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第23話 :『その日、風が止まった』
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試合開始前、風が吹いていた。
スタンドの応援団の旗がはためき、ベンチ前の整列では、千紗の髪が頬をかすめた。
「……なんか、空気が違うね」
千紗がつぶやく。
隣でスコアラーの飯塚が、こくんとうなずいた。「今日、何かが起こりそうな気がするんスよね」
準々決勝、相手は県屈指の強豪校・西陵館。
これまでの大会で3度ベスト4に進出した実績があり、桜が丘とは明確な格上だった。
――だがその日の風祭球児は、まるで別人だった。
初回。初球。
ストレート、アウトローいっぱい。
石原のミットがほとんど動かなかった。
「見た? 今の……」
スタンドの声援が一瞬だけ止まり、空気が硬直する。
二回、三回。投球は続く。
力まない。吠えない。ただ、丁寧に、鋭く。
バッターがスイングするたびに、何かが空を裂くような音がして、それをグラウンドの誰もが静かに見守っていた。
「……今日の球児、ちょっと怖いくらいですね」
石原がぽつりと言うと、ベンチの修司が応える。
「いや、あいつは“静かに怒ってる”んだよ。たぶん、自分に」
五回、まだ一人のランナーも出していない。
千紗は手帳を握ったまま、ページをめくることすら忘れていた。
「……これが“エース”か」
八回裏、桜が丘は先制に成功した。
三島のセンター前ヒット、藤木のきっちりと決めた送りバント、小野寺のタイムリーツーベース。
ベンチが小さく沸く。そのあと、またすぐに静かになる。
「今は、見てたいんだよ。球児の投球を」
そう呟いたのは、飯塚だった。
そして九回表。
マウンドには、ひとりの少年が立っていた。
たった70球目。
最後のバッターのバットが空を切り、石原のミットに収まる。
――カツン、と、乾いた音。
「試合終了、1対0。桜が丘、準決勝進出!」
どよめきではなく、静けさだった。
観客席から、何か神聖なものを見たあとのような拍手が起きる。
声援ではなく、称賛の拍手。
風が止んでいた。
まるで、空までがこの瞬間を待っていたかのように。
試合が終わって、ロッカールームに戻ってきたとき、誰もが少しずつ浮足立っていた。
控えの選手たちは口々に「ヤバくね?」「テレビ来るぞ!」なんて騒いでいたし、三島も「はー、俺、途中から息止めてたわ」なんて冗談を飛ばしていた。
でも、石原だけは、マスクを外して黙って座った。
背中を壁に預けて、使い古したキャッチャーマスクを膝の上に置く。
しばらく何も言わなかった。
顔には、笑顔もなければ、安堵の色もない。ただ、静かだった。
「9回、70球、ヒットゼロ、四球ゼロ……なんだそれ。完璧じゃん」
ぽつりとつぶやいたその声には、呆れや誇張もなかった。
どこまでも真っ直ぐに、ただ“事実”を噛みしめるような声だった。
けれどすぐに、彼は首を振った。
「でもな、あれはひとりじゃ無理だ。守備も、声も、球児の覚悟も……全部が重なった」
マウンドで受けた70球。
たしかに、全部“いい球”だった。けど、そのうち何球かは、普通なら打たれてもおかしくない。
でも、松井の横っ飛びがあった。滝川の一歩目が速かった。三島の声が、球場を支配してた。
あれは、奇跡じゃない。チームで取ったゼロだった。
石原はマスクの内側をじっと見つめる。
汗で湿ったその面に、ポケットから取り出した黒のマジックで、小さくこう記した。
“完全試合=完全なチーム”
誰に見せるわけでもない。
けれど、いつかこのマスクを誰かに譲る日が来たら、伝わればいい。
「ピッチャーだけじゃない。勝ちってのは、チーム全員でつかむものなんだ」って。
そう思ったとき、石原の口元がほんの少しだけ、笑っていた。
■
最後の一球──。
その打者が、見逃したままバットを下ろした瞬間。
球審の右手がスッと上がった瞬間。
