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第1話 秋空の置手紙
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薄い朝の光が、六畳間の古いカーテンの隙間からすべり込んでいた。
冷えた空気は、まだ眠っていた十二歳の少女の頬をひやりと撫でる。
柚子はぼんやりと瞬きをしながら、掛け布団を胸元まで引き寄せた。
横で眠っている妹、檸檬の小さな寝息が聞こえる。
「キーちゃん、まだ寝てる……」
そう呟いて体を起こすと、視界の端に異質な白い紙が見えた。
ちゃぶ台の上、母の字だった。
『疲れました』
たったそれだけの文字。
掠れた、急いで書いたような線。
柚子ゆずは一瞬、意味が理解できなかった。
次の瞬間、胸の奥がじわりと痛む。
「……ママ?」
返事はない。
台所には、空になった食器が置かれたまま。
急いで玄関に駈け寄ると、母の靴が消えていた。
その日の朝から、柚子と檸檬の「家」は突然、形を変えた。
***
家に残ったものと言えば、袋入りのラーメンとみかんの缶詰が一つ。
檸檬は状況がわかっているのかいないのか、その境界を揺らぐように、時々頭を抱えて泣き、時々柚子にしがみついた。
檸檬は自閉症で、不安定になると耳をふさぎ、甲高い声で叫んでしまう。
柚子は妹のそんな姿を責めることができなかった。
代わりに、ぎゅっと抱きしめて名前の代わりに呼んだ。
「キーちゃん、大丈夫だから。お姉ちゃんがいるから」
檸檬は揺れる大きな瞳で柚子を見つめ、また「きぃ……」と震える声を漏らした。
夜は特に辛かった。
外の風の音、冷たい木造家屋。
檸檬は泣き、柚子は泣きそうな胸を堪えて背中を撫で続けた。
そんな日々が三日、四日と続くと、空腹はもう誤魔化せない重みになっていた。
台所の棚は空。
水道の冷たい水で腹を満たすことしかできない。
その夜、電気がつかなくなった。
そして、五日目の朝。
檸檬は歩く力も弱り、柚子の袖をぎゅっと掴んでいた。
柚子も限界だった。
「……行こう、キーちゃん。何か……何か、食べられるもの……」
薄汚れたパジャマのまま、2人はふらふらと家を出た。
秋の空は晴れているのに、気温は冬の入口のように冷たかった。
吐く息が白く上がる。
コンビニの自動ドアが開くと、「テロテロテロテロ♪」と鳴った。
暖かい空気。
蛍光灯の明るさ。
コーヒーの匂い。
その瞬間、檸檬の目が大きく開いた。
棚には、ふっくらとした三角のおにぎりが並んでいた。
ツナ、鮭、昆布。
きらきら光るパッケージ。
「キーちゃん、待って――」
言い終わる前に、檸檬はふらふらと手を伸ばし、おにぎりを抱きしめるように掴み、
次の瞬間、袋の端を噛みちぎった。
「だ、だめっ!」
柚子が叫ぶと同時に――
「ちょっと!君たち、何してるの!」
店員の鋭い声が飛んだ。
中年の男性店員が、驚きと怒りが入り混じった顔で駆け寄ってくる。
「それ商品だぞ!勝手に食べちゃダメだろ!どこの子供だ!」
叱責の声に檸檬はびくっと肩を震わせた。
次の瞬間、耳を両手でふさぎ、
「きぃぃぃぃぃいいいい!!」
店内に響く悲鳴。
商品棚が震え、店内の客が振り返る。
「や、やめて!キーちゃん、落ち着いて……!」
柚子は必死に妹を抱き寄せるが、檸檬は頭を抱えてさらに暴れる。
店員の表情は険しくなり、
「親はどこだ!ちょっと!この子たちの親はいませんか!」
柚子は小刻みに震えながら答えた。
「……いません。2人だけなんです」
「いないって……どういうことだよ!?」
言葉の意味を量りかねて、店員は眉を寄せた。
「ちょっと……落ち着いて説明してくれるか?」
だが檸檬の叫び声は止まらない。
店員はついに判断を下した。
「……警察呼ぶしかないな」
スマホを手にし、店員は通報を始めた。
柚子は檸檬を抱き締めながら肩を震わせた。
檸檬は涙と鼻水で顔を濡らしながら叫び、
「きぃ……い……いや……いや……!」
柚子の胸に顔をうずめる。
「ごめんね……ごめんねキーちゃん……ごめんね……」
その姿を見て、店員の表情もわずかに曇った。
怒りとは違う、胸の奥に刺さるような痛みが混じった顔だった。
***
やってきた警察官は、最初こそ厳しい顔をしていたが、
話を聞くうちに深い困惑と同情を滲ませた。
『ご飯、……食べられてないのかい?』
柚子は小さくうなずくしかできなかった。
檸檬は警察官の制服を見て怯え、また「きぃ」と震えた声を漏らす。
若い巡査は、できるだけ優しい声で話しかけようとした。
『怖くないよ。君たちを助けたいんだ』
それでも檸檬は答えられない。
揺れる視線が、壊れ物のように不安定だった。
触れると今にも崩れそうで…。
そして2人は、パトカーへと案内された。
冷たい金属の匂いと、冬の始まりの風。
柚子は檸檬の手を握りしめた。
「キーちゃん……行こう。大丈夫。お姉ちゃんがいるから」
