来が……歪む……」
私は思わず目を細めた。その世界を、一度見てみたいと思ってしまった自分が、怖かった。
「三つ目は『生きた心臓のタルト』。裏切られて絶望した者の心臓を、魔術で鼓動したままタルト状に仕上げる。心が砕ける瞬間のエネルギーってのが、魔力増幅の主成分になるんだ。ご主人様は、ナイフを入れるときに指で“最後の鼓動”を感じながら切り分けるのが好きなんだとさ」
「……ゾッとする。でも、なんだろ……少し、憧れてる自分がいる」
私の声は震えていた。でも、それは恐怖だけの震えじゃなかった。
「まだまだあるよ」
ニールはさらに指を立てた。
「『罪を抱いた赤子の乳歯』。これは、過去に罪を犯した者の子供から抜け落ちた乳歯を粉末にして、紅茶やスープに混ぜて摂る。因果の血筋ってのは、呪詛の媒体として極上なんだ」
「そんなものまで……」
「ご主人様は紅茶に混ぜて『未来を腐らせる味ね』って、満足そうに笑ってたよ」
ぞわりと、私の背筋に得体の知れない熱が走る。
「最後に、『偽りの誓約書の灰』。これは嘘の契約書を燃やしてできた灰を、料理の調味料として使う。嘘や裏切りってのは、魔女にとって甘美な栄養なんだ」
ニールは空中で指をひらひらとさせながら言った。
「『真実だけじゃ世の中退屈でしょ?』ってのが、ご主人様の口癖さ」
私はしばらく黙っていた。
どれもこれも、常識から外れていて、狂気じみていて……なのに、心のどこかが、それを求めている。そんな感覚があった。
「……私に、できると思う?」
「できるさ、セリーヌ。お前の中には、もうその種がある。あとは何を食べて咲かせるか……それだけだ」
ニールの声は、ひどく優しくて、そして確信に満ちていた。
私はそっと魔術書を開いた。
ページの隅には、かすれた血文字でこう書かれていた。
──真似ることは、始まりにすぎない。食らえ、そして変われ。
私は微笑んだ。
「……とりあえず、ヴァルセリアの真似をするところから、始めてみようか」
その言葉と同時に、部屋の空気がわずかに震えた。
私の中に、何かが確かに芽吹いていた。
その日から、私はヴァルセリアの一挙手一投足を観察するようになった。
扉の開け方、指先の動かし方、魔術の詠唱、紅茶の注ぎ方に至るまで——そのすべてが、私にとって魔女への道標だった。
分からないことは素直に聞いた。ヴァルセリアが答えてくれることは稀だったが、隣に控えるニールに訊けば、たいていのことは教えてくれた。
ニールは不思議な存在だった。魔女の使い魔として生きてきた年月の分だけ、あのつぎはぎの身体に詰まっている知識も深く、そして妙に人間臭いところもあった。
ただ、魔女の“ごちそう”は、そうそう手に入るものではないらしい。
食卓に並ぶことは稀で、私がそれらの食材を集める機会は一度もなかった。
食材の調達は、すべてニールの役目だった。
そして、ヴァルセリアはときどき、自分の手でどこかから好物を持ち帰ってきていた。
それがいつ、どこで、どうやって手に入れたものかは聞いても教えてもらえない。だが彼女はいつも、満たされたように目を細め、舌先で濃密な味を転がしながら、陶然とした表情を浮かべていた。
あの顔を見るたびに、私はゾクリと背筋が冷える思いをした。
けれど同時に、なぜか羨ましさもあった。魔女だけが知っている世界が、そこには確かにあった。
私はというと——そういった特別なごちそうに預かることはなく、いつもニールと一緒に食事をしていた。
……といっても、ニールの食べているものを分けてもらう形だったけれど。
その日の夕餉もそうだった。薄暗いランタンの灯る厨房で、ニールが手際よく木皿に何かを盛っていた。
「セリーヌ、今日はこれ。あつあつのうちに食べると、効きがいい」