球場の時間が、一瞬止まったように思えた。
スタンドの誰かが叫んだ。
ベンチから数人が立ち上がった。
でも、三島は守備位置で、ただ黙って立っていた。
叫ぶつもりだったのだ。
「よっしゃあ!」って、主将として、誰よりも大きな声で。
けれど──喉が詰まった。
拳を握ったまま、立ち尽くしていた。
視界の奥で、キャッチャーの石原がマウンドに駆け寄り、風祭と手を合わせたのが見えた。
何人もの部員がグラウンドに飛び出していくなか、三島だけは一歩、後ろで立っていた。
出てきたのは、絞り出すような、わずかな声。
「……すげぇな」
叫べなかったのは、きっと自分の胸がいっぱいだったからだ。
“背番号1”のあいつが、あんな投球をした。
でも、それは風祭ひとりじゃない。
石原のミット、松井と滝川の鉄壁の守備、浜中のレーザービーム。
そして、誰より大きな声で応援した藤木。
全員のプレーが積み重なって、あのゲームがあった。
三島は思った。
背番号1の背中には、俺たちが乗ってたんだ。
そして──それでも、俺は主将だとも思った。
「次だな……」
ポツリとこぼした言葉に、自分でうなずく。
まだ、準決勝がある。
それを越えれば、決勝。甲子園が見えてくる。
あいつが完全試合をやってのけた。なら、次は俺の番だ。
チームを“勝たせる”一打。俺が打つ。主将として。
グラウンドにはもう誰もいない。
でも、彼の胸には、次の試合の風がもう吹いていた。
主将として、仲間として、あの9回の時間を共有していたはずの自分が、
どこか置いていかれたような気さえした。
けれど──それは悔しさじゃなかった。
帰りのロッカールーム。
スパイクを脱ぎかけたところで、三島はふとしゃがみ込み、もう一度、靴紐を結び直した。
誰もいないベンチ裏で、独り言のように、小さくつぶやく。
「背番号1だけじゃない。……お前の背中に、全員が乗ってたんだよ」
その言葉に、返事はない。
でも三島の胸の奥には、あの一球の余韻と、確かな誇りが残っていた。
整列を終え、球児がベンチへ戻ってくる。
修司がそっと帽子を持ち上げ、目だけで合図を送った。
「ナイスピッチング」――その言葉は、ただ、帽子の動きに込められていた。
「ありがとうございました」
球児が、声に出したのはそれだけだった。
だが、それで十分だった。
その夜。
地元のローカルニュースが、桜が丘高校・風祭球児の“完全試合”を報じた。
SNSでも話題になり、野球ファンの間で「地方予選の怪物」として名前が広まる。
だが、本人はそれを知らないまま、自室でユニフォームをそっと畳んでいた。
窓の外では、あの時止まっていた風が、また少し吹き始めていた。
■
試合が終わって、ベンチがざわついて、スタンドの声援がいつまでも止まなかったそのあとも、飯塚直樹はずっと座ったままスコアブックを眺めていた。
風祭球児、完全試合達成。
ヒットゼロ、四球ゼロ、失点ゼロ、エラーもゼロ。
スコアシートの九つの回に、ゼロがずらりと並ぶ。
けれどそのページには、数字以上の“何か”が確かに詰まっていた。
飯塚は静かにペンを置いた。
「全ページにゼロが並ぶって、こんなに……しんってするんだな」
いつもなら、三回の失点に赤丸をつけたり、七回の盗塁にアスタリスクを打ったりしていた。
けれど今日だけは、ただ、何も書けなかった。
スコアブックの紙をめくる指が、ほんの少し震えている。
球児のあの球速ではなく、テンポの変化に気づいた五回裏。
石原のミットに吸い込まれる球の音が、“パン”から“すっ”に変わった七回表。
三島の守備位置が二歩下がったのを見逃さなかった八回裏。
全部、数字じゃ表せない。
けれど、数字の裏にあった心の動きを、飯塚だけは確かに見ていた。
スコアブックの欄外に、迷いながらもゆっくりとペンを走らせる。
「風が止まるって、こういうことか。俺、この1ページ、たぶん一生忘れない」
そのあと、ゆっくりとスコアブックを閉じた。
表紙の革が少し擦り切れているのが、なんだか誇らしかった。
飯塚は最後に、背表紙の下に小さくこう書き加える。
