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忘れていた
しおりを挟むお兄様が意識を失くしてから、何時間経っただろうか。
すぐに医者を呼び、お兄様の治療が行われた。腕の怪我のこともあり、駆け付けた医者も使用人も、何事かと目を剥いた。
幸運にも、お兄様は命に別状はないとのことだった。
傷も出血に比べると、大したことはないらしい。さすがのネリーも、殴るときに迷いが出たのかもしれない。
ネリーは今日、お兄様に婚約を破棄された。
その腹いせか、なんだったのかわからない。とにかく私のことが憎くてたまらず、私がお兄様とうまくいくことは許せなかったという。お兄様がこうなったのは自業自得だと、倒れたお兄様を見て笑っていた。私から一番大切なものを奪えたと。
このことはバスキエ家と後日話すこととなり、その場でネリーは屋敷の使用人に捕らえられ、どこに連れて行かれたかはわからない。
ベッドに寝かされたお兄様の手を握り、何時間も目が覚めるのを待った。
部屋にはマリンと、そしてエクトル様も一緒にいてくれている。
――お兄様が倒れた瞬間、生きた心地がしなかった。早く目を覚まして、お兄様が無事なことを確認して安心したい。せっかくお兄様と通じ合えた矢先にこんなことになるなんて。
「……ん」
小さな声が聞こえ、握っていたお兄様の手が微かに動いた。
「お兄様!?」
声をかけると、お兄様が目を開ける。
眩しいのか目を細め、何度も瞬きを繰り返した後、ごそごそと体を起こした。
「よかった。無事だったんだな、リアム。ヒヤッとしたぞ」
エクトル様も、近くでほっと胸を撫で下ろしている。
「……俺、頭を花瓶で」
「そうよ。私を庇って……ごめんなさいお兄様。私のせいで」
「大丈夫。かわいい妹のためだ。兄として当然のことをしたまでだよ。こうして無事だったんだし」
「……お兄様?」
目覚めたお兄様は、いつものお兄様と同じように笑っているのに。
なんでだろう。とてつもない違和感を感じた。
「リアム? 大丈夫か? まだ少し混乱しているんじゃ」
その違和感を感じ取ったのは、エクトル様も一緒だったようだ。
「いや……そうかもしれない。すごく頭が痛いんだ。そもそも、どうしてネリーがミレイユを?」
「それは、君がネリーと婚約破棄してミレイユを選んだからだろう」
「ミレイユを? どういうことだ。この腕の傷も、ネリーがやったのか?」
「……リアム、記憶が曖昧なのか?」
お兄様の話を聞いて、ここいいる誰もがそれを悟っただろう。エクトル様がそう聞くと、お兄様は首を傾げた。
「俺的には、そんなつもりはないんだけど……みんなの反応を見る限り、そうみたいだな」
「お兄様、なにも覚えていないの?」
「えっと……最近の出来事は、あんまり覚えていない。でも、それ以外は普通に覚えてると思うんだけど」
「私のことはわかる?」
「もちろん。ミレイユのことを忘れるわけないだろう。ミレイユは、俺の大事な妹なんだから」
――ちがう。いつものお兄様じゃない。
〝俺の〟の言い方も、今までとは別物だ。今までは独占欲があるような、もっと意味を込めた言い方をしていた。でも今のお兄様は、本当に私を大事な〝妹〟としか見ていない。
「……それだけ?」
「ミレイユ?」
「お兄様にとって、私は妹というだけなの?」
「どうしたんだミレイユ。俺たちは、仲の良い兄妹だろ」
お兄様の記憶から、私を好きだった部分が抜け落ちている……?
「ふざけるなリアム! 君はずっと――」
「エクトル様! 大丈夫ですから」
「……ミレイユ、でも」
「今は無事だっただけで感謝しないと。ほら、時間が経てば、戻るかもしれないし」
無理に笑顔を作って、自分でそう言うことで自分を納得させた。
エクトル様は納得がいかない様子だったが、私の態度を見て、それ以上なにかをお兄様に追及しようとはしなかった。
◇◇◇
時間は深夜二時を過ぎていた。
お兄様を安静させるため、私たちは部屋を出る。
医者にお兄様の記憶のことを聞けば、頭を打ったショックで記憶障害が起きているのかもしれない、と言われた。戻るか戻らないかは判断できないとも。
エクトル様は迎えが来る寸前まで、私のことを慰めてくれていた。マリンがまた屋敷に泊まることを提案したが、エクトル様はそれを断った。
そのとき、私はエクトル様との婚約関係が本当に終わったことを実感した。私と婚約者になる前と同じ距離を、エクトル様はまた保とうとしている。
「ミレイユ、元気出して。リアムなら大丈夫だ。だって、頭の中が君で埋まってたような男だよ」
「……そうですよね。きっと、思い出しますよね」
「ああ。そうだ。明日僕が、あいつのしてきたことを話してやろう。そしたらきっと元のリアムに戻るさ」
「ふふ。ありがとうございます。エクトル様」
笑顔を返すけど、本当は今にも泣きそうだった。つらくてどうしようもない。
でも、ここで甘えてはいけない。私が泣いていいのは、ひとりになったときだけ。泣いてしまえば、優しいエクトル様はきっと私を放っておけないだろう。
――大丈夫。きっと明日になれば、お兄様は、いつもの瞳で私を見つめてくれるはずだから。
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