差し出された皿には、黒くて粘り気のあるペースト状の塊が山盛りになっていた。見た目は、正直……泥か、焦げた土のようだった。
「……これ、食べてもいいの?」
恐る恐る尋ねると、ニールは無表情で頷いた。
「食べないと生きていけないよ、セリーヌ。味は悪くない。ご主人様の“美食”に比べたら、ずっとマシさ」
言われるままに、私は木のスプーンで一口をすくって、口に入れた。
「……あれ? 意外と、悪くない」
苦味と旨味、どこか香ばしい香りが鼻を抜ける。舌の奥に広がるコクは、むしろクセになるほどだった。
空腹だったせいもあり、私は夢中でスプーンを運んだ。
けれど、ふと気になって聞いてしまった。
「ねえ……これって、なに?」
ニールはスプーンを止めることなく、淡々とした口調で答えた。
「ムカデを潰したものだよ」
その瞬間、私は盛大にむせた。
「む、ムカデって……!?」
「ただのムカデじゃない。いろんなゲテモノを箱に詰めて、生き残ったものだけを素材にするんだ。生存競争を勝ち抜いた分、そいつの生命力や怨念が濃くなって、魔力を育てるには最適なんだよ」
私はスプーンを握ったまま、しばし硬直した。
胃の奥で何かがぐるりとひっくり返る。喉の奥までこみ上げてくる何かを、私は必死に飲み込んだ。
……けれど、スプーンを置くことはできなかった。
一口食べるごとに、体の奥底に何かが沈んでいく。
それは、熱くて、重くて、どこか黒く蠢いていた。
それが魔力なのか、呪いなのか、それとも別の何かなのか——私にはまだ、分からない。
でも確かに、何かが私の中に宿りはじめていた。
吐き気と引き換えに得られるその“何か”を、私はもう手放せなくなっていた。
日々、私はニールの分けてくれる奇怪な食事を摂りながら、生きながらえていた。
乾いた舌に、黒いペーストや血の匂いのする液体、時に歯ごたえすら不明なゼラチン質の塊を流し込む。最初は嫌悪感しかなかったその行為も、今では身体が自然と受け入れていた。むしろ、口に入れないと不安になる。
ヴァルセリアが言っていた、「人を捨てる」という言葉。
それが何を意味するのか、最近ようやく分かり始めていた。私の中にある、あの頃の"人間らしさ"が、日に日に溶けていく。飢えも、恐怖も、倫理も、だんだんと遠い場所に押しやられていく。
ある日の夜、私は小さな焚き火の前でニールと並んで座っていた。彼の顔は相変わらず、つぎはぎの縫い目が痛々しいが、不思議と温かさを感じる。
焚き火の明かりが跳ねるなか、私は思わず問いかけていた。
「ねえ、ニール。どうして……あなたは私に、こんなにもよくしてくれるの?」
自分でも気づかないうちに出た言葉だった。罪悪感と混乱の中で、自分を縛る何かから解き放たれたくて、誰かに理由を求めていたのかもしれない。
ニールは静かに焚き火の揺らめきを見つめながら、ひとつ息をついた。
「簡単なことさ。セリーヌと俺は……兄弟だからだよ」
「え……?」
私は思わず彼の顔を見つめた。縫い合わされた顔の中に浮かんだのは、いつもの皮肉めいた笑みではなかった。どこか悲しげで、優しい光が宿っていた。
「覚えてるかい? 魔女の“試練”のとき……セリーヌ、君は俺と一緒に箱の中で、最後に残った“あいつ”を食べただろう」
その言葉に、背筋が凍りついた。
あの夜のことが、脳裏に蘇る。閉ざされた部屋。視界の効かない闇。嗅覚と聴覚だけが研ぎ澄まされる空間。身体を這う何か。飢えと、恐怖。そして、喰らった。
飢えに追い詰められ、理性を喪った私は、“何か”をむさぼった。
「“あいつ”は、俺の弟だったんだよ。生まれたばかりで、名もないまま……村を襲われたとき、死んだんだ」
「……村?」
