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5.土曜日

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朝日がカーテンの隙間すきまから差し込み、まぶしさをおぼえためぐみは目をました。体はだるく、まだ眠い。ほぼ惰性だせいで枕元のスマートフォンに手を伸ばした。
 画面をタップすると可愛い猫のイラストの背景と九時二十五分という文字が見えた。
 一瞬ひやりとするが、すぐに今日が土曜日だと気がついた。近頃は死にたいという衝動に何度も襲われて眠れない日々が続いたので睡眠不足だ。
差し込む日光から逃れる為に頭まで布団に包まり再び夢の世界へ――というわけには行かなかった。

「あー! 駄目、寝坊だ!」
 今日は月原と待ち合わせをしていたのだ。待ち合わせとはいうが、月原の一方的な指示だったが。
 昨日手渡されたスカーフに小さなメモが挟まっていた。
『明日十時青葉中央駅の裏路地。喫茶猫又で待つ』
 そのメモをもつ手が震えた。
 ここから東駅に行き、電車に乗って中央駅へ行くとなると四十分で辿たどり着くかどうかはかなり怪しい。全力疾走で駅まで行き、奇跡的なタイミングで電車が来たら何とかなるが、それは今から家を飛び出せたらの話だ。今のめぐみはぼさぼさの頭によれたパジャマ姿だ。どう考えても間に合わない。
 普通なら『ごめん、寝坊した! 遅れます』とでも連絡できるが、あいにく月原の連絡先は分からない。今の時代、個人情報の保護とかいって連絡網れんらくもうすらないのでどうしようもない。このままでは月原の折角の休みを無駄にしてしまう。しかも、めぐみの用事で。
 青くなっている暇はないと、大急ぎでパジャマから私服に着替え、洗面所であわただしく歯を磨いていると、後ろから幸一が声をかけてきた。
「おはようめぐみ。そんなに慌てて……どこかに行くのか?」
 幸一の会社は土日が休みだ。すでに着替えて髭もそり、掃除機を片手に世話しなく動き回っている。
「あ! お父さん、おはよう。ちょっと今日出かけるね!」
「随分慌ててるな。寝坊でもしたのか?」
 意地悪そうな顔で幸一が笑っている。悔しいがその通りだ。
「そうなの、中央駅に十時集合なの!」
「十時って、おいおい……間に合うのか?」
 おそらくギリギリアウトだろう。しかし、めぐみはその一言を待っていましたと言わんばかりに上目遣うわめづかいで父を見た。
「お父さん、おねがい」
「分かったよ。送ってあげるからとりあえずお行儀が悪いからさっさと歯磨きを済ませなさい」
 歯磨きの途中で話しかけたのはあちらの方だったが、余計な事を言うまい。めぐみは口を開く代わりに両手を合わせた。
「おいおい、お父さんはお地蔵さんじゃないぞ」
 
めぐみが身支度を済ませ、玄関で最後に靴を選んでいると、幸一がその横をさっと通り抜けて行く。
「靴なんてどれでも」
「良くないよ!」
 幸一は「はいはい」と言いながら先に車庫へと向かった。急がなければならないが、今日は月原と一緒に行動する。大人びていて、身長も高い月原と、童顔で背も低い自分が並んでしまうと、下手したら小学生と間違われるかもしれない。そう思うと、少しでも大人びたものを選びたいのだ。
ようやく靴に納得がいくと、すでにエンジンのかかった車に乗り込んだ。
「そんなにめかしこんで、もしかしてデートか」
幸一はまた意地悪そうに笑った。
「ちーがーう。もしそうだとしてもお父さんには教えてあげない」
 むくれるめぐみをあやしつつ、幸一はハンドルを握り、アクセルをふかした。
駅に向かう車内では最近の様子や学校の事など当たりさわりの無い会話が続いた。聖子が入院してからと言うもの、めぐみは幸一とあまり会話らしい会話をしていなかったので、なかなか会話が続かない。元から親子関係は良かったが、やはり、家庭の中心には母、聖子の姿があった。
父と母とめぐみ。いつも楽しくにぎやかで笑い合える家庭だったが、今は火が消えたみたいに静かであった。
車内でもすぐに話は尽き、めぐみはぼんやりと外を眺めていた。そんなめぐみの姿を横目に見ながら、幸一は口を開いた。
「――昨日病院から電話があってな。お母さん、少し落ち着いたから、また面会できるって」
「本当? ……もしかして今日いくつもりだった?」
「まあな。でもいいんだ。急がなくても」
「ごめんなさい……。こんな時に用事なんて」
 本当なら用事をキャンセルし、すぐにでも病院にお見舞いに行きたいが、今日はその母を助ける為の大事な用事だ。
 赤信号で停車すると、幸一はめぐみの頭をかるく撫でた。
「いいんだよ。お母さんがああなってから、めぐみもずっと落ち込んでいただろう。でも昨日ようやく元気な顔を見せてくれて、嬉しかったぞ」
 めぐみはふと泣きそうになり、うつむいた。
 辛い思いをしているのは自分だけではなく、幸一も同じだ。それなのに全く気遣う事もできなかった自分が情けなくなったのだ。
「――明日、お母さんのお見舞い、行こうね」
その一言をひねり出すので精一杯だった。

