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第二十三話『森の魔女、再び。PART1』
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窓から差し込む光は淡く、朝の冷気がまだ部屋に残っていた。机上の暦に指を滑らせ、婚姻出立まで残り三日であることを改めて確認する。胸の奥で、微かな高揚と緊張が入り混じる。――今なら、行ける。
女官たちの動きや王の呼び出しの間隔を頭の中で組み立てる。王は「準備をしなさい」とだけ言った。この三日間、口を封じてしまえば城を抜けても気づかれはしない。
私はゆっくりと左眼ネクロサイトを開いた。淡い光が視界を染め、廊下に控える女官たちの意識へと滑り込む。「王女は自室で嫁入り準備中」――その幻惑を深く刻み込む。女官たちは微笑み合い、何の疑念もなく持ち場へ戻っていった。
扉の前で直立するゴリアテの前に立つ。
「何者も近づけるな」
低く短い命令に、巨躯の戦士は黙って頷く。鎧が小さく鳴り、廊下全体に圧迫感が広がった。その姿は城の防壁そのもののようだった。
背後から、柔らかな足音とともに声が降ってくる。
「ご主人様、森に行くなら私も行きますよ」
振り返れば、黒猫の姿をしたニールが尾をゆっくり揺らし、金色の瞳を愉快そうに細めている。
「ヴァルセリア様、相変わらず深い話をしてくださるでしょうから。それに、あの森の空気はご主人様にも良い影響を与えると思います。最近はずっと城暮らしでしたからね」
「お前も、あの森が恋しいのか?」
「ええ、もちろんです。それに……ご主人様がどんな話を持ち帰るのか、興味があります。きっと、また私の知らない面白いことを知ってくるでしょう」
「お前は情報屋みたいだな」
「誉め言葉として受け取っておきます」
私は口元をわずかに緩め、視線を合わせた。あの魔女に会えば、知りたいことが山ほどある――そして、手に入れたいものも。
馬車の車輪が王都の石畳を離れた瞬間、硬質な響きが途切れ、代わって土を踏みしめる鈍い低音が耳に響いた。背後に遠ざかる喧騒は、風が草原を撫でるざわめきと、時折きしむ轍の音に溶けていく。御者台には、私の左眼ネクロサイトで操られた従者が無表情のまま座り、手綱を正確に操っていた。窓の外には整然と並んだ畑や、煙を上げる農家の屋根が広がっていたが、それもやがて途切れ、野花や背の高い雑草が風に揺れる荒れ地へと変わっていった。
昼を過ぎた頃、ふいに空気が変わった。頬をかすめる風に湿り気が混じり、土の匂いが一層濃く、重くなる。遠くの地平にぼんやりと影を落とす森が見え始め、その輪郭は空と地の境を曖昧に溶かしていた。森の手前には薄い霧が帯のように漂っている。
「……霧が出てきましたね」
使い魔の姿に戻ったニールが、継ぎ接ぎだらけの指で窓辺を軽く叩きながら外を覗く。金色の瞳が霧の向こうに潜む何かを探っていた。
「森が近い証拠だわ」
そう返すと、ニールは片方の口角を上げて笑った。
「ご主人様、婚姻相手の第一王子殿下って、どんな方なんでしょう? 私も存じませんし……ですが、隣国の情勢なら少し調べてありますよ」
「ほう……聞かせてちょうだい」
「隣国ヴァルデンシュタインは現国王が老齢で、政権の実権はほぼ第一王子殿下の派閥が握っています。派閥には軍務卿と財務卿がついていて、敵に回せば補給線も財布も締め上げられる。民の支持は厚いですが、反対派も根強く、暗殺未遂も過去に三度……」
「ずいぶん物騒ね」
「ええ。ただ、彼は冷徹というより合理的な方らしい。不要な争いは避けるが、必要とあれば迷いなく切り捨てる、と」
森が近づくにつれ、鳥のさえずりが途絶え、耳に残るのは私たちの移動音だけになった。風は低く渦を巻き、木々の影が視界の端で形を変える。枝葉が揺れるたびに、人影のような輪郭が一瞬現れては消える。
「……やっぱり、この森は相変わらず歓迎が厳しいですね」
「歓迎、か……そうならいいけれど」
ニールは意味深に笑い、霧の向こうの森をじっと見据えていた。その瞳には、湿った匂いと異界の気配が揺らめいていた。
