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本気だった
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マリンに連絡を入れさせ、お兄様は王宮からエクトル様を呼び出した。
その間もお兄様は片時も私を離そうとしない。
お兄様に別れを告げて王宮に来いと言われたばかりなのに、逆にそのお兄様から屋敷に呼びつけられて、エクトル様絶対怒ってるわよね……。
お兄様も弱々しくはあるけど血気盛んだし、無事に今日一日を終えられるかが今から心配で仕方ない。
「ミレイユ、リアム、ここにいるのか!」
部屋をドンドンと叩く音がする。
お兄様は「来たか」と呟くと、私の肩を抱いて部屋の外へと出た。
エクトル様を自分の部屋に入れるのは嫌なのか、何故か私たちは狭い廊下で向き合う形になる。ただならぬ空気を感じてか、屋敷の人間たちは皆そそくさとその場を去て行った。
「……ミレイユ、僕の言いつけを守らなかったようだね」
「そっ……それは、その」
案の定、エクトル様は怒りを露わにしている。
「リアムに脅し返された? 大丈夫。ここでちゃんと僕が言ったようにできるならこの件も水に流してあげるよ」
「黙れ。お前は勘違いしている。ミレイユがどんな女かも知らないくせに、偉そうな口を叩くな」
「……急に偉そうな口調になったのは君のほうだと思うけど、リアム」
いつもは頑張って敬語を使っていたのか、お兄様はもうそこまで頭が回っていないようだ。
「それに僕は、ミレイユがどんな女か理解したつもりだよ」
「全然してない。なにを知ってる。お前が思ってるよりミレイユは歪んでいるし変態だぞ。優柔不断で押しに弱いというどうしようもないとこもある。それにお前からの花を踏み潰した俺に興奮するような女だぞ。ぽっと出のお前が手に負える女じゃない」
「……へーぇ。僕の花を。ミレイユ、そんな話もあったんだね?」
エクトル様の頭にピキピキと線が入っていくのがわかる。私、あとで殺されるかもしれない。
お兄様もなんて言い方をするんだ。間違っていないから言い返せないけど、言い方ってものがあるだろう。
これだけ聞いてると、どうしてふたりはこんな女を取り合っているんだと第三者は思うはずだ。当人の私ですら思っている。
「手に負えるかどうかは僕が決めることだ。リアムが決めることじゃない。君のように、一度愛するものを手放した奴がなにを今更ミレイユに必死になっているんだ? どんな理由であれ、僕にミレイユをとられるような原因を作ったのは君だ。それまでは入る隙すら与えない徹底ぶりだったのに」
「……俺は、ミレイユを手放したつもりはなかった。ただ、ミレイユのことをもっと知りたくて、嫉妬してほしくて、ミレイユに愛されたくて」
「なにを言っても結果的にこうなったんだ。ミレイユは自分から離れないという自惚れで招いたのがこれだ。夜這いだなんて姑息な真似をしないと気持ちを惹きつけられない。体だけでも自分のものにしないと不安だったのか?」
「ちがう。お前は見てないから言えるだけだ。俺たちがふたりでいる時間は、どんなものより幸せで、誰にも邪魔できない空間なんだ」
「本当にそうだとしたら、今僕がここにいるのはおかしいだろう。ミレイユは僕なんかに目もくれず、君を選ぶんじゃないのか? ……リアム、いつもの勢いがないぞ。急に不安になってるようだね。僕だっていつまでも、ミレイユの言うことをなんでも聞く優しい男でいるはずないだろ。君たちのせいで、僕まで頭がおかしくなりそうだ」
ふたりは言い合いを続け、私が口を挟む隙さえ与えない。お兄様がエクトル様に言い負かされているようにも見えて、今までとは真逆の光景になっている。
「リアム、これ以上君のような人間といるとミレイユは不幸になる。僕が幼い頃の純粋なミレイユに戻してやる。だからもう、ミレイユを自由にしてやるんだ」
エクトル様のその発言に、お兄様の指先がピクリと動いた。
「そのままのミレイユを愛せないのか」
