完結『矢野アラタの大冒険。近江の悪ガキ、埋蔵金伝説に挑む』

カトラス

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第一話『夏がはじまった、あいつの家のこと』

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 夏休みの朝というのは、どうしてあんなにワクワクするのだろう。

 滋賀県・近江八幡。小学校六年生の矢野アラタは、セミの声がジワジワと網戸越しに響く中で、目覚ましも鳴っていないのにパッと目を覚ました。寝癖のついた髪のままベッドを飛び出し、Tシャツに着替えると、すでに冒険の準備は完了だ。

「母ちゃん、ケンタのとこ行ってくる!」

 朝ごはんもそこそこに、サンダルをつっかけて玄関を飛び出す。

 アラタの家から歩いて五分の場所にある団地。その四階に住んでいるのが、親友の宮本ケンタだ。団地は築年数の古い建物で、外階段の手すりはサビつき、壁には落書きが残っている。

 だが、アラタはこの団地が好きだった。ケンタがいるから――それだけではない。フィリピンから来たおばちゃん、廃品回収の軽トラを走らせるおっちゃん、怒鳴り声が響く部屋。いろんな人がいて、ここにはちゃんと“暮らし”がある。

「ケンタ~!起きとるか~!」

 アラタが声を張り上げると、しばらくしてカーテンが開き、眠たそうな顔のケンタが窓から顔を出した。

「アラタ、はや……まだ七時半やで」

「夏休みやのに寝とる場合ちゃうやん! 今日から秘密基地作ろうや」

「……秘密基地?」

 ケンタは少し考えたあと、ふっと笑った。

「おもろそうやな。ちょっと待ってて、すぐ着替える」

 ケンタの家は、団地の中でもとくに質素だ。フィリピン人の母とふたり暮らし。母親は朝から晩までパートで働き、夜もいないことがある。テレビは古く、冷蔵庫もくたびれている。

 それでも、ケンタは愚痴を言わない。「ボロいけど、お母さんの料理うまいで」と笑うその横顔に、アラタはときどき胸が熱くなるのだった。

 ふたりは商店街をぬけ、川沿いの草むらへ向かう。そこは立ち入り禁止の看板があるが、古いキャンプ場の跡地で、今では誰も来ない。

「ここに、基地を作るって決めてん」

「材料どうするん? 家に木とかないで」

「大丈夫や。あそこの空き地に工事の廃材が積んであった。昨日、見に行ってん」

「盗ったらあかんで」

「ちゃうって。“ご自由にお持ちください”って書いてあったんや。ほんまやで」

 ケンタは少し不安そうにしながらも、アラタの言葉を信じて頷いた。

 それからの作業は、まるでふたりだけの建設現場だった。木材を運び、トンカチで釘を打ち、ブルーシートで屋根を張る。最初はグラグラだったが、何度も試行錯誤して、昼過ぎには立派な形になった。