森の奥へ進むほど、霧は濃さを増し、足元の湿った土が靴底にまとわりつく。木々はねじれた枝を絡ませ、まるで侵入者を拒むように道を狭めていく。やがて、木漏れ日すら届かない暗がりの中、異様な色彩が目に飛び込んできた。
黒々とした蔓が地面から這い上がり、壁のように絡み合っている。その合間から覗くのは、血のように濃い紅色の花々。花弁はまるで生きているかのように微かに震え、甘くもどこか鉄臭い香りを漂わせていた。
「……着いたわね」
私が呟くと、隣のニールが金色の瞳を細める。
「ええ。ヴァルセリア様は、もうこちらに来られる頃合いでしょう」
蔓の壁に近づいた瞬間、それはまるで意思を持つ生き物のようにゆっくりとほどけ、私たちのためだけに狭い通路を作った。湿った空気が流れ込み、奥に佇む小屋が姿を現す。
小屋は黒い木材と苔に覆われ、屋根からは更に蔓が垂れ下がっていた。窓は小さく、そこから漏れる橙色の光が霧の中でぼんやりと揺れている。その扉が静かに開き、影の中から細身の女性が現れた。
漆黒の髪が霧に溶けるように揺れ、唇にはわずかな笑み。紅玉のような瞳が私を見据える。
「よく来たね、私の可愛い見習い魔女」
その声は、予め私の訪れを知っていたかのような温かさと含みを帯びていた。胸の奥で、あの夜の記憶が静かにざわめいた。
扉を押し開けた瞬間、湿り気を帯びた空気と薬草の濃密な香りが鼻腔を満たした。橙色の灯りが揺らめき、壁や天井に影がゆらゆらと這う。暖炉の前、背の高い椅子に腰掛けていたヴァルセリアが、ゆっくりと立ち上がる。
「まあ……よく戻ってきたじゃない。王城の羽根布団は、さぞ寝心地が良かったでしょう?」
その声音は皮肉とも冗談ともつかず、挑発の色を帯びていた。私はわずかに口元を上げる。
「ええ、とても快適でしたわ。でも……たまには、この森の湿った匂いが恋しくなりますの」
ヴァルセリアは薄く笑みを浮かべ、私の方へ歩み寄る。その視線は私の髪、顔立ち、纏う空気を舐めるように辿り、最後に左眼で止まった。その眼差しはすべてを見透かすように冷たく深い。
「……また、人から遠くなったわね」
囁く声は温度を持たない刃のように胸に触れる。否定はしなかった。むしろ褒め言葉に近く感じられ、私は静かに息を吸い、薄く笑った。
「あなたにそう言われるなら、間違いないのでしょう」
ヴァルセリアは短く笑い、さらに一歩踏み込んできた。
「お城で、関係のない者まで手にかけたようね。……いい傾向だわ」
私はわずかに眉を動かす。彼女は楽しげに目を細め、さらに言葉を続けた。
「だいぶ魔女としての貫禄が出てきたじゃない。ただし——私に軽口をたたくと殺すよ」
冗談か本気か判別できないその声音に、背筋を冷たいものが撫でる。やはり、ヴァルセリアは底知れず恐ろしい——そう思わざるを得なかった。
「……心得ております、ヴァルセリア様」
私がそう答えると、ヴァルセリアは愉快そうに唇を吊り上げた。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、橙色の光が彼女の横顔を妖しく照らし出していた。
ヴァルセリアは暖炉の光を背に、ゆったりと椅子に腰掛けて顎に手を添え、私を見据えていた。橙色の揺らめきが銀髪を金色に染め、影が長く床を這う。
「それで? 今日は何を求めに来たのかしら。まさか、ただ世間話をしに来たわけじゃないでしょう?」
その声音は、好奇心と試すような冷ややかさがないまぜになっている。私はゆっくりと息を吸い、視線を逸らさず答えた。
「瓶詰の食材を、また分けていただきたくて……赤子の血の乾燥片を」
ぱちぱちと暖炉の炎が爆ぜ、薬草と鉄錆のような乾いた血の匂いが鼻腔を満たす。ヴァルセリアは薄く笑みを浮かべ、その瞳がわずかに細まった。
「ふふ……やはり、あなたはますます“こちら側”の味に馴染んできたようね」
「……ええ。あれがあれば、効率も精度も上がりますもの」
「効率、ね。昔は震える手で瓶を受け取っていたあなたが、今では当然のように求めに来る」
「それは、あなたの教えがあったからです」
「お世辞はやめなさい。ただ、そうやって口が滑らかになるのは悪くないわ。……で、どれくらい必要?」
「できれば三瓶。婚姻の旅路で腐らぬよう、封印処理を施したものを」
ヴァルセリアは顎に指をあて、愉快そうに笑った。