「ああ。俺も“あいつ”も、元は人間だった。子供のころ、戦争で村を焼かれて……その時に“あいつ”は死んだ。俺は死にきれずに、ヴァルセリアに拾われて、こんな姿になったのさ」
言葉が出なかった。喉の奥が焼けるような感覚。胃の底が、きゅうと縮む。
「その血肉は、俺とセリーヌの中に混じってる。あのときから、君も俺と同じ“こちら側”の存在さ」
焚き火がぱちぱちと音を立てる。その音が、妙に遠く聞こえた。
私は——もう、人間じゃなかった。
人を捨てるとは、こういうことなのかもしれない。
それでも、私は生きている。そして生き延びたい。復讐を遂げたい。そのために、何を捨てればいいのか、何を受け入れなければならないのか——ようやく理解し始めていた。
静かに肩を震わせながら、それでも私は焚き火の炎を見つめた。
その先にある未来に、手を伸ばすために。
「……ありがとう、ニール」
私が呟くと、ニールは何も言わずに、枝を火にくべながら微笑んだ。その笑顔は、どこか哀しみに満ちていたが、不思議とあたたかかった。
「なあ、セリーヌ」
つぎはぎの使い魔──ニールが壁に凭れたまま口を開いた。
「一番、魔力を上げる手っ取り早い方法って、なんだと思う?」
「え? ……誰かの真似をするとか?」
私は首を傾げながら答えた。ヴァルセリアのように動く、話す、振る舞う。私の魔女としての模倣は、そこから始まっていた。
だが、ニールは苦笑いを浮かべて、ゆるく首を振る。
「まあ、それも基本中の基本だな。でも、真似るだけじゃ根本的に力は身につかない。魔力ってのは、もっと本能的で、もっと……胃袋にくるものなんだよ」
「……胃袋?」
思わず聞き返した私に、ニールはにやりと笑って、顎で隅の木箱を指し示した。開かれた箱の中には、干からびた肉のようなものが、いくつか並べられていた。
「そう。食事さ。魔力を増幅させるには、魔女にふさわしい“食材”を摂取するのが一番手っ取り早いんだ」
私は唾を飲み込んだ。
「たとえば……どんなの?」
「うちのご主人様──ヴァルセリア様が特に好むのは、こんな感じさ」
ニールは指を一本立てて、朗々と語り始めた。
「まずは『未完の夢を見た脳』。生前に何かを成し遂げられずに死んだ者の脳を干し肉みたいに乾燥させたやつだ。夢の残り香が、魔女にとっては極上の香辛料になる。ご主人様は、銀の皿に盛って、まるでトリュフみたいに舌で転がして味わうんだよ」
「……気持ち悪い……けど、なんか……すごい」
私はぞくりと背筋を走る感覚を覚えながら呟いた。嫌悪よりも、なぜか興味が勝っていた。
「次は『後悔で濁った涙酒』。極限の後悔に沈んだ者の涙を一滴ずつ集めて、長年発酵させると、黒い酒になる。これを一口飲むと、未来が歪んで見えるらしい。ご主人様は、儀式の前に必ずそれを一口飲んで、口元に血のような笑みを浮かべるんだ」
「未来が……歪む……」
私は思わず目を細めた。その世界を、一度見てみたいと思ってしまった自分が、怖かった。
「三つ目は『生きた心臓のタルト』。裏切られて絶望した者の心臓を、魔術で鼓動したままタルト状に仕上げる。心が砕ける瞬間のエネルギーってのが、魔力増幅の主成分になるんだ。ご主人様は、ナイフを入れるときに指で“最後の鼓動”を感じながら切り分けるのが好きなんだとさ」
「……ゾッとする。でも、なんだろ……少し、憧れてる自分がいる」
私の声は震えていた。でも、それは恐怖だけの震えじゃなかった。
「まだまだあるよ」
ニールはさらに指を立てた。
「『罪を抱いた赤子の乳歯』。これは、過去に罪を犯した者の子供から抜け落ちた乳歯を粉末にして、紅茶やスープに混ぜて摂る。因果の血筋ってのは、呪詛の媒体として極上なんだ」
「そんなものまで……」
「ご主人様は紅茶に混ぜて『未来を腐らせる味ね』って、満足そうに笑ってたよ」