“風祭球児 完全試合達成”
その文字は、まっすぐに書いたつもりだった。
けれどよく見れば、ほんの少しだけ揺れていた。
それはきっと、書いている指の震えなんかじゃない。
あのマウンドに吹いた“風”の余韻だった。
■
試合が終わって、しばらくの間、私は何も書けなかった。
ペンを持っていた手は震えていて、ページをめくることすら怖かった。
スコアボードには、ずっと“0”が並んでいた。
まるで、それが当然だったみたいに、当たり前のように。
でも私にはわかる。
そのゼロが、どれだけ遠い場所にあったか。
そのゼロをつかむまでに、風祭くんがどれだけの“ひとり”と向き合ってきたか。
静かだった。
九回裏のマウンド。
球場の応援も、ベンチのざわめきも、誰かの声も──
全部が、いったん止まったように感じた。
“九回裏、風祭くんの背中から風の音が消えてた”
たぶん、それは緊張とかじゃなかったと思う。
ただただ、風祭くんという人のすべてが、あの一球に向かっていた。
息をする音も、踏み込む音も、ピッチャーマウンドでの動きすらも、空気を静かにしてしまうほどの集中だった。
“ミットに吸い込まれる最後の一球、音じゃなくて、空気ごと止まった”
石原くんのミットが打者の目の前でカチンと鳴って、審判の声が響いた。
“ストライクスリー”──見逃し三振。
風祭くんは、何も言わなかった。
ただ、帽子に手をやって、少しだけ空を見た。
“整列のあと、帽子を取る手がちょっと震えてた気がする”
私は知ってる。
風祭くんは、ずっと言わなかっただけ。
「勝ちたい」とか、「認められたい」とか、
そんな感情を飲み込んできたんだと思う。
あの日、転校してきてから、ずっと誰にも見せなかった涙。
それが、今日、こっそりこぼれそうになってたんじゃないかなって。
だから、最後のページにこう書いた。
「今日の風祭くん:誰にも言わなかったけど、たぶん“泣きたかった”んじゃないかな」
手帳を閉じたあと、私はこっそり笑った。
その涙が出ない強がりも、風祭くんらしいから──って。
■
夜の帰り道は、セミの鳴き声もすっかり途切れ、蝉しぐれが土に染み込むような静けさがあった。
照明の落ちた商店街を抜け、住宅街にさしかかる頃、修司は手にしていた帽子をふと見つめた。
試合が終わってからずっと、ポケットにしまおうとしてやめたそれは、何度も無意識に手のひらで握っていたせいか、つばの先が少しだけ曲がっていた。
「……クセだな」
小さく呟きながら、修司は立ち止まり、帽子のつばを親指でなぞった。
完全試合。
その言葉の重みは、ただの“すごい”では片付けられないものだった。
修司は監督として、何十年ぶりに心の奥に火が灯るのを感じていた。
けれど、それ以上に、親としての胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられていた。
「もう……俺の背中なんて、見ちゃいねぇ」
ベンチからのサインも、采配も。
あのマウンドで投げる風祭球児は、自分の意志で球を選び、自分のテンポで試合を創っていた。
それは、かつて修司があの背番号を着て夢破れたときに、見たかった景色のはずだった。
なのに、寂しくなかった。
むしろ、誇らしかった。
もう、お前に教えることなんて、何もねぇんだな
そう思った瞬間、また帽子を握っていた。
まるでそれが、手からすり抜けてしまいそうで、逃がしたくないように。
けれど──
「見なくていい。でも、俺はお前を見てるぞ。ずっとな、球児」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた言葉は、夜空へ吸い込まれていった。
手の中の帽子のつばが、少し曲がっていることに気づき、修司は小さく笑った。
不器用な愛情が、きっとそこに沁み込んでいる。
歩き出すと、今度は帽子を被ることなく、胸に当てるように持ち直した。
まるで、次の試合までの道のりを、自分にも言い聞かせるかのように。
静かな夜道を、背中を丸めず、風の中を進んでいく。
