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2.月原芹
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島岡めぐみは青葉市で地主として有名な島岡家の一人娘としてこの世に生をうけた。
一人っ子という事もあり、家族から愛され、盛大に甘やかされて育ったが、根っからの優しい性格で、我儘も殆ど言わず、あまり手のかからない子供だった。少し抜けているところもあるが、友達もそれなりにおり、家もそれなりに裕福だったので特に苦労することなく、幸せに育ってきた。
そんなめぐみの幸せな日常が崩れるのは一瞬だった。
今年の夏、突然母の聖子が首吊り自殺を図ったのだ。学校で夏期講習を受けていためぐみは知らせを受け病院へ駆けつけると、今まで見たことも無い、半狂乱になる母の姿がそこにあった。
後で知った事だが、紐の結びが甘く、体重が掛かった時に結び目が解けてしまい失敗したのだという。物音に気付いためぐみの父が寝室に駆けつけると床に倒れ伏している母の姿を発見したのだという。
聖子は強烈な自殺企図により精神科の病院へ入院する事になり、明るかった島岡家はまるで蝋燭の火が消えたように静かになってしまった。
近所や学校には急病で入院となったと嘘をついたが、どこからか話が漏れ、肩身の狭い思いをする事になった。父は祖父母と共に毎日のように面会に行くが、聖子に回復の兆しはみられない。そればかりか、最近では精神的に不安定な日々が続き、病状悪化の為、満足に見舞いも出来ない状態だ。
そんな状況でも生活のために父は仕事へいき、めぐみも大学受験の為にも学校をあまり休むわけにいかないので、渋々学校へ行っていた。
周囲の友人は「すぐに良くなるよ」「大丈夫、私はめぐみの味方だよ」と励ましてくれていたが、中には、親を自殺に追い込むような酷い娘だと陰口を叩かれた事もあった。当初は気丈には振舞っていたが、激変してしまった日常に、心はしだいに磨磨り減っていった。
そんな状況が続く中、ある時からめぐみは『死ななくてはならない』と、思うようになった。
最初は軽い衝動のようなものだった。周囲の友達に漏らした事もあったが、一時的な落ち込みだと思われ、真剣には捉えられなかった。
実の母が自殺未遂をし、精神科病院で入院ともなると、そのような気分にもなるだろうと、周囲も、そしてめぐみ本人でさえそう思っていた。
しかし、『死ななくてはならない』という思いは日毎に増していき、本気で自殺しようと考えるようになっていた。そして、その思いは行動へとつながっていく事になる。
蔵書室の小さな窓から夕日が差している。
めぐみは眩しさを覚えゆっくりと目を開いた。軽く上半身を起こすと掛けられていたカーディガンに目に留まった。
十月の中旬ともなると、日が陰ると直に寒くなってくる。風邪を引かないようにという配慮だろう。そのカーディガンを眺めていると、刺繍でS・Tの文字が目に入った。
「せり、つきはら」
めぐみは気付かないうちにそのカーディガンの持ち主の名前を呟いていた。
「おはよう、島岡さん」
不意に後ろから声がしたので驚いて振り向くと、先程首吊りの為に使おうとしていた椅子に腰掛け、小説をめくる月原芹の姿があった。
「び、びっくりした。月原さんいたんだ」
「ええ、ずっとね。目を離したらまた変な事しそうだし」
「ご、ごめんなさい……」
「まさか、椅子に立ったまま気絶するとは思わなかったわ。流石にあの状態から島岡さんを降ろすのは骨が折れたわ」
「そ、それもごめんなさい……」
暫く沈黙が続く。めぐみは恐る恐る月原の顔を見ると、怒りとも悲しみでも無く、喜びも無い完璧な無表情が目に入った。怒っているのかいないのか、しかし状況を考えると普通は怒っていると考えるのが妥当だ。ただ、文章を目で追っている。その動きですらまるで機械のようだ。
そんな機械的に動くクラスメイトにどう話しかけていいか思いあぐねていると、月原から不意に嗅ぎ慣れない匂いがした。勿論、図書室特有の、あの匂いではない。そう、それはたしか――
