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第24話 :『まぶしい人を、ちょっとだけ嫌いになりそうだった』
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昼休みの校庭が、今日はやけに騒がしかった。
桜が丘高校の掲示板には、昨日の地方ニュースの切り抜きが大きく貼られていた。
「桜が丘高・風祭球児、完全試合達成」
──九回、投球数七十、被安打ゼロ、四球ゼロ。
“まさに静かなるエース”と書かれたその見出しを、多くの生徒が立ち止まって眺めていた。
「風祭くんって、あんなにカッコよかったっけ?」
「私、試合見に行こうかな~」
「ねぇ、次の準決勝っていつ?応援に行くなら今しかなくない?」
そういう声が、今日に限ってやたらと耳についた。
千紗は、部室前のテーブルでスコア資料をまとめながら、ふと視線を上げた。
グラウンドでは、球児がいつものように黙々とキャッチボールをしている。
けれど、それを金網越しに見学している女子生徒たちの数は、明らかに増えていた。
(……うるさいな、もう)
ノートの上で、シャーペンの芯がカツンと折れた。
それが嫉妬なのだと、気づかないふりをしたのはたぶん、わざとだった。
放課後。
練習後の用具整理。夕方の西日が差し込む倉庫の中で、千紗と球児は二人きりだった。
「そっちのヘルメット、消毒済んだ?」
「あ、うん。並べといた」
何気ないやりとり。けれど、その沈黙の間に、千紗の胸の中では何度も言葉が渦を巻いていた。
(みんな、“ヒーロー”って言ってる……でも……)
我慢できなかった。
「……風祭くんのこと、最近みんながすごいって言ってるけどさ……」
千紗の声は少し震えていた。
「私は、ずっと前から見てたんだよ。あの……もっと下向いてて、背中がくたびれてて……でも、投げるときだけ真っすぐで……」
口に出した瞬間、顔が熱くなる。
言わなきゃよかった、とも思った。
でも、言わずにはいられなかった。
球児は、黙っていた。
いつものように無表情で、ただ少し、帽子のつばをいじっていた。
やっぱり、困らせたかな。
千紗が顔を背けかけた、そのときだった。
「……知ってるよ」
ぽつりと、低い声が返ってくる。
「最初に見つけてくれたの、千紗だった」
倉庫のシャッターから差し込む夕日が、金色の線を床に落としていた。
その光の中で、千紗は静かに瞬きをする。
「……ほんとに?」
「うん」
それだけ言うと、球児はそっと手にしていたグローブを棚に戻した。
沈黙が、少し優しかった。
倉庫を出ると、まだ少し風が残っていた。
帽子のつばがふわりと持ち上がるのを、千紗は手で押さえた。
「……まぶしいな」
そうつぶやくと、隣にいた球児も同じように目を細めて空を見上げていた。
たぶん、気づかれたくなかったのは──
千紗の“好き”は、もうとっくに、ただの憧れじゃなくなっていたこと。
それでも、ひとつだけ誓った。
(次の試合の日も、私はあなたの背中を見てる。誰よりも近くで、見届ける)
そしてその日の日記には、こう書かれていた。
「風祭くんは今日も、まっすぐだった。
……ちょっとまぶしくて、ちょっとだけ嫌いになりそうだった」
──でも、大丈夫。
私、ちゃんと見てるから。
■
夕暮れのグラウンドというのは、なんとも不思議な場所だ。
部活の喧騒も、走り回る足音も、ひとつずつ薄れていく時間。
風の音だけが残って、砂埃の匂いに包まれる。
その日、風祭修司はいつものように、少し遅れてグラウンドに顔を出した。
監督としてではなく、ただの“父親”として。
──と、思っていた。
ふと目に入ったのは、用具倉庫の前。
スパイクを片づける風祭球児と、その隣で袋を抱えたマネージャー・千紗の姿だった。
会話の内容までは聞き取れない。
けれど、彼女の手の動きが止まり、球児がゆっくり顔を向ける。
そして、千紗の頬がほんのり赤くなって、それに球児が口元だけで笑う──
その“空気”を、修司はただ立ち止まって、眺めていた。
(……こういうの、部活ノートには書けねぇよな)
野球部の監督としての修司なら、
「こんな時期に色恋沙汰は……」なんてことを言ったかもしれない。
でも、父親としての自分は……否定できなかった。
──あいつ、ちゃんと見てくれてたんだな。
修司の頭の中に、昔の記憶がよみがえる。
高校時代。夏の大会直前、恋人と呼べるかもあやしい相手から言われた一言。
「修司くんは、グラウンドでは“監督”みたいな顔するけど、
ほんとはただ、誰かに“見てほしい”だけの人なんじゃない?」
そのときはうまく笑えなかった。
でも、今なら少しだけ、あの言葉がわかる気がする。
球児の隣にいたのが、たとえば誰でもよかったわけじゃない。
たまたまじゃない。
……選ばれて、そこにいたんだ。あの子は。
グラウンドのベンチに腰かけて、修司は手帳を取り出す。
そこには、練習メニューでも作戦でもない、ただの“父親メモ”。
【2025年 夏】
・球児、完全試合後も変わらず練習
・千紗さん、引き続き支えてくれている様子
・おそらく、本人たちはまだ気づいていない(?)
