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13.「羨望」

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羨望せんぼう

 今から二十五年前、桜は川でおぼれて亡くなった。その当時の島岡家の悲しみは深く、特に目の前で妹を失った母、聖子はすっかりふさぎこんでしまい、学校にも通えなくなってしまった。秋が過ぎ、冬になってもその心はえず、毎日涙で暮れていた。
 そんな母を心配した祖父が、せめてものなぐさめになればと、そして無念にも亡くなった桜がさみしくないように庭の真ん中に桜の木を植えたのだ。
 春が訪れ、桜の花が咲く姿を見て、母の心の傷も少しずつ癒えていった。
 それからは、島岡家を見守るように毎年美しい花を咲かせているのだという。
 そう話す祖父は悲しげで、しかし優しい顔をしていた。
「ごめんね、お爺ちゃん。変な事聞いちゃって」
 祖父はめぐみの頭を優しくでた。
「別に隠すような事じゃないからな。それに桜は寂しがりだったから、たまにはこうやって思い出してやらんと」
 話し終え、風呂に向かった祖父と別れ、めぐみ達は庭の桜の前に来ていた。
 桜紅葉の季節にはまだ早いが、わずかながらに葉が色をつけている。
「叔母さんの木、かぁ」
 めぐみはそっと桜の木に触れた。
 叔母が亡くなったのは中学三年生の時だ。
めぐみは自分がその頃に、何を考え、何を思い、楽しみ、悲しみ、迷っていたのかを思い出していた。仲の良い友達と離れ離れになる寂しさから涙し、新しい友達にめぐり合い笑いあった事もあった。
よくある女子中学生の何の変哲へんてつもない青春を謳歌おうかしていた。
初めて青葉学園の制服にそでを通したとき、少し大人になった気がして、嬉しかった。
どれも大切な思い出だ。
しかし、叔母は自分とは違い高校生にはなれなかった。
「叔母さんは――」
うらやましかったのかな。
めぐみはその言葉を飲み込んだ。こんな事を思うなんて思い上がりだ。
 隣の月原はめぐみの言いかけた言葉の先を詮索せんさくする事も無く、静かに桜の木をながめている。その姿をみて、少しほっとした。

 それからどれだけ桜の木を眺めていたのだろうか。風が吹くと少し肌寒い。ふと、西の空を見ると日がだいぶかたむき、もう随分ずいぶん薄暗い。
「最近は日が沈むのも早いね。そろそろ一旦帰ろう――
 月原に声をかけたその時、めぐみの視界は暗転した。
 そこは静かな暗闇の中だった。誰もいない、ただ、暗く静かな空間。
 体も全く動かないし、そもそも呼吸すらしているのかは定かではない。しかし不思議と恐怖は無かった。
暗闇の中を漂っていると、めぐみの視界には急にとある光景が映し出された。

『お姉ちゃん、この前の約束覚えてる? あのおまじないの』
『うん、勿論もちろんよ。それじゃあ今から行こうか――
 その『妹』と『姉』は桜の木下で内緒話をしているようだ。
どこにでもいそうな、でも何処かで見たことのあるような――