「お線香……?」
「ああ、この匂い? 白檀の香りよ。今そこで焚いているから」
そういうと、月原は蔵書室の入り口の棚に視線を移した。つられてめぐみも目で追うと、小皿の上に置かれたお香から煙が漂っていた。
先程から月原から香ってくる匂いと同じものだ。
「月原さんってお香とか好きなんだ。私もたまにアロマキャンドルとか使うんだ。いいよね、なんかおしゃれだし」
何とか会話をつなげようと、めぐみは必死だが――
「白檀っておしゃれなの?」
月原は会話のキャッチボールはする気がないらしい。それに、確かに白檀の香りは少なくとも女子高生の感覚からするとおしゃれとは言いがたい。
では何のためにここでお香を焚いているのか。しかし、その謎を解明したいという気持ちより、これ以上この気まずい空間に居たくないという心が勝った。
どうやら月原も本に夢中で、自分と会話を楽しむ気はないらしい。それならば、さっさと退散してしまおうと、めぐみは重たい腰を上げ、帰り支度を始めようとしたが、このまま黙って帰るのは流石に無作法に思えた。目の前で先程から小説を読み耽っている月原は自分の命の恩人なのだ。めぐみは勇気を振り絞って声を出した。
「月原さん、あの、今日はありがとう。もうちょっと遅かったら、私――
――死んでいたね。そう口にした瞬間、めぐみの体は急に恐怖で震え始めた。そうだ、自分はついさっき、死のうとしていたのだ。もう少し月原が遅ければ、きっと今頃あの教室で首を吊っていただろう。
震えるめぐみを見て月原は椅子を立ち、ゆっくりと目の前に立った。
「今はまだ、死にたい?」
月原は責めるようでも無く、だからといって慰めるような様子も無く、ただ、何かを知りたそうに尋ねた。
「わかんない――」
今のめぐみにはそれが精一杯の答えだった。
「そう、分からないのね。なら仕方ないわね」
そういうと、月原は部屋の隅にある椅子を引きずり、めぐみに座るように促した。どのみち体の震えが収まらない限り、上手く帰れそうにも無いので、黙って従うことにした。
めぐみが椅子に腰を掛けると、月原は部屋を出て行ってしまった。五分ほど待っていると、片手に缶のココアを持って帰ってきた。
月原は缶を開け、「飲みなさい」とめぐみの前に置いた。選択肢は無いと言わんばかりだ。めぐみは一口、二口と口をつけると、次第に心が落ち着いてくる。飲みながらもちらちらと月原を見るが、また読み始めた小説から目を離す気は無いらしい。
ココアを飲み干す頃には体の震えも収まっていた。小さな窓から見える夕日ももう後僅かで沈んでしまうだろう。
そろそろお暇しようと思うが、帰る前に月原に言っておかなければならない事があった。今日の事を黙っていて欲しいと。
「月原さん、あの――本を読んでる所悪いんだけど、今日の事は」
「黙っておくわ。流石に知られたくないでしょう」
めぐみの発言が分かっていたかのような、間髪入れない返答に虚をつかれるが、今はその言葉を信じるしかない。
めぐみはカーディガンを月原に渡し、軽く礼をすると荷物を肩に掛け、そそくさと帰り支度を済ませる。
そして、蔵書室の扉に手をかけた時、ある一つの疑問が脳裏を掠めた。
本当は今すぐこの気まずい場を立ち去りたい。しかし、今浮かんだこの疑問位なら尋ねてもいいのではないか――
扉に手をかけたまま、ちらりと後ろを振り返ると月原と目が合った。目が合ったと言う事は、まだ月原も自分に用事があるのではないか。考えすぎかもしれないが、今から尋ねることと関係あるなら、聞いてみてもいいだろう。
「あのね、一つだけ聞きたい事があるんだけど」
「いいわよ」
「あの―― さっきの事をね、止めた理由なんだけど。最後の一つ、聞いてみてもいいかな」
あれほど錯乱していたのに、月原の言葉はめぐみの心に強く残っていた。
一つ目は図書室が使えなくなるから。二つ目は図書委員の代理をしてもらえなくなるから。
思えば完全に月原の個人的な理由だ。三つ目も大した理由ではないだろうと思ったが、何故か聞かずにはおれなかった。