 汗びっしょりのケンタが空を見上げて言った。

「なんか、すごいな……自分らで家、作ってるみたいや」

「な? これが“俺たちの城”やで。ここはもう、おれらの国や」

「じゃあ、国の名前は……“アラタ&ケンタ王国”?」

「ダサッ! “近江自由連邦”とか、そういうのにしようや」

 ふたりは子どもらしい名前を言い合って、笑い転げた。おにぎりを食べていると、どこからか野良猫が通りかかる。

「トラや!」とアラタが声をかけ、ケンタも目を細めた。

 そんな何気ないやりとりすらも、ふたりには特別だった。

 この夏のはじまりは、たった一つの秘密基地から始まった。

 ふたりはまだ知らない。

 この川の向こうに、ほんまもんの冒険が待ち受けていることを――。

 そのとき、茂みの中から音がした。

「カサ……パキッ……」

 ふたりが同時に顔を上げると、草をかきわけてひとりの少年が現れた。白いシャツに、ピカピカのスニーカー。日焼けひとつない肌に、軽く顎を上げたような目線。

「ふーん、なんやこれ。秘密基地? 子どもっぽ」

 少年は鼻で笑いながら、出来たばかりの基地を見下ろすように眺めた。

 それは、進級前に転校してきたばかりの同級生だった。

 西園寺ハルト。京都からやってきたというその少年は、どこか冷めた物言いと、妙に高そうな持ち物で、すでにクラスでも浮いた存在だった。

「ほら、そこの木、曲がってるやん。バランス悪っ。俺やったらもっとマシに作るけどな」

 アラタはぐっと眉をひそめ、口をへの字に曲げた。

「……誰も見せるために作ったんちゃうし」

 ケンタは黙ったまま、少し後ろに下がっていた。

 ハルトはフンと鼻を鳴らし、草の上をサクサクと音を立てて去っていく。

「なんやアイツ……いけすかんわ」

 アラタがぽつりとつぶやいた。

「京都では、ああいうの、“いけず”って言うんやろ?」

 ケンタが小さく言うと、アラタはうなずいた。

「ぴったりやな」

 ふたりはしばらく無言で基地を見つめた。

 だけど、さっきまでのワクワクは、少しだけ残っていた。

 この夏のはじまりは、たった一つの秘密基地から始まった。

 けれど、ここから始まる冒険には、思いもよらない登場人物が加わることになる――。



 朝の光が、団地の四階の窓から差し込んでいた。薄いカーテン越しの光は、少しだけ湿った夏の空気と一緒に、ケンタの家の台所をやわらかく照らしている。

 フライパンの上では卵がじゅっと音を立て、横では炊飯器のスイッチがカチンと切れた。ケンタの母・エミは、今日のお弁当の仕上げにとりかかっていた。卵焼きと、昨日の残りのウィンナー、そしてのりごはん。彩りは少ないけれど、息子はいつも文句ひとつ言わない。それが余計に、エミの胸をきゅっと締めつけた。

 財布の中には、あと2,400円。今の生活は、5年前に事故で亡くなった夫のわずかな遺族年金と、エミのパート収入で成り立っている。何度も頭の中で足し算と引き算をしてみるが、数は増えない。

「でも、今日は休みやし……トロン、作ろうかな」

 エミは小さくつぶやいた。ポルボロンも。ケンタが大好きなお菓子だ。けれど、バターがもう切れている。マーガリンで代用できるだろうかと、冷蔵庫の中を思い浮かべた。

 そうしているうちに、洗ったお弁当箱の水気をふき、ラップをかけた。まだケンタは寝ている。昨夜も遅くまで本を読んでいたようだった。

 ケンタは頭がよくて、優しくて、少し繊細だ。エミはそんな息子が誇らしかった。だけど、その繊細さを守れるほど、強い母親になれているのか――そんな不安が、時折胸に忍び込む。

 日本に来たばかりの頃は、聞き慣れない言葉の早さについていけなかった。学校の書類は難しく、ゴミの分別ひとつで怒られたこともある。隣の住人に「どこの人?」と聞かれて笑われた夜のことは、今でも夢に出る。

 けれど、ケンタがいる。彼の存在が、エミの世界を支えていた。

 そのときだった。

「ケンタ~!起きとるか~!」

 窓の外から、元気な男の子の声が響いた。矢野アラタの声だった。すぐにわかる。あの子はいつも大声で、まるで太陽のように明るい。

 最初に聞いたときは驚いたが、今ではその声にホッとするようになっていた。

 カーテンを開けたケンタが、窓の外に向かって手を振っているのが見えた。エミはキッチンからそっとその姿を見守りながら、小さくうなずいた。今日もふたりはどこかへ出かけていくのだろう。いつも汗まみれになって帰ってくるが、その目はキラキラと輝いていた。

 お金も、立派な家もない。でも、ケンタには本物の友達がいる。

 そう思えたとき、エミの中にまた小さな勇気が湧いてくる。

「よし。トロン、ちゃんと揚げよう。パリッと、うまくできたらええな」

 エミはもう一度エプロンを締め直し、フライパンに火を入れた。



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