顔を上げたお兄様は、今までにないくらい怖い顔をしてエクトル様を睨みつける。
「幼い頃のミレイユが純粋だと何故言える。どのミレイユもミレイユだ。なにも変わらなくていい。ミレイユはそのままでいい。これから変わったとしても、どんなミレイユになったって、俺はミレイユを好きでい続ける。……お前がミレイユの求める愛の形を提供できないからって、ミレイユを変えようとするな」
「……リアムがなんと言おうと、僕が婚約を破棄しない限り、ミレイユは僕のものなんだ。君はそれを忘れるな」
「そうか。どうしても婚約破棄しないなら、最後の手を使うしかないな」
お兄様はずっと片手で私の手を握っていたが、急にその手を離した。
そしてポケットからナイフを取り出し、エクトル様に刃先を向ける。
私は驚きのあまり「ひっ……」と呼吸交じりの小さな悲鳴を出すので精一杯だった。
エクトル様は驚きこそしているが、怯むような様子はない。
「……僕を刺すのかリアム。そんなことしたら、どうなるかわかっているのか。君だけじゃなくオベール家……ミレイユだってただじゃ済まないかもしれない。自分の欲望のためにミレイユを不幸にするなと言っているんだ!」
「ふっ……お前を刺すわけないだろう」
「なんだと?」
「ミレイユと婚約破棄しないなら、俺はここで死んでやる」
「なっ……!?」
エクトル様に向いていた刃先を自分へ向けて、ほくそ笑むお兄様の目は狂気に満ちていた。
「お兄様、冗談やめて! 絶対にそんなことしないで……!」
「落ち着いてミレイユ。はったりだ。リアムはそう言って、僕に婚約破棄させるのが狙いなんだ。本当に死ぬ気なんて――」
はったりと言うエクトル様に見せつけるように、お兄様はナイフの刃を自分の腕にぴたりと当てると、そのままずぶずぶと埋め込んでいく。
「俺は、本気だ」
痛さで顔が歪んでいるが、お兄様は未だ笑っている。
服に赤い血が滲んで行き、このままではお兄様が本当に命を絶ってしまうのではないかという恐怖が襲い掛かった。
「いや、お兄様、それ以上はやめて。お兄様っ!」
「エクトル、婚約破棄をしろ。次は足を切る。そしてその次は、ここだ」
心臓の部分を指さして、お兄様はエクトル様の返事を今か今かと待ち望んでいる。
床に赤い血がポタポタと落ちていく。すぐに人を呼びに行きたいのに、足がすくんで動けず、声もまともに出やしない。
「やめろリアム! ……本当に、死んでしまうぞ」
「ああ、そのつもりでやっている。ミレイユが誰かのものになるなら、生きている意味はない」
お兄様が太ももにナイフを突き立て、また刃を沈めたその瞬間だった。
「わかった! わかったから、やめるんだ」
「……では、婚約破棄してくれるということだな?」
「……そうだ。だから、馬鹿なことはやめろ」
エクトル様が、お兄様の言うことを聞いた。
お兄様は自分を傷つけるのをやめると、ナイフを投げ捨てる。廊下に血まみれのナイフが転がって行く音が響いた。
「すまないミレイユ。今のは僕なりの最善の判断だったと信じている。……リアムが本当に死んでしまえば君はどうなる。悲しむミレイユを、僕は見たくない」
「……エクトル様」
「くっ……くくっ……」
急にお兄様は、額に手を当て笑い出した。
「馬鹿だなぁエクトル王子は。今の、最後のチャンスだったのに」
「……リアム、どういうことだ」
「ここで俺を殺してれば、ミレイユを手に入れられたのに。逆の立場だったら、俺は絶対破棄なんかしなかった。ミレイユが悲しむのを見たくない? お前はずっと、俺がいるからミレイユは不幸になると言っていた。だったら不幸の元凶の俺なんていない方がいいに決まってるだろ。自分が人殺しになりたくない理由に、愛する人を言い訳にするな」
「……僕を騙したのか」
「騙してなどいない。本気で死ぬ気だったと言っただろ。俺はミレイユを手に入れるのための覚悟が、お前とは違うんだ。お前はミレイユのためになにもかも捨てられるのか? 恵まれた家柄も、環境も、すべてを。俺は捨てられる。兄妹で結婚が許されないとしても、そんなものどうにでもしてやる!」
