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第13話:再会のノック
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六月の陽射しはすでに夏の匂いを帯びていた。
グラウンドに響く乾いた音――それは、臨時監督・風祭修司によるノックの音だった。
「次、ライト! ちゃんと前に出ろ、後ろに逃げるな!」
「ショート、今の足運びじゃセカンドに間に合わねぇぞ!」
檄が飛ぶたび、部員たちは顔をしかめながらも必死にボールを追った。
厳しい練習に音を上げる者もいたが、修司のノックは的確で、どこか説得力があった。
「……にしても、なんだよあのノック。おっさんなのに、全然ブレねぇな」
セカンドの松井が苦笑いしながら汗を拭く。
ボールがバウンドする音が、リズムになって聞こえていた。
ゴン――ザザッ。ゴン――ザザッ。
桜が丘のグラウンドに、ひときわ鋭い打球音が響いている。ノックバットを握るのは、臨時監督の風祭修司。球児の親父だとあとから知ったけれど、小野寺翼にとっては、まず「ノックがエグいオヤジ」という印象が強かった。
初日の練習で、軽く膝が笑った。内野ゴロ、フライ、カット、バント処理……とにかく休む暇がない。
でも、不思議だった。
「きつい……けど、なんだろ、嫌な感じじゃねえな」
ボールの飛び方が、毎回違うのに、不思議と“意図”があるのがわかる。
右へ左へ追い回されながら、小野寺はあることに気づいた。
風祭監督のノックには、決まった“間”があった。
ワンバウンドで獲らせる球と、ライナー性のゴロ、その合間に深く打ち込むボール――
そこに、リズムがあった。
「ゴン……ザザッ、ゴン……ザザッ……ゴン!」
身体がついていかないのに、心が置いていかれない。
それは、今まで感じたことのない感覚だった。
これまでの練習では、「とりあえず打っておけ」みたいなノックが多かった。球の質もバラバラで、ただ疲れるだけの日もあった。
でも、今日は違う。
“獲らせたい”という意図が、ノックの中にある。
“走らせたい”じゃなく、“ちゃんとゴロに向かわせたい”という思いが伝わってくる。
(ちゃんと怖いけど、ちゃんと優しい……)
息を切らしながら、思わず笑っていた。
「ったく、すげぇオッサンだな……」
誰かに怒鳴られるのも、怒られるのも、最近は適当に聞き流すようになっていた。
けど、風祭監督のノックは、そうじゃない。
“お前らなら、もっとできるだろ”と、背中で叩かれているような感覚。
足が止まりそうになるたびに、またバットの音が響く。
「ほら小野寺! 一歩目が遅い!」
名前を呼ばれる。顔をちゃんと見られている。
それだけで、なんだか真面目にやらなきゃって気持ちになる。
(ヘタな優しさより、ちゃんとした怖さの方が、頼りになることもあるんだな)
ノックのリズムが、身体に刻まれていく。
今日、小野寺は初めて、練習後の筋肉痛を「心地いい」と思った。
一方、球児は無言でランニングメニューをこなしていた。
修司とは目を合わそうとせず、ただ黙々と体を動かしている。
「なあ、風祭」
石原が隣に並んできた。キャッチャーの彼は、チームの中で球児に一番近い位置にいる。
「……あれ、絶対お前の親父だよな?」
「……知らねぇよ」
そっけない一言。だが、その言葉の裏に隠されたざらついた感情は、石原にも伝わっていた。
キャッチャーの石原翔太は、気づいていた。
最初のノックが始まったときだった。臨時監督として現れた風祭修司の打球は、正確で、厳しくて、どこか愛情深かった。ボールはギリギリの場所を突き、足元をすくうように滑り、選手たちの反応を試すような動きをしていた。
「クセ、あるな……このノック」
ミット越しに構えながら、石原はそう呟いた。
似ていたのだ。
どこかで見たことのある、ステップ。
視線の動かし方。
ボールを打ち出すときの、わずかな手首のクセ。
そして何より、風祭球児と目線が交錯したときの、あの瞬間――
球児はふと顔をそらし、視線を落とした。
監督も、それ以上は何も言わず、次のノックに移った。
普通なら、見逃すような一瞬だ。
でも、石原のようにキャッチャーマスクの奥で、常に全体を見ている立場の人間には、見えた。
(あの人……風祭の親父さんじゃねぇのか?)