父として。監督として。
そして何より、「風祭球児の一番の観客」として。
スタンドの応援団の旗がはためき、ベンチ前の整列では、千紗の髪が頬をかすめた。
「……なんか、空気が違うね」
千紗がつぶやく。
隣でスコアラーの飯塚が、こくんとうなずいた。「今日、何かが起こりそうな気がするんスよね」
準々決勝、相手は県屈指の強豪校・西陵館。
これまでの大会で3度ベスト4に進出した実績があり、桜が丘とは明確な格上だった。
――だがその日の風祭球児は、まるで別人だった。
初回。初球。
ストレート、アウトローいっぱい。
石原のミットがほとんど動かなかった。
「見た? 今の……」
スタンドの声援が一瞬だけ止まり、空気が硬直する。
二回、三回。投球は続く。
力まない。吠えない。ただ、丁寧に、鋭く。
バッターがスイングするたびに、何かが空を裂くような音がして、それをグラウンドの誰もが静かに見守っていた。
「……今日の球児、ちょっと怖いくらいですね」
石原がぽつりと言うと、ベンチの修司が応える。
「いや、あいつは“静かに怒ってる”んだよ。たぶん、自分に」
五回、まだ一人のランナーも出していない。
千紗は手帳を握ったまま、ページをめくることすら忘れていた。
「……これが“エース”か」
八回裏、桜が丘は先制に成功した。
三島のセンター前ヒット、藤木のきっちりと決めた送りバント、小野寺のタイムリーツーベース。
ベンチが小さく沸く。そのあと、またすぐに静かになる。
「今は、見てたいんだよ。球児の投球を」
そう呟いたのは、飯塚だった。
そして九回表。
マウンドには、ひとりの少年が立っていた。
たった70球目。
最後のバッターのバットが空を切り、石原のミットに収まる。
――カツン、と、乾いた音。
「試合終了、1対0。桜が丘、準決勝進出!」
どよめきではなく、静けさだった。
観客席から、何か神聖なものを見たあとのような拍手が起きる。
声援ではなく、称賛の拍手。
風が止んでいた。
まるで、空までがこの瞬間を待っていたかのように。
試合が終わって、ロッカールームに戻ってきたとき、誰もが少しずつ浮足立っていた。
控えの選手たちは口々に「ヤバくね?」「テレビ来るぞ!」なんて騒いでいたし、三島も「はー、俺、途中から息止めてたわ」なんて冗談を飛ばしていた。
でも、石原だけは、マスクを外して黙って座った。
背中を壁に預けて、使い古したキャッチャーマスクを膝の上に置く。
しばらく何も言わなかった。
顔には、笑顔もなければ、安堵の色もない。ただ、静かだった。
「9回、70球、ヒットゼロ、四球ゼロ……なんだそれ。完璧じゃん」
ぽつりとつぶやいたその声には、呆れや誇張もなかった。
どこまでも真っ直ぐに、ただ“事実”を噛みしめるような声だった。
けれどすぐに、彼は首を振った。
「でもな、あれはひとりじゃ無理だ。守備も、声も、球児の覚悟も……全部が重なった」
マウンドで受けた70球。
たしかに、全部“いい球”だった。けど、そのうち何球かは、普通なら打たれてもおかしくない。
でも、松井の横っ飛びがあった。滝川の一歩目が速かった。三島の声が、球場を支配してた。
あれは、奇跡じゃない。チームで取ったゼロだった。
石原はマスクの内側をじっと見つめる。
汗で湿ったその面に、ポケットから取り出した黒のマジックで、小さくこう記した。
“完全試合=完全なチーム”
誰に見せるわけでもない。
けれど、いつかこのマスクを誰かに譲る日が来たら、伝わればいい。
「ピッチャーだけじゃない。勝ちってのは、チーム全員でつかむものなんだ」って。
そう思ったとき、石原の口元がほんの少しだけ、笑っていた。
■
最後の一球──。
その打者が、見逃したままバットを下ろした瞬間。
球審の右手がスッと上がった瞬間。
球場の時間が、一瞬止まったように思えた。
スタンドの誰かが叫んだ。
ベンチから数人が立ち上がった。
でも、三島は守備位置で、ただ黙って立っていた。
叫ぶつもりだったのだ。
「よっしゃあ!」って、主将として、誰よりも大きな声で。