その下に、赤ペンでひとこと。
「このまま、“試合終了”まで見守る」
風が、少し強く吹いた。
修司は帽子のつばを直しながら、立ち上がる。
──監督としては、余計なことはしない。
──でも父親としては、ちょっとだけ祈ってやりたくなる。
まっすぐで、不器用で、でも確かに惹かれ合ってるふたりの未来を。
■
夕方の部室は、いつもより静かだった。
試合のない日。だけど、なんだか今日は心がざわついていた。
千紗は、棚の一番下から取り出したお気に入りのノートを開く。表紙には小さなステッカーが貼ってあって、「観察日記」と控えめに手書きされている。ページをめくる指先が、ほんの少し震えていた。
──“今日の風祭くん”。
何度も書いてきた、その言葉をペン先でなぞる。だけど今日は、続きがうまく出てこない。
“今日の風祭くん:グラウンドでは、人気者だった”
“見学に来た女の子たちが『かっこいい』って言ってた。
たぶん、本当にそうなんだろうな。投げてる姿、私も好きだし”
“だけど、ちょっとだけ──ほんの、ちょっとだけ、もやもやした”
ページの端に、いつもより丸みのある文字で、もう一文。
“みんなが見てる“ヒーロー”を、私はずっと前から見てたのに──って思った。
それって、わがままかな。マネージャーなのに、なんでこんな気持ちになるんだろう”
ノートの中で、千紗の心がそっと声を上げる。
差し入れの麦茶を準備していた手が止まって、「今日は塩、入れすぎちゃうかも」って独り言がこぼれた。
風祭くんはきっと気づかない。あの子たちが見つめてた時間より、もっとずっと前から見ていた私の視線のことなんて。
でも──それでも、いい。
彼がグラウンドで振り返ったとき、そこに私がいたらいい。
最後にページの余白に、ペン先でぎゅっと書き込む。
「今日の風祭くん:まぶしかった。
ちょっとだけ、嫌いになりそうだった。
……でも、やっぱり、好きだった」
書き終えたあと、千紗は手帳を胸に当てて、息をひとつ吸い込んだ。
窓の外では、風が静かに夏の夕方を揺らしていた。グラウンドの砂ぼこりが、きらきら光っていた。
たぶん、次に会ったときは、ちゃんと笑える。
そう思ったら、少しだけ心が軽くなった。
■
キャッチャーというポジションは、野球じゃ「内野の司令塔」なんて呼ばれるけど──
本当に大変なのは、グラウンドの外だったりもする。
たとえば今、部室前のベンチで麦茶を手にぼーっとしてる風祭球児を、
ちょっと離れた日陰から見ているマネージャーがひとり。
そっぽを向いてるつもりでも、目線はちゃんと追ってる。
でも本人は気づかないふりをして、差し入れの氷をいじってる。
……千紗、わかりやすいなあ。と、石原は苦笑する。
「よっ。風祭、ちょっと手、貸してくれ」
何かの作業をしていたふりをして、石原は部室の中へと球児を連れていく。
その視線が、ふっと千紗の方へ向けられたのを、彼女は気づかなかった。
「なあ、お前さ」
部室の中で、ドアを閉めた石原が急に真面目な顔になる。
「……マネージャーの千紗、さ。結構前からお前のこと、見てるよな」
「え?」
不意打ちだったらしい。風祭は目を丸くする。
「いや、べつに変な意味じゃなくて。……たとえば、俺らのピッチング練習のときとか、
