完結『夏空フォークボール』

カトラス

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第11話:風を感じるマウンド

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 早朝。
 誰もいないはずの桜が丘高校のグラウンドには、一つだけ響く音があった。

 防球ネットに収まるドスンと鳴る乾いた音。
 泥を含んだ土を踏みしめるスパイクの音。
 それらすべてが、朝露の残る空気の中に、やけに澄んで響いていた。

 風祭球児は、ひとり黙々と投げていた。

 昨日の試合のことが、まだ胸に残っている。
 投げなかった後悔よりも、「何も言えなかった」ことのほうが重かった。
 あのとき千紗に聞かれた問い──『誰のために投げたい?』──それが、ずっと頭から離れなかった。

 マウンドに立つたび、風が吹いていた。
 その風が、昨日よりも少しだけ、心地よく感じる。

「……まだだ。もっと……」

 気づけば、誰かの視線を感じた。
 ふと後ろを振り返ると──そこに、部員たちが立っていた。

 三島、内田、松井、浜中……。みんな、登校前にたまたま寄ったのか、制服姿のままグラウンドの端に固まっていた。

 最初に口を開いたのは、主将の三島だった。

「……風祭。なんで、黙って投げてんだよ」

 球児は、しばらく黙ってマウンドの土を見つめていた。
 朝日が差し込み、赤く照らされたその場所に、自分の足跡が重なっている。

「……投げる理由、少しずつ分かってきたんだ」

「理由?」

「勝ちたい、とかじゃない。……悔しそうに泣いてる奴がいて、何も言えない自分がいて。……でも、そんな連中が、なんかもう、見てらんなくてさ」

 球児は、苦笑交じりに言った。

「たぶん、そういうのが、理由になってく気がする」

 部員たちは、言葉を失っていた。
 けれど、何かが確かに伝わったのか──三島はゆっくりと歩み寄り、グラウンドの中央に立った。

「風祭。俺は、お前がピッチャーでいてくれたら、頼りになる。……いや、めちゃくちゃ頼りにしたい」

 その言葉に、他の部員たちも次々にうなずいた。

「本気で……この夏、勝ちたいっスよ!」

「もう、“あの日”のまま止まってるのは、俺一人でいいから」

 最後に球児が一歩、みんなの前に出た。

 背番号1のゼッケンを胸に、静かに言う。

「この夏──“背番号1”、預かるわ」

 それは宣言ではなく、約束のようだった。
 風がまた吹いた。今度は、背中を押すように。



 朝のグラウンドに、カラン、カラン……と金属のバットが風に鳴っていた。

 まだ始業前。校舎の陰からこっそりグラウンドをのぞく千紗の目に、見慣れた背中が映る。

 風祭球児が、ひとりマウンドに立っていた。

 ゆっくりと、スパイクのかかとで土をならし、プレートの前に立つ。
 背番号「1」をつけたユニフォームが、朝の光を受けて白く輝いている。

 千紗は手帳を開き、今日もこっそり“風祭くん観察日記”を更新する。

  6月×日(晴れ)

・グラウンドをならす背中が、ちょっとだけまっすぐだった。

・プレートに立つまでに3歩しかかからなかった。前は5歩かかってたのに。

・投げるテンポが、なんだか早い。焦ってるんじゃなくて、リズムができてた。

・投げ終わったあと、左肩をぐるぐる回してた。ちょっとだけ照れてた?