ぞわりと、私の背筋に得体の知れない熱が走る。
「最後に、『偽りの誓約書の灰』。これは嘘の契約書を燃やしてできた灰を、料理の調味料として使う。嘘や裏切りってのは、魔女にとって甘美な栄養なんだ」
ニールは空中で指をひらひらとさせながら言った。
「『真実だけじゃ世の中退屈でしょ?』ってのが、ご主人様の口癖さ」
私はしばらく黙っていた。
どれもこれも、常識から外れていて、狂気じみていて……なのに、心のどこかが、それを求めている。そんな感覚があった。
「……私に、できると思う?」
「できるさ、セリーヌ。お前の中には、もうその種がある。あとは何を食べて咲かせるか……それだけだ」
ニールの声は、ひどく優しくて、そして確信に満ちていた。
私はそっと魔術書を開いた。
ページの隅には、かすれた血文字でこう書かれていた。
──真似ることは、始まりにすぎない。食らえ、そして変われ。
私は微笑んだ。
「……とりあえず、ヴァルセリアの真似をするところから、始めてみようか」
その言葉と同時に、部屋の空気がわずかに震えた。
私の中に、何かが確かに芽吹いていた。
その日から、私はヴァルセリアの一挙手一投足を観察するようになった。
扉の開け方、指先の動かし方、魔術の詠唱、紅茶の注ぎ方に至るまで——そのすべてが、私にとって魔女への道標だった。
分からないことは素直に聞いた。ヴァルセリアが答えてくれることは稀だったが、隣に控えるニールに訊けば、たいていのことは教えてくれた。
ニールは不思議な存在だった。魔女の使い魔として生きてきた年月の分だけ、あのつぎはぎの身体に詰まっている知識も深く、そして妙に人間臭いところもあった。
ただ、魔女の“ごちそう”は、そうそう手に入るものではないらしい。
食卓に並ぶことは稀で、私がそれらの食材を集める機会は一度もなかった。
食材の調達は、すべてニールの役目だった。
そして、ヴァルセリアはときどき、自分の手でどこかから好物を持ち帰ってきていた。
それがいつ、どこで、どうやって手に入れたものかは聞いても教えてもらえない。だが彼女はいつも、満たされたように目を細め、舌先で濃密な味を転がしながら、陶然とした表情を浮かべていた。
あの顔を見るたびに、私はゾクリと背筋が冷える思いをした。
けれど同時に、なぜか羨ましさもあった。魔女だけが知っている世界が、そこには確かにあった。
私はというと——そういった特別なごちそうに預かることはなく、いつもニールと一緒に食事をしていた。
……といっても、ニールの食べているものを分けてもらう形だったけれど。
その日の夕餉もそうだった。薄暗いランタンの灯る厨房で、ニールが手際よく木皿に何かを盛っていた。
「セリーヌ、今日はこれ。あつあつのうちに食べると、効きがいい」
差し出された皿には、黒くて粘り気のあるペースト状の塊が山盛りになっていた。見た目は、正直……泥か、焦げた土のようだった。
「……これ、食べてもいいの?」
恐る恐る尋ねると、ニールは無表情で頷いた。
「食べないと生きていけないよ、セリーヌ。味は悪くない。ご主人様の“美食”に比べたら、ずっとマシさ」
言われるままに、私は木のスプーンで一口をすくって、口に入れた。
「……あれ? 意外と、悪くない」
苦味と旨味、どこか香ばしい香りが鼻を抜ける。舌の奥に広がるコクは、むしろクセになるほどだった。
空腹だったせいもあり、私は夢中でスプーンを運んだ。
けれど、ふと気になって聞いてしまった。
「ねえ……これって、なに?」
ニールはスプーンを止めることなく、淡々とした口調で答えた。
「ムカデを潰したものだよ」
その瞬間、私は盛大にむせた。
「む、ムカデって……!?」