昼休み、石原は自分の捕手としての感を確かめる為に練習後の部室で再度、球児に聞いてみた。
「風祭、あれ絶対お前の親父だろ」
返ってきた言葉は、そっけなかった。
「……知らねぇよ」
けれど、石原は見た。
その一言を返すまでに、球児のまぶたがわずかに伏せられたことを。
言葉と心の間にある、微かな“揺らぎ”を。
キャッチャーは、投手のコンディションを“目”で読む。
コントロールがずれているか、握りが甘いか、緩んだ気持ちを、無意識の動作から見抜く。
だからこそ、石原にはわかった。
あの「知らねぇよ」は、拒絶でも無関心でもなく、
──ただの戸惑いだったのだと。
「へぇ、そっか」とだけ返して、それ以上は聞かなかった。
試合の日、マウンドで球児が黙っているときも、石原は声をかけなかった。
信頼とは、言葉の数で築くものじゃない。
ベンチで静かにメモをとるその背中を、マスク越しに見守るだけで、今はそれでいいと、石原は思っていた。
*
放課後のグラウンドには、もう誰の声も残っていなかった。かすかな風が赤土を揺らし、金属バットの鈍い音が遠くで誰かの練習を告げている。
千紗はひとり、ベンチの隅に腰を下ろしていた。膝の上に置いたのは、修司の持ち物と思われる、黒い表紙のノート。グラウンド整備用具の片づけ中、偶然荷物置き場で見つけたそれを、彼女はどうしても返す前にもう一度だけ見たかった。
“臨時監督・風祭修司”と小さく書かれた表紙をめくると、そこには手書きでびっしりと書かれたメモがあった。
《風祭球児:第2ステップの沈み込みが浅くなっている。フォークの落差は健在。疲労時に右肘が下がる癖、まだ直っていない》
ページをめくるごとに、球児のフォーム、球種、配球傾向、好きな飲み物に至るまで、詳細な記録が並んでいた。
──これを書いた人は、ずっと球児を見ていたのだ。
開いたページには、球児の名前が繰り返し綴られている。
「投球後の左足の流れが気になる」「牽制のタイミング、右肩が硬い」
それらは冷静な指摘でありながら、どこか必死なようでもあった。
ページの下部、インクがかすれて読みにくくなった箇所がある。
“背中を見ていた、ずっと。けれど、近づけなかった。”
それを目にした瞬間、千紗の指がふっと止まった。
そっと手でページの角をなぞる。
「……なんだか、ちょっと似てるね……お父さんと風祭くん」
思わず口をついて出たひとりごとは、誰に聞かせるでもない、静かな呟きだった。
黙って背中で何かを伝えようとする不器用さ。言葉にしないまま、でも誰かをずっと見つめているまなざし。千紗は、修司の筆跡に、あのぶっきらぼうで少し不器用な球児の姿を重ねていた。
ふと目を上げると、沈みかけた夕日がちょうどベンチの背後から差し込んできた。
彼女の頬をやさしく照らし、ノートのページの文字を、橙色に染める。
千紗はそっとノートを閉じると、胸の前で小さく抱きしめた。
まだ、風祭くんは知らない。
あんなふうに、誰かが彼を見ていたことも。
そして、見守ることが、時にどれほどの勇気を要するかということも。
けれど、それでも――その背中を、これからも見ていたい。
千紗のまなざしは、そんな静かな決意を宿していた。
夕日が、やわらかく最後の光を彼女の横顔に注いでいた。
■
放課後のグラウンド。夕焼けが、フェンスをオレンジ色に染めていた。
千紗はマネージャー用の小さな折りたたみ机に、静かに座っていた。ノートを開いて、ペンを走らせる。
ページの左上には、ちいさく「観察日記・その5」と書かれている。
ふと顔を上げると、ブルペンのほうに風祭球児の姿が見える。だがその視線は、ずっと地面のほうばかり向いていて――
そう、今日の球児は、一度も「親父さん」のほうを見ていなかった。
臨時監督として、グラウンドのど真ん中に立つ風祭修司。