・あと……
 みんなに囲まれてるとき、耳がほんのり赤かった。
 なんでだろう。気温のせいじゃ、ないと思う。

 ページの下の余白に、千紗はゆっくりとペンを走らせる。

「今日の風祭くん:たぶん、“自分のために”も投げてた。」

 手帳を閉じた千紗は、そっと胸のポケットにしまった。

 その背中は、もう“誰かのため”だけじゃなかった。
 たぶん、少しだけ“風祭球児自身”のために投げることを、許せた朝だった。

 朝の光が、グラウンドの土をあたたかく染めていた。
 まだ誰にも知られていない、その変化を知っているのは──千紗だけだった。



 桜が丘高校の通学路。朝の風が少し冷たい。

 三島大地は自転車を押しながら、ぼんやりと校舎の屋根を見上げていた。スニーカーの靴紐は、気づかぬうちに少し緩んでいた。

 いつものように坂を登りきったとき、不意に耳に届く──乾いた音。

 グラウンドのほうからだった。

 トン、と何かが踏み出されるような音。
 キュッ、とスパイクが土を蹴る摩擦音。

 野球部の朝練にしては早すぎる。いや、あの音は……ピッチャーの投球練習の音だ。

 嫌でも、分かった。

「……風祭か?」

 三島は自転車を置き、駆け出した。

 そのまま、靴紐を結ぶことすら忘れたスニーカーのまま、足をもつれさせながらグラウンドの金網沿いにたどり着く。

 そこには、朝日に照らされながらマウンドに立つ背番号「1」がいた。

 風祭球児だった。

 誰もいないブルペン。
 誰に見せるわけでもないフォームで、彼はただ、黙って投げていた。

 一球、また一球。
 ゆるやかな呼吸の中で、彼の腕が描く軌道が、少しずつ整っていく。

 三島は金網に手をかけたまま、しばらく言葉を発せずに立ち尽くす。

 彼は知っていた。
 この一歩を、どれだけ時間がかかったか。

 どれだけの「ためらい」と「過去」と「傷」とを越えて、球児がそのマウンドに立っているのか。

 靴紐が、するりと解けて地面に垂れた。
 それでも三島は、それを直さずに、ただその背中を見ていた。

「……風祭。やっとだな」

 誰にも聞こえない、小さな声。

 でもその言葉には、桜が丘の主将としての誇りと、仲間としての誠実さと、ひとつの信頼が込められていた。

 その朝、三島のスニーカーのままの足元は、グラウンドの端で、確かに誰かの“はじまり”を見届けていた。




 その朝、千紗はいつもより早く家を出た。

 風はやわらかく、雲ひとつない空。四月とは思えないほど陽ざしが強くなってきた。

 保冷バッグの中には、自家製の麦茶。
 前の晩にレモンを少しだけ加えて、ほんのり香りをつけておいた。

 「昨日、ちょっと嬉しそうだったし……今日は渡せるかな」

 校門を抜け、そっとグラウンドを覗く。
 そこには、予想通り──いや、願っていた通りの背中があった。

 風祭球児。
 マウンドに立ち、真剣な顔で投球フォームを繰り返している。

 その姿に、胸がちくりと痛む。

 ──やっぱり、声かけられないな。

 千紗はフェンス越しに、その背中をそっと見つめた。

 気づいてほしいわけじゃない。
 けれど、見ていたい。それだけだった。

 保冷バッグの中の麦茶は、冷たいままだった。
 ほんの少し、手に持つ指先が汗ばんでいたけれど、中身の冷たさは変わらない。

 まるで、自分の気持ちみたいだと千紗は思った。

 伝えたいけど、まだ言葉にできない。
 あげたいけど、渡せない。

 「……今はまだ、背中に声をかけられないや」

 小さなため息とともに、千紗はそっと踵を返した。
 バッグの中の麦茶は、静かに揺れて、陽射しのなかでほんのり光っていた。

 きっと、いつか。
 この麦茶を「ただの飲み物」じゃなく、「気持ち」として渡せる日が来る。

 その日のために、また明日も早起きしよう──
 千紗は、制服の袖でそっと額を拭い、朝の校舎に歩き出した。



 六月某日。午前七時五分。晴れ。風、弱し。
 桜が丘高校グラウンド、気温14度、地面はやや湿り気あり。

 飯塚まこと、スコアラー歴──たぶん、三週間。
 でも、記録マニア歴は中二から数えて五年目。自称「記録で見る青春の記者」だ。

 今日も朝から、例のごとくグラウンドを通りかかる。

 ──いた。

 投げてる。例の“風の男”、風祭球児。
 ベンチ裏に座っていた飯塚は、ジャージのポケットから取り出した小さなメモ帳を開く。

 そして、鉛筆で走り書きを始めた。

【朝の非公式観察メモ】

・風祭、投球数:たぶん30球くらい(体感)。
・でも球の重さは、たぶん1万キロクラス(情緒的計測)。

・フォーム:昨日より軸ブレ少。腰の沈みが深い。→良化傾向。
・間合い:投げるテンポ、速め。→気持ちに“何か”あり?

・主将・三島の立ち位置:
 ①ベンチ横→②マウンド寄り→③正面まで前進→④無言でうなずく。

・千紗マネの位置:金網の向こう。→そっと見て、立ち去る。
 ※麦茶は未提出の模様。

・グラウンドの空気:朝なのに、ほんのりあったかい。
 →チームの温度、0.8℃上昇(気持ち的に)。

 飯塚は最後に、ちょっとだけ真面目な顔をした。

 ページの隅っこに、小さな字で書き足す。

 「背番号1、今日はよく似合ってた」

 そしてメモ帳を閉じ、リュックにしまった。

 「……さて、今日も記録係、頑張りますか」

 誰も気づかない朝の一瞬を、静かに書き留める小さな記録者。
 彼の観察は、今日もこっそり続いている。



 梅雨入り後の、少し湿った朝だった。

 風祭修司は、小さなアパートのベランダに出て、インスタントのコーヒーを片手に腰掛けた。
 壁際にはスパイクやグローブが入った段ボールがいくつか積まれていて、開けることのないまま何度も引っ越しを重ねた痕跡が残っている。

 新聞は、床に投げ出したままだった。
 風にめくれたその紙面の一角──「高校野球・夏季大会出場校一覧」──そこに、ふと目が留まった。

 「桜が丘高校」
 その名を見つけた瞬間、彼の眉がわずかに動いた。

 「……桜が丘? ……確かあいつの、今の学校だったったな」

 小さくつぶやくと、カップを持つ手がほんの少しだけ止まる。

 ゆっくりとベランダの椅子に背を預け、仰ぐように空を見た。
 雲の切れ間から、青がのぞいていた。

 かつて、夢の終わったグラウンドで見上げたのと同じ色。
 プロには届かなかった男が、それでも最後までボールを握り続けた日々を思い出す。

 「投げるだけがすべてじゃねえって、思ってたけどな……」

 その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあり、
 そしてどこか遠くにいる誰かに、届けるようでもあった。

 コーヒーをひと口すする。
 もう熱さはなく、ぬるくなっていた。だが、それが今の自分にはちょうどよかった。

 「……また投げる気になったか。……遅ぇよ、ばか息子」

 修司は笑わなかった。だが、その目はどこか和らいでいた。

 新聞を拾い上げることはしなかった。
 名前を見た、それだけで十分だった。

 もう一度だけ、空を見た。

 そこに投げるように、彼は最後に一言だけつぶやいた。

 「……背番号、何番だ?」

 風がふわりと吹き、ベランダの柱に吊るされた古い帽子が揺れた。
 修司がかつて被っていた、色あせた高校球児のキャップだった。


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