「ただのムカデじゃない。いろんなゲテモノを箱に詰めて、生き残ったものだけを素材にするんだ。生存競争を勝ち抜いた分、そいつの生命力や怨念が濃くなって、魔力を育てるには最適なんだよ」
私はスプーンを握ったまま、しばし硬直した。
胃の奥で何かがぐるりとひっくり返る。喉の奥までこみ上げてくる何かを、私は必死に飲み込んだ。
……けれど、スプーンを置くことはできなかった。
一口食べるごとに、体の奥底に何かが沈んでいく。
それは、熱くて、重くて、どこか黒く蠢いていた。
それが魔力なのか、呪いなのか、それとも別の何かなのか——私にはまだ、分からない。
でも確かに、何かが私の中に宿りはじめていた。
吐き気と引き換えに得られるその“何か”を、私はもう手放せなくなっていた。
日々、私はニールの分けてくれる奇怪な食事を摂りながら、生きながらえていた。
乾いた舌に、黒いペーストや血の匂いのする液体、時に歯ごたえすら不明なゼラチン質の塊を流し込む。最初は嫌悪感しかなかったその行為も、今では身体が自然と受け入れていた。むしろ、口に入れないと不安になる。
ヴァルセリアが言っていた、「人を捨てる」という言葉。
それが何を意味するのか、最近ようやく分かり始めていた。私の中にある、あの頃の"人間らしさ"が、日に日に溶けていく。飢えも、恐怖も、倫理も、だんだんと遠い場所に押しやられていく。
ある日の夜、私は小さな焚き火の前でニールと並んで座っていた。彼の顔は相変わらず、つぎはぎの縫い目が痛々しいが、不思議と温かさを感じる。
焚き火の明かりが跳ねるなか、私は思わず問いかけていた。
「ねえ、ニール。どうして……あなたは私に、こんなにもよくしてくれるの?」
自分でも気づかないうちに出た言葉だった。罪悪感と混乱の中で、自分を縛る何かから解き放たれたくて、誰かに理由を求めていたのかもしれない。
ニールは静かに焚き火の揺らめきを見つめながら、ひとつ息をついた。
「簡単なことさ。セリーヌと俺は……兄弟だからだよ」
「え……?」
私は思わず彼の顔を見つめた。縫い合わされた顔の中に浮かんだのは、いつもの皮肉めいた笑みではなかった。どこか悲しげで、優しい光が宿っていた。
「覚えてるかい? 魔女の“試練”のとき……セリーヌ、君は俺と一緒に箱の中で、最後に残った“あいつ”を食べただろう」
その言葉に、背筋が凍りついた。
あの夜のことが、脳裏に蘇る。閉ざされた部屋。視界の効かない闇。嗅覚と聴覚だけが研ぎ澄まされる空間。身体を這う何か。飢えと、恐怖。そして、喰らった。
飢えに追い詰められ、理性を喪った私は、“何か”をむさぼった。
「“あいつ”は、俺の弟だったんだよ。生まれたばかりで、名もないまま……村を襲われたとき、死んだんだ」
「……村?」
「ああ。俺も“あいつ”も、元は人間だった。子供のころ、戦争で村を焼かれて……その時に“あいつ”は死んだ。俺は死にきれずに、ヴァルセリアに拾われて、こんな姿になったのさ」
言葉が出なかった。喉の奥が焼けるような感覚。胃の底が、きゅうと縮む。
「その血肉は、俺とセリーヌの中に混じってる。あのときから、君も俺と同じ“こちら側”の存在さ」
焚き火がぱちぱちと音を立てる。その音が、妙に遠く聞こえた。
私は——もう、人間じゃなかった。
人を捨てるとは、こういうことなのかもしれない。
それでも、私は生きている。そして生き延びたい。復讐を遂げたい。そのために、何を捨てればいいのか、何を受け入れなければならないのか——ようやく理解し始めていた。
静かに肩を震わせながら、それでも私は焚き火の炎を見つめた。
その先にある未来に、手を伸ばすために。
「……ありがとう、ニール」
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