その背中にも、どこか「言葉にできないもの」が揺れている気がした。
だが、千紗の視線は、あくまで「球児」のほうに寄り添っていた。
――“今日は一度も親父さんの方を見なかった。でも、ボール拾いのとき、ちょっと近づいた”
千紗のペン先が、さらさらと動く。
彼がネット際で転がったボールを拾うとき、ほんの一歩だけ、修司の立っている方向へと足を向けていた。
それに気づいたのは、おそらく千紗だけだ。
――“練習終わってから、グラブをぎゅっと握った音がした”
聞こえたのは、ごく微かな革の音。
練習が終わり、みんなが笑いながら水を飲んでいる横で、球児はひとりベンチに座り、グラブを両手で包み込むように握っていた。
その指の先に宿る力が、まるで言葉の代わりみたいだった。
千紗はそっと目を伏せ、最後のひと言を書く。
――「今日の風祭くん:黙ってたけど、たぶん、すこし泣いてた」
ページを閉じる音が、風にまぎれて消えていく。
けれど、手帳の中には今日という日が、確かに刻まれていた。
■
夜の帰り道。
千紗は一歩前に出て、歩く球児に声をかけた。
「ねえ、さっき……監督さんのノート、見ちゃった」
「……そっか」
球児は立ち止まり、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「すごく、細かかった。フォームのことも、手首の使い方も、あとは……」
千紗は言葉を探し、そしてそっと言った。
「“好きだった麦茶は、冷たいの”って……」
球児の肩がほんの少しだけ揺れた。
「きっと、ちゃんと見てたんだよ。きっと、ずっと」
沈黙が落ちる。
球児は言葉を返さなかった。けれど、彼の手の中で握られたグラブが、ぎゅっと音を立てた。
それは、もう一度“野球”に触れたいと願う、少年の静かな決意の音だった。
*
夜の台所。湯気の立つマグカップから漂うコーヒーの香りが、古びた一室にやわらかく広がっていた。風祭修司は、ひとり机に向かっていた。白いページをめくる指先が、ごつごつとした節だらけの手をしている。
ノートの表紙には、何の装飾もない。ただ、ペンで小さく「練習用・風祭」とだけ書かれていた。
そのページをめくると、びっしりと並んだ文字。投球フォームの分析。体重移動のタイミング。プレートの踏み出し位置。さらにその下には、キャッチボールの際の癖、スライダーの抜けやすい回転の傾向──。
それは他の選手のデータではなかった。すべて、息子・風祭球児についてだった。
「左肩が早めに開くクセ、まだ治ってないかもしれん」
「ストレートの軌道、あいつはあれで“まっすぐ”って思ってる」
「キャッチャーの構えが外れたとき、手元が甘くなる傾向あり」
書きながら、修司は静かに息を吐く。
「……息子としては、もう俺のことを必要としてない。それでいいんだ。あいつはもう、ひとりで立てる」
だが、その手はページの隅に、こっそりこうも書いていた。
「球児──ストレートが好きだろ。最後の勝負球は、いつもそれだったもんな」
まるで、親としてではなく、一人の“元投手”として、ライバルを見るような視線。
ページをめくる手は不器用で、ペン先が何度か震えてにじんだ跡もある。それでも、修司の視線はまっすぐだった。
「選手としては、ちゃんと見てきたつもりだ。親にはなれなかったかもしれんが、野球人として──お前を否定したことは、一度もない」
修司はマグカップに口をつけ、冷えかけたコーヒーを少しだけすすった。
臨時監督として暫くの間、桜が丘のグラウンドに立つ。
そして息子に言うのだ。お前が投げたくなるまで、俺はただ“見てる”だけだと。
机の上で、夜風に一枚のページがふわりとめくれた。
グラウンドに響く乾いた音――それは、臨時監督・風祭修司によるノックの音だった。
「次、ライト! ちゃんと前に出ろ、後ろに逃げるな!」
