完結『夏空フォークボール』

カトラス

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第18話 :『はじまりのスコアボード』

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 早朝の職員室。
 まだ誰もいないその静けさの中で、長谷川校長は一人、給湯室のインスタントコーヒーを紙コップに注ぎながら、窓の外を眺めていた。

 晴天。
 雲ひとつない夏空。
 セミの声さえも、どこか背筋を正すように聞こえる。

 時計は朝の7時半を指している。
 校長はゆっくり席に戻り、デスクの引き出しから、薄く使い古された手帳を取り出した。
 ページの端が丸まっているのは、長く使われてきた証だ。

 今日の日付の欄に、黒ペンで書き込みが始まる。

《朝礼メモ/7月☓日》

・本日、桜が丘高校 野球部 夏大会 初戦
・開会式参加(主将・三島、大会代表)
・風祭修司=臨時監督として正式登板
・背番号1=風祭球児(3年)

・マネージャー・千紗:データ班中心に準備報告あり
・全員登校確認済み/応援準備は生徒会が対応予定

 黒インクの文字が並ぶ中、校長はふと手を止めた。

 そして、ページの余白に、別のペン──青インクの細字で、迷うように、だが確信を持つように、一文を添えた。

「……誰かが、今日を“特別な日”にしてくれる気がする」

 書き終えると、校長は小さく頷いた。
 その目は、どこか遠くを見ていた。いや、もしかすると、かつての自分自身を見ていたのかもしれない。

 十年前、あきらめた野球部。
 もう二度と動き出さないと思っていたチームが、今またスコアボードに名前を刻もうとしている。

 校長は手帳を閉じて、立ち上がる。

「さて……こちらも、背筋伸ばしていくか」

 そう呟いた背中は、若い選手たちに負けないほど、まっすぐだった。



 朝の球場は、空までが高鳴っているようだった。

 白い雲、眩しい陽射し、そして立ち並ぶ球児たちの整列する影。球児──風祭球児は、桜が丘高校のユニフォームに袖を通し、スパイクの感触を確かめるように、土を踏んでいた。

「……スコアボードに、名前がある」

 三塁側の電光掲示板。そこに映る「桜が丘」の四文字を、球児はじっと見つめた。名門でも強豪でもない、何の実績もないその文字が、今だけは確かに誇らしく胸を打った。

 その少し後ろで、千紗が手帳をそっと開く。

 *今日の風祭くん:背中が、いつもよりちょっと大きかった気がする。

 ペンを走らせた千紗は、静かに目を細める。横でスコアラー飯塚が「おー、校名写メっとこう」とスマホを構えながらぼそりと呟く。

「“桜が丘”って字面、こうやって見るとけっこう映えるっスね」

「映える、って……試合だよ、これから」

「っすよねぇ……」

 飯塚は照れたように笑って、スマホをそっとしまった。

 控室。ベンチの空気は、まだ張り詰めたように静かだった。だが、そこにいる監督──風祭修司の存在が、全員の背筋を真っ直ぐにする。

 修司は無言のまま一人ひとりに目をやり、そして最後に声を発した。

「やることは一つだ。目の前の一球に、全部を込めろ」

 たった一言。それだけで、重かった空気がふっと軽くなった。

「よっしゃ、いけるっしょ!」

 主将の三島が、先頭でグラブを掲げてベンチを出る。

「行ってきます!」

 石原、三島、藤木、小野寺……次々に選手たちが飛び出す中、球児もゆっくり立ち上がった。

「……よし」

 呟き、帽子を深くかぶる。そのつばの下で、微かに笑みが浮かぶのを千紗は見逃さなかった。

 *今日の風祭くん:帽子をかぶった時、少し口角が上がってた。

「行ってらっしゃい、風祭くん」

 千紗が静かに声をかけると、球児は振り返りもせず、ひらりと右手を軽く上げた。

 風が吹いた。旗がなびく。

 スコアボードに刻まれる最初の一球が、いまにも始まろうとしていた。


 開会式を目前に控えた球場ロッカールーム。
 いつものふざけた声も、今朝は少し控えめだった。

 三島 大地は、自分のロッカー前に腰を下ろし、ゆっくりと新品のスパイクを履いていた。
 白いボディに、校名の刺繍がさりげなく入った黒のライン。まだ硬さの残る革を、慎重に足に馴染ませるように紐を結ぶ。

