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24.「夜を泳ぐ」

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「夜を泳ぐ」

 
 めぐみはベッドに横になりながらスマートフォンをながめていた。結局それ以降は月原からの連絡は無かった。自分から連絡をとろうと何度もメッセージをつくるが、なかなか送信する決断ができない。
 今日は特に色々あった。病院でのき物ばらいに失敗し、祖父の家で不思議な光景を見せられ、ダムで月原を泥だらけにした。一つ一つの事が大きすぎて、とっくの昔に処理しきれなくなっていた。
 結局のところ、あの光景を見せた理由も、危機を伝えてくれたものも、推測だけで一体何者かも分からない。状況は全く良くなっていないばかりか、こうしている内にもいつ鬼の力は増している。
 めぐみはそっと自分の胸に手を当てた。体内に入り込んでいるので見ることも触ることも出来ないが、着実に魔除まよけの札の力が弱くなっている事は分かった。
 おそらく月原がいないタイミングで札の効力が完全に終わってしまったら自分は死ぬのだろう。しかし、今は死への恐怖よりも、猛烈な眠気が勝った。
 今日の出来事を真正面から受け止めきれるほど、肉体も精神も成熟せいじゅくしきってはいない。しだいにめぐみは睡魔すいまあらがえなくなっていった。


 夢は見なかった。ただ、暗い闇の中をただよう。戸惑とまどいもうれいも恐怖も無い。いつしか気がつくとめぐみは暗闇の中を泳いでいた。奇妙な感覚だ。
 夢の中なのか、現実なのか、分からない。いや、考える事も上手くできない。自分が今何をしているのか――
 めぐみはベッドを降り、服を着替えて部屋を出る。その動作は一見全く変なところは無い。布団はきちんと整えているし、脱いだ服はたたんでいる。おかしいと言えば、まだ外が真っ暗な夜の世界だと言う事だろう。
 音を立てないように玄関へ行くと靴を履いた。静かに玄関のドアを開くと夜の闇に吸い寄せられるように家を後にした。
 夜中に制服姿の少女が一人で町を歩いていたが、不思議と誰とも会わない。車が近づくと電柱や看板の裏に身を隠していた。どうやら無意識に人に見つからないように歩いているようだ。めぐみは静かに真夜中の町を泳ぎ続けた。
 

 体が何かに操られている。めぐみがそう知覚した時にはすでに母が入院している病院の手前だった。病院の夜間入り口をそっと覗くと本来いるはずの守衛しゅえいはいなかった。それどころか、病院の中にいるはずの職員が誰も見当たらない。
 自動扉に近づくとまるで中に招き入れられているように扉が開いた。普通は夜中に開いているわけはない。施錠せじょうを忘れてしまった――そうでは無い事くらい分かっている。
夜の病院、真っ暗なエントランス、人の気配は無い。普段なら怖くて足が進まないようなシュチュエーションだが、めぐみの足は迷うことなく前へと進む。
エレベーターに乗り込むと、ボタンも押していないのに勝手に動き出していた。勿論もちろん止まった先は母の病室があるフロアだ。
 めぐみの体は母の病室へ真っ直ぐ向かっている。厳重げんじゅうに施錠されているはずの扉も開いており、見舞い客が必ず前を通るナースステーションにも誰もいなかった。
 母の部屋の前でようやく気がついた。いつ鬼の気配が病院全体をおおうほどに強大になっていたのだ。
どうやら、もう手遅れのようだ。

 めぐみは静かに扉に手をかける。当たり前のように鍵はかかっていない。ぐっと力をいれ開くと、中では自殺防止の為に拘束こうそくされた母がベッドで横になっていた。その姿を確認すると、めぐみはスカーフを外すと母の首に巻きつけた。
 母と目が合うが、どちらも声を上げることは無い。自分が何をしているのか、その結果どうなるのか、めぐみには全て分かっていた。しかし、止められない。
 スカーフに少しずつ力を入れていく。めぐみの手に、母の首をめていく感触が伝わった。
 後はベッドに固定されている母の首へ巻きつけたスカーフにぶら下がれば首吊りとなるだろう。首吊りに高さは必要ない。その気になればドアノブにひもくくりつけるだけでも首吊りはできるのだ。
 
 後はスカーフに体重を乗せるだけだ。めぐみは母の顔をのぞいた。いつも笑っていた、優しく元気な面影は既に無く、せこけ無表情な、機械のような顔だ。
「こんな形でも首吊りには変わりない。貴様は先に死ぬ」
 めぐみの口が不意に動く。恐らくいつ鬼の言葉だろう。
「死んだ後はこの娘にとり憑き、お前の父と母、そしてこの娘に首を吊らせる。今、我の力は満ちている。今日中に全て終わらせる」
 言い終わると、めぐみはスカーフを両手で握った。そのままぶら下がり、首を絞める。
 ただ、それだけで終わるはずなのだ。しかし、めぐみの体は動かない。

「――い、や」
 めぐみはスカーフを握り、震えながら言った。
「お、かあ――さん、ころ、したくな、い」
 言葉をつむぐだけで精一杯だ。体は動かないし、今すぐにでも母の首を吊ってしまいたいという衝動にられている。汗が噴出ふきだし、涙が零れ落ちる。
 自分の手で、大好きな母を殺そうとしている。それだけはどうしても――
「――不思議な娘だ。どうしてあらがえる。もう、貴様を守る札も燃え尽きた」
 気がつくと、めぐみの目の前にいつ鬼が姿を表していた。
「何が貴様を突き動かす」
「お、おかあ、さん……」
喉が焼けるように痛い。血を吐くような思いをしながら言葉をしぼり出すが、いつ鬼には届かない。月原の言うとおり、妖怪の価値観は妖怪にしか分からないのだ。いくら自分の気持ちをぶつけても、理解する事は無いのだろう。
「魂をけずりながらえても、ほんのわずかな時間にもならん。つくづく人間と言うものは分からん」
 そう言うと、いつ鬼はめぐみに向かって手を伸ばした。
今宵こよいはあと三人の首が待っている。付き合っている暇は無い。その意識を刈り取らせてもらうぞ」
 恐ろしく白く血の気の無い腕がめぐみに触れようとした瞬間、ピタリと止まった。いつ鬼は静かに扉の方を向くと、その視線の先には誰かがいる。めぐみは反対方向を向いており、体を動かす事も出来ない。それでも、いつも音も無く、気がついたらふらっと表れる、そんな人物は一人しか思い当たらない。
「せっかちは嫌われるわよ、いつ鬼」
相も変わらず、感情のこもらない月原の声が聞えた。
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