「島岡さん――」
「は、はい」
「これから私の話す事は、何と言うか荒唐無稽というか」
「こうとうむけい」
めぐみは聞きなれない言葉に困惑を隠せない。
「変な話、普通は信じないような話をするけど、それでもいい?」
その言葉にめぐみは頷いた。
「――島岡さんの意思では無い行為だったから止めた」
月原はさも当たり前のように言った。しかし、自殺が自分の意思では無いと言われても、めぐみにはどうにも理解できない。
「私の意思じゃないって…… でも私がしようとした事は自殺だよ」
「そもそもね、島岡さんは何で自殺しようなんて思ったの?」
「え――」
めぐみは返事に詰まった。確かに、急に母がおかしくなり精神病院へ入る事になった。そのせいで生活は一変し、友達も離れていってしまい辛い日々だ。しかし、追い詰められてはいたが、父や祖父達が支えてくれているし、そもそも母はまだ入院しているだけで、生きている。
なぜあれほど強く、自殺の念に駆られたかめぐみ自身もよく分からなかった。
「噂で聞いたんだけど、あなたのお母さんも自殺しようとした。でも失敗して、入院しているのよね?」
「うん……皆知ってるよね」
「お母さんは何で自殺しようとしたの? 心当たりはある?」
「――お母さんはあんな事になるまで、すごく元気で……。理由なんて分かんないよ」
めぐみの母である聖子は明るく朗らかな性格だった。誰にでも優しく、人とトラブルを抱えるようなことも無かった筈だ。そんな母だからこそ、思い当たる節など皆無だった。
「妖怪の仕業――って言ったら信じる?」
「え? よ、妖怪……」
「妖怪」
めぐみは一瞬、月原が場を和ませる為の冗談を言ったのだと思ったが、その表情をみて真剣なのだと悟った。
妖怪。めぐみの中で妖怪といえば、小さな頃テレビアニメやオカルト番組で触れた事がある程度で、高校生となった今では更に縁の無いものだった。
「えっと、妖怪は、見たこと無いなー」
いけないと思いながらも、おもわず声が上ずる。しかしそんな事に構いもせず、月原は続けた。
「そうなの。そこらじゅうにうようよしてるけど」
月原は空中にくるくると指を指し、さもそこに何かがいるような仕草をしている。
めぐみはその仕草を見ながら、ある噂を思い出した。
月原芹に関わると、謎の宗教に勧誘される、変な儀式で呪い殺される。そして――妖怪に取り憑かれる。
そんな噂の為か、それとも人を近づけない性格のせいかは分からないが、最初は才色兼備な月原を持て囃していた周囲も、すぐに気味悪がって近寄らなくなり、いつしか空気のような存在となっていた。
めぐみは一年生の頃から同じクラスだったが、殆ど会話らしい会話などした事も無かった。最後に記憶しているのは、この春、クラス替えの時に少し言葉をかけただけだった。
確か「今年も同じクラスだね。仲良くしてね」そんな何気ない言葉だったような――
命の恩人ではあるが、これ以上話を聞くと怪しい宗教に勧誘されるかもしれない。すぐにでも話を打ち切ってこの場を去りたいが、自分から聞いておいて途中で切り上げるほどの胆力は無かった。
「今も、本当に何も見えない? そんなはずは無いのだけれど」
「私は普通の、って行ったら失礼かもだけど、そういうのは――」
見えない。という言葉が出てこなかった。
月原の指先に、白とも透明とも言えない、霞がかった『何か』がめぐみの瞳に映ったのだ。
「見えない、事もないでしょう?」
そういうと月原はひらひら動かしていた指をぴたりと止める。すらりと伸びた人差し指に『何か』が止まった。
「これはチョウケシン。身の回りの人に不幸が招かれそうな時に見える……妖怪よ。あなたにとり憑いていたわ」
チョウケシン。その言葉と同時に霞は美しい蝶の姿を表すと、は月原の指を離れ、めぐみの周囲をゆっくりと飛び回り、そして消えていった。
「妖怪だけど、綺麗でしょう。今は魔除けの香を焚いているからあまり長くはいられないわ」
「な、なんで。私、なんで見えたの? 今までそういうの、見えたこと無いのに」