 その動作の合間、さりげなく仲間たちの様子に目を向ける。

 藤木は何度もバットを素振りして、緊張を紛らわせている。
 小野寺は変わらずに口笛を吹いているが、今日だけは吹き終わるたびに小さく深呼吸していた。
 石原はグラブの紐を引き直している最中も、ミットに視線を落としたまま、何かを呟いていた。

 小野寺、浜中、松井、滝川、そして風祭。
 みんな顔つきが変わっていた。冗談は飛ばしても、目の奥にはしっかりとした火が灯っている。

 三島はその空気に、満足げにひとつ頷いた。

「いいな。全員、ちゃんと“勝ちたい顔”してる」

 主将としての使命は、戦う前からもう始まっていた。
 声を出すこと、雰囲気を作ること、誰よりも先に立つこと──
 でも今は、なによりまず「勝ちたい」と思う仲間がいることが嬉しかった。

 新品のスパイクの足裏を、そっと床に置く。
 ぴしり、と足元に力を入れると、革の音が静かに響いた。

 そしてロッカールームを出て、グラウンドへと続く長い通路に足を踏み出す。
 照明の落ちた通路の中で、靴音だけが軽快に響く。

 スッ、スッ、スッ……と、スパイクがアスファルトに噛む音。
 その音が、やけに心地よく感じられた。

 三島は足を止めて、小さく深呼吸をひとつ。

「よし……俺の夏、始めてくるわ」

 そのつぶやきは、誰に向けたわけでもない。
 ただ、胸の奥にぽつんと浮かんだ決意を、自分で口にしただけ。

 その背中は、誰よりもまっすぐだった。
 新品のスパイクの底には、まだ土の色も汗もない。
 だが、これから始まる夏が、その一歩一歩に必ず色を刻んでいく。

 三島大地の“最後の夏”が、今、静かに動き始めた。

 開会式が終わったばかりのスタジアム。
 応援の喧騒がスタンドに渦巻く中、ベンチ裏の一角には、少しだけ静かな空気があった。

 石原翔太は、自分のキャッチャーマスクを手に、ベンチ脇の壁にもたれかかる。
 汗がにじんだ額をぬぐいながら、ふとその面を見つめた。

 スチールのフレームに、皮のバンド。
 使い込んだ部分に、自分の癖がうっすらと刻まれている。
 何度もファウルチップを受け、地面に投げ出され、それでも自分の顔を守ってきた道具だ。

「なあ、風祭……」

 ぽつりと、小さく呟く。
 誰かが聞いていたら、「何ぶつぶつ言ってんだよ」と笑われるかもしれない。
 でも今は、誰もいない。だからこそ、言えた。

「今日のお前、ちょっとだけ“エースの顔”してたぞ」

 さっき、開会式の列に立っていた風祭球児の背中。
 その“1”の数字が、あんなにも大きく、はっきりと見えたのは初めてだった。

 キャッチャーというポジションは、いつも“後ろ”から見ている。
 ピッチャーのすべてを、マスク越しに見つめて、受け止めてきた。
 今日、その視界に映った風祭の背中は──迷いじゃなく、何かを受け取った者の背中だった。

 石原はマスクをひと振りして、そっとベンチに掛ける。

「……ま、いいか。とりあえず、受けてやるよ。お前の“初戦”を」

 ほんの少し、口元がゆるむ。

 守りたい投球──
 そんな気持ちが、自分の中にもあったことに、今さらながら気づいた。

 キャッチャーマスクの中で、石原の目が静かに輝いていた。



 グラウンドの土が、今日はいつもより固く感じた。
 開会式が終わったあとの整列、背筋を伸ばして立つナインの中に、風祭くんの姿を見つけた私は、そっと手帳を開く。

 整列中、風祭くんのつばの角度が、いつもよりまっすぐだった。
 下を向くことが癖だったはずの彼が、今日は空をちゃんと見ていた。
 太陽の光を正面から浴びて、顔をしかめながら、それでも前だけを見ていた。

