完結『矢野アラタの大冒険。近江の悪ガキ、埋蔵金伝説に挑む』

カトラス

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第二十話『台風の夜に』

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 冒険の翌日、テレビやラジオから「大型の台風が発生しました」という緊迫したニュースが流れていた。
 まだ近江八幡の空は青く、風も穏やかで一見すると普段の夏と変わらない。しかし予報図に映し出された進路は、くっきりと近畿地方を直撃するコースを示していた。

「……これ、ヤバいな」

 秘密基地に集まった三人は、地図やノートを広げながらも心ここにあらずだった。アラタがニュースアプリを見せると、赤い円で示された暴風域が日に日に近づいているのが分かる。

「明日は……無理やな」

 アラタがキャップをいじりながら言った。その声は不本意そうだったが、真剣さが混じっていた。

 ケンタは肩を落とし、指先で机をとんとん叩きながら言った。

「こんな暴風雨ん中で祠行ったら、怪我するに決まってる……親にも心配かけるし」

「危険を冒してまで行くのは違う」

 ハルトは冷静に言い、スマホの画面で天気図を指差した。

「徒歩圏内とはいえ、この雨風じゃ外に出ること自体が無謀や。台風が過ぎてからや」

「……せやな。冒険は逃げへんしな」

 アラタが深く息を吐き、結論を口にした。

「台風過ぎてから、また計画立て直そ」

 三人は互いに顔を見合わせ、小さく頷き合った。外はまだ晴れているというのに、秘密基地の中は妙な静けさに包まれていた。窓の隙間から吹き込む風がいつもより湿り気を帯びていて、その匂いに三人はこれから来る嵐の気配を感じ取っていた。心の奥にわずかな不安が広がりながらも、同時に「待てば必ず行ける」という確信も芽生えていた。

 決行予定の日の朝、予報通りに台風がやってきた。窓を打ち付ける雨は途切れることなく降り続き、ゴウゴウと鳴る風の音は家全体を震わせている。空は鉛色に覆われ、昼間なのに夕方のように薄暗かった。時折、風に乗ってどこかのトタン屋根が揺れるような金属音が響き、胸の奥をざわつかせる。

 アラタは自分の部屋の窓辺に立ち、外をじっと見つめていた。雨粒がガラスを伝い、景色はぼやけて揺れて見える。キャップを机に放り出したまま、腕を組んで小さく唸った。

「……これじゃ祠どころやないな」

 ベッドに腰を下ろしても、胸の奥のざわつきは収まらない。雨の轟音に耳を塞ぎたくなるたびに、頭に浮かぶのは秘密基地で待っているかもしれないトラの姿だった。濡れて震えていないだろうか。強い風に怯えて隠れていないだろうか。そう考えると、胸がきゅっと締めつけられた。

 同じ頃、ケンタもまた窓際で立ち尽くしていた。机に広げた夏休みの宿題は、ほとんど白紙のまま。鉛筆を握ってはみるものの、指は震えて字が書けない。気づけば視線は時計に吸い寄せられていた。針の音がやけに大きく聞こえ、時間が進むのが遅すぎるように思える。

「トラ……大丈夫やろか……」

 小さくつぶやいた声は、すぐに雨音にかき消された。額には冷や汗がにじみ、胸の鼓動は止まらない。宿題どころではなく、頭の中は不安と心配でいっぱいだった。

 ハルトの部屋でも同じ光景があった。冷静さを装おうと、タブレットで天気予報を何度も更新するが、表示されるのは「暴風域拡大・外出を控えるように」の文字ばかり。画面を閉じても胸に残るのは同じ疑念だった。

「……トラ、耐えられてるか」

 息を吐きながら窓を見やる。雨に煙る街並みは揺れ、風の唸りが壁を叩くたびに、心臓まで震えるようだった。ベッドに腰掛けても落ち着かず、すぐに立ち上がってしまう。結局、頭の中は祠でも冒険でもなく、一匹の小さな仲間のことばかりで埋め尽くされていた。

 三人とも、同じように宿題は手につかず、時計の針が進むたびに胸のざわつきが強くなっていった。まるで心の奥で誰かに呼ばれているかのように──次第に、その思いは抑えきれないほど大きくなっていった。

 窓を打つ雨音に耐えきれなくなった三人は、それぞれ同じ決断をしていた。胸の奥で同じ声が響いていたのだ──「トラは大丈夫か、迎えに行かなあかん」と。傘を差しても意味がないほどの暴風雨の中を、息を切らせながら秘密基地へと走り出した。

 道路は川のように水が流れ、靴の中まで冷たい水が染み込んでくる。強風に煽られて体が傾き、何度も足を取られながらも、それでも足は止まらなかった。心臓は早鐘を打ち、ただひとつの思いが彼らを突き動かしていた。

 そして偶然にも、三人はほぼ同じタイミングで秘密基地の前にたどり着いた。雨にずぶ濡れになりながら互いの姿を見つけ、驚きと同時に笑いがこみ上げた。

「お、お前らも……!」

 アラタが声を張り上げると、ケンタも肩で息をしながら笑った。

「やっぱり……考えること、一緒やったんやな」

 ハルトも濡れた前髪をかき上げ、小さく頷いた。「心配で、じっとしてられへんかった」

 三人は互いの顔を見合い、胸の奥に同じ熱を感じ取った。言葉にしなくても分かる。みんな、トラのことを思ってここまで来たのだ。

 力を合わせて扉を開け、基地の中に飛び込む。そこには、毛を逆立てて怯えたトラの姿があった。丸く縮こまり、しっぽを膨らませて低く唸っている。雷鳴が轟くたびに小さな体が震えていた。