あいつ、お前の投球数と球種、全部メモってんぞ? 俺らにはやってないのに」
「……ああ、なんか最近、ノートよく開いてるなとは思ってたけど」
「なーんも気づいてない顔だな、お前……」
石原は呆れたように言いながら、棚から氷の入った麦茶のボトルを一本手に取る。
「はい、これ。マネージャーに届けてこいよ。ついでに“ありがとう”って言っとけ」
「……俺が?」
「俺が持ってったら、意味ねーだろが。補助線ってのはな、
見えないところに、ちゃんと引いとくから機能すんだよ」
風祭は少し戸惑いながらも、そのボトルを受け取った。
「なんでそんなこと、するんだよ?」
石原はしばらく黙って、それからグラブの紐をゆっくり締め直しながら呟く。
「……完封だろうが完全試合だろうが、結局のところ、チームって“気持ち”だからさ。
ピッチャーがおかしな顔してたら、守備も構えらんねぇんだよ。
お前の“気持ちの重心”がブレたら、困るのは俺なんだって」
風祭はしばらく黙って、それから笑った。
「お前、そういうとこ、ちゃんとしてんな」
「うるせぇよ。さっさと行けって」
ドアが開く。夕方の風が、ちょうどベンチまで届いて、麦茶のボトルに当たる光が揺れた。
千紗は驚いたように目を丸くし、それからすぐ、視線を落として小さく笑った。
──たった一歩でも、背中を押すことができれば。
石原翔太の引いた“補助線”は、誰にも見えないけど、
たしかにふたりの距離を、ほんの少しだけ近づけていた。
■
準決勝を控えた最後の調整練習。
陽ざしがまぶしい昼下がり、桜が丘のグラウンドは、いつもよりにぎやかだった。
フェンスの外、ちょっとした観客席スペースに、数人の女子生徒たち。
部外者といっても、同じ学校の生徒。もちろん見学は自由だ。
けれどその声が──
「きゃー! 風祭くん、今日もかっこいいー!」
「え、見た? 今、キャップ取った! うわ、髪、サラッとしてた!」
まるでアイドルでも登場したかのような騒ぎに、飯塚は思わずスコアブックを閉じかけた。
(……なんスかね、これ)
スコアラーとしてベンチ入りこそしない飯塚は、スタンドからの観察が主な仕事。
だけど今日は、どうにも集中できない。
というのも、数日前の“完全試合”のニュース以降、風祭球児の人気は鰻登り。
まるで野球部じゃなく、芸能事務所の新人を見てるかのようだ。
飯塚は静かにスコアブックを開いた。
日付の横に“準決勝前・練習観察”と記す。
そのページの下の余白に、ふと、ペンを走らせた。
《ヒーロー補足欄》
・風祭球児:完全試合達成後、女子生徒の注目度120%上昇
・本日の観客数:女子6名(たぶんクラス違う子も混じってる)
・歓声の平均デシベル:試合中より高い(気がする)
そしてその下に、小さくこう書いた。
→ なお、マネージャーの千紗先輩は笑顔ゼロ。これは珍しい現象。要観察。
飯塚は自分のメモを眺めながら、ちょっとだけニヤリとした。
スコアブックというのは、試合の記録だけを書くもんじゃない。
その“裏側”まで書いてこそ、本物のスコアラーだ。
彼はさらにページをめくり、新たな余白にこう落書きした。
《恋愛戦線スコア速報》
風祭球児:注目度A+/自覚度C
千紗マネージャー:注目度B/自覚度……たぶんD?