「ショート、今の足運びじゃセカンドに間に合わねぇぞ!」
檄が飛ぶたび、部員たちは顔をしかめながらも必死にボールを追った。
厳しい練習に音を上げる者もいたが、修司のノックは的確で、どこか説得力があった。
「……にしても、なんだよあのノック。おっさんなのに、全然ブレねぇな」
セカンドの松井が苦笑いしながら汗を拭く。
ボールがバウンドする音が、リズムになって聞こえていた。
ゴン――ザザッ。ゴン――ザザッ。
桜が丘のグラウンドに、ひときわ鋭い打球音が響いている。ノックバットを握るのは、臨時監督の風祭修司。球児の親父だとあとから知ったけれど、小野寺翼にとっては、まず「ノックがエグいオヤジ」という印象が強かった。
初日の練習で、軽く膝が笑った。内野ゴロ、フライ、カット、バント処理……とにかく休む暇がない。
でも、不思議だった。
「きつい……けど、なんだろ、嫌な感じじゃねえな」
ボールの飛び方が、毎回違うのに、不思議と“意図”があるのがわかる。
右へ左へ追い回されながら、小野寺はあることに気づいた。
風祭監督のノックには、決まった“間”があった。
ワンバウンドで獲らせる球と、ライナー性のゴロ、その合間に深く打ち込むボール――
そこに、リズムがあった。
「ゴン……ザザッ、ゴン……ザザッ……ゴン!」
身体がついていかないのに、心が置いていかれない。
それは、今まで感じたことのない感覚だった。
これまでの練習では、「とりあえず打っておけ」みたいなノックが多かった。球の質もバラバラで、ただ疲れるだけの日もあった。
でも、今日は違う。
“獲らせたい”という意図が、ノックの中にある。
“走らせたい”じゃなく、“ちゃんとゴロに向かわせたい”という思いが伝わってくる。
(ちゃんと怖いけど、ちゃんと優しい……)
息を切らしながら、思わず笑っていた。
「ったく、すげぇオッサンだな……」
誰かに怒鳴られるのも、怒られるのも、最近は適当に聞き流すようになっていた。
けど、風祭監督のノックは、そうじゃない。
“お前らなら、もっとできるだろ”と、背中で叩かれているような感覚。
足が止まりそうになるたびに、またバットの音が響く。
「ほら小野寺! 一歩目が遅い!」
名前を呼ばれる。顔をちゃんと見られている。
それだけで、なんだか真面目にやらなきゃって気持ちになる。
(ヘタな優しさより、ちゃんとした怖さの方が、頼りになることもあるんだな)
ノックのリズムが、身体に刻まれていく。
今日、小野寺は初めて、練習後の筋肉痛を「心地いい」と思った。
一方、球児は無言でランニングメニューをこなしていた。
修司とは目を合わそうとせず、ただ黙々と体を動かしている。
「なあ、風祭」
石原が隣に並んできた。キャッチャーの彼は、チームの中で球児に一番近い位置にいる。
「……あれ、絶対お前の親父だよな?」
「……知らねぇよ」
そっけない一言。だが、その言葉の裏に隠されたざらついた感情は、石原にも伝わっていた。
キャッチャーの石原翔太は、気づいていた。
最初のノックが始まったときだった。臨時監督として現れた風祭修司の打球は、正確で、厳しくて、どこか愛情深かった。ボールはギリギリの場所を突き、足元をすくうように滑り、選手たちの反応を試すような動きをしていた。
「クセ、あるな……このノック」
ミット越しに構えながら、石原はそう呟いた。
似ていたのだ。
どこかで見たことのある、ステップ。
視線の動かし方。
ボールを打ち出すときの、わずかな手首のクセ。
そして何より、風祭球児と目線が交錯したときの、あの瞬間――
球児はふと顔をそらし、視線を落とした。
監督も、それ以上は何も言わず、次のノックに移った。
普通なら、見逃すような一瞬だ。
でも、石原のようにキャッチャーマスクの奥で、常に全体を見ている立場の人間には、見えた。
(あの人……風祭の親父さんじゃねぇのか?)