「ずいぶん計画的じゃない。……いいわ、用意してあげる。その代わり、向こうで手に入れた血の話を詳しく聞かせてもらう」
「もちろんです、ヴァルセリア様」
彼女の笑みが、炎の影とともにより深く妖しく揺れた。
女官たちの動きや王の呼び出しの間隔を頭の中で組み立てる。王は「準備をしなさい」とだけ言った。この三日間、口を封じてしまえば城を抜けても気づかれはしない。
私はゆっくりと左眼ネクロサイトを開いた。淡い光が視界を染め、廊下に控える女官たちの意識へと滑り込む。「王女は自室で嫁入り準備中」――その幻惑を深く刻み込む。女官たちは微笑み合い、何の疑念もなく持ち場へ戻っていった。
扉の前で直立するゴリアテの前に立つ。
「何者も近づけるな」
低く短い命令に、巨躯の戦士は黙って頷く。鎧が小さく鳴り、廊下全体に圧迫感が広がった。その姿は城の防壁そのもののようだった。
背後から、柔らかな足音とともに声が降ってくる。
「ご主人様、森に行くなら私も行きますよ」
振り返れば、黒猫の姿をしたニールが尾をゆっくり揺らし、金色の瞳を愉快そうに細めている。
「ヴァルセリア様、相変わらず深い話をしてくださるでしょうから。それに、あの森の空気はご主人様にも良い影響を与えると思います。最近はずっと城暮らしでしたからね」
「お前も、あの森が恋しいのか?」
「ええ、もちろんです。それに……ご主人様がどんな話を持ち帰るのか、興味があります。きっと、また私の知らない面白いことを知ってくるでしょう」
「お前は情報屋みたいだな」
「誉め言葉として受け取っておきます」
私は口元をわずかに緩め、視線を合わせた。あの魔女に会えば、知りたいことが山ほどある――そして、手に入れたいものも。
馬車の車輪が王都の石畳を離れた瞬間、硬質な響きが途切れ、代わって土を踏みしめる鈍い低音が耳に響いた。背後に遠ざかる喧騒は、風が草原を撫でるざわめきと、時折きしむ轍の音に溶けていく。御者台には、私の左眼ネクロサイトで操られた従者が無表情のまま座り、手綱を正確に操っていた。窓の外には整然と並んだ畑や、煙を上げる農家の屋根が広がっていたが、それもやがて途切れ、野花や背の高い雑草が風に揺れる荒れ地へと変わっていった。
昼を過ぎた頃、ふいに空気が変わった。頬をかすめる風に湿り気が混じり、土の匂いが一層濃く、重くなる。遠くの地平にぼんやりと影を落とす森が見え始め、その輪郭は空と地の境を曖昧に溶かしていた。森の手前には薄い霧が帯のように漂っている。
「……霧が出てきましたね」
使い魔の姿に戻ったニールが、継ぎ接ぎだらけの指で窓辺を軽く叩きながら外を覗く。金色の瞳が霧の向こうに潜む何かを探っていた。
「森が近い証拠だわ」
そう返すと、ニールは片方の口角を上げて笑った。
「ご主人様、婚姻相手の第一王子殿下って、どんな方なんでしょう? 私も存じませんし……ですが、隣国の情勢なら少し調べてありますよ」
「ほう……聞かせてちょうだい」
「隣国ヴァルデンシュタインは現国王が老齢で、政権の実権はほぼ第一王子殿下の派閥が握っています。派閥には軍務卿と財務卿がついていて、敵に回せば補給線も財布も締め上げられる。民の支持は厚いですが、反対派も根強く、暗殺未遂も過去に三度……」
「ずいぶん物騒ね」
「ええ。ただ、彼は冷徹というより合理的な方らしい。不要な争いは避けるが、必要とあれば迷いなく切り捨てる、と」
森が近づくにつれ、鳥のさえずりが途絶え、耳に残るのは私たちの移動音だけになった。風は低く渦を巻き、木々の影が視界の端で形を変える。枝葉が揺れるたびに、人影のような輪郭が一瞬現れては消える。
「……やっぱり、この森は相変わらず歓迎が厳しいですね」
「歓迎、か……そうならいいけれど」
ニールは意味深に笑い、霧の向こうの森をじっと見据えていた。その瞳には、湿った匂いと異界の気配が揺らめいていた。
森の奥へ進むほど、霧は濃さを増し、足元の湿った土が靴底にまとわりつく。木々はねじれた枝を絡ませ、まるで侵入者を拒むように道を狭めていく。やがて、木漏れ日すら届かない暗がりの中、異様な色彩が目に飛び込んできた。