石原キャッチャー:状況把握度A+(この人、何か気づいてる)
自分:観察力S(なお、野球以外で役に立たない)
そして、最後にこう締めくくった。
“風祭、あんた、グラウンドのヒーローなだけじゃないみたいっスよ”
飯塚はスコアブックを閉じて、つぶやいた。
「……こりゃ、準決勝より難しい試合が始まってるかもしれねっスね」
風はまだ、ちょっとだけ甘い春の匂いを残して吹いていた。
桜が丘高校の掲示板には、昨日の地方ニュースの切り抜きが大きく貼られていた。
「桜が丘高・風祭球児、完全試合達成」
──九回、投球数七十、被安打ゼロ、四球ゼロ。
“まさに静かなるエース”と書かれたその見出しを、多くの生徒が立ち止まって眺めていた。
「風祭くんって、あんなにカッコよかったっけ?」
「私、試合見に行こうかな~」
「ねぇ、次の準決勝っていつ?応援に行くなら今しかなくない?」
そういう声が、今日に限ってやたらと耳についた。
千紗は、部室前のテーブルでスコア資料をまとめながら、ふと視線を上げた。
グラウンドでは、球児がいつものように黙々とキャッチボールをしている。
けれど、それを金網越しに見学している女子生徒たちの数は、明らかに増えていた。
(……うるさいな、もう)
ノートの上で、シャーペンの芯がカツンと折れた。
それが嫉妬なのだと、気づかないふりをしたのはたぶん、わざとだった。
放課後。
練習後の用具整理。夕方の西日が差し込む倉庫の中で、千紗と球児は二人きりだった。
「そっちのヘルメット、消毒済んだ?」
「あ、うん。並べといた」
何気ないやりとり。けれど、その沈黙の間に、千紗の胸の中では何度も言葉が渦を巻いていた。
(みんな、“ヒーロー”って言ってる……でも……)
我慢できなかった。
「……風祭くんのこと、最近みんながすごいって言ってるけどさ……」
千紗の声は少し震えていた。
「私は、ずっと前から見てたんだよ。あの……もっと下向いてて、背中がくたびれてて……でも、投げるときだけ真っすぐで……」
口に出した瞬間、顔が熱くなる。
言わなきゃよかった、とも思った。
でも、言わずにはいられなかった。
球児は、黙っていた。
いつものように無表情で、ただ少し、帽子のつばをいじっていた。
やっぱり、困らせたかな。
千紗が顔を背けかけた、そのときだった。
「……知ってるよ」
ぽつりと、低い声が返ってくる。
「最初に見つけてくれたの、千紗だった」
倉庫のシャッターから差し込む夕日が、金色の線を床に落としていた。
その光の中で、千紗は静かに瞬きをする。
「……ほんとに?」
「うん」
それだけ言うと、球児はそっと手にしていたグローブを棚に戻した。
沈黙が、少し優しかった。
倉庫を出ると、まだ少し風が残っていた。
帽子のつばがふわりと持ち上がるのを、千紗は手で押さえた。
「……まぶしいな」
そうつぶやくと、隣にいた球児も同じように目を細めて空を見上げていた。
たぶん、気づかれたくなかったのは──
千紗の“好き”は、もうとっくに、ただの憧れじゃなくなっていたこと。
それでも、ひとつだけ誓った。
(次の試合の日も、私はあなたの背中を見てる。誰よりも近くで、見届ける)
そしてその日の日記には、こう書かれていた。
「風祭くんは今日も、まっすぐだった。
……ちょっとまぶしくて、ちょっとだけ嫌いになりそうだった」
──でも、大丈夫。
私、ちゃんと見てるから。
■
夕暮れのグラウンドというのは、なんとも不思議な場所だ。
部活の喧騒も、走り回る足音も、ひとつずつ薄れていく時間。
風の音だけが残って、砂埃の匂いに包まれる。
その日、風祭修司はいつものように、少し遅れてグラウンドに顔を出した。
監督としてではなく、ただの“父親”として。
──と、思っていた。
ふと目に入ったのは、用具倉庫の前。
スパイクを片づける風祭球児と、その隣で袋を抱えたマネージャー・千紗の姿だった。
会話の内容までは聞き取れない。
けれど、彼女の手の動きが止まり、球児がゆっくり顔を向ける。
そして、千紗の頬がほんのり赤くなって、それに球児が口元だけで笑う──
その“空気”を、修司はただ立ち止まって、眺めていた。
(……こういうの、部活ノートには書けねぇよな)
野球部の監督としての修司なら、
「こんな時期に色恋沙汰は……」なんてことを言ったかもしれない。
でも、父親としての自分は……否定できなかった。
──あいつ、ちゃんと見てくれてたんだな。
修司の頭の中に、昔の記憶がよみがえる。
高校時代。夏の大会直前、恋人と呼べるかもあやしい相手から言われた一言。
「修司くんは、グラウンドでは“監督”みたいな顔するけど、
ほんとはただ、誰かに“見てほしい”だけの人なんじゃない?」
そのときはうまく笑えなかった。
でも、今なら少しだけ、あの言葉がわかる気がする。
球児の隣にいたのが、たとえば誰でもよかったわけじゃない。
たまたまじゃない。
……選ばれて、そこにいたんだ。あの子は。
グラウンドのベンチに腰かけて、修司は手帳を取り出す。
そこには、練習メニューでも作戦でもない、ただの“父親メモ”。
【2025年 夏】
・球児、完全試合後も変わらず練習
・千紗さん、引き続き支えてくれている様子
・おそらく、本人たちはまだ気づいていない(?)