 めぐみは駅前に着き、幸一と別れるとスマートフォンを取り出した。
 九時五十五分と時間ギリギリだ。
 『喫茶 猫又』どうやら駅の裏側にあるようだが、行ったことはなかった。
 駅の裏通りは所謂歓楽街いわゆるかんらくがいだ。大都会ほど規模は大きくは無いが、この青葉市の中では中々の大きさで表通りはカラオケ店やゲームセンター、チェーンのファミリーレストランが立ち並んでいる。それに比べ、裏通りは居酒屋やスナック、小さなパチンコ店が数軒ある。
 めぐみはずっとこの町で育ったので、裏通りは知っているが、両親からも学校の教師からも、あまり寄り付かないようにと言われていたので、ほとんど立ち入った記憶は無かった。
 父に見つかるとうるさそうなので、車を見送ってからようやくめぐみは裏通りへ歩き出した。
 事前にスマートフォンで場所は調べていた。後は音声案内の通りに歩いていくだけだ。
 昼前の裏通りは閑散かんさんとしており、殆どの店はシャッターを降ろしている。恐らく夜の街なのだろう。人の気配は少なくめぐみにとっては新鮮な光景だ。
 暢気のんきにも少し、冒険をしているような気分になりながらも、すでに時間は差し迫っているので、歩調を早めていく。
 しかし古びた居酒屋の裏の路地へ入ると、そこでナビが終了してしまった。
 あたりを見回してもそれらしき建物は見当たらない。スマートフォンで住所を再度調べるが、今立っている場所で間違いはない。電話番号を調べても掲載けいさいされていなかった。
 月原の電話番号も分からないめぐみは早くも打つ手が無くなってしまった。
 まだ昼前なのに薄暗く、細い路地。おまけに入り組んでいる為、先がどうなっているかも
分からない。親や教師が近づくなという理由が分かる気もする。
 ナビが正確では無いのでここからは何とかして探さなくてはならない。しかし、この路地に入っていく勇気も無い。
 途方に暮れていると、不意に足元に気配を感じ、足元に視線をやると、そこには真っ黒な毛玉があった。
 めぐみは驚いてその場を飛びのくと、毛玉がもそもそと動き始めた。
 毛玉から耳が二つ生えたと思うと、尻尾を振り始めた。そのシルエットはどうみても猫だ。
「――び、びっくりしたな、もう! 猫ちゃんいきなり足元にいたら間違えて踏んじゃうよ」
 猫に怒っても仕方ないとはおもいつつ、めぐみは非難の言葉を浴びせていた。
 その黒猫は何か言いたげに、じっとめぐみを見つめている。
「なによー。悪いのは君だよ」
 綺麗な毛艶をしている。首輪もしているし、恐らくどこかの飼い猫だろう。じっと見つめる猫に負けじとめぐみも見つめ返していると、ふと、首輪が目に留まった。その首輪には小さなプレートがついており、目をこらして見ると何か文字が描いていた。
『喫茶 猫又 ご案内します』
 めぐみは目が良いほうだ。少し離れているが間違いない。首輪のプレートからゆっくりと視線を猫の顔をに戻した。良くみるとまるでついて来いと言わんばかりだ。
「君が案内してくれる――
 めぐみが言い終わる前に、その黒猫は細い路地の奥へ向かって走り出したので、慌てて追いかけた。猫はめぐみがぎりぎり追いつけるような速度で路地を曲がり、階段を登り小さなトンネルを抜ける。
 入り組んだ路地を必死に走りながらも、昔みた映画にも似たようなシーンがあったと、場違いな事を考えていたが、角を曲がると猫の姿を見失ってしまった。
「あ、あれ……猫――」
 息を切らして周囲を見渡すと、視界に古臭い看板が目に入った。
 めぐみは肩で息をしながら古びた看板を見上げた
『喫茶 猫又』
 お洒落で明るく、誰でも入り易い大手喫茶チェーン店とはまるで真逆まぎゃくで、暗くてどんよりしており、正に怪しいと言う言葉を体現しているような店構えだ。
 店先に所狭しと置いてある、気味悪い猫の置物がその雰囲気に拍車はくしゃをかけていた。
 めぐみもう帰りたい気分になるが、意を決して扉を開いた。

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