完結『夏空フォークボール』

カトラス

文字の大きさ
24 / 35

第24話 :『まぶしい人を、ちょっとだけ嫌いになりそうだった』

しおりを挟む
 昼休みの校庭が、今日はやけに騒がしかった。
 桜が丘高校の掲示板には、昨日の地方ニュースの切り抜きが大きく貼られていた。

「桜が丘高・風祭球児、完全試合達成」
──九回、投球数七十、被安打ゼロ、四球ゼロ。
“まさに静かなるエース”と書かれたその見出しを、多くの生徒が立ち止まって眺めていた。

「風祭くんって、あんなにカッコよかったっけ?」
「私、試合見に行こうかな~」
「ねぇ、次の準決勝っていつ?応援に行くなら今しかなくない?」

 そういう声が、今日に限ってやたらと耳についた。

 千紗は、部室前のテーブルでスコア資料をまとめながら、ふと視線を上げた。
 グラウンドでは、球児がいつものように黙々とキャッチボールをしている。
 けれど、それを金網越しに見学している女子生徒たちの数は、明らかに増えていた。

(……うるさいな、もう)
 ノートの上で、シャーペンの芯がカツンと折れた。

 それが嫉妬なのだと、気づかないふりをしたのはたぶん、わざとだった。

 放課後。
 練習後の用具整理。夕方の西日が差し込む倉庫の中で、千紗と球児は二人きりだった。

「そっちのヘルメット、消毒済んだ?」
「あ、うん。並べといた」

 何気ないやりとり。けれど、その沈黙の間に、千紗の胸の中では何度も言葉が渦を巻いていた。

(みんな、“ヒーロー”って言ってる……でも……)

 我慢できなかった。

「……風祭くんのこと、最近みんながすごいって言ってるけどさ……」

 千紗の声は少し震えていた。

「私は、ずっと前から見てたんだよ。あの……もっと下向いてて、背中がくたびれてて……でも、投げるときだけ真っすぐで……」

 口に出した瞬間、顔が熱くなる。
 言わなきゃよかった、とも思った。
 でも、言わずにはいられなかった。

 球児は、黙っていた。
 いつものように無表情で、ただ少し、帽子のつばをいじっていた。

 やっぱり、困らせたかな。

 千紗が顔を背けかけた、そのときだった。

「……知ってるよ」

 ぽつりと、低い声が返ってくる。

「最初に見つけてくれたの、千紗だった」

 倉庫のシャッターから差し込む夕日が、金色の線を床に落としていた。
 その光の中で、千紗は静かに瞬きをする。

「……ほんとに?」
「うん」

 それだけ言うと、球児はそっと手にしていたグローブを棚に戻した。

 沈黙が、少し優しかった。

 倉庫を出ると、まだ少し風が残っていた。
 帽子のつばがふわりと持ち上がるのを、千紗は手で押さえた。

「……まぶしいな」
 そうつぶやくと、隣にいた球児も同じように目を細めて空を見上げていた。

 たぶん、気づかれたくなかったのは──
 千紗の“好き”は、もうとっくに、ただの憧れじゃなくなっていたこと。

 それでも、ひとつだけ誓った。

(次の試合の日も、私はあなたの背中を見てる。誰よりも近くで、見届ける)

 

 そしてその日の日記には、こう書かれていた。

「風祭くんは今日も、まっすぐだった。
 ……ちょっとまぶしくて、ちょっとだけ嫌いになりそうだった」

──でも、大丈夫。
 私、ちゃんと見てるから。



 夕暮れのグラウンドというのは、なんとも不思議な場所だ。

 部活の喧騒も、走り回る足音も、ひとつずつ薄れていく時間。
 風の音だけが残って、砂埃の匂いに包まれる。

 その日、風祭修司はいつものように、少し遅れてグラウンドに顔を出した。
 監督としてではなく、ただの“父親”として。
 ──と、思っていた。

 ふと目に入ったのは、用具倉庫の前。
 スパイクを片づける風祭球児と、その隣で袋を抱えたマネージャー・千紗の姿だった。

 会話の内容までは聞き取れない。
 けれど、彼女の手の動きが止まり、球児がゆっくり顔を向ける。
 そして、千紗の頬がほんのり赤くなって、それに球児が口元だけで笑う──

 その“空気”を、修司はただ立ち止まって、眺めていた。

 (……こういうの、部活ノートには書けねぇよな)