その下に、赤ペンでひとこと。
「このまま、“試合終了”まで見守る」
風が、少し強く吹いた。
修司は帽子のつばを直しながら、立ち上がる。
──監督としては、余計なことはしない。
──でも父親としては、ちょっとだけ祈ってやりたくなる。
まっすぐで、不器用で、でも確かに惹かれ合ってるふたりの未来を。
■
夕方の部室は、いつもより静かだった。
試合のない日。だけど、なんだか今日は心がざわついていた。
千紗は、棚の一番下から取り出したお気に入りのノートを開く。表紙には小さなステッカーが貼ってあって、「観察日記」と控えめに手書きされている。ページをめくる指先が、ほんの少し震えていた。
──“今日の風祭くん”。
何度も書いてきた、その言葉をペン先でなぞる。だけど今日は、続きがうまく出てこない。
“今日の風祭くん:グラウンドでは、人気者だった”
“見学に来た女の子たちが『かっこいい』って言ってた。
たぶん、本当にそうなんだろうな。投げてる姿、私も好きだし”
“だけど、ちょっとだけ──ほんの、ちょっとだけ、もやもやした”
ページの端に、いつもより丸みのある文字で、もう一文。
“みんなが見てる“ヒーロー”を、私はずっと前から見てたのに──って思った。
それって、わがままかな。マネージャーなのに、なんでこんな気持ちになるんだろう”
ノートの中で、千紗の心がそっと声を上げる。
差し入れの麦茶を準備していた手が止まって、「今日は塩、入れすぎちゃうかも」って独り言がこぼれた。
風祭くんはきっと気づかない。あの子たちが見つめてた時間より、もっとずっと前から見ていた私の視線のことなんて。
でも──それでも、いい。
彼がグラウンドで振り返ったとき、そこに私がいたらいい。
最後にページの余白に、ペン先でぎゅっと書き込む。
「今日の風祭くん:まぶしかった。
ちょっとだけ、嫌いになりそうだった。
……でも、やっぱり、好きだった」
書き終えたあと、千紗は手帳を胸に当てて、息をひとつ吸い込んだ。
窓の外では、風が静かに夏の夕方を揺らしていた。グラウンドの砂ぼこりが、きらきら光っていた。
たぶん、次に会ったときは、ちゃんと笑える。
そう思ったら、少しだけ心が軽くなった。
■
キャッチャーというポジションは、野球じゃ「内野の司令塔」なんて呼ばれるけど──
本当に大変なのは、グラウンドの外だったりもする。
たとえば今、部室前のベンチで麦茶を手にぼーっとしてる風祭球児を、
ちょっと離れた日陰から見ているマネージャーがひとり。
そっぽを向いてるつもりでも、目線はちゃんと追ってる。
でも本人は気づかないふりをして、差し入れの氷をいじってる。
……千紗、わかりやすいなあ。と、石原は苦笑する。
「よっ。風祭、ちょっと手、貸してくれ」
何かの作業をしていたふりをして、石原は部室の中へと球児を連れていく。
その視線が、ふっと千紗の方へ向けられたのを、彼女は気づかなかった。
「なあ、お前さ」
部室の中で、ドアを閉めた石原が急に真面目な顔になる。
「……マネージャーの千紗、さ。結構前からお前のこと、見てるよな」
「え?」
不意打ちだったらしい。風祭は目を丸くする。
「いや、べつに変な意味じゃなくて。……たとえば、俺らのピッチング練習のときとか、
あいつ、お前の投球数と球種、全部メモってんぞ? 俺らにはやってないのに」
「……ああ、なんか最近、ノートよく開いてるなとは思ってたけど」
「なーんも気づいてない顔だな、お前……」
石原は呆れたように言いながら、棚から氷の入った麦茶のボトルを一本手に取る。