昼休み、石原は自分の捕手としての感を確かめる為に練習後の部室で再度、球児に聞いてみた。
「風祭、あれ絶対お前の親父だろ」
返ってきた言葉は、そっけなかった。
「……知らねぇよ」
けれど、石原は見た。
その一言を返すまでに、球児のまぶたがわずかに伏せられたことを。
言葉と心の間にある、微かな“揺らぎ”を。
キャッチャーは、投手のコンディションを“目”で読む。
コントロールがずれているか、握りが甘いか、緩んだ気持ちを、無意識の動作から見抜く。
だからこそ、石原にはわかった。
あの「知らねぇよ」は、拒絶でも無関心でもなく、
──ただの戸惑いだったのだと。
「へぇ、そっか」とだけ返して、それ以上は聞かなかった。
試合の日、マウンドで球児が黙っているときも、石原は声をかけなかった。
信頼とは、言葉の数で築くものじゃない。
ベンチで静かにメモをとるその背中を、マスク越しに見守るだけで、今はそれでいいと、石原は思っていた。
*
放課後のグラウンドには、もう誰の声も残っていなかった。かすかな風が赤土を揺らし、金属バットの鈍い音が遠くで誰かの練習を告げている。
千紗はひとり、ベンチの隅に腰を下ろしていた。膝の上に置いたのは、修司の持ち物と思われる、黒い表紙のノート。グラウンド整備用具の片づけ中、偶然荷物置き場で見つけたそれを、彼女はどうしても返す前にもう一度だけ見たかった。
“臨時監督・風祭修司”と小さく書かれた表紙をめくると、そこには手書きでびっしりと書かれたメモがあった。
《風祭球児:第2ステップの沈み込みが浅くなっている。フォークの落差は健在。疲労時に右肘が下がる癖、まだ直っていない》
ページをめくるごとに、球児のフォーム、球種、配球傾向、好きな飲み物に至るまで、詳細な記録が並んでいた。
──これを書いた人は、ずっと球児を見ていたのだ。
開いたページには、球児の名前が繰り返し綴られている。
「投球後の左足の流れが気になる」「牽制のタイミング、右肩が硬い」
それらは冷静な指摘でありながら、どこか必死なようでもあった。
ページの下部、インクがかすれて読みにくくなった箇所がある。
“背中を見ていた、ずっと。けれど、近づけなかった。”
それを目にした瞬間、千紗の指がふっと止まった。
そっと手でページの角をなぞる。
「……なんだか、ちょっと似てるね……お父さんと風祭くん」
思わず口をついて出たひとりごとは、誰に聞かせるでもない、静かな呟きだった。
黙って背中で何かを伝えようとする不器用さ。言葉にしないまま、でも誰かをずっと見つめているまなざし。千紗は、修司の筆跡に、あのぶっきらぼうで少し不器用な球児の姿を重ねていた。
ふと目を上げると、沈みかけた夕日がちょうどベンチの背後から差し込んできた。
彼女の頬をやさしく照らし、ノートのページの文字を、橙色に染める。
千紗はそっとノートを閉じると、胸の前で小さく抱きしめた。
まだ、風祭くんは知らない。
あんなふうに、誰かが彼を見ていたことも。
そして、見守ることが、時にどれほどの勇気を要するかということも。
けれど、それでも――その背中を、これからも見ていたい。
千紗のまなざしは、そんな静かな決意を宿していた。
夕日が、やわらかく最後の光を彼女の横顔に注いでいた。
■
放課後のグラウンド。夕焼けが、フェンスをオレンジ色に染めていた。
千紗はマネージャー用の小さな折りたたみ机に、静かに座っていた。ノートを開いて、ペンを走らせる。
ページの左上には、ちいさく「観察日記・その5」と書かれている。
ふと顔を上げると、ブルペンのほうに風祭球児の姿が見える。だがその視線は、ずっと地面のほうばかり向いていて――
そう、今日の球児は、一度も「親父さん」のほうを見ていなかった。
臨時監督として、グラウンドのど真ん中に立つ風祭修司。