 野球部の監督としての修司なら、
 「こんな時期に色恋沙汰は……」なんてことを言ったかもしれない。
 でも、父親としての自分は……否定できなかった。

 ──あいつ、ちゃんと見てくれてたんだな。

 修司の頭の中に、昔の記憶がよみがえる。

 高校時代。夏の大会直前、恋人と呼べるかもあやしい相手から言われた一言。

 「修司くんは、グラウンドでは“監督”みたいな顔するけど、
  ほんとはただ、誰かに“見てほしい”だけの人なんじゃない?」

 そのときはうまく笑えなかった。
 でも、今なら少しだけ、あの言葉がわかる気がする。

 球児の隣にいたのが、たとえば誰でもよかったわけじゃない。
 たまたまじゃない。
 ……選ばれて、そこにいたんだ。あの子は。

 グラウンドのベンチに腰かけて、修司は手帳を取り出す。
 そこには、練習メニューでも作戦でもない、ただの“父親メモ”。

 【2025年 夏】
 ・球児、完全試合後も変わらず練習
 ・千紗さん、引き続き支えてくれている様子
 ・おそらく、本人たちはまだ気づいていない(?)

 その下に、赤ペンでひとこと。

 「このまま、“試合終了”まで見守る」

 風が、少し強く吹いた。
 修司は帽子のつばを直しながら、立ち上がる。

 ──監督としては、余計なことはしない。
 ──でも父親としては、ちょっとだけ祈ってやりたくなる。

 まっすぐで、不器用で、でも確かに惹かれ合ってるふたりの未来を。


 夕方の部室は、いつもより静かだった。

 試合のない日。だけど、なんだか今日は心がざわついていた。

 千紗は、棚の一番下から取り出したお気に入りのノートを開く。表紙には小さなステッカーが貼ってあって、「観察日記」と控えめに手書きされている。ページをめくる指先が、ほんの少し震えていた。

 ──“今日の風祭くん”。

 何度も書いてきた、その言葉をペン先でなぞる。だけど今日は、続きがうまく出てこない。

 

“今日の風祭くん:グラウンドでは、人気者だった”

“見学に来た女の子たちが『かっこいい』って言ってた。
 たぶん、本当にそうなんだろうな。投げてる姿、私も好きだし”

“だけど、ちょっとだけ──ほんの、ちょっとだけ、もやもやした”

 

 ページの端に、いつもより丸みのある文字で、もう一文。

 

“みんなが見てる“ヒーロー”を、私はずっと前から見てたのに──って思った。
 それって、わがままかな。マネージャーなのに、なんでこんな気持ちになるんだろう”

 ノートの中で、千紗の心がそっと声を上げる。

 差し入れの麦茶を準備していた手が止まって、「今日は塩、入れすぎちゃうかも」って独り言がこぼれた。

 風祭くんはきっと気づかない。あの子たちが見つめてた時間より、もっとずっと前から見ていた私の視線のことなんて。

 でも──それでも、いい。

 彼がグラウンドで振り返ったとき、そこに私がいたらいい。

 最後にページの余白に、ペン先でぎゅっと書き込む。

 「今日の風祭くん:まぶしかった。
 ちょっとだけ、嫌いになりそうだった。
 ……でも、やっぱり、好きだった」

 書き終えたあと、千紗は手帳を胸に当てて、息をひとつ吸い込んだ。

 窓の外では、風が静かに夏の夕方を揺らしていた。グラウンドの砂ぼこりが、きらきら光っていた。

 たぶん、次に会ったときは、ちゃんと笑える。
 そう思ったら、少しだけ心が軽くなった。



 キャッチャーというポジションは、野球じゃ「内野の司令塔」なんて呼ばれるけど──
 本当に大変なのは、グラウンドの外だったりもする。

 たとえば今、部室前のベンチで麦茶を手にぼーっとしてる風祭球児を、
 ちょっと離れた日陰から見ているマネージャーがひとり。
 そっぽを向いてるつもりでも、目線はちゃんと追ってる。
 でも本人は気づかないふりをして、差し入れの氷をいじってる。