「大丈夫や、迎えに来たで!」

 アラタが叫び、ケンタも「一人にして悪かった!」と声を張り上げる。ハルトもすぐに傍へ寄り、「もう心配いらん」と短く言った。

 アラタがそっと手を差し伸べると、トラは一瞬目を見開いたが、次の瞬間には必死にすり寄ってきた。その体はびしょ濡れで冷たかったが、確かな鼓動が伝わってきた。

 三人は互いに頷き合い、トラを大切に抱き上げる。その瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げてきた。自分たちは同じ思いでここに来たのだ──仲間を守りたいという一心で。

「ここにおったら危ない」

 ハルトが短く言い、アラタも強く頷いた。
「うちに避難するぞ!」

 ケンタも力強く「行こ!」と応えた。三人の声は嵐の轟音にかき消されそうになりながらも、しっかりと重なり合った。

 びしょ濡れの体にトラの温もりを抱えながら、三人は再び嵐の中へと踏み出した。雨と風が容赦なく叩きつける中、恐怖よりも仲間を救えた安堵と、同じ心で行動できた誇りが彼らの胸を熱くしていた。

 アラタの家に駆け込むと、玄関の灯りの下で母親が腕を組んで待ち構えていた。三人がびしょ濡れの姿で立つのを見るやいなや、母親の声が玄関に響き渡った。

「危ないことして! こんな日に外に出るなんて、あんたら正気か!」

 三人は縮こまり、肩をすくめて小さくなった。ケンタは気まずそうに視線を落とし、ハルトは無言で頭を下げ、アラタは「ごめん……」と小さな声で答える。雷鳴のように叱られたが、その声には怒りだけでなく、子を思う安堵が混じっていた。

 母親はため息をつき、すぐに表情を和らげると声色を変えた。

「……もうええわ。さぁ、みんな着替えて。お風呂沸かしてあるから、風邪ひく前に入ってきな」

 その一言に、三人の顔が同時に緩んだ。怒られた恥ずかしさと、救われたような安心感が入り混じる。濡れた靴を脱ぎ捨てて家に上がり込むと、廊下には温かな湯気の匂いが漂ってきた。

 服を脱ぎ、浴室で肩まで湯に浸かった瞬間、三人は一斉に息を吐いた。冷え切った体を熱い湯が包み込み、指先までじんわりと温かさが広がっていく。重く強ばっていた体から力が抜け、目を閉じれば安堵と眠気が一緒に押し寄せてきた。

「ふぅー……生き返るなぁ……」

 アラタが湯面を叩きながら言う。

「ほんまや……さっきまで震えてたのが嘘みたいや」

 ケンタも目を細めて笑った。

 ハルトはしばらく黙っていたが、湯気に霞む表情に柔らかな色を浮かべて口を開いた。

「無茶やったけど……行ってよかった。トラを放っとけへんかった」

 三人は視線を交わし、言葉以上に強く心が通じた。互いに顔を見合って笑うと、浴室いっぱいに安心と誇らしさが満ちていった。

 その傍ら、タオルで拭かれたトラは丸くなり、ようやく落ち着きを取り戻していた。小さな喉を鳴らし、安心したように目を細める。その姿を見て、三人はまた笑みを交わし合った。

「トラも、俺らが来るって信じてたんかもな」

 アラタが呟くと、ケンタがすぐに頷いた。

「うん、絶対そうや。あいつ、勇気づけられてたはずや」

「……信じてくれてた分、これからも守らなあかんな」

 ハルトの言葉に、二人は真剣な顔でうなずいた。

 やがて夜になり、ケンタとハルトは玄関からそれぞれの家へ帰っていった。アラタの家にはトラがそのまま保護されることになり、二人は振り返りながらも言葉を交わさなかったが、心の奥底では同じ思いを抱いていた。

 ――助けられてよかった。あの日、同じ気持ちで走り出して本当に良かった。

 熱い湯に包まれた記憶とともに、その確信が三人の胸をさらに強く結びつけていた。

 その夜、三人はそれぞれの自宅で布団に潜りながら、窓を叩く雨音に耳を澄ませていた。ゴウゴウと吹き荒れる風と、絶え間なく降り続く雨が壁や窓を震わせる。嵐はまだ続いているのに、不思議と心は静かだった。

 アラタは天井を見上げながら、拳を胸の上で握りしめた。瞼の裏に浮かぶのは、怯えるトラを抱き上げたときの感触だ。小さな鼓動が今も手のひらに残っている気がする。

「……命は守らなあかん」

 声には出さず、心の中で何度も繰り返した。そのたびに胸の奥が熱くなる。仲間を守れた安堵と、これからも守り抜くという決意が、全身に灯火のように広がっていった。

 一方、ケンタは布団の中で膝を抱え、窓の外を見つめていた。雨粒がガラスを叩きつけるたびに胸がざわついたが、今日は不思議と孤独を感じなかった。アラタとハルトと、そしてトラ。あの嵐の中で心は確かにつながっていた。

「……一人じゃない」

 小さく呟くと、唇に笑みが浮かんだ。恐怖も不安も、仲間と分け合えば少しずつ小さくなる。今日、それを知ったのだ。

 ハルトは机に広げたノートを閉じ、深く息をついた。普段なら冷静に物事を分析する彼だが、今夜は胸の奥が熱を帯びていた。アラタとケンタの顔、ずぶ濡れで駆けつけた瞬間の笑顔を思い出す。

「これから先の冒険も……三人と一匹なら必ず乗り越えられる」

 静かにそう心の中で言い切った。根拠はない。だが仲間を思う気持ちが、自分の冷静さ以上に確かな支えになると信じられた。

 窓を打つ雨音はまだ続いている。それでも三人の胸には温かい光が灯っていた。台風が過ぎ去った先に待っているのは、新しい冒険の入り口──そう信じながら、三人はそれぞれ瞼を閉じた。

 
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