その背中にも、どこか「言葉にできないもの」が揺れている気がした。
だが、千紗の視線は、あくまで「球児」のほうに寄り添っていた。
――“今日は一度も親父さんの方を見なかった。でも、ボール拾いのとき、ちょっと近づいた”
千紗のペン先が、さらさらと動く。
彼がネット際で転がったボールを拾うとき、ほんの一歩だけ、修司の立っている方向へと足を向けていた。
それに気づいたのは、おそらく千紗だけだ。
――“練習終わってから、グラブをぎゅっと握った音がした”
聞こえたのは、ごく微かな革の音。
練習が終わり、みんなが笑いながら水を飲んでいる横で、球児はひとりベンチに座り、グラブを両手で包み込むように握っていた。
その指の先に宿る力が、まるで言葉の代わりみたいだった。
千紗はそっと目を伏せ、最後のひと言を書く。
――「今日の風祭くん:黙ってたけど、たぶん、すこし泣いてた」
ページを閉じる音が、風にまぎれて消えていく。
けれど、手帳の中には今日という日が、確かに刻まれていた。
■
夜の帰り道。
千紗は一歩前に出て、歩く球児に声をかけた。
「ねえ、さっき……監督さんのノート、見ちゃった」
「……そっか」
球児は立ち止まり、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「すごく、細かかった。フォームのことも、手首の使い方も、あとは……」
千紗は言葉を探し、そしてそっと言った。
「“好きだった麦茶は、冷たいの”って……」
球児の肩がほんの少しだけ揺れた。
「きっと、ちゃんと見てたんだよ。きっと、ずっと」
沈黙が落ちる。
球児は言葉を返さなかった。けれど、彼の手の中で握られたグラブが、ぎゅっと音を立てた。
それは、もう一度“野球”に触れたいと願う、少年の静かな決意の音だった。
*
夜の台所。湯気の立つマグカップから漂うコーヒーの香りが、古びた一室にやわらかく広がっていた。風祭修司は、ひとり机に向かっていた。白いページをめくる指先が、ごつごつとした節だらけの手をしている。
ノートの表紙には、何の装飾もない。ただ、ペンで小さく「練習用・風祭」とだけ書かれていた。
そのページをめくると、びっしりと並んだ文字。投球フォームの分析。体重移動のタイミング。プレートの踏み出し位置。さらにその下には、キャッチボールの際の癖、スライダーの抜けやすい回転の傾向──。
それは他の選手のデータではなかった。すべて、息子・風祭球児についてだった。
「左肩が早めに開くクセ、まだ治ってないかもしれん」
「ストレートの軌道、あいつはあれで“まっすぐ”って思ってる」
「キャッチャーの構えが外れたとき、手元が甘くなる傾向あり」
書きながら、修司は静かに息を吐く。
「……息子としては、もう俺のことを必要としてない。それでいいんだ。あいつはもう、ひとりで立てる」
だが、その手はページの隅に、こっそりこうも書いていた。
「球児──ストレートが好きだろ。最後の勝負球は、いつもそれだったもんな」
まるで、親としてではなく、一人の“元投手”として、ライバルを見るような視線。
ページをめくる手は不器用で、ペン先が何度か震えてにじんだ跡もある。それでも、修司の視線はまっすぐだった。
「選手としては、ちゃんと見てきたつもりだ。親にはなれなかったかもしれんが、野球人として──お前を否定したことは、一度もない」
修司はマグカップに口をつけ、冷えかけたコーヒーを少しだけすすった。
臨時監督として暫くの間、桜が丘のグラウンドに立つ。
そして息子に言うのだ。お前が投げたくなるまで、俺はただ“見てる”だけだと。
机の上で、夜風に一枚のページがふわりとめくれた。
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