 ……千紗、わかりやすいなあ。と、石原は苦笑する。

 「よっ。風祭、ちょっと手、貸してくれ」

 何かの作業をしていたふりをして、石原は部室の中へと球児を連れていく。
 その視線が、ふっと千紗の方へ向けられたのを、彼女は気づかなかった。

 「なあ、お前さ」

 部室の中で、ドアを閉めた石原が急に真面目な顔になる。

 「……マネージャーの千紗、さ。結構前からお前のこと、見てるよな」

 「え?」

 不意打ちだったらしい。風祭は目を丸くする。

 「いや、べつに変な意味じゃなくて。……たとえば、俺らのピッチング練習のときとか、
 あいつ、お前の投球数と球種、全部メモってんぞ? 俺らにはやってないのに」

 「……ああ、なんか最近、ノートよく開いてるなとは思ってたけど」

 「なーんも気づいてない顔だな、お前……」

 石原は呆れたように言いながら、棚から氷の入った麦茶のボトルを一本手に取る。

 「はい、これ。マネージャーに届けてこいよ。ついでに“ありがとう”って言っとけ」

 「……俺が?」

 「俺が持ってったら、意味ねーだろが。補助線ってのはな、
 見えないところに、ちゃんと引いとくから機能すんだよ」

 風祭は少し戸惑いながらも、そのボトルを受け取った。

 「なんでそんなこと、するんだよ?」

 石原はしばらく黙って、それからグラブの紐をゆっくり締め直しながら呟く。

 「……完封だろうが完全試合だろうが、結局のところ、チームって“気持ち”だからさ。
 ピッチャーがおかしな顔してたら、守備も構えらんねぇんだよ。
 お前の“気持ちの重心”がブレたら、困るのは俺なんだって」

 風祭はしばらく黙って、それから笑った。

 「お前、そういうとこ、ちゃんとしてんな」

 「うるせぇよ。さっさと行けって」

 ドアが開く。夕方の風が、ちょうどベンチまで届いて、麦茶のボトルに当たる光が揺れた。

 千紗は驚いたように目を丸くし、それからすぐ、視線を落として小さく笑った。

 ──たった一歩でも、背中を押すことができれば。

 石原翔太の引いた“補助線”は、誰にも見えないけど、
 たしかにふたりの距離を、ほんの少しだけ近づけていた。



 準決勝を控えた最後の調整練習。
 陽ざしがまぶしい昼下がり、桜が丘のグラウンドは、いつもよりにぎやかだった。

 フェンスの外、ちょっとした観客席スペースに、数人の女子生徒たち。
 部外者といっても、同じ学校の生徒。もちろん見学は自由だ。
 けれどその声が──

 「きゃー! 風祭くん、今日もかっこいいー!」
 「え、見た? 今、キャップ取った! うわ、髪、サラッとしてた!」

 まるでアイドルでも登場したかのような騒ぎに、飯塚は思わずスコアブックを閉じかけた。

 (……なんスかね、これ)

 スコアラーとしてベンチ入りこそしない飯塚は、スタンドからの観察が主な仕事。
 だけど今日は、どうにも集中できない。
 というのも、数日前の“完全試合”のニュース以降、風祭球児の人気は鰻登り。
 まるで野球部じゃなく、芸能事務所の新人を見てるかのようだ。

 飯塚は静かにスコアブックを開いた。
 日付の横に“準決勝前・練習観察”と記す。

 そのページの下の余白に、ふと、ペンを走らせた。

 《ヒーロー補足欄》

 ・風祭球児:完全試合達成後、女子生徒の注目度120%上昇
 ・本日の観客数:女子6名(たぶんクラス違う子も混じってる)
 ・歓声の平均デシベル:試合中より高い(気がする)

 そしてその下に、小さくこう書いた。

 → なお、マネージャーの千紗先輩は笑顔ゼロ。これは珍しい現象。要観察。

 飯塚は自分のメモを眺めながら、ちょっとだけニヤリとした。
 スコアブックというのは、試合の記録だけを書くもんじゃない。
 その“裏側”まで書いてこそ、本物のスコアラーだ。

 彼はさらにページをめくり、新たな余白にこう落書きした。

 《恋愛戦線スコア速報》
 風祭球児:注目度A+/自覚度C
 千紗マネージャー:注目度B/自覚度……たぶんD?
 石原キャッチャー:状況把握度A+(この人、何か気づいてる)
 自分:観察力S(なお、野球以外で役に立たない)

 そして、最後にこう締めくくった。

 “風祭、あんた、グラウンドのヒーローなだけじゃないみたいっスよ”

 飯塚はスコアブックを閉じて、つぶやいた。

 「……こりゃ、準決勝より難しい試合が始まってるかもしれねっスね」

 風はまだ、ちょっとだけ甘い春の匂いを残して吹いていた。















しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!

satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。 働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。 早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。 そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。 大丈夫なのかなぁ?

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら

瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。  タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。  しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。  剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

【完結】イケメンが邪魔して本命に告白できません

竹柏凪紗
青春
高校の入学式、芸能コースに通うアイドルでイケメンの如月風磨が普通科で目立たない最上碧衣の教室にやってきた。女子たちがキャーキャー騒ぐなか、風磨は碧衣の肩を抱き寄せ「お前、今日から俺の女な」と宣言する。その真意とウソつきたちによって複雑になっていく2人の結末とは──

カオルとカオリ

廣瀬純七
青春
一つの体に男女の双子の魂が混在する高校生の中田薫と中田香織の意外と壮大な話です。

美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞> 住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。 看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。 最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。 どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……? 神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――? 定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。 過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。

処理中です...