檸檬の小さな指が、かすかに握り返した。
その日の夕方、2人は児童相談所へ引き渡され、
そのまま施設で生活することが決まった。
冷えた空気は、まだ眠っていた十二歳の少女の頬をひやりと撫でる。
柚子はぼんやりと瞬きをしながら、掛け布団を胸元まで引き寄せた。
横で眠っている妹、檸檬の小さな寝息が聞こえる。
「キーちゃん、まだ寝てる……」
そう呟いて体を起こすと、視界の端に異質な白い紙が見えた。
ちゃぶ台の上、母の字だった。
『疲れました』
たったそれだけの文字。
掠れた、急いで書いたような線。
柚子ゆずは一瞬、意味が理解できなかった。
次の瞬間、胸の奥がじわりと痛む。
「……ママ?」
返事はない。
台所には、空になった食器が置かれたまま。
急いで玄関に駈け寄ると、母の靴が消えていた。
その日の朝から、柚子と檸檬の「家」は突然、形を変えた。
***
家に残ったものと言えば、袋入りのラーメンとみかんの缶詰が一つ。
檸檬は状況がわかっているのかいないのか、その境界を揺らぐように、時々頭を抱えて泣き、時々柚子にしがみついた。
檸檬は自閉症で、不安定になると耳をふさぎ、甲高い声で叫んでしまう。
柚子は妹のそんな姿を責めることができなかった。
代わりに、ぎゅっと抱きしめて名前の代わりに呼んだ。
「キーちゃん、大丈夫だから。お姉ちゃんがいるから」
檸檬は揺れる大きな瞳で柚子を見つめ、また「きぃ……」と震える声を漏らした。
夜は特に辛かった。
外の風の音、冷たい木造家屋。
檸檬は泣き、柚子は泣きそうな胸を堪えて背中を撫で続けた。
そんな日々が三日、四日と続くと、空腹はもう誤魔化せない重みになっていた。
台所の棚は空。
水道の冷たい水で腹を満たすことしかできない。
その夜、電気がつかなくなった。
そして、五日目の朝。
檸檬は歩く力も弱り、柚子の袖をぎゅっと掴んでいた。
柚子も限界だった。
「……行こう、キーちゃん。何か……何か、食べられるもの……」
薄汚れたパジャマのまま、2人はふらふらと家を出た。
秋の空は晴れているのに、気温は冬の入口のように冷たかった。
吐く息が白く上がる。
コンビニの自動ドアが開くと、「テロテロテロテロ♪」と鳴った。
暖かい空気。
蛍光灯の明るさ。
コーヒーの匂い。
その瞬間、檸檬の目が大きく開いた。
棚には、ふっくらとした三角のおにぎりが並んでいた。
ツナ、鮭、昆布。
きらきら光るパッケージ。
「キーちゃん、待って――」
言い終わる前に、檸檬はふらふらと手を伸ばし、おにぎりを抱きしめるように掴み、
次の瞬間、袋の端を噛みちぎった。
「だ、だめっ!」
柚子が叫ぶと同時に――
「ちょっと!君たち、何してるの!」
店員の鋭い声が飛んだ。
中年の男性店員が、驚きと怒りが入り混じった顔で駆け寄ってくる。
「それ商品だぞ!勝手に食べちゃダメだろ!どこの子供だ!」
叱責の声に檸檬はびくっと肩を震わせた。
次の瞬間、耳を両手でふさぎ、
「きぃぃぃぃぃいいいい!!」
店内に響く悲鳴。
商品棚が震え、店内の客が振り返る。
「や、やめて!キーちゃん、落ち着いて……!」
柚子は必死に妹を抱き寄せるが、檸檬は頭を抱えてさらに暴れる。
店員の表情は険しくなり、
「親はどこだ!ちょっと!この子たちの親はいませんか!」
柚子は小刻みに震えながら答えた。
「……いません。2人だけなんです」
「いないって……どういうことだよ!?」
言葉の意味を量りかねて、店員は眉を寄せた。
「ちょっと……落ち着いて説明してくれるか?」
だが檸檬の叫び声は止まらない。
店員はついに判断を下した。
「……警察呼ぶしかないな」
スマホを手にし、店員は通報を始めた。
柚子は檸檬を抱き締めながら肩を震わせた。
檸檬は涙と鼻水で顔を濡らしながら叫び、
「きぃ……い……いや……いや……!」
柚子の胸に顔をうずめる。
「ごめんね……ごめんねキーちゃん……ごめんね……」
その姿を見て、店員の表情もわずかに曇った。
怒りとは違う、胸の奥に刺さるような痛みが混じった顔だった。
***
やってきた警察官は、最初こそ厳しい顔をしていたが、
話を聞くうちに深い困惑と同情を滲ませた。
『ご飯、……食べられてないのかい?』
柚子は小さくうなずくしかできなかった。
檸檬は警察官の制服を見て怯え、また「きぃ」と震えた声を漏らす。
若い巡査は、できるだけ優しい声で話しかけようとした。
『怖くないよ。君たちを助けたいんだ』
それでも檸檬は答えられない。
揺れる視線が、壊れ物のように不安定だった。
触れると今にも崩れそうで…。
そして2人は、パトカーへと案内された。
冷たい金属の匂いと、冬の始まりの風。
柚子は檸檬の手を握りしめた。
「キーちゃん……行こう。大丈夫。お姉ちゃんがいるから」
檸檬の小さな指が、かすかに握り返した。
その日の夕方、2人は児童相談所へ引き渡され、
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