黒々とした蔓が地面から這い上がり、壁のように絡み合っている。その合間から覗くのは、血のように濃い紅色の花々。花弁はまるで生きているかのように微かに震え、甘くもどこか鉄臭い香りを漂わせていた。
「……着いたわね」
私が呟くと、隣のニールが金色の瞳を細める。
「ええ。ヴァルセリア様は、もうこちらに来られる頃合いでしょう」
蔓の壁に近づいた瞬間、それはまるで意思を持つ生き物のようにゆっくりとほどけ、私たちのためだけに狭い通路を作った。湿った空気が流れ込み、奥に佇む小屋が姿を現す。
小屋は黒い木材と苔に覆われ、屋根からは更に蔓が垂れ下がっていた。窓は小さく、そこから漏れる橙色の光が霧の中でぼんやりと揺れている。その扉が静かに開き、影の中から細身の女性が現れた。
漆黒の髪が霧に溶けるように揺れ、唇にはわずかな笑み。紅玉のような瞳が私を見据える。
「よく来たね、私の可愛い見習い魔女」
その声は、予め私の訪れを知っていたかのような温かさと含みを帯びていた。胸の奥で、あの夜の記憶が静かにざわめいた。
扉を押し開けた瞬間、湿り気を帯びた空気と薬草の濃密な香りが鼻腔を満たした。橙色の灯りが揺らめき、壁や天井に影がゆらゆらと這う。暖炉の前、背の高い椅子に腰掛けていたヴァルセリアが、ゆっくりと立ち上がる。
「まあ……よく戻ってきたじゃない。王城の羽根布団は、さぞ寝心地が良かったでしょう?」
その声音は皮肉とも冗談ともつかず、挑発の色を帯びていた。私はわずかに口元を上げる。
「ええ、とても快適でしたわ。でも……たまには、この森の湿った匂いが恋しくなりますの」
ヴァルセリアは薄く笑みを浮かべ、私の方へ歩み寄る。その視線は私の髪、顔立ち、纏う空気を舐めるように辿り、最後に左眼で止まった。その眼差しはすべてを見透かすように冷たく深い。
「……また、人から遠くなったわね」
囁く声は温度を持たない刃のように胸に触れる。否定はしなかった。むしろ褒め言葉に近く感じられ、私は静かに息を吸い、薄く笑った。
「あなたにそう言われるなら、間違いないのでしょう」
ヴァルセリアは短く笑い、さらに一歩踏み込んできた。
「お城で、関係のない者まで手にかけたようね。……いい傾向だわ」
私はわずかに眉を動かす。彼女は楽しげに目を細め、さらに言葉を続けた。
「だいぶ魔女としての貫禄が出てきたじゃない。ただし——私に軽口をたたくと殺すよ」
冗談か本気か判別できないその声音に、背筋を冷たいものが撫でる。やはり、ヴァルセリアは底知れず恐ろしい——そう思わざるを得なかった。
「……心得ております、ヴァルセリア様」
私がそう答えると、ヴァルセリアは愉快そうに唇を吊り上げた。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、橙色の光が彼女の横顔を妖しく照らし出していた。
ヴァルセリアは暖炉の光を背に、ゆったりと椅子に腰掛けて顎に手を添え、私を見据えていた。橙色の揺らめきが銀髪を金色に染め、影が長く床を這う。
「それで? 今日は何を求めに来たのかしら。まさか、ただ世間話をしに来たわけじゃないでしょう?」
その声音は、好奇心と試すような冷ややかさがないまぜになっている。私はゆっくりと息を吸い、視線を逸らさず答えた。
「瓶詰の食材を、また分けていただきたくて……赤子の血の乾燥片を」
ぱちぱちと暖炉の炎が爆ぜ、薬草と鉄錆のような乾いた血の匂いが鼻腔を満たす。ヴァルセリアは薄く笑みを浮かべ、その瞳がわずかに細まった。
「ふふ……やはり、あなたはますます“こちら側”の味に馴染んできたようね」
「……ええ。あれがあれば、効率も精度も上がりますもの」
「効率、ね。昔は震える手で瓶を受け取っていたあなたが、今では当然のように求めに来る」
「それは、あなたの教えがあったからです」
「お世辞はやめなさい。ただ、そうやって口が滑らかになるのは悪くないわ。……で、どれくらい必要?」
「できれば三瓶。婚姻の旅路で腐らぬよう、封印処理を施したものを」
ヴァルセリアは顎に指をあて、愉快そうに笑った。
「ずいぶん計画的じゃない。……いいわ、用意してあげる。その代わり、向こうで手に入れた血の話を詳しく聞かせてもらう」
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