エクトル様は黙り込み、なにも言い返そうとしない。
「……これでわかっただろミレイユ。俺より重い愛なんて存在しないんだ。だから……俺を選んでくれ。また、俺だけを見て。俺を……捨てないでくれ」
緊張が解けたように、お兄様はその場に膝をつく。さっきまでの気迫はどこへ行ったのか、懇願するように私に向かって手を伸ばした。
自然と足はお兄様の方へ動き、血まみれの手を支えるように優しく包み込む。
「お兄様、大丈夫。じゅうぶんわかったから。お兄様の気持ち」
「ミレイユ……」
そっとお兄様を抱き締めた。
お兄様をここまで追い詰めたのは私だ。そして、これほどまでの愛を望んでしまったのも私だ。
この歪みを嫌だとも気持ち悪いとも思わない。私は今、満たされている。
これほどまでに愛されて、抱えきれないくらいの愛を受け取って、私はありのままのお兄様を、これからもずっと受け入れ続けるんだろう。
私はやっぱり、お兄様が好き。
お兄様はきっと、私がいないと生きていけない。そしてそれはきっと、私も同じだ。
同情でもなんでもない、これはれっきとした、私とお兄様の愛の形なのだ。
私たちは、離れられない。
「……お兄様、大好き。私、ずっと一緒にいるわ」
「……ああ、俺も、もう絶対離さない」
――お兄様越しに、そんな私たちを凝視しているエクトル様の姿に気づく。
「エクトル様、ごめんなさい。本当にごめんなさい。私っ……!」
「はぁ……。もういいよ。ここまでするリアムを選ぶ君は、やっぱり僕の手に負えそうにない。僕とはおかしさのレベルがちがう」
「……エクトル様」
「でも王家として、こんな危険な兄妹を野放しにしたくはないな。これからはミレイユの調教師として指導にあたることにするよ」
「ちょっ、調教師!?」
「ああ。婚約はなくなったけど、我が国では近親婚は許されてないよね。僕にもチャンスはまだあるということ――」
「ない。邪魔をするな。調教師は俺ひとりでじゅうぶんだ」
「リアムはなんだかんだミレイユを甘やかすだろ。僕はミレイユをちゃんと叱ってあげられるよ」
またもやバチバチなふたりだが、さっきとは比べ物にならないくらい空気は和やかになっていた。ひとりは腕から出血しているというのに。
……エクトル様は笑っている。
私はあの笑顔を何度曇らせたんだろう。謝っても謝りきれないけど、あの時はエクトル様の手を離さないと、本当に思っていた。
「……リアム、そろそろその血を見てられないから、早く治療をした方がいいぞ」
「え? ああ、なんだか痛いなとは思っていた。そうだな。ミレイユ、看病してくれ」
「はあ。仮にも僕は傷心しているんだ。見せつけるのは今度、いや、もっと先にしてくれないか」
なんてことを話していると、玄関の方からマリンの叫び声が聞こえた。
何事かと思い声のした方を見ると、見慣れた女性がこちらに走って来る。
「……ネリー?」
追い詰められたような顔をしたネリーは、床に落ちているナイフを手に取り、物凄い速さでこちらに走って来た。
狭い廊下でナイフを振り回す。ネリーの狙いは私だ。
「きゃああっ!」
必死に恐怖の手から逃げていると、足がもつれてその場に倒れこんでしまった。
その拍子にコンソールテーブルに体をぶつける。ネリーもその衝撃でナイフを手放してしまったが、すぐにテーブルの上に置かれていた花瓶を手に取り、私の顔に目掛けてそれを振りかざしてきた。
「――!」
目を瞑る。
ガンッ、という鈍い音が聞こえ、私の顔に生ぬるい液体が落ちてくる。
「おにい、さま」
私を庇うように覆いかぶさったお兄様は、頭から血を流し、私を見てふっと微笑んだ。
「……罰が、当たったかな」
「……え?」
「……この花瓶に生けてた花、めちゃくちゃにしたからさ」
そう言って、お兄様は意識を手放した。
床に、赤い色が広がっていく。
お兄様が踏み潰した花と同じ、赤い色が。
※今回長めになってしまいました。
エクトル派のみなさま、エクトル編をお待ちくださいませ……!