けれど──喉が詰まった。
拳を握ったまま、立ち尽くしていた。
視界の奥で、キャッチャーの石原がマウンドに駆け寄り、風祭と手を合わせたのが見えた。
何人もの部員がグラウンドに飛び出していくなか、三島だけは一歩、後ろで立っていた。
出てきたのは、絞り出すような、わずかな声。
「……すげぇな」
叫べなかったのは、きっと自分の胸がいっぱいだったからだ。
“背番号1”のあいつが、あんな投球をした。
でも、それは風祭ひとりじゃない。
石原のミット、松井と滝川の鉄壁の守備、浜中のレーザービーム。
そして、誰より大きな声で応援した藤木。
全員のプレーが積み重なって、あのゲームがあった。
三島は思った。
背番号1の背中には、俺たちが乗ってたんだ。
そして──それでも、俺は主将だとも思った。
「次だな……」
ポツリとこぼした言葉に、自分でうなずく。
まだ、準決勝がある。
それを越えれば、決勝。甲子園が見えてくる。
あいつが完全試合をやってのけた。なら、次は俺の番だ。
チームを“勝たせる”一打。俺が打つ。主将として。
グラウンドにはもう誰もいない。
でも、彼の胸には、次の試合の風がもう吹いていた。
主将として、仲間として、あの9回の時間を共有していたはずの自分が、
どこか置いていかれたような気さえした。
けれど──それは悔しさじゃなかった。
帰りのロッカールーム。
スパイクを脱ぎかけたところで、三島はふとしゃがみ込み、もう一度、靴紐を結び直した。
誰もいないベンチ裏で、独り言のように、小さくつぶやく。
「背番号1だけじゃない。……お前の背中に、全員が乗ってたんだよ」
その言葉に、返事はない。
でも三島の胸の奥には、あの一球の余韻と、確かな誇りが残っていた。
整列を終え、球児がベンチへ戻ってくる。
修司がそっと帽子を持ち上げ、目だけで合図を送った。
「ナイスピッチング」――その言葉は、ただ、帽子の動きに込められていた。
「ありがとうございました」
球児が、声に出したのはそれだけだった。
だが、それで十分だった。
その夜。
地元のローカルニュースが、桜が丘高校・風祭球児の“完全試合”を報じた。
SNSでも話題になり、野球ファンの間で「地方予選の怪物」として名前が広まる。
だが、本人はそれを知らないまま、自室でユニフォームをそっと畳んでいた。
窓の外では、あの時止まっていた風が、また少し吹き始めていた。
■
試合が終わって、ベンチがざわついて、スタンドの声援がいつまでも止まなかったそのあとも、飯塚直樹はずっと座ったままスコアブックを眺めていた。
風祭球児、完全試合達成。
ヒットゼロ、四球ゼロ、失点ゼロ、エラーもゼロ。
スコアシートの九つの回に、ゼロがずらりと並ぶ。
けれどそのページには、数字以上の“何か”が確かに詰まっていた。
飯塚は静かにペンを置いた。
「全ページにゼロが並ぶって、こんなに……しんってするんだな」
いつもなら、三回の失点に赤丸をつけたり、七回の盗塁にアスタリスクを打ったりしていた。
けれど今日だけは、ただ、何も書けなかった。
スコアブックの紙をめくる指が、ほんの少し震えている。
球児のあの球速ではなく、テンポの変化に気づいた五回裏。
石原のミットに吸い込まれる球の音が、“パン”から“すっ”に変わった七回表。
三島の守備位置が二歩下がったのを見逃さなかった八回裏。
全部、数字じゃ表せない。
けれど、数字の裏にあった心の動きを、飯塚だけは確かに見ていた。
スコアブックの欄外に、迷いながらもゆっくりとペンを走らせる。
「風が止まるって、こういうことか。俺、この1ページ、たぶん一生忘れない」
そのあと、ゆっくりとスコアブックを閉じた。
表紙の革が少し擦り切れているのが、なんだか誇らしかった。
飯塚は最後に、背表紙の下に小さくこう書き加える。
“風祭球児 完全試合達成”
その文字は、まっすぐに書いたつもりだった。
けれどよく見れば、ほんの少しだけ揺れていた。
それはきっと、書いている指の震えなんかじゃない。