「はい、これ。マネージャーに届けてこいよ。ついでに“ありがとう”って言っとけ」
「……俺が?」
「俺が持ってったら、意味ねーだろが。補助線ってのはな、
見えないところに、ちゃんと引いとくから機能すんだよ」
風祭は少し戸惑いながらも、そのボトルを受け取った。
「なんでそんなこと、するんだよ?」
石原はしばらく黙って、それからグラブの紐をゆっくり締め直しながら呟く。
「……完封だろうが完全試合だろうが、結局のところ、チームって“気持ち”だからさ。
ピッチャーがおかしな顔してたら、守備も構えらんねぇんだよ。
お前の“気持ちの重心”がブレたら、困るのは俺なんだって」
風祭はしばらく黙って、それから笑った。
「お前、そういうとこ、ちゃんとしてんな」
「うるせぇよ。さっさと行けって」
ドアが開く。夕方の風が、ちょうどベンチまで届いて、麦茶のボトルに当たる光が揺れた。
千紗は驚いたように目を丸くし、それからすぐ、視線を落として小さく笑った。
──たった一歩でも、背中を押すことができれば。
石原翔太の引いた“補助線”は、誰にも見えないけど、
たしかにふたりの距離を、ほんの少しだけ近づけていた。
■
準決勝を控えた最後の調整練習。
陽ざしがまぶしい昼下がり、桜が丘のグラウンドは、いつもよりにぎやかだった。
フェンスの外、ちょっとした観客席スペースに、数人の女子生徒たち。
部外者といっても、同じ学校の生徒。もちろん見学は自由だ。
けれどその声が──
「きゃー! 風祭くん、今日もかっこいいー!」
「え、見た? 今、キャップ取った! うわ、髪、サラッとしてた!」
まるでアイドルでも登場したかのような騒ぎに、飯塚は思わずスコアブックを閉じかけた。
(……なんスかね、これ)
スコアラーとしてベンチ入りこそしない飯塚は、スタンドからの観察が主な仕事。
だけど今日は、どうにも集中できない。
というのも、数日前の“完全試合”のニュース以降、風祭球児の人気は鰻登り。
まるで野球部じゃなく、芸能事務所の新人を見てるかのようだ。
飯塚は静かにスコアブックを開いた。
日付の横に“準決勝前・練習観察”と記す。
そのページの下の余白に、ふと、ペンを走らせた。
《ヒーロー補足欄》
・風祭球児:完全試合達成後、女子生徒の注目度120%上昇
・本日の観客数:女子6名(たぶんクラス違う子も混じってる)
・歓声の平均デシベル:試合中より高い(気がする)
そしてその下に、小さくこう書いた。
→ なお、マネージャーの千紗先輩は笑顔ゼロ。これは珍しい現象。要観察。
飯塚は自分のメモを眺めながら、ちょっとだけニヤリとした。
スコアブックというのは、試合の記録だけを書くもんじゃない。
その“裏側”まで書いてこそ、本物のスコアラーだ。
彼はさらにページをめくり、新たな余白にこう落書きした。
《恋愛戦線スコア速報》
風祭球児:注目度A+/自覚度C
千紗マネージャー:注目度B/自覚度……たぶんD?
石原キャッチャー:状況把握度A+(この人、何か気づいてる)
自分:観察力S(なお、野球以外で役に立たない)
そして、最後にこう締めくくった。
“風祭、あんた、グラウンドのヒーローなだけじゃないみたいっスよ”
飯塚はスコアブックを閉じて、つぶやいた。
「……こりゃ、準決勝より難しい試合が始まってるかもしれねっスね」
風はまだ、ちょっとだけ甘い春の匂いを残して吹いていた。
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