 スパイクをはいた足が、小さく震えていた気がする。
 誰も気づかないような微かな震え。
 でも私は知ってる。それは、怖さや不安じゃなくて……きっと、覚悟だった。

 背中の「1」が、今日は少し大きく見えた。
 前まで、どこか借り物みたいだったその数字が、今日はちゃんと“彼のもの”になっていた。
 ユニフォーム越しに見える肩の線が、やけに頼もしくて。ちょっとだけ、胸がぎゅっとなった。

 グラウンドの端で、私は静かにベンチの影にしゃがみ、ボールペンを走らせた。

 今日の風祭くん:
 声は出さなかった。でも、静かに“始めてた”。

 ふと風が吹いて、手帳のページが一枚、めくれた。
 何気なく書きつづけてきた“観察日記”だけど──
 もしかしたらこれは、“応援日記”なのかもしれない。
 そんなことを思った、開幕の日の午後だった。



 試合開始五分前。
 球場のベンチに腰を下ろしながら、風祭修司は静かにスコアシートを開いた。ペンを走らせるでもなく、ただ一枚の紙と、グラウンドに立つ九人の背中を交互に見つめる。

 風は、涼しいというよりは、少しだけ熱を帯びていた。

 まずセンターに立つのは――主将・三島 大地。
 1番バッター、俊足巧打。ベンチでもグラウンドでも声を絶やさず、仲間を引っ張るその背中は、誰よりも前を見ている。

 ライトには、バント職人・藤木 誠。
 身体は小さくても“役割”を知っている。器用にバットを操るその構えは、今日もきっちりバントを決めそうな雰囲気だった。

 サードの小野寺 翼は、相変わらずの“当たればデカい”スラッガー気質。
 その分、グラウンドでは誰よりも落ち着きがなく、むしろそれがらしさだった。

 そしてキャッチャー・石原 翔太。
 3年生らしい沈着冷静さ。ピッチャーとの呼吸を確かめながら、すでに構えをイメージしているのがわかる。

 左翼の浜中 陽介は、元サッカー部らしい脚のさばき。
 守備位置から一歩一歩、グラウンドを確かめるように歩いている。

 一塁手の田代 海翔は、唯一の1年生先発。
 体格の良さとその豪快さを買われたが、緊張でユニフォームの裾をちょっとだけ握っていたのを、修司は見逃さなかった。

 セカンドの松井 智也は、データ重視の守備職人。
 ベンチ前で試合用のメモをまだ確認していた姿に、つい笑みが漏れた。

 ショートの滝川 陸は、静かにノックを受け続けていた無口な守備の鬼。
 その立ち姿からは、もう試合の始まりに備える集中力がにじんでいた。

 そして、マウンドに立つのは――風祭 球児。

 修司は黙って、その姿を見つめる。
 スパイクをゆっくり地面に埋めるようにして立ったその足取り。
 真新しいユニフォームの背中に浮かぶ“1”の数字。

「息子の顔が、今日は“選手”に戻ってた」

 無言のようでいて、背中で語るような投球姿勢。
 それを正面から受け止めるキャッチャー石原の構えはぶれず、三島の声が外野にまで響いていた。

「キャッチャーのリード、主将の声、
 そして“背中の番号”──全部、悪くない」

 あえて多くを語らなかったのは、信じる覚悟ができたからだ。
 息子としてではない。選手として、ひとりのピッチャーとして──風祭球児を見ようと決めていた。

 スコアシートの端に、修司はペンを置くようにして、ひとことだけ、記した。

「この夏、ちゃんと預けてみるか。背番号“1”ってやつを」

 ノートを閉じる手は、いつもより少しだけ静かだった。
 ベンチに座る風祭修司の眼差しは、もう“父”ではなく、“監督”のそれになっていた。

















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