その間もお兄様は片時も私を離そうとしない。
お兄様に別れを告げて王宮に来いと言われたばかりなのに、逆にそのお兄様から屋敷に呼びつけられて、エクトル様絶対怒ってるわよね……。
お兄様も弱々しくはあるけど血気盛んだし、無事に今日一日を終えられるかが今から心配で仕方ない。
「ミレイユ、リアム、ここにいるのか!」
部屋をドンドンと叩く音がする。
お兄様は「来たか」と呟くと、私の肩を抱いて部屋の外へと出た。
エクトル様を自分の部屋に入れるのは嫌なのか、何故か私たちは狭い廊下で向き合う形になる。ただならぬ空気を感じてか、屋敷の人間たちは皆そそくさとその場を去て行った。
「……ミレイユ、僕の言いつけを守らなかったようだね」
「そっ……それは、その」
案の定、エクトル様は怒りを露わにしている。
「リアムに脅し返された? 大丈夫。ここでちゃんと僕が言ったようにできるならこの件も水に流してあげるよ」
「黙れ。お前は勘違いしている。ミレイユがどんな女かも知らないくせに、偉そうな口を叩くな」
「……急に偉そうな口調になったのは君のほうだと思うけど、リアム」
いつもは頑張って敬語を使っていたのか、お兄様はもうそこまで頭が回っていないようだ。
「それに僕は、ミレイユがどんな女か理解したつもりだよ」
「全然してない。なにを知ってる。お前が思ってるよりミレイユは歪んでいるし変態だぞ。優柔不断で押しに弱いというどうしようもないとこもある。それにお前からの花を踏み潰した俺に興奮するような女だぞ。ぽっと出のお前が手に負える女じゃない」
「……へーぇ。僕の花を。ミレイユ、そんな話もあったんだね?」
エクトル様の頭にピキピキと線が入っていくのがわかる。私、あとで殺されるかもしれない。
お兄様もなんて言い方をするんだ。間違っていないから言い返せないけど、言い方ってものがあるだろう。
これだけ聞いてると、どうしてふたりはこんな女を取り合っているんだと第三者は思うはずだ。当人の私ですら思っている。
「手に負えるかどうかは僕が決めることだ。リアムが決めることじゃない。君のように、一度愛するものを手放した奴がなにを今更ミレイユに必死になっているんだ? どんな理由であれ、僕にミレイユをとられるような原因を作ったのは君だ。それまでは入る隙すら与えない徹底ぶりだったのに」
「……俺は、ミレイユを手放したつもりはなかった。ただ、ミレイユのことをもっと知りたくて、嫉妬してほしくて、ミレイユに愛されたくて」
「なにを言っても結果的にこうなったんだ。ミレイユは自分から離れないという自惚れで招いたのがこれだ。夜這いだなんて姑息な真似をしないと気持ちを惹きつけられない。体だけでも自分のものにしないと不安だったのか?」
「ちがう。お前は見てないから言えるだけだ。俺たちがふたりでいる時間は、どんなものより幸せで、誰にも邪魔できない空間なんだ」
「本当にそうだとしたら、今僕がここにいるのはおかしいだろう。ミレイユは僕なんかに目もくれず、君を選ぶんじゃないのか? ……リアム、いつもの勢いがないぞ。急に不安になってるようだね。僕だっていつまでも、ミレイユの言うことをなんでも聞く優しい男でいるはずないだろ。君たちのせいで、僕まで頭がおかしくなりそうだ」
ふたりは言い合いを続け、私が口を挟む隙さえ与えない。お兄様がエクトル様に言い負かされているようにも見えて、今までとは真逆の光景になっている。
「リアム、これ以上君のような人間といるとミレイユは不幸になる。僕が幼い頃の純粋なミレイユに戻してやる。だからもう、ミレイユを自由にしてやるんだ」
エクトル様のその発言に、お兄様の指先がピクリと動いた。
「そのままのミレイユを愛せないのか」
顔を上げたお兄様は、今までにないくらい怖い顔をしてエクトル様を睨みつける。