「普段は何も感じない人でも、一度憑かれると感じるようになるの。今の島岡さんみたいに」
めぐみは耳を疑った。自分に憑いている。一体何が――
「どう? 真剣に聞く気になったならこのまま話すけど」
今見たことがまだ信じられないが、とりあえずは今のめぐみに話を聞かせるには十分な体験だ。大きく頷くほか無かった。心を落ち着かせるための大きな深呼吸を見届けると、月原は話し始めた。
「島岡さんは今、何か良くないものに憑かれているわ。その良くないものが島岡さんを自殺させようとしているのよ」
「よくない……もの」
「そう。多分この夏くらいからかしら。何か憑いているな、とは思っていたの」
月原の告白にめぐみは目を丸くした。
「え! 分かってたの」
「ええ。でも先に言っておくけど、何か憑くって事はそんなに珍しい事ではないの。ただ気がついていないだけ。それに中にはいい憑き物だっているし」
「でも、その……憑き物だっけ。そいつが私を殺そうとしてるんだよね。それって悪いやつじゃないの?」
「今回の場合はそうだったみたいね。でもまだはっきりとは分からないけど」
「そ、そんな……」
めぐみはうな垂れた。しかし、それならば近頃の自殺願望に説明がつく。
「続けるわね。最近は少しずつ気配が強くなってきていたの。さっき言ったけど、憑き物の正体はまだ分からない。でもあなたに対する怨念、と言えばいいのか分からないけどそんな気配を感じたの。いい加減どうにかしようと思っていたら――」
「私が首を吊ろうとしていた、って事だね」
月原は静かに頷いた。
「そうだったんだ……でもどうして私にそんなものが憑いたの?」
「分からないわ。私はあなたじゃないのだから」
めぐみは肩透かしをくらった気分だ。あなたじゃないから分からない。そう言われると、原因は自分にあるように聞えてしまう。冗談じゃない、無理やり自殺させてくるようなものにとり憑かれる覚えなんか無いと、抗議しようとしたが――
「ひとつだけ分かること。それは妖怪なんかに憑かれるって事は、あなたかその身近に原因があるって事よ」
あまりに直球な月原の物言いに、めぐみはまたうな垂れるしかなかった。
一人っ子という事もあり、家族から愛され、盛大に甘やかされて育ったが、根っからの優しい性格で、我儘も殆ど言わず、あまり手のかからない子供だった。少し抜けているところもあるが、友達もそれなりにおり、家もそれなりに裕福だったので特に苦労することなく、幸せに育ってきた。
そんなめぐみの幸せな日常が崩れるのは一瞬だった。
今年の夏、突然母の聖子が首吊り自殺を図ったのだ。学校で夏期講習を受けていためぐみは知らせを受け病院へ駆けつけると、今まで見たことも無い、半狂乱になる母の姿がそこにあった。
後で知った事だが、紐の結びが甘く、体重が掛かった時に結び目が解けてしまい失敗したのだという。物音に気付いためぐみの父が寝室に駆けつけると床に倒れ伏している母の姿を発見したのだという。
聖子は強烈な自殺企図により精神科の病院へ入院する事になり、明るかった島岡家はまるで蝋燭の火が消えたように静かになってしまった。
近所や学校には急病で入院となったと嘘をついたが、どこからか話が漏れ、肩身の狭い思いをする事になった。父は祖父母と共に毎日のように面会に行くが、聖子に回復の兆しはみられない。そればかりか、最近では精神的に不安定な日々が続き、病状悪化の為、満足に見舞いも出来ない状態だ。
そんな状況でも生活のために父は仕事へいき、めぐみも大学受験の為にも学校をあまり休むわけにいかないので、渋々学校へ行っていた。
周囲の友人は「すぐに良くなるよ」「大丈夫、私はめぐみの味方だよ」と励ましてくれていたが、中には、親を自殺に追い込むような酷い娘だと陰口を叩かれた事もあった。当初は気丈には振舞っていたが、激変してしまった日常に、心はしだいに磨磨り減っていった。
そんな状況が続く中、ある時からめぐみは『死ななくてはならない』と、思うようになった。
最初は軽い衝動のようなものだった。周囲の友達に漏らした事もあったが、一時的な落ち込みだと思われ、真剣には捉えられなかった。