あのマウンドに吹いた“風”の余韻だった。
■
試合が終わって、しばらくの間、私は何も書けなかった。
ペンを持っていた手は震えていて、ページをめくることすら怖かった。
スコアボードには、ずっと“0”が並んでいた。
まるで、それが当然だったみたいに、当たり前のように。
でも私にはわかる。
そのゼロが、どれだけ遠い場所にあったか。
そのゼロをつかむまでに、風祭くんがどれだけの“ひとり”と向き合ってきたか。
静かだった。
九回裏のマウンド。
球場の応援も、ベンチのざわめきも、誰かの声も──
全部が、いったん止まったように感じた。
“九回裏、風祭くんの背中から風の音が消えてた”
たぶん、それは緊張とかじゃなかったと思う。
ただただ、風祭くんという人のすべてが、あの一球に向かっていた。
息をする音も、踏み込む音も、ピッチャーマウンドでの動きすらも、空気を静かにしてしまうほどの集中だった。
“ミットに吸い込まれる最後の一球、音じゃなくて、空気ごと止まった”
石原くんのミットが打者の目の前でカチンと鳴って、審判の声が響いた。
“ストライクスリー”──見逃し三振。
風祭くんは、何も言わなかった。
ただ、帽子に手をやって、少しだけ空を見た。
“整列のあと、帽子を取る手がちょっと震えてた気がする”
私は知ってる。
風祭くんは、ずっと言わなかっただけ。
「勝ちたい」とか、「認められたい」とか、
そんな感情を飲み込んできたんだと思う。
あの日、転校してきてから、ずっと誰にも見せなかった涙。
それが、今日、こっそりこぼれそうになってたんじゃないかなって。
だから、最後のページにこう書いた。
「今日の風祭くん:誰にも言わなかったけど、たぶん“泣きたかった”んじゃないかな」
手帳を閉じたあと、私はこっそり笑った。
その涙が出ない強がりも、風祭くんらしいから──って。
■
夜の帰り道は、セミの鳴き声もすっかり途切れ、蝉しぐれが土に染み込むような静けさがあった。
照明の落ちた商店街を抜け、住宅街にさしかかる頃、修司は手にしていた帽子をふと見つめた。
試合が終わってからずっと、ポケットにしまおうとしてやめたそれは、何度も無意識に手のひらで握っていたせいか、つばの先が少しだけ曲がっていた。
「……クセだな」
小さく呟きながら、修司は立ち止まり、帽子のつばを親指でなぞった。
完全試合。
その言葉の重みは、ただの“すごい”では片付けられないものだった。
修司は監督として、何十年ぶりに心の奥に火が灯るのを感じていた。
けれど、それ以上に、親としての胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられていた。
「もう……俺の背中なんて、見ちゃいねぇ」
ベンチからのサインも、采配も。
あのマウンドで投げる風祭球児は、自分の意志で球を選び、自分のテンポで試合を創っていた。
それは、かつて修司があの背番号を着て夢破れたときに、見たかった景色のはずだった。
なのに、寂しくなかった。
むしろ、誇らしかった。
もう、お前に教えることなんて、何もねぇんだな
そう思った瞬間、また帽子を握っていた。
まるでそれが、手からすり抜けてしまいそうで、逃がしたくないように。
けれど──
「見なくていい。でも、俺はお前を見てるぞ。ずっとな、球児」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた言葉は、夜空へ吸い込まれていった。
手の中の帽子のつばが、少し曲がっていることに気づき、修司は小さく笑った。
不器用な愛情が、きっとそこに沁み込んでいる。
歩き出すと、今度は帽子を被ることなく、胸に当てるように持ち直した。
まるで、次の試合までの道のりを、自分にも言い聞かせるかのように。
静かな夜道を、背中を丸めず、風の中を進んでいく。
父として。監督として。
そして何より、「風祭球児の一番の観客」として。
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