「幼い頃のミレイユが純粋だと何故言える。どのミレイユもミレイユだ。なにも変わらなくていい。ミレイユはそのままでいい。これから変わったとしても、どんなミレイユになったって、俺はミレイユを好きでい続ける。……お前がミレイユの求める愛の形を提供できないからって、ミレイユを変えようとするな」
「……リアムがなんと言おうと、僕が婚約を破棄しない限り、ミレイユは僕のものなんだ。君はそれを忘れるな」
「そうか。どうしても婚約破棄しないなら、最後の手を使うしかないな」
お兄様はずっと片手で私の手を握っていたが、急にその手を離した。
そしてポケットからナイフを取り出し、エクトル様に刃先を向ける。
私は驚きのあまり「ひっ……」と呼吸交じりの小さな悲鳴を出すので精一杯だった。
エクトル様は驚きこそしているが、怯むような様子はない。
「……僕を刺すのかリアム。そんなことしたら、どうなるかわかっているのか。君だけじゃなくオベール家……ミレイユだってただじゃ済まないかもしれない。自分の欲望のためにミレイユを不幸にするなと言っているんだ!」
「ふっ……お前を刺すわけないだろう」
「なんだと?」
「ミレイユと婚約破棄しないなら、俺はここで死んでやる」
「なっ……!?」
エクトル様に向いていた刃先を自分へ向けて、ほくそ笑むお兄様の目は狂気に満ちていた。
「お兄様、冗談やめて! 絶対にそんなことしないで……!」
「落ち着いてミレイユ。はったりだ。リアムはそう言って、僕に婚約破棄させるのが狙いなんだ。本当に死ぬ気なんて――」
はったりと言うエクトル様に見せつけるように、お兄様はナイフの刃を自分の腕にぴたりと当てると、そのままずぶずぶと埋め込んでいく。
「俺は、本気だ」
痛さで顔が歪んでいるが、お兄様は未だ笑っている。
服に赤い血が滲んで行き、このままではお兄様が本当に命を絶ってしまうのではないかという恐怖が襲い掛かった。
「いや、お兄様、それ以上はやめて。お兄様っ!」
「エクトル、婚約破棄をしろ。次は足を切る。そしてその次は、ここだ」
心臓の部分を指さして、お兄様はエクトル様の返事を今か今かと待ち望んでいる。
床に赤い血がポタポタと落ちていく。すぐに人を呼びに行きたいのに、足がすくんで動けず、声もまともに出やしない。
「やめろリアム! ……本当に、死んでしまうぞ」
「ああ、そのつもりでやっている。ミレイユが誰かのものになるなら、生きている意味はない」
お兄様が太ももにナイフを突き立て、また刃を沈めたその瞬間だった。
「わかった! わかったから、やめるんだ」
「……では、婚約破棄してくれるということだな?」
「……そうだ。だから、馬鹿なことはやめろ」
エクトル様が、お兄様の言うことを聞いた。
お兄様は自分を傷つけるのをやめると、ナイフを投げ捨てる。廊下に血まみれのナイフが転がって行く音が響いた。
「すまないミレイユ。今のは僕なりの最善の判断だったと信じている。……リアムが本当に死んでしまえば君はどうなる。悲しむミレイユを、僕は見たくない」
「……エクトル様」
「くっ……くくっ……」
急にお兄様は、額に手を当て笑い出した。
「馬鹿だなぁエクトル王子は。今の、最後のチャンスだったのに」
「……リアム、どういうことだ」
「ここで俺を殺してれば、ミレイユを手に入れられたのに。逆の立場だったら、俺は絶対破棄なんかしなかった。ミレイユが悲しむのを見たくない? お前はずっと、俺がいるからミレイユは不幸になると言っていた。だったら不幸の元凶の俺なんていない方がいいに決まってるだろ。自分が人殺しになりたくない理由に、愛する人を言い訳にするな」
「……僕を騙したのか」
「騙してなどいない。本気で死ぬ気だったと言っただろ。俺はミレイユを手に入れるのための覚悟が、お前とは違うんだ。お前はミレイユのためになにもかも捨てられるのか? 恵まれた家柄も、環境も、すべてを。俺は捨てられる。兄妹で結婚が許されないとしても、そんなものどうにでもしてやる!」
エクトル様は黙り込み、なにも言い返そうとしない。