 その光景はまたすぐに消え、再びめぐみの視界は暗闇に包まれた。

「――さん」
 めぐみの耳に誰かの声が届く。
「――島岡さん」
 気がつくとめぐみは月原に支えられるような形で立っていた。
「あ、あれ? い、今何か――」
「見えたの?」
 月原が珍しく心配そうな表情を浮かべていた。
 確かに、一瞬何か、見たような気がする。それはとても暖かく、そして大切な――
「――ん、何でもない。多分たちくらみかな」
 しかし、あまりに一瞬の光景は、めぐみの記憶の網をすり抜けてしまった。
「――そう」
 月原は何か言いたげな表情をしていたが、その一言以外は話さなかった。
 日も沈み、あたりはすっかり暗くなってしまったので、心配した祖父の家まで送るという言葉に素直に甘えることにした。
 車を回してくると言う祖父を門の前で待つ。めぐみは隣で静かに立っている月原の事を考えていた。
 父や祖父母には『友達』と紹介したが、月原はどう思っているのだろうか。
「私達って友達?」と聞くのも勇気がいることだ。一年生から同じクラスだが、会話らしい会話もした事は無い、めぐみの中では相変わらず謎だらけのクラスメイトだ。
 そもそもお互いの連絡先すら知らない。
「連絡先――」
 めぐみの口からふと、言葉がこぼれた。
 ちらりと月原をみると目が合った。このまま『連絡先交換しようよ』と言っていいのか。
 『嫌よ。プライベートな付き合いは御免ごめんだわ』なんてしんらつな言葉が矢のように飛んでくるのではないか。
 しかし、すでに口走ってしまった言葉を上手く引っ込めることも出来ない。めぐみはその先をいいあぐねていると、月原はかばんの中からスマートフォンを取り出した。
「そうね。今後の事もあるし」
 以外にあっさりと応じた月原は、SNSのアプリを起動し、画面を開いてめぐみに差し出した。
「はい。開いたけど、後はよく分からないから教えてもらっていいかしら」
「う、うん。じゃあ私が読み込むから、そこの画面をタッチして――」
 めぐみが月原に教える。少し照れくさいような感覚を覚えながらもれた手つきで登録を済ませた。
 めぐみのスマートフォンの画面には『月原』とアイコンも背景も初期設定の、女子高生らしからぬページが映し出されていたが、ある意味月原らしい。
 月原も自分のスマートフォンの画面を注視ちゅうししている。なにやら『第一号』などとつぶやいていたが、まさか家族以外の人間第一号、と聞くわけにもいかないので、めぐみは聞えないふりをした。
 車の中では祖父が一方的に話していたので、特に何も会話らしい会話も無く、途中で月原を降ろし、めぐみが家に着いた頃にはすでに十九時を回っていた。