実の母が自殺未遂をし、精神科病院で入院ともなると、そのような気分にもなるだろうと、周囲も、そしてめぐみ本人でさえそう思っていた。
しかし、『死ななくてはならない』という思いは日毎に増していき、本気で自殺しようと考えるようになっていた。そして、その思いは行動へとつながっていく事になる。
蔵書室の小さな窓から夕日が差している。
めぐみは眩しさを覚えゆっくりと目を開いた。軽く上半身を起こすと掛けられていたカーディガンに目に留まった。
十月の中旬ともなると、日が陰ると直に寒くなってくる。風邪を引かないようにという配慮だろう。そのカーディガンを眺めていると、刺繍でS・Tの文字が目に入った。
「せり、つきはら」
めぐみは気付かないうちにそのカーディガンの持ち主の名前を呟いていた。
「おはよう、島岡さん」
不意に後ろから声がしたので驚いて振り向くと、先程首吊りの為に使おうとしていた椅子に腰掛け、小説をめくる月原芹の姿があった。
「び、びっくりした。月原さんいたんだ」
「ええ、ずっとね。目を離したらまた変な事しそうだし」
「ご、ごめんなさい……」
「まさか、椅子に立ったまま気絶するとは思わなかったわ。流石にあの状態から島岡さんを降ろすのは骨が折れたわ」
「そ、それもごめんなさい……」
暫く沈黙が続く。めぐみは恐る恐る月原の顔を見ると、怒りとも悲しみでも無く、喜びも無い完璧な無表情が目に入った。怒っているのかいないのか、しかし状況を考えると普通は怒っていると考えるのが妥当だ。ただ、文章を目で追っている。その動きですらまるで機械のようだ。
そんな機械的に動くクラスメイトにどう話しかけていいか思いあぐねていると、月原から不意に嗅ぎ慣れない匂いがした。勿論、図書室特有の、あの匂いではない。そう、それはたしか――
「お線香……?」
「ああ、この匂い? 白檀の香りよ。今そこで焚いているから」
そういうと、月原は蔵書室の入り口の棚に視線を移した。つられてめぐみも目で追うと、小皿の上に置かれたお香から煙が漂っていた。
先程から月原から香ってくる匂いと同じものだ。
「月原さんってお香とか好きなんだ。私もたまにアロマキャンドルとか使うんだ。いいよね、なんかおしゃれだし」
何とか会話をつなげようと、めぐみは必死だが――
「白檀っておしゃれなの?」
月原は会話のキャッチボールはする気がないらしい。それに、確かに白檀の香りは少なくとも女子高生の感覚からするとおしゃれとは言いがたい。
では何のためにここでお香を焚いているのか。しかし、その謎を解明したいという気持ちより、これ以上この気まずい空間に居たくないという心が勝った。
どうやら月原も本に夢中で、自分と会話を楽しむ気はないらしい。それならば、さっさと退散してしまおうと、めぐみは重たい腰を上げ、帰り支度を始めようとしたが、このまま黙って帰るのは流石に無作法に思えた。目の前で先程から小説を読み耽っている月原は自分の命の恩人なのだ。めぐみは勇気を振り絞って声を出した。
「月原さん、あの、今日はありがとう。もうちょっと遅かったら、私――
――死んでいたね。そう口にした瞬間、めぐみの体は急に恐怖で震え始めた。そうだ、自分はついさっき、死のうとしていたのだ。もう少し月原が遅ければ、きっと今頃あの教室で首を吊っていただろう。
震えるめぐみを見て月原は椅子を立ち、ゆっくりと目の前に立った。
「今はまだ、死にたい?」
月原は責めるようでも無く、だからといって慰めるような様子も無く、ただ、何かを知りたそうに尋ねた。
「わかんない――」
今のめぐみにはそれが精一杯の答えだった。
「そう、分からないのね。なら仕方ないわね」
そういうと、月原は部屋の隅にある椅子を引きずり、めぐみに座るように促した。どのみち体の震えが収まらない限り、上手く帰れそうにも無いので、黙って従うことにした。
めぐみが椅子に腰を掛けると、月原は部屋を出て行ってしまった。五分ほど待っていると、片手に缶のココアを持って帰ってきた。
月原は缶を開け、「飲みなさい」とめぐみの前に置いた。選択肢は無いと言わんばかりだ。めぐみは一口、二口と口をつけると、次第に心が落ち着いてくる。飲みながらもちらちらと月原を見るが、また読み始めた小説から目を離す気は無いらしい。
ココアを飲み干す頃には体の震えも収まっていた。小さな窓から見える夕日ももう後僅かで沈んでしまうだろう。
そろそろお暇しようと思うが、帰る前に月原に言っておかなければならない事があった。今日の事を黙っていて欲しいと。
「月原さん、あの――本を読んでる所悪いんだけど、今日の事は」
「黙っておくわ。流石に知られたくないでしょう」
めぐみの発言が分かっていたかのような、間髪入れない返答に虚をつかれるが、今はその言葉を信じるしかない。
めぐみはカーディガンを月原に渡し、軽く礼をすると荷物を肩に掛け、そそくさと帰り支度を済ませる。
そして、蔵書室の扉に手をかけた時、ある一つの疑問が脳裏を掠めた。
本当は今すぐこの気まずい場を立ち去りたい。しかし、今浮かんだこの疑問位なら尋ねてもいいのではないか――
扉に手をかけたまま、ちらりと後ろを振り返ると月原と目が合った。目が合ったと言う事は、まだ月原も自分に用事があるのではないか。考えすぎかもしれないが、今から尋ねることと関係あるなら、聞いてみてもいいだろう。
「あのね、一つだけ聞きたい事があるんだけど」
「いいわよ」
「あの―― さっきの事をね、止めた理由なんだけど。最後の一つ、聞いてみてもいいかな」
あれほど錯乱していたのに、月原の言葉はめぐみの心に強く残っていた。
一つ目は図書室が使えなくなるから。二つ目は図書委員の代理をしてもらえなくなるから。
思えば完全に月原の個人的な理由だ。三つ目も大した理由ではないだろうと思ったが、何故か聞かずにはおれなかった。
「島岡さん――」
「は、はい」
「これから私の話す事は、何と言うか荒唐無稽というか」
「こうとうむけい」
めぐみは聞きなれない言葉に困惑を隠せない。
「変な話、普通は信じないような話をするけど、それでもいい?」
その言葉にめぐみは頷いた。
「――島岡さんの意思では無い行為だったから止めた」
月原はさも当たり前のように言った。しかし、自殺が自分の意思では無いと言われても、めぐみにはどうにも理解できない。
「私の意思じゃないって…… でも私がしようとした事は自殺だよ」
「そもそもね、島岡さんは何で自殺しようなんて思ったの?」
「え――」
めぐみは返事に詰まった。確かに、急に母がおかしくなり精神病院へ入る事になった。そのせいで生活は一変し、友達も離れていってしまい辛い日々だ。しかし、追い詰められてはいたが、父や祖父達が支えてくれているし、そもそも母はまだ入院しているだけで、生きている。
なぜあれほど強く、自殺の念に駆られたかめぐみ自身もよく分からなかった。
「噂で聞いたんだけど、あなたのお母さんも自殺しようとした。でも失敗して、入院しているのよね?」
「うん……皆知ってるよね」
「お母さんは何で自殺しようとしたの? 心当たりはある?」
「――お母さんはあんな事になるまで、すごく元気で……。理由なんて分かんないよ」
めぐみの母である聖子は明るく朗らかな性格だった。誰にでも優しく、人とトラブルを抱えるようなことも無かった筈だ。そんな母だからこそ、思い当たる節など皆無だった。
「妖怪の仕業――って言ったら信じる?」
「え? よ、妖怪……」
「妖怪」
めぐみは一瞬、月原が場を和ませる為の冗談を言ったのだと思ったが、その表情をみて真剣なのだと悟った。
妖怪。めぐみの中で妖怪といえば、小さな頃テレビアニメやオカルト番組で触れた事がある程度で、高校生となった今では更に縁の無いものだった。
「えっと、妖怪は、見たこと無いなー」
いけないと思いながらも、おもわず声が上ずる。しかしそんな事に構いもせず、月原は続けた。
「そうなの。そこらじゅうにうようよしてるけど」
月原は空中にくるくると指を指し、さもそこに何かがいるような仕草をしている。
めぐみはその仕草を見ながら、ある噂を思い出した。
月原芹に関わると、謎の宗教に勧誘される、変な儀式で呪い殺される。そして――妖怪に取り憑かれる。
そんな噂の為か、それとも人を近づけない性格のせいかは分からないが、最初は才色兼備な月原を持て囃していた周囲も、すぐに気味悪がって近寄らなくなり、いつしか空気のような存在となっていた。
めぐみは一年生の頃から同じクラスだったが、殆ど会話らしい会話などした事も無かった。最後に記憶しているのは、この春、クラス替えの時に少し言葉をかけただけだった。
確か「今年も同じクラスだね。仲良くしてね」そんな何気ない言葉だったような――
命の恩人ではあるが、これ以上話を聞くと怪しい宗教に勧誘されるかもしれない。すぐにでも話を打ち切ってこの場を去りたいが、自分から聞いておいて途中で切り上げるほどの胆力は無かった。
「今も、本当に何も見えない? そんなはずは無いのだけれど」
「私は普通の、って行ったら失礼かもだけど、そういうのは――」
見えない。という言葉が出てこなかった。
月原の指先に、白とも透明とも言えない、霞がかった『何か』がめぐみの瞳に映ったのだ。
「見えない、事もないでしょう?」
そういうと月原はひらひら動かしていた指をぴたりと止める。すらりと伸びた人差し指に『何か』が止まった。
「これはチョウケシン。身の回りの人に不幸が招かれそうな時に見える……妖怪よ。あなたにとり憑いていたわ」
チョウケシン。その言葉と同時に霞は美しい蝶の姿を表すと、は月原の指を離れ、めぐみの周囲をゆっくりと飛び回り、そして消えていった。
「妖怪だけど、綺麗でしょう。今は魔除けの香を焚いているからあまり長くはいられないわ」
「な、なんで。私、なんで見えたの? 今までそういうの、見えたこと無いのに」
「普段は何も感じない人でも、一度憑かれると感じるようになるの。今の島岡さんみたいに」
めぐみは耳を疑った。自分に憑いている。一体何が――
「どう? 真剣に聞く気になったならこのまま話すけど」
今見たことがまだ信じられないが、とりあえずは今のめぐみに話を聞かせるには十分な体験だ。大きく頷くほか無かった。心を落ち着かせるための大きな深呼吸を見届けると、月原は話し始めた。
「島岡さんは今、何か良くないものに憑かれているわ。その良くないものが島岡さんを自殺させようとしているのよ」
「よくない……もの」
「そう。多分この夏くらいからかしら。何か憑いているな、とは思っていたの」
月原の告白にめぐみは目を丸くした。
「え! 分かってたの」
「ええ。でも先に言っておくけど、何か憑くって事はそんなに珍しい事ではないの。ただ気がついていないだけ。それに中にはいい憑き物だっているし」
「でも、その……憑き物だっけ。そいつが私を殺そうとしてるんだよね。それって悪いやつじゃないの?」
「今回の場合はそうだったみたいね。でもまだはっきりとは分からないけど」
「そ、そんな……」
めぐみはうな垂れた。しかし、それならば近頃の自殺願望に説明がつく。
「続けるわね。最近は少しずつ気配が強くなってきていたの。さっき言ったけど、憑き物の正体はまだ分からない。でもあなたに対する怨念、と言えばいいのか分からないけどそんな気配を感じたの。いい加減どうにかしようと思っていたら――」
「私が首を吊ろうとしていた、って事だね」
月原は静かに頷いた。
「そうだったんだ……でもどうして私にそんなものが憑いたの?」
「分からないわ。私はあなたじゃないのだから」
めぐみは肩透かしをくらった気分だ。あなたじゃないから分からない。そう言われると、原因は自分にあるように聞えてしまう。冗談じゃない、無理やり自殺させてくるようなものにとり憑かれる覚えなんか無いと、抗議しようとしたが――
「ひとつだけ分かること。それは妖怪なんかに憑かれるって事は、あなたかその身近に原因があるって事よ」
あまりに直球な月原の物言いに、めぐみはまたうな垂れるしかなかった。
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