「……これでわかっただろミレイユ。俺より重い愛なんて存在しないんだ。だから……俺を選んでくれ。また、俺だけを見て。俺を……捨てないでくれ」
緊張が解けたように、お兄様はその場に膝をつく。さっきまでの気迫はどこへ行ったのか、懇願するように私に向かって手を伸ばした。
自然と足はお兄様の方へ動き、血まみれの手を支えるように優しく包み込む。
「お兄様、大丈夫。じゅうぶんわかったから。お兄様の気持ち」
「ミレイユ……」
そっとお兄様を抱き締めた。
お兄様をここまで追い詰めたのは私だ。そして、これほどまでの愛を望んでしまったのも私だ。
この歪みを嫌だとも気持ち悪いとも思わない。私は今、満たされている。
これほどまでに愛されて、抱えきれないくらいの愛を受け取って、私はありのままのお兄様を、これからもずっと受け入れ続けるんだろう。
私はやっぱり、お兄様が好き。
お兄様はきっと、私がいないと生きていけない。そしてそれはきっと、私も同じだ。
同情でもなんでもない、これはれっきとした、私とお兄様の愛の形なのだ。
私たちは、離れられない。
「……お兄様、大好き。私、ずっと一緒にいるわ」
「……ああ、俺も、もう絶対離さない」
――お兄様越しに、そんな私たちを凝視しているエクトル様の姿に気づく。
「エクトル様、ごめんなさい。本当にごめんなさい。私っ……!」
「はぁ……。もういいよ。ここまでするリアムを選ぶ君は、やっぱり僕の手に負えそうにない。僕とはおかしさのレベルがちがう」
「……エクトル様」
「でも王家として、こんな危険な兄妹を野放しにしたくはないな。これからはミレイユの調教師として指導にあたることにするよ」
「ちょっ、調教師!?」
「ああ。婚約はなくなったけど、我が国では近親婚は許されてないよね。僕にもチャンスはまだあるということ――」
「ない。邪魔をするな。調教師は俺ひとりでじゅうぶんだ」
「リアムはなんだかんだミレイユを甘やかすだろ。僕はミレイユをちゃんと叱ってあげられるよ」
またもやバチバチなふたりだが、さっきとは比べ物にならないくらい空気は和やかになっていた。ひとりは腕から出血しているというのに。
……エクトル様は笑っている。
私はあの笑顔を何度曇らせたんだろう。謝っても謝りきれないけど、あの時はエクトル様の手を離さないと、本当に思っていた。
「……リアム、そろそろその血を見てられないから、早く治療をした方がいいぞ」
「え? ああ、なんだか痛いなとは思っていた。そうだな。ミレイユ、看病してくれ」
「はあ。仮にも僕は傷心しているんだ。見せつけるのは今度、いや、もっと先にしてくれないか」
なんてことを話していると、玄関の方からマリンの叫び声が聞こえた。
何事かと思い声のした方を見ると、見慣れた女性がこちらに走って来る。
「……ネリー?」
追い詰められたような顔をしたネリーは、床に落ちているナイフを手に取り、物凄い速さでこちらに走って来た。
狭い廊下でナイフを振り回す。ネリーの狙いは私だ。
「きゃああっ!」
必死に恐怖の手から逃げていると、足がもつれてその場に倒れこんでしまった。
その拍子にコンソールテーブルに体をぶつける。ネリーもその衝撃でナイフを手放してしまったが、すぐにテーブルの上に置かれていた花瓶を手に取り、私の顔に目掛けてそれを振りかざしてきた。
「――!」
目を瞑る。
ガンッ、という鈍い音が聞こえ、私の顔に生ぬるい液体が落ちてくる。
「おにい、さま」
私を庇うように覆いかぶさったお兄様は、頭から血を流し、私を見てふっと微笑んだ。
「……罰が、当たったかな」
「……え?」
「……この花瓶に生けてた花、めちゃくちゃにしたからさ」
そう言って、お兄様は意識を手放した。
床に、赤い色が広がっていく。
お兄様が踏み潰した花と同じ、赤い色が。
※今回長めになってしまいました。
エクトル派のみなさま、エクトル編をお待ちくださいませ……!
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