 めぐみは明日の事を月原と相談する為に食事と風呂を手早く済ませ、そそくさと自分の部屋に戻ろうとすると、父に呼び止められた。
「おい、めぐみ。明日の母さんの見舞いなんだけど、父さんちょっと会社の用事で遅くなりそうなんだ。どうする?」
「そっか、じゃあ先に行っておくね」
「ごめんな」
 父はそう言うとリビングで難しそうな顔しながらまたテレビを観始めた。そんな父を尻目にめぐみは部屋に戻り、先程から震えていたスマートフォンの画面を開いた。
 月原からのメッセージは勿論雑談などは一切無く、今日の分かった事のまとめとこれからの事についての内容で、それはまるでレポートのようだった。
『今日の事を簡単にまとめたわ。まず、あなたのお母さんにとり憑いているものはいつ鬼という妖怪。そしてその妖怪を具現化させているしろは恐らくあなたの叔母さんの霊』
 妖怪や神様は自分と似た性質にあるものにとり憑きやすいと月原は言った。いつ鬼は水死者の霊が妖怪化したものなので、同じく水死者や水難に#遭__あ__#ったものにかれやすいという。幼くして水死した叔母にとり憑き、その無念、想いを果たしてやろうとしている。しかし、何故そんな事をするのか。いつ鬼に何のメリットもない話だ。そう疑問に思っためぐみは月原に尋ねると「知らない。分からない。妖怪や神様の価値観は人間とは違うから」と何とも頼りない答えだけが返って来た。
 そんな事を思い出しながら、メッセージの続きを見る。
『いつ鬼の行動からすると、恐らくあなたのお母さん、そしてあなたを殺そうとしているのは間違いない。それを阻止する為には、その理由を探り、代替案だいたいあんを探す必要がある。流石さすがに死にたくはないでしょう?』
 死にたくはないでしょう。その言葉を見てめぐみはごくりとつばをのみ込んだ。
 当たり前の事だ。まだ高校生で死んでいいと思える程人生に達観たっかんしているわけではない。つい最近まで死にたくてたまらなかったが、今は月原のお呪いとやらが効いているのかそんな気はさらさらなくなっていた。
『あの日記からすると、男絡みで叔母さんはあなたのお母さんに恨みを持っていた事は分かる。だけど、それだけじゃないかもしれない。まだ事の核心には程遠いわ』
 ここまでで月原のメッセージは終わっていた。まとめたという割りにはあっさりした内容だ。しかし、それも無理からぬ事だった。
 月原の言うとおり、あの日記を見るかがリ、叔母が母に対して悪い感情を抱いていた事は良く分かった。母はおっとりとしているが、頭は良く学生時代は成績も良かったらしい。その事できっと姉妹間で差をつけられていたのだろう。それが母や祖父母への恨みにつながった。
 そして、高校生になれなかった自分とは違い、高校生になれためぐみへの嫉妬しっとからくる恨みを抱いた。
 そう考えると、話は繋がるような気はするが、釈然しゃくぜんとしない事だらけだ。
 そもそも、これらはいつ鬼の習性や日記を観た事から勝手に推測した事に過ぎず、何も確証と呼べるものは無い。月原にも当然その事は分かっているだろう。だからこの程度しかまとめられないのだ。
 こんな状態で母に会っていいものだろうか。以前に見舞いに行った時と違って、今のめぐみには見えないものが見えるようになっている。それは即ち、いつ鬼との邂逅かいこうを意味していた。そうなると、一体どうなるのか。姿を見られたからと、襲い掛かってくるのか。それならば明日見舞いに行くというのは時期尚早だろう。しかし、ようやく状態が落ち着いたという事は、そこまで深刻な事態ではないのかもしれない。
 うまく考えがまとまらなかった。そうなると取るべき行動は一つしかなかった。
 めぐみは一瞬躊躇ためらったが、覚悟を決めて月原の連絡先を示す画面に触れた。
『……どうしたの?』
『……あ、えっと……』
 月原が出ないならそれでもいいと思っていたが、あまりにも早く繋がってしまったので、めぐみは虚をつかれてしまい、上手く言葉が出なかった。
『う、え、あー……』
『島岡さん』
 しどろもどろになっているめぐみに月原の静かで冷たい声が届き、思わず冷や汗が流れた。
『は、はい!』
『深呼吸をしなさい。あと背伸びも。ああ逆立ちもいいわね』
『う、うん!』
 そう言うと、めぐみは月原の言葉通りに深呼吸を始めた。深く息を吸い、吐く。それを何度か繰り返し、次は勢い良く背伸びをしていると、次第に気持ちが落ち着いてきた。次は逆立ちだ。床に手を着き、勢い良く逆立ちをする。いつ以来か分からない逆立ちをしていると頭に血が上ってきたので元の体勢に戻ったので、またスマートフォンを手に取った。
『深呼吸と背伸びしたよ! あと逆立ちも。ありがとう、落ち着いたよ』
『……本当にするのね』
『え? どうして? 月原さんが言ったから……』
『いえ、そうね……』
 月原の不思議そうな声色にめぐみは電話口で首を傾げた。どうして月原が驚いているのだろう。大人しく言葉に従ったからだろうか。色々と考えていると月原が話しを振ってきたので思考が中断されてしまった。
『それで、何か用事なのよね?』
『ああ、うん。実は明日ね、お母さんの所にお見舞いに行くんだけど……』
『お勧めはしないわ』
 月原がバッサリと切り捨てるので、めぐみはこの電話をして良かったと胸を撫で下ろした。
『やっぱりそうかな?』
『ええ。今お母さんに会いに行くという事がどういう事か。それはいつ鬼と対峙たいじするという事。そしてそのまま憑き物ばらいとなるのだけど……正直依り代が桜さんであるという確証がまだ無いわ。もし間違っていたらお祓いなんて出来ないわ』
『……ねえ、憑き物祓いってそもそもどうやるの? 想いを果たしてあげるって事は分かってるんだけど、実際にはどうするの?』
『そうね……今回のケースだったら、まずいつ鬼に会いに行って、依り代の名を告げる。そうすると、依り代は正体を隠せなくなるわ。そして依り代と対話して、その想いを教えてもらう。もしいつ鬼に代わって想いを果たして挙げられそうなら、私達の手で叶えてあげる事もできる』
『もし、無理そうな内容だったら? 例えば、私たちを皆……殺して欲しいとかだったら』
『……そう言った場合はなんとか想いが変らないか説得するしかないわね。はっきり言っておくけど、お祓いは出たとこ勝負なの。如何いかに上手く説得し、丸め込めるかって事が以外に大事な要素なのよ』
『そ、そんなぁ』
 めぐみは溜息をついた。言葉からすると、どうにも月原は自信が無い様子だ。しかし、このまま手をこまねいていても状況は良くならないだろう。それならば取れる道は二つに一つだ。
 一つ目は叔母の事を調べる事。本当に依り代となってしまったのか。そして、仮にそうならば、果たしたい想いを、そこに至った背景を知る必要がある。もしその過程で、悲しい行き違いがあったならば、誤解があるのならば、もしかして上手く説得できるのかもしれない。
 しかし、これには大きなハードルがある。そもそも叔母が亡くなってからもう既に二十五年という月日が経っている。当時の叔母の暗い心情を知る者を探すと言うことは並大抵の事ではない。そもそも、どんな人が友人だったかも分からないし、姉を憎んでいたなんて後ろ暗い事を話さなかったかも知れない。砂漠に落ちた針を拾うような作業だ。
 二つ目は依り代を叔母であると過程し、あとは出た所勝負をかける事だ。もし、本当に叔母であれば、話が出来るかもしれない。話を聞いてもらえたらもしかすると上手くいくかもしれない。明日にでも、あの冷たい病室から母を解放してあげる事が出来る――そう思うと、めぐみのとる選択肢は一つだった。
『月原さん、確かにまだ確証は無いって事は分かってる。だけど……私、行こうかなって思ってる』
『さっきも言ったけどお勧めはしないわ。もう少し情報を集めてからでも――』
『お母さんに……会いたい……早く、戻ってきて欲しい……』
『島岡さん……』
 めぐみの考えが浅はかで、危険であるという事はめぐみ自身が良く分かっている。しかし、分かっていても、母に会いたいと、一刻も早く助けてあげたいという気持ちを抑えられない。
 めぐみは生まれてこの方反抗期らしい反抗期も無く、未だに母にべったりと甘えてばかりだった。そんな母と離れて暮らす日々が、辛くて仕方ないのだ。
 しばらくすると、月原が小さな溜息交じりで口を開いた。
『分かったわ……じゃあ明日ね』
『つ、着いて来てくれるの?』
愚問ぐもんも愚問ね。あなた一人でお祓いが出来るの?』
『む、無理です……』
『でしょう? 少しは考えて発言しなさい。じゃあまた時間は調整しましょう、それじゃあ――』
 月原がそう言って電話を切ろうとした瞬間、めぐみは突如、ある疑問が沸き、それはそのまま口をついた。
『あ、そういえば、さっきなんで驚いてたの?』
 それは先程感じたわずかな疑問だった。
『さっき? ああ、もしかしてあの逆立ちの事?』
『そうだよ。なんか、月原さんの声が……ちょっと驚いていたような気がして……。なんでかなーと思って』
めぐみの質問に月原はそっけなく一言、呟いた。
『逆立ちして考えてみなさい』
 そういい残し電話は切られてしまった。
 めぐみはまた馬鹿正直に逆立ちをしてみた。そして、そのまま明日の事を考え始めた。
 母に会える喜びと、いつ鬼と、その依り代となってしまった叔母と会う恐怖。二つの相反する感情が渦を巻いて濃くなっていく。正直不安が強い。もし、上手く話が出来なかったらどうしようかと。しかしめぐみは心のどこかで、身内である自分なら説得できるのでは無いか、と甘い考えをしていた。

 これが終われば、憑き物さえ祓えば、全て終わり。いつもの平和な日常が返ってくる――

 めぐみはこの